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第十二章 学園祭の始まり
29 天の助け
しおりを挟む少し早めに店に着いたものの、予約をしていたお陰ですぐに二階の個室へ通される。
てっきり学園祭に客を取られて静かだろうと思っていたのに、今日の黒蓮楼はいつになく大忙しだ。顔馴染みの給仕たちは心なしか顔色が悪く、額には汗が滲んでいた。
「今日ってそんなにヤバいの?」
メニューを配り終わった給仕の青年に小声で尋ねると、彼は力無い笑顔を浮かべて曖昧な返事をする。かなり危うい状態だ。
ホールでこれなら、厨房の方はどうなっているのだろう。
忙しいことが当たり前の店で育った呉宇軒は、祖父たちがメニューを眺めている間もうずうずして落ち着かない。今すぐ助っ人に行きたいところだが、家族との食事を蔑ろにするわけにもいかないので板挟みだ。
そんな彼の気持ちを察してか、隣に座る李浩然がテーブルの下でこっそり膝をつついてきた。
「阿軒、少しお店に出る?」
「いいの? なんか心配で……うちの注文分までは俺が作ろうかな」
恐らく、厨房に顔を出せば快く通してもらえるだろう。一人補助が入るだけでも違うものだ。
結局居ても立っても居られなくなった呉宇軒は、家族にひと言断りを入れてから店の手伝いをしに行くことにする。
「俺、ちょっと厨房の様子見てきていい? 食べる頃には戻って来れると思うから」
「おう、しっかり活躍してこい!」
驚いたことに、一番反対しそうな祖父が真っ先に賛同してくれた。前にハルビンで手料理を振る舞った時に、孫の料理の腕前をしかと認めてくれたのだ。
家族に背中を押されて暖かな気持ちになりながら、呉宇軒は部屋を出ると急ぎ足で厨房へ向かった。
厨房は案の定、見るも無惨な有様だ。様子を窺いに来た呉宇軒は、あまりの惨状に放っておけず、すぐにロッカーに預けてあった制服に着替えて料理に取り掛かる。なんでも、昼のピーク時間から一向に客足が途切れず、今の今までろくに休憩も取れていないという。
きっと学園祭で人の往来が激しくなっているので、呉宇軒が修業していると噂のこの店に流れてくる客も多かったのだ。
「悪いな、宇軒。今日は学園祭に人員割いてるから少なくて、もう手に負えなくてよぉ……」
小太りな先輩シェフが、汗を流して鍋を振りながら謝罪の言葉を口にした。疲労困憊で今にも倒れそうだ。
一人増えたことでどうにかいつもの形になったらしく、流しに山のように溜まっていた食器類が少しずつ片付いていく。一番元気な呉宇軒は、彼らが少しでも楽になるようにどんどん注文を捌いていき、伝票の山を半分にまで減らすことに成功した。
だが、彼は途中で気付いてしまった。このままだと盛り付ける皿が足りなくなる。
伝票の山がひと段落したら皿を洗いに行こうと思っていると、ふと見慣れた後ろ姿が目に入る。まさか彼がこんな所にいると思わず、呉宇軒は思わず目を擦って二度見した。
「浩然!? こんな所で何してるんだ?」
間違いない。制服を着た李浩然が手際よく皿をすすいで食洗機に並べている。彼は作業の手を止めないまま振り返った。
「洗い物まで手が回っていないと思って、手伝いに来た」
まさに救世主の登場だ。呉宇軒は今すぐ抱きつきたい気持ちをぐっと堪え、頼もしい幼馴染に満面の笑みを向けるに止めた。
彼のお陰で皿洗いに人を割く必要がなくなったため、ぐんぐん伝票を消化していく。そして、李浩然のお陰で山ほどあった汚れた皿はほとんど無くなり、流し場がすっきりと綺麗になった。
「一時はどうなることかと思ったが、なんとか切り抜けたな」
小休憩する余裕ができた先輩シェフが、厨房の椅子に座ってほっと安堵の息を吐いた。
伝票と汚れた食器や調理器具で溢れていた厨房は、呉宇軒と李浩然の活躍で、今は平日の夜くらいにまで落ち着きを取り戻している。
身内の伝票にようやく取り掛かった呉宇軒は、コンロを二つ占拠して二品を同時に調理しながら、先輩たちに労いの声をかけた。
「これ終わったら一旦戻りますけど、もし助けが必要だったら帰る前に呼んでくださいね」
「ああ、今日は助かったよ。二人ともありがとうな。今日の分は俺の奢りだ!」
まだ一人で頑張っているオーナーがご褒美をくれたので、呉宇軒は大喜びで通りかかった李浩然とハイタッチした。
李浩然と二人で制服を着替えに向かうと、夕飯時の休憩室には誰もいなかった。作った料理が冷めないうちに戻ろうと思い、呉宇軒が急いで服を着ていると、ひと足先に着替えを終えた李浩然が不意に体を寄せてくる。
「どうした?」
「戻る前に少しだけ」
囁くようにそう言って、李浩然は彼の唇にそっと口づけた。せっかく二人きりになるための合図を考えていたのに、思い返してみるとゆっくりする時間はほとんど取れなかった。こうしてキスをするのもずいぶん久しぶりに感じる。
何度か啄むように口づけた後、呉宇軒は微笑んで幼馴染の頬をきゅっと摘んだ。
「そうだな。今日は全然イチャつけなかったし、もう少しだけここに居ようか」
例の事件の黒幕が現れてから、ずいぶん捜索に時間を取られてしまった。待ってくれている祖父たちには申し訳ないが、呉宇軒もそろそろ限界だったので、彼は喜んで李浩然の腕の中に飛び込んだ。
すぐに背中に回された手がぎゅっと体を抱きしめてくれる。重ね合わせた胸から伝わる鼓動と温もりに、呉宇軒はうっとりとして目を閉じた。
厨房もホールも修羅場が落ち着いたばかりなので、まだ余談を許さない状況だろう。そのため、休憩室にはしばらく誰も来ないはずだ。
李浩然の首筋に顔を埋めたまま、呉宇軒は甘えた声で囁いた。
「然然、今夜は一緒にお風呂入る?」
色々なことが起きすぎたせいで、こうして抱き合っているだけでは全然物足りない。しかし、同じように一杯一杯のはずの李浩然は、やんわりと拒否した。
「明日も早いし、今日はやめておこう」
「可愛い俺が頼んでもダメ?」
目を潤ませて見つめてみても、李浩然の意思は変わらないようだった。だが、呉宇軒がしゅんとして俯くと、彼は小さく笑みを漏らしていじけた恋人の頬を優しく撫でた。
「明日は特殊メイクをするだろう? 入るなら明日」
諭すような声に、呉宇軒はガバリと顔を上げる。すると、李浩然は穏やかな眼差しで彼を見つめていた。
彼はたちまち嬉しくなり、目をキラキラさせて李浩然の唇に何度も感謝の口づけを贈る。
「絶対だからな!」
「うん。そろそろ行こう。料理が無くなっているかも」
冗談めかした言葉に呉宇軒は小さく吹き出した。
ここに来てからどれくらいの時間こうしていただろう。祖父たちはもう先に食べているはずだ。
「いつもみたいに食べさせ合わないように気を付けないとな」
先ほどの失態を思い出し、呉宇軒は慌ててそう言った。普段から相手の口に料理を運んであげるのが癖になっているので、今言っておかなければまた同じことをしてしまいそうだ。
注意を促した呉宇軒に、李浩然はふっと鼻で笑う。まるで自分は違うとでも言いたげだ。
「気を付けるのは君の方だろう?」
「お前だって、うっかりがあるかもしれないだろ?」
痛いところを突かれてムッとして言い返したが、李浩然は澄まし顔で聞き流す。反論する間もなく彼が出ていってしまったので、呉宇軒は慌てて後を追って休憩室を飛び出した。
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