夕陽が浜の海辺

如月つばさ

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穏やかな日々

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「お世話になりました。お陰で楽しめたわぁ。相変わらず料理も美味しかったし」

「そうですねぇ。毎年ここに来るのが楽しみになっちゃった。これじゃ、行き当たりばったりの気まま旅じゃなくて、普通の旅行ね」

津田と花村がそう言って、三人は笑い合った。

「ここの海、いつも違って見えるんですよ。来るたびに絵を描いても、やっぱり違う。だから余計に楽しいんですよねぇ」

八坂がスケッチブックを手にして海をうっとり見つめた。昨夜から泊まりに来ていた三人は、丁寧にお辞儀をして帰って行った。

雫のいない二回目の夏が、もうすぐそこまで迫っていた。

ひとり台所に立ち、氷たっぷりの麦茶に喉を潤す。今年の夏も暑くなりそうだ。

太陽を反射してきらめく海も、白い砂浜も、灯台も。この場所の風景はあの頃と何も変わらない。

台所の入り口の柱には、五歳の雫が描いた絵。

もう一本の柱には、雫を真ん中にして、海里と渚が笑っている絵がある。頭上には打ち上げ花火が描いてあった。

「あん時は賑やかだったなぁ」

その時、ポケットに入れたスマホが鳴る。表示されていたのは渚の名前だった。

『海里、ごめーん!今日行かれへんくなったぁ』

「げっ、まじかよ」

『あれ、もう用意してくれてた?ごめんな、急に翔平が仕事入ってもうてん。また今度行くから!ほんならまたね!』

「あ、おい――」

一方的に電話を切る渚に、ため息を吐いた。

渚は妊婦だ。あれから一年後にプロポーズされた渚は、それから程なくして赤ちゃんが出来たのだ。

佐々木は食堂を辞めて県外の会社に就職し、渚と一緒に暮らしている。

あの食堂はと言うと、二人がバイトを辞める少し前から店長の物忘れが更に酷くなり、そんな中奥さんが腰を痛めたのが追い打ちとなって、店を閉めてしまった。

「ったく、しゃーねぇな」

夫婦揃って泊まりに来ると言っていたので、身重の渚に負担の無いようにと一階の客間に簡易ベッドと椅子を用意していたのだ。

だが、こういう急な予定変更にも慣れていた海里は、いつものようにそれらを片付けた。

すっかり渚用に作っておいた部屋に物が無くなる。

最後に風鈴を片付けようと手を伸ばした時、玄関が開く音がした。

「泊まりたいんだけど」

そこにいたのは思ってもみない人物だった。

「あなたは確か」

「菅原あや子。泊まりに来ても良いって言ってたでしょ。遅くなったけど来ちゃった。予約してないけど、いける?」

海里には断る理由が無かった。渚が泊まる予定だった部屋に通す。

以前、雫と渚と三人で会いに行った時より顔色が悪く見えた。最後に見た時より、ほっそりしているし、日に焼けたのか肌が土色だった。

「ここしか空いてないの?」

部屋の前で立ち止まったあや子が二階を指さした。奥の部屋に泊まりたいのだと言う。

そこは、かつての彼女自身の部屋だ。

「構いませんよ。ジュンさんの部屋は僕が使ってるので、そこ以外ならどこでも」

あや子は「ありがとね」と言い残し、それからずっと二階にこもっていた。


四時頃に下に降りてきたかと思うと、縁側に座ってぼんやりと庭を眺めていた。

「夕飯、出来ましたよ」

庭に強い西日が射し込む。

梅雨も明けたこの時期。六時を過ぎてもまだまだ太陽が最後の力を振り絞っていた。

「ねぇ、あれ」

あや子が庭の隅を指さす。

「しずくって書いてあんの。あれ、あの子の?」

雫が朝顔を育てていた植木鉢だ。緑の葉を茂らせ、ツルを伸ばすそれを、あや子は感情の読めないぼんやりとした瞳で眺めていた。

「あー……。昔ここに遊びに来た時に、ジュンさんと何か植えてたんじゃないですか?空いてる植木鉢があれしか無くて、仕方ないから使ってるんですよ」

適当に言った言葉だが、誤魔化せたようだった。あや子は「ふぅん」とだけ言うと、食卓の前に座った。「いただきます」と「ごちそうさま」以外何も言わないあや子は、食事を終えてポケットから煙草とライターを取り出した。

「すみません、うち禁煙なんです」

海里が言うと「あ、そう」とあっさりポケットに仕舞う。縁側のガラス戸にもたれかかり、薄暗くなった庭を眺めていた。

「あの子いないの?」

「え?」

「ほら、あのマフラー巻いてた寒がりの子よ」

海里の胸がちくりと疼く。

「あぁ……はい。今はもうここには居ません。どうしてですか?」

縁側の風鈴がチリンと微かな音を奏でる。あや子はそれを見上げて目を細めた。

「別に。娘とよく似てた気がしたから。どうせなら最後に挨拶しとこうかなってさ。気が変わった。帰るわ」

そそくさと二階に荷物を取りに行ったあや子は「ごめんね、急に」と手をひらひらさせて玄関に向かう。

「最後って、どこかに行かれるんですか?」

振り返ったあや子は、ふっと口元を緩めて「さぁね」と、靴を履いて玄関を出た。

海里もサンダルを履いて玄関を出る。浜を出て、しおかぜ通りへ入ろうとしたあや子の背中に向かって叫んだ。

「あんたみたいな人間は、歳取ってばあさんになるまで……死ぬまで自分の責任と向き合わなきゃいけない!雫の事、ちゃんと最後まで逃げずに向き合ってください!」

立ち止まった彼女のやせ細った背中を見つめる。

「わかってるわよ。それよりさぁ」

あや子が空を仰ぐ。

「台所の柱の絵、良いわね。あの子の絵、初めて見たわ」

太陽の眩しさもあってか、振り返ったあや子の表情はどこか歪んで見えた。


ジーッジーッと、裏山に繋がる斜面から鈴虫の仲間の鳴き声が聞こえる。

淡い水色の空に筆でスッと引いたようなすじ雲が黄金色に染まる。

水彩絵の具が滲んだような美しい空の下、ジョウロに水を汲んでしずくと書かれた植木鉢に撒いた。

二年前に咲いた空色アサガオを毎年植えて、採取した種を翌年に植えている。

今年もまた順調に育っている様子に、海里の頬も緩む。

「母さん、一人になっちまったけどすげぇ幸せだよ」

弧を描くジョウロの水が、葉にキラキラと水滴を作る。

「ジュンさん、この場所を遺してくれてありがとう」

がらんとした居間を見渡す。ここで過ごした日々。ここで出会った人々。ここにある想い出。

居間の箪笥に置いた写真立てには、渚が撮った写真が入っている。三人で初めて浜で花火をした時の物だ。

満面の笑顔を浮かべる海里と、歯を見せてピースをする渚。

その二人の真ん中で、緊張した面持ちで生まれて初めての花火を持つ雫の写真だ。

「雫。今年も一緒に花火見ような」

 リン

ふわりと、あたたかな海の匂いを抱いた風が吹き抜けた。
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