ことりの古民家ごはん 小さな島のはじっこでお店をはじめました

如月つばさ

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1巻

1-2

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「ことりちゃん、おつかれさま。はい、最後のお給料。今日までの分ね」

 二階の更衣室で着替えを済ませて階段を下りた私に、ミツさんが茶封筒を差し出した。

「ありがとうございます。このエプロン、今日中に洗って明日返しに来ます」
「あぁ、いいのよ。それ貰っとくね。はい、どうも。今までありがとうね」

 しわくちゃのミツさんの恵比須顔を前にしたら急に胸が詰まる。目がしらが熱くなって、ミツさんの姿がぼやけて映る。その向こうに隼人がいるのが見えた。
 泣いちゃ駄目。閉店の日を前にして、私はここを辞めるのだ。それも身勝手な理由で。

「いつかはこういう日が来るのはわかってたけど、いざとなると寂しいもんだねぇ」

 私はもう何も言えなくなって、ただ「ありがとうございました」と深く頭を下げた。人付き合いが苦手な私を優しく受け入れ、一から料理を教えてくれたミツさん。今年で七十九歳になるはずだ。

「ことりちゃん、元気でね」
「はい。ミツさんも、お元気で」

 またミツさんに会いたい。だが多分それはもうできない。父とのことがある以上、私はここに戻ってくることはない。本当にこれが最後だと思うと鼻の奥がツンとする。決壊しそうな涙を堪えて、ごくりとつばを呑み込んだ。
 ミツさんがシャッターを下ろす間際に見せてくれた笑顔と、無機質なガラス張りのビル群がふいにとても綺麗だと思ったことは、一生忘れないだろう。


 それから二日後、私は母が一人で暮らす島へと向かった。千円で買った、異常にキャスターの音がうるさいキャリーケースを引きながら電車を乗り継ぎ、片道チケットを買って船に乗り込んだ。陸路がないわけではない。それでも船を選んだのは、陸地から次第に遠のく風景を目に焼き付けておきたかったからだ。
 この場所へは帰れない。そう心に刻むように。
 揺らぎそうになる感情と決別するために。
 私はいつまで父に振り回される人生を送るのだろう――甲板かんぱんの手すりを強く握った手のひらに、筋状の赤いあとが浮かぶ。これからどうしよう。ミツさんの弁当屋という居場所を失って、島でどうやって生きていけばいいのか。
 隼人は店を辞めたあと、どうするんだろう。ふとそんな考えがよぎったが、そんなのは私には関係のないことだ。
 ぼー、と響き渡る汽笛を合図にコバルトブルーの海へと放たれた連絡船が、遠霞とおがすみにぼんやりと浮かび上がる対岸へと動き出した。



 第二話 津久茂島つくもじまかぜおか地区


 津久茂島。
 本州から橋一本で繋がる小さな島だ。土地面積はおよそ二十五平方キロメートル。人口は五千人弱。年齢層は高齢者が半数を占めている。ここで育った子供は高校から本州の学校に通うことになる。実際、私も本州の高校で寮に入った。
 小学校は島全体で三校。中学は一校しかない。昨今の田舎ブームの波に乗って移住者は増えているものの、定年後の夫婦や単身者が多く、子供の数は伸び悩んでいるようだ。
 甲板の手すりに腕を乗せ、次第に近付いていく港に目を細める。この船の乗客の家族や友人だろう、津久茂港の堤防に、まばらな人影が見える。どの人も名前までは思い出せないのだけど。
 私がこの島で暮らしたのは中学の三年間だけだ。両親の離婚後に母子生活支援施設で小学四年生まで暮らし、施設を出てからは大阪で二年。地方移住者支援という制度で母が介護に従事することを条件に、中学入学と同時に津久茂島へ引っ越した。
 母が島の人たちと懸命に親交を深めようとしているのを目の当たりにしても、思春期の私はとてもそんな気になれなかった。一日のほとんどを家と学校の往復で終えていた私は、島民とは挨拶程度の関係にしかなれないのが現実だ。
 浮遊感に呑まれないよう足を踏ん張る。船尾のベンチに座る女性が前のめりになって、膝の上のリュックに顔をうずめていた。日焼けで真っ黒の若い船員が付き添っている。

「あっ、お――」

 うっかり「お母さん」と港に手を振りそうになって、我に返った。胸の前まで上げた手は、行き場をくして意味もなく襟元えりもとを掴む。
 母だ。介護の夜勤中にぎっくり腰になったと嘆いていた母は、迎えの人たちの輪から少し離れて立っていた。なんとなく猫背になっているようにも見える。

「おかえり、ことり」

 最後に船から降りた私を、亀のような歩速で迎えた。

「ただいま。ねぇ、腰痛いんでしょ」
「大丈夫、心配しないで。バスで来たし、痛み止めも飲んでるから平気」

 声は電話で聞いていたし、写真もスマホで送ってもらっていたが、実物は写真で見るよりもしっかり老けていた。
 今年で六十五歳になる母のほうれい線を含む皺は、化粧気のない肌にくっきりと刻まれていて、たれ目はたるんだ皮膚に呑まれていた。乾燥気味のショートカットの髪は灰色と白が入り交じり、姿はしっかり「おばあちゃん」だ。
 白い半袖のシャツワンピースに、茶色いつっかけ。ワンピースのポケットからスマホを取り出した母は「一時間に一本しかバスがないの。タクシーを呼ばなきゃね」と画面をスライドし、タップする。スマホを前後させ、眉間に皺を刻んだ。

「老眼、酷くなったんじゃない」

 母は画面を見たまま顔をしかめて苦笑する。

「そうなの。人間って駄目になるときは早いんだから。丸山タクシーってこの番号よね?」

 スマホの画面を見せられて頷くと、母は安心したようにタップして電話をかけた。
 タクシーが港についたのは十分後だった。車内に乗り込むやいなや、運転手のおじさんが「森野もりのさん、こんにちは」とルームミラー越しに会釈をし、そのまま視線を左にずらして私を見た。

「娘さん、帰ってきたの。久しぶりだねぇ」

 まるでよく知った間柄のような口ぶりに、運転手さんと自分がどこで会ったのかを思い出せないまま「お久しぶりです」と返した。助手席に立てられた名札には、わざとらしいような黒々とした七三分けヘアのたぬき顔のおじさんの写真。その下には丸山幹夫と記されていたが、やっぱり覚えていない。
 港から山沿いに進み、島の中心部でもある津久茂商店街を抜け、私の母校の津久茂中学を横切る。大通りを走り、道路標識が現れた。
 直進すると白鷺しらさぎ地区。右に曲がれば風の丘地区だ。
 タクシーは右に曲がり、住宅街を抜け、田舎ならではの広すぎる坂道を上り、林道に入る。折り重なる枝葉の向こうに、私が三年間を過ごした集落が見えてきた。
 風の丘地区は集落の周りに緩やかな山々が連なり、人々が住む村は窪地くぼちになっていて、この林道のある丘から見ると、大きなおわんの中に広大な畑と民家が点在しているように見える。
 さっき標識に見た白鷺地区は水田が広がる、米作りが盛んな集落だ。
 この島で一番栄えている商店街と、津久茂港のある地区。
 陽ノ江地区の隣にあるのが、津久茂川が流れる星野ほしの地区だ。あそこは牛や鶏を育てていて、中学の校外学習でアイスクリーム作りを体験した記憶がある。
 そんな津久茂島は車なら一時間程度で一周できてしまう。狭い島での暮らしは人と人との繋がりも密接なのだと、母子生活支援施設で聞かされていた。その頃唯一仲の良かった子が以前住んでいた場所が、そうだったらしい。本人はそれをネガティブなこととしては捉えていない様子だったが、思春期の私はそれがわずらわしく感じてしまった。
 実際島に来ても、大人どころか同級生とも上手く馴染めなかった。子供同士で話しているつもりでも、あっという間に大人にまで広がってしまう。そんな環境に慣れない私は、人と必要以上に関わるのを避けてしまっていた。
 タクシー代の支払いの際に振り返った丸山さんの顔を正面から確認したが、記憶にはない。毛虫みたいな太い眉毛も、カツラにしか見えない七三分けの丸いたぬき顔も、やはり覚えていなかった。
 そして、自分の家の前に立っても「懐かしい」という感情は抱けなかった。地方移住者支援で紹介された中古の二階建て一軒家は、あの頃と変わっていない。甲高い音で軋む錆びた門扉も、そこに針金でくくり付けただけの赤い郵便受けも、丸い石が玄関まで蛇行する狭い庭も、玄関の寂れた引き戸の音も、どれを聞いてもまるで「他人の家」だ。
 普通であれば、こういうときは郷愁きょうしゅうを感じたり、しみじみ思ったりするものだろう。自分自身がいかに無感情にここでの三年間を過ごしていたかを改めて確認したようで、同時に自分の子供時代が酷く空虚に思えた。
 二階にある私の部屋は、中学時代で時が止まっていた。掃除や空気の入れ替えで母が立ち入った形跡はあるが、箪笥たんすの上の技術の授業で作った木材加工のオルゴールは、一音も欠けることのないメロディを奏でていたし、修学旅行のお土産で買った柴犬の博多人形が今もテーブルの上に。ひよこ饅頭まんじゅう色褪いろあせた上蓋が壁に飾ってあった。
 キャリーケースを部屋の隅に置いて窓を開けると、部屋を巡った甘い風が、前髪をかき分けて額をあらわにする。風の丘地区を囲う低い山々は、淡い桜色に染まっていた。
 家の裏側に広がる畑に、もんぺ姿の人の丸い背中からお尻にかけてが見える。作業の合間に背中を反らして伸びをして、また丸くなる。畑の脇には自転車が停めてあるから、向こうの住宅地の人なのだろう。
 この家は風の丘地区の入り口に位置し、向かいに大きな日本家屋があるだけだ。そこから畑沿いに進んだ先は住宅が密になっていて、個人経営の雑貨店や商店、地元の人が集まるお好み焼き屋さんもあったはずだ。
 こことあちらの住宅地の間に延びる長いあぜ道の左手には畑が広がり、右手は桜並木が彩る土手がある。土手の反対側は津久茂川の支流となる穏やかで浅い川が村を縦断している。この地区は土の匂いがとても濃い。畑に実る作物や花、秋にはどっさりと実を付ける柿の木がある、彩り豊かな地域だ。見える景色は十年前となんら変わっていなかった。
 土と、桜と、緑の香り。それらを打ち消すように、カレーの匂いが漂ってきた。一階に下りると、母が昼間に作ったというカレーを温めていた。流し台と反対側の壁にかけてあるうっすらとほこりをかぶった時計は、五時を示していた。

「私がやるよ。お母さんは座ってて」
「これくらいできるよ」

 椅子に座って鍋をかき混ぜる母からおたまを取り上げ、隣の六畳の居間へ手を引いた。しっかり脂肪を溜めた母の二の腕は、しぼみかけた水風船みたいだ。
 二人分のカレーをよそい、母の向かいに座った。

「ねぇ、明日どこ行こうか」
「いや、どこ行こうって……」

 まるで休みを前にした幼稚園児にたずねるみたいに、母はスプーン片手にテーブルに身を乗り出す。

「無職だし。お金も節約しなきゃ」

 すくったカレーに息を吹きかけて、ゆっくりと口に運ぶ。私が好きなとろとろカレーだ。とろとろ、というか最早どろどろカレー。スプーンからぼたっと落ちるくらいが好きなのだ。大きいじゃがいもが入ったこのポークカレーが、子供の頃から大好きだった。
 あぁ、お母さんのカレーだな、と味わいながら次のひと口をすくう。

「いいじゃない、少しくらい。お母さんも働いてるんだから、お金は気にしないで。商店街に新しい喫茶店ができたの。うちの地区の畠中はたなかさんのお孫さんがやってるんだけど。浩二こうじ君、覚えてない? ことりの同級生。クラスも同じだったんじゃないかな」
「へぇ……」

 畠中、畠中、畠中浩二、と頭の中で唱えてみたけど出てこない。女子の輪にすら入れないで孤立していた私が、男子の名前なんて覚えているはずもないのだが。

「いや、その腰で行けないでしょ。治ってからにしようよ」

 どうせその浩二君とやらも覚えてないんだし。と心の中で独りちてまたカレーを頬張る。美味しい。カレーは飲み物だなんて言う人がいるけど、私もそうかも。
 母はどうしてもどこかへ出かけたいのか、「じゃあもう少し近場でお散歩とか」などと食い下がる。「私はここに住むのだから、いつでも行けるでしょ」と説得すると、ようやく諦めてくれた。まるで散歩を断られた犬みたいにしょんぼりとしていて、罪悪感が全くないと言えば嘘になるのだけれど。
 そのあと私はカレーをおかわりした。母は一皿目のカレーすら「お腹いっぱい」と言い出したので、それも貰うことにした。結局二皿半食べたことになる。
 夜になると、外に出てみようかという気も起きたが、母のあの様子だと「私も行く」とか言い出しそうな気がして、やっぱりやめた。
 十年も前で時が止まったままの自室の窓辺に座る。
 お腹はいっぱい。風が気持ち良い。
 昼間はあんなにも桜色に染まっていた風景も、今はすっかり夜の闇に沈んでいた。黒い山々の稜線が村を囲み、遠くには民家の明かりが白く灯っている。畑の向こうの山の中腹で、石灯篭いしどうろうが淡い光をにじませていた。
 母と初詣で行った神社だ。こぢんまりとした神社ながらも歴史は古い。神社仏閣に興味がある観光客がぽつぽつと訪れる、マニアックに分類される神社だということを数年前に本屋で手にした日本の隠れ絶景写真集で知った。実際に絶景だったかどうかは、初詣という夜中にしか行っていない上に、寒すぎて足元しか見ていなかったからわからない。
 今朝まではコンクリートジャングルの町にいて、昨日まではオフィスビルの足元で働いていたのに、今は海に囲まれた小さな島で田舎の夜の景色を眺めている。父のことがなければ、島に戻るつもりはなかったのに。
 部屋の隅にキャリーケースと一緒に放り出していた鞄の中から、スマホの振動音が聞こえた。まさか、と思った嫌な予感は的中した。
 父だ――
 三十秒ほどで留守電に切り替わるが、そのまま切れた。それでも昨日までの焦燥感はない。アパートは夜明け前に出てきた。早いうちに家を離れ、適当な店で時間を潰してから津久茂島への船の時間を調整した。引っ越しの荷物は最低限に抑え、梱包が大きくなるものは処分した。不動産屋の退去の立ち会いも、事情を伝えるとスーツではなく普段着で来るような配慮をしてくれる人なのも救われた。これだけ対策をしてきたのだから、見つかる心配もないはずだ。
 父は、もぬけのからになったアパートを見て愕然としたことだろう。
 スマホ、解約しよう。
 母と住むのであれば連絡を取る必要もないし、どうせ友人もいない。調べ物がしたければ、陽ノ江地区にある役場に併設された図書館にでも行けばいい。車はなくても自転車もバスもあるし、どうせ暇で時間はいくらでもある。
 窓を閉め、電気を消した。布団にもぐり、目を閉じる。数日ぶりに、穏やかな気持ちのまま眠りに落ちた。
 その夜、夢を見た。あの弁当屋での日々の夢だ。
 隼人が注文を受け、私が厨房で調理し、お客さんが「ありがとね」と弁当を持ち帰る。

「ごはん行こうよ」

 隼人の軽い口調が懐かしい。結局、行けないままで終わっちゃったけど。
 夕景に浮かぶ能天気な笑顔は、オレンジ色の強い西日に包まれて見えなくなった。


「あっつ……」

 布団の上で大の字のままうめく。目覚めは最悪だった。触らなくても背中が湿っているのがわかる。前髪の生え際を指先で擦ると汗がべっとりと付いた。
 視線だけで頭側の壁掛け時計を見る。十時五十分。青い遮光カーテンの隙間から漏れる陽の光は、引きこもりのアラサーの眼球には刺激が強すぎて顔をしかめた。
 五月に入ってから、島の気温は容赦なく上がり始めた。まだ夏どころか梅雨も前だというのに二十五度を超えている。
 一階に下りると、母は仕事に出たあとだった。冷蔵庫にオムライスが入っています、温めて食べてね。ケチャップは冷蔵庫の扉の右側です――几帳面な小さな字で書かれたメモが、居間のテーブルに残されていた。余白には私が幼少期に好きだったカエルのキャラクターが描いてある。過保護なのは相変わらずだ。こういうのも、私が子供の頃から変わっていない。
 あれから母の腰はすっかり良くなり、これまで以上に頑張らなくちゃと昨夜も随分と意気込んでいた。オムライスを食べ、シャワーを浴びてからまた部屋に戻った。こっちに来てからずっとこれの繰り返しだ。満腹の二十六歳女は、畳んで積み上げた布団に上半身を乗せるようにして仰向けに転がった。これぞ食っちゃ寝。
 開けた窓の向こうの電線に止まった一羽のカラスが、不思議そうにこちらを見ている。小首を傾げて、カアー。あいつ昼間から何やってんだ? とでも言っているのか。カラスはしばらく私を観察してから、ばさばさと黒い翼を羽ばたかせてどこかへ行ってしまった。
 私もあんなふうに自由に生きられたらな。まあ、はたから見れば良い年した無職の人間が実家で暮らしている姿は、自由そのものなのだろうけれど。
 その日は午後二時を過ぎると薄雲がかかり始め、気付けば雨が降り出していた。うたた寝する怠惰な私を起こしたのは雨の音ではなく、古臭いチャイムの音だった。

「あらぁ、ことりちゃん? 引っ越してきたって聞いてたのに姿を見ないから、どうしたのかと思ってたら」

 家の前にいたのは、見事な大仏パーマのおばさんだ。五十代くらいだろうか。傘を持つ手とは反対の右手をぽっこりと出た頬骨に当てて、

「大きくなって。おばちゃん、覚えてる? お母さんがツバキさんって呼んでるでしょ」

 と言う。

「あぁ、ツバキ屋さんの」

 ようやくこの島に来て初めて人の名前と記憶が一致した。ただ、私の記憶にあるツバキさんは大仏パーマのおばさんではないが。

「そう、ツバキ屋の椿つばきマサエ。もうおばさんになっちゃって。わかんなかったわよねぇ」

 ツバキ屋は向こうの住宅地にある個人商店だ。雑貨や文具などを取り扱っていて、私も学生の頃はノートなどを買いに行ったことがある。大らかで声が大きい人というのが印象に残っていて、今はその「大きい」に体のサイズも加わっている。

「ちょうど前を通ったらベランダに洗濯物が出てたから。声かけなきゃと思って」
「ありがとうございます。取り込んでおきます」

 母が仕事前に干したものを片付けた私は、また暇になって部屋に戻った。
 ささやくような雨音が聴覚を満たす。流れ込む生ぬるい風は、湿気と緑の匂いが入り混じっていた。
 五時を告げる音楽が、灰色の霧に包まれた村に静かに響き渡る。洗濯物を取り込む以外何もしていない私の腹の虫は、完全に息を潜めていた。
 三月までは、毎日が本当に忙しかったな。
 考えれば考えるほど、心まで今日の空みたいな灰色の雲に覆われて、ため息が出る。
 天井の木目が私を見下ろしていた。生産性もないこの時間も嫌いじゃないが、毎日続くと焦りが生まれる。母以外、会話する相手もいない。寝て、起きて、食べて、また寝る。そんな毎日だ。

「ミツさん、元気にしてるかな」

 私のことも少しずつ忘れてしまうのだろうか。私は忘れないけれど、相手もそうだとは限らない。母と離れて暮らす私にとってミツさんは本当のおばあちゃんみたいな存在で、休憩時間にミツさんとお茶を飲むひとときは、家族のぬくもりのようなものを感じた。そんな大切な場所を失くしてしまった。店を閉めても、父のことさえなければ会うことはできたはずだ。でも父のことがある以上、ミツさんの傍にいれば迷惑をかけてしまう。
 両親が離婚してこんなにも年月が経っているにもかかわらず、私は父に振り回されてばかりだ。なんか悔しい。
 よいしょ、と心なしか重くなった体を起こし、勉強机の引き出しを開けた。中学のとき、一目惚れで買ったレターセットを机に置いて、椅子の座面を下げる。ミツさんに手紙を書き、畑沿いにたたずむポストに投函とうかんした。返事が来たのは一週間を過ぎた頃だ。


 ことりちゃん、元気そうで安心しました。私も元気だけど、閉店した弁当屋の片付けのときに転んでしまってね。それからは隼人君がよく様子を見に来てくれるの。
 ことりちゃんの新しい暮らしはどうですか? 確か、津久茂島だったよね。
 いつだったかテレビで特集していたのを見て、素敵な所だと思ったのを覚えています。


 読みながら「へぇ、隼人が」と呟いた。今までの恩があるとはいえ、辞めた職場の雇い主を気遣って見に行くなんて、誰でもできることじゃない。ノリが軽くて能天気な彼なりに、いい所もある。もちろん一緒に働いた二年間でわかってはいたことなのだけど。ちょっと微笑ましいような気持ちになりながら、便箋びんせんを出してペンを取った。
 良かったですね、安心しました。津久茂島はとても静かでいい所です――。ミツさんがそれ以上手紙を書かなくて済むような文面で送った。それでとりあえず終わるつもりだったのに、それから二週間近く経って、また手紙が届いた。


 急にごめん。ミツさんに住所教えてもらったんだ。
 ことりの親父だって人が店に来たよ。もう辞めたから知らないって言っておいたけど、結構しつこく居場所を聞かれた。大丈夫か?


 達筆な文字で書かれた手紙の文末には、水島隼人と記されていた。



 第三話 梅雨の紫蘇しそジュース


 津久茂島での暮らしは、相変わらず退屈な毎日だ。隼人からの手紙に返事を出してから数日。父に店を辞めたことを伝えてくれてありがとう。迷惑をかけてごめんなさい。もう店には来ないと思います。こちらは大丈夫です。そう返事を書いてからは音沙汰がない。
 父のことを考えていても気が滅入めいるばかりなので、陽ノ江地区の商店街に行くことにした。母が言っていた、私の同級生の喫茶店を店の前から覗いてみた。店内には入る勇気がないが、店主の浩二君らしき姿は見ることができた。
 浅黒い肌に、手足も顔も私よりずっと細く、身長は百六十数センチだろうか。黒縁眼鏡に団子鼻の、清潔感のある純朴じゅんぼくそうな青年だ。ブラウンのシャツに黒いエプロンの落ち着いた立ち姿と振る舞いが、イギリスビンテージな店の雰囲気と馴染んで、彼がいるだけで絵になる。
 浩二君が営む喫茶クラウンを覗いた帰りに役場の図書館に立ち寄り、新刊コーナーを右から左へとじっくり見て回った。その中で一冊、『小さなカフェの作り方』という水色のパステルカラーの表紙が目を惹いた。その日はカフェの作り方の本と小説三冊、なんとなく手に取ったガーデニング番組で有名な人の庭作りの本を借りることにした。
 時間を持て余す私は一週間かけて三冊の小説を読み切り、庭作りの本を斜め読みしてなんとなく「丁寧な暮らし」気分を味わうだけ味わって、返す本の山に積んだのが今朝。
 雨続きでさっぱりしたものが食べたいと言った夜勤明けの母と、冷やしうどんに総菜屋のとり天をのせて朝昼兼用ごはんを済ませた。

「小さなカフェの作り方」

 表紙のタイトルを読み上げて、窓辺の砂壁にもたれた。今朝までしつこく降り続いた小雨もようやく止み、雲の切れ間から水色の空が見える。地上に差す細い陽の光が空気中の水分を含んで、光の粒子を抱いていた。
 梅雨空の合間から見える水色と同じ色の表紙には、シンプルで飾り気のない白壁の前に満面の笑みで寄り添う女性が二人。年齢的には私とそう変わらないんじゃないだろうか。表紙の二人を探して、ぱらぱらとページをめくる。

「姉妹、か」

 元々は姉がパン職人をしていて、妹は趣味の洋菓子作りを活かし、一緒にカフェを開いたというものだった。二人の苦労や経験、失敗から学んだことなどが時系列で整理して記されている。それらの文字に視線を滑らせただけで、本を閉じてしまった。
 仲のいい姉妹。好きなことを極めるために専門学校に通わせてくれた両親。工務店を営む父の手助けもあり、居抜き物件の改装も上手くいったというのを見て、私には縁のない世界なんだ、とそれ以上読む気になれなかった。
 何を期待してこの本を手に取ったのだろう。自分にはないものに恵まれた人。彼女たちのように、ミツさんのように、店を持つことへの憧れでもあったのだろうか。
 それからは、ぼうっと流れの速い雲を眺め、雨上がりの青臭い風を感じながら、いつの間にか眠っていた。


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