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番外
私の妖魔
――紫微の城。
荘厳で人間味のない、人でありながら神の代理人であるとされるものが住むための場所――幼い頃からの私の住まいだ。
その呆れるほど高く分厚い城壁に囲まれ、私は外の世界をほとんど知らずに育った。
母は産後の肥立が悪くすぐに亡くなり、私を育てたのは、乳母と、宦官達、そして父の知己でもある、老将軍だ。
優しかった乳母は、私が物心つく頃には里に下がらされ、その後は将軍が多忙な皇帝に代わり、私の師父となった。
剣の他にも、兵法や礼儀作法、古よりこの国に伝わる典籍を厳しく叩き込まれ、少しでも疎かにすると、容赦なく尻を剥かれて杖で叩かれる毎日。
皇子にそのような無体なことをするなど、下手をすれば自分自身の首が刎ねられてもおかしくはないのに、将軍は私を教育するにあたり、自分の子に対する以上に厳しくあたった。
将来の皇帝を育てなければならないという、命懸けの覚悟があったのだろう。
呪いをかけられ、城に何年も閉じ込められている間、私が酒色に溺れたり、無力で哀れな宦官達に当たり散らすようなことが無かったのは、師の教えがあったからこそだ。
老将軍への感謝は尽きない。
――けれど……。
私はいつまでも尻を叩かれる子供のままでは居られなかった。
紫微の城を出たら最後、私の身に何が起こるか分からない――。
そう言われて、この五年、後宮の中でも外れの、冷宮とも呼ばれる幽閉用の宮殿、翠玲宮に長く閉じ込められてきた。
そこは寂れた場所で、誰も私の姿を見る者など居ない。
それなのに朝が来るたび、公主の衣装に袖を通すことを強要された。
涙が出るほど髪を引っ張られて、頭の上で高く結われ、極め付けに、重い簪をいくつも差し込まれて、大拉翅を被らされる。
それは高さが一尺(30センチ程度)もあり、黒い緞子で出来ていて、造花やら金属の飾りやらが付く扇状の飾りで、頭に付けると、数刻で頭痛がしてくる代物だった。
更に長い付け爪を強要されては、もはや書物をめくるのすら困難になる。
外の世界や下々の人間を見るのは、王子の処刑の時だけだ。
初めて、私の為に嬉々として死ぬ王子の姿を目にした時……恐ろしくて一晩中、眠ることができなかった。
犠牲が十人を超えると、もはや自分が何のために生きているのか、さっぱり分からなくなった。
幾度も自ら命を断とうとして、その度に宦官に無理やり止められた。
私は常に監視されていて、自ら死を選ぶ自由すらも無かったのだ。
己の心と体が、末端から少しずつ腐っていくのを、他人事のように眺めるしかできない日々。
夜、居室の中でだけ男の姿に戻り、剣の腕が鈍らないよう、武芸の心得のある宦官に相手をさせ……ささやかな抵抗を試みても、いつも虚しかった。
武芸の腕など磨いても、実戦で使う日など一生来ない。
どんなに努力しても、私は所詮、箱入りの公主でしかないのだから……。
孤独と自己嫌悪で疲れ果てて床につき、眠りたくなどないのに、諦めて無理矢理目を閉じる。
いっそ本当に氷の心を持った人間になってしまいたいと願い、努めてそのように振る舞った。
けれど、私は所詮、呪いと死に怯える、平凡な人間に過ぎない。
朝になればこの悪夢が覚めて、何もかもが違っていればいいのにと、何度願ったろう。
夢が覚めたら、私は皇子でも公主でもない人間になっている。
かつて、私の祖先が、地平線の向こうの西の果ての国で、そうであったように……天幕を家に、自由に新天地を求め、どこまでも馬を駆ることが出来たなら良かったのに……。
「起きて、インジェン。夕飯だ」
陽気で、耳に心地の良い声で――自分でも忘れかけていた本当の名を呼ばれ、私は目を覚ました。
どうやら、焚き火のそばに座って一休みしている間に、うっかり眠り込んでしまっていたらしい。
昔の夢を見ていたようだ。
それも、悪夢を……。
わずかでも動くと、身体中がミシミシと軋むように痛む。
無理もなかった。
一日中馬に乗って移動すると言うのは、ことのほか体力を消耗するし、普段肉体の使っていない部分も酷使する。
しかも、乾燥した風の吹き荒ぶ中、ごく薄い毛氈だけを風除けにしての夜は、常に浅い眠りしか得られず、正直なところ、私の身体は憔悴しきっていた。
「大丈夫か? 汁物は飲める?」
言われて、火にかけられた丸い鉄鍋の中をちらりと覗き込む。
硬い鱗のようなものに覆われた、細い三本のあしゆびを持つ何かの二本足が水面から飛び出し、中にはバラバラにされた白い骨、毛をむしられた、嘴のある鳥の首のようなものが見える。
血の集まる頭部から出た灰汁のせいか、酷い臭いが鼻をついた。
昼間に食べたこれの肉も、脂けというものが全くない、食べたことのないようなひどい味だったし、そもそも一体何の鳥なのかもよく分からなかった……。
だが、これが自由というものの苦味なのだろう。
「……飲む」
死に物狂いの覚悟で私がそう言うと、目の前の妖魔が、輝くばかりの笑顔で頷いた。
「良かった!」
このやりとりは、食事の度に繰り返している気がする。
妖魔は甲斐甲斐しく支度をして、私に椀を差し出した。
私はそれを受け取り、相当な覚悟で汁に口を付ける。
……臭いはひどいが、意外と味は悪くない。
少しずつ飲んでいると、妖魔が背後に回り、私の髪を解き、櫛で梳かし始めた。
一つ一つ根気強く絡みを解いて、決して私に痛みを与えないように、神経を使いながら。
「……」
……この男と初めて出会ったのは、たったの数日前だ。
奴隷の身にも関わらず、ダッタンの王子を名乗った、命知らずの無礼者。
その顔を初めて見た時……なんと無邪気で、純粋な眼差しをしているのだろうと思った。
意志の強そうな眉の下の、こぼれ落ちそうなほど大きな目。
常に少し微笑みを浮かべたような唇は、口を開けて笑うと尖った八重歯が微かに見えて、酷くあどけない印象になる。
妖魔は、私が出会った数少ない人間の中で、何故かわからないが、強く心を惹かれる顔立ちと佇まいをしていた。
だからあの時、魔がさしてしまった。
この――未来の出来事が読めるなどという、何処の馬の骨とも知れない妖魔と、自暴自棄にも等しい旅に出てみようか、などと……。
ロウ・リンの墓に行ったところで、何か分かったとしても、呪いがそう簡単に解決できるとは思えない。
二人だけで城の外に出れば、妖魔は私を殺して逃げるかもしれない。
それで、私の絶望が終わるのなら、別にそれでも構わぬ。……そんなやぶれかぶれな考えがどこかにあった。
呪いを解き、皇帝になる。
勿論それは当然の私の責務だ。
希望を求めての行動でありながら、その実は、密かに消極的な自死――。
果たして妖魔は、見事に私の脱出を成功させた。
妖魔のおかげで私は、生まれて初めて誰の監視の目もない自由の身になり、皇子でも公主でもない一人の若者になった気分を味わった。
どこまても続く茫漠とした大地を、頭上に果てしなく広がる蒼穹を、ひんやりと乾いた野の風を、たとえ一瞬でも、経験することが出来た。
しかも、いつ妖魔に無惨に殺されても全く構わない――そんな覚悟で出てきた割には、思いの外妖魔は私に忠実なそぶりを見せていて、いまだに、私を殺して逃げようとする気配はない。
それどころか、この間など、川で溺れて死にかけた私の命を救ったのだ。
その上、そのことを特に誇るでもなく、褒美を要求するでもなく、何事もなかったかのように――妖魔は今も嬉々として、私の世話をしている。
「よし、お髪が綺麗になりましたよ。さて、これから寝床を作ります。さぞかし眠いでしょうけれど、お待ち下さい」
丁寧な言葉は使わなくていいと言ったのに、しょっちゅう忘れる。
そのくせ、乳母か何かのように、私のことを手のかかる子供のように扱うのだ。
全く不敬極まりない男だが、どうしてなのか不快にならない。
妖魔は枯草をせっせと集めて、寝台を作っている。
私が手伝おうとすると、いつもやんわり断られる。
妖魔は、自分の好きなこだわりの方法でやりたいらしい。
「出来ました。どうぞ、寝てください!」
妖魔が力作の寝床を手のひらで叩く。
本当は妖魔のように座ったまま眠れるようになりたいが、翌日が悲惨なことは経験済みだ。
今夜は言う通りに、即席の寝床に横になった。
焚き火を消すと、私達を照らすのは月あかりのみとなる。
青白い光に照らされた妖魔が、剣を抱き、胡座をかいて座ったまま、うつらうつらし始めた。
何とも羨ましい寝つきの良さだ。
私は最近身体が痛すぎて、いざ寝ようと思ってもなかなか寝付けない。
昼間、眠りたくもない時に思わず気を失うことはあるのに、難儀だ。
二、三度寝返りを繰り返した後、毛氈の間から一度這い出し、妖魔の顔を改めてじっと眺めた。
頭の後ろで無造作に一つにくくった髪。
異民族の血を彷彿とさせる、細い鼻梁と顎、くっきりとした瞼。
よく笑う小さめの唇……。
この唇が私に口付け、新しい命を吹き込んだ時から、私はすっかりおかしくなってしまった。
しかも、共にいればいるほど、妖魔が呆れるほどに善良で、二心の無いことが、分かりすぎるほどに分かる。
私はいつの間にか、妖魔を好ましく思うような身体にされていた。
つまりは、認めたくはないけれど、私は短い間に、すっかり妖魔の虜になっていたのだ。
……口付けをもう一度すれば、奪われた心を取り返せるのだろうか?
それとも、吹き込まれた命を返すことになって、私は死ぬのだろうか。
それもいいかも知れない――自由の身のまま死ねる。
じっと顔を見つめていたら、妖魔は眠ったまま、にこりと微笑み、寝言を呟いた。
「陛下ぁ、便所はそっちじゃありませんってば……」
……一体、どういう状況の夢を見ているのだ……?
不思議に思って聞き耳を立てたが、妖魔は再び深く寝入ってしまったようだった。
だが、その唇は笑みの形を作ったままだ。
それが、何とも……私の胸をざわつかせる。
あの、頬の少し窪んだところに触ってみたい。
妖魔の身体は、温かいのか、冷たいのか、川で助けられた時にはよく分からなかったから、もう一度確かめたい。
そんな願望がみるみる膨れ上がり、恐る恐る手を伸ばして妖魔の顔に触れようとしたが、出来なかった。
……もしも起きてしまったら、どう思われるか分からない。
大体、寝ている人間に触れるなど、身分の高い人間がするようなことではない……。
思い直して手を引っ込めたが、やはり我慢が難しい衝動が込み上げてくる。
一体何なのだろう。
悩んだ末、思いついた。
そうだ、触れるなら起きている時にすればいいではないか。
……だが待て、他人の身体に理由もなく自分から触れるなんて、それこそ貴人の所業ではない……!
……どうしたら良いのだ。
途方にくれた挙句、思いついた。
そうだ、髪の紐になら触れたことがある。更に髪の端に触れるだけなら許されるかも知れない。
もはや、誰に得る許しなのかは分からないが……。
起きている時にしよう、と思ったそばから、私はつい、妖魔の方に手を伸ばしていた。
私の髪とは全く違う、艶のない、ところどころが途中で切れた、馬の尻尾のような毛。
その端っこに触れた――その途端に、妖魔はハッと目を覚ました。
「殿下、どうされましたか!?」
あまりの反応の良さに、私の情緒が対応しきれない。
思わず、触れていた髪を思い切り下に向けて引っ張ってしまった。
「ギャッ!! 何するんですか、殿下! 寝てる人間に悪戯をするなんて」
妖魔が驚きの表情を浮かべ、楽しそうに笑っている。
そこに拒絶の陰がないことを読み取って、密かに安堵しながら、私は手を離した。
「失敬な。悪戯など、していない。……そうだ、お前に聞きたいことがあったのだ。だから起こした」
そう言って、私は妖魔に触れたことをうまく誤魔化した。
「聞きたいことって、何でしょうか?」
「だから、その言葉遣いはやめろ」
「……はぁ。じゃあ、……何を聞きたいんだよ、インジェン」
聞かれて、私は戸惑った。
質問の内容など考えていない。
適当に思いついたままを、私は口にした。
「……。お前の名だ。妖魔め」
「あはっ……そっか、そういえば、名乗ってなかったっけ……」
実は、聞かずともとっくに妖魔の名を、私は知っていた。
あの王宮三兄弟が、妖魔をリュウと呼んでいたから……。
「私の名は、リュウと申します。……殿下、どうぞ旅の間だけでも、覚えていてくださいませ……」
そう言って微笑み、恭しく拱手した妖魔を見て、私の心臓が急に激しく動き出した。
リュウ。
リュウ……。
その名を口にしようとして、喉がカラカラに枯れ、唇が渇いて、出来ない。
「よ……妖魔の名前など、覚えていられるか!」
私は心にもないことを叫び、逃げるように自分の寝床の中に滑り込んだ。
「なっ。たったの三文字だぜ、なんでだよ!?」
妖魔が憤慨しているのは放って、固く目を閉じる。
心臓がまだ激しく鼓動していた。
私の唇の代わりに、リュウ、リュウと、何度も名を呼ぶがごとくに。
でも、本当に私が、その名を口にしてしまったら……。
妖魔と親しく名前で呼び合ってしまったら、私は元の世界に、あの城に、戻ることができなくなってしまいそうな気がする。
もう二度と城に帰らず、皇子にも公主にも戻りたくないと……この妖魔に、寝ても覚めても甘い声で「インジェン」と呼んでほしいなどと、きっと思ってしまう……!
それでは、駄目なのだ。
この妖魔を利用して、もしも呪いを解くことができたら、私は皇帝にならねばならないのだから。
許されないことのはずなのに、何故か心が言うことを聞かない……。
「インジェン、おやすみ……」
妖魔の呟く声に、胸が切なく絞られる。
……明日も髪に触れていいだろうか。
いつかは、頬に、唇に触れても、許されるだろうか……?
一体それは、誰にどう許されれば、してもよいことになるのだろう。
寝入り端の挨拶の言葉にすら何も返せない私は、寝床の中で密かに唇を噛んだ。
(おしまい)
荘厳で人間味のない、人でありながら神の代理人であるとされるものが住むための場所――幼い頃からの私の住まいだ。
その呆れるほど高く分厚い城壁に囲まれ、私は外の世界をほとんど知らずに育った。
母は産後の肥立が悪くすぐに亡くなり、私を育てたのは、乳母と、宦官達、そして父の知己でもある、老将軍だ。
優しかった乳母は、私が物心つく頃には里に下がらされ、その後は将軍が多忙な皇帝に代わり、私の師父となった。
剣の他にも、兵法や礼儀作法、古よりこの国に伝わる典籍を厳しく叩き込まれ、少しでも疎かにすると、容赦なく尻を剥かれて杖で叩かれる毎日。
皇子にそのような無体なことをするなど、下手をすれば自分自身の首が刎ねられてもおかしくはないのに、将軍は私を教育するにあたり、自分の子に対する以上に厳しくあたった。
将来の皇帝を育てなければならないという、命懸けの覚悟があったのだろう。
呪いをかけられ、城に何年も閉じ込められている間、私が酒色に溺れたり、無力で哀れな宦官達に当たり散らすようなことが無かったのは、師の教えがあったからこそだ。
老将軍への感謝は尽きない。
――けれど……。
私はいつまでも尻を叩かれる子供のままでは居られなかった。
紫微の城を出たら最後、私の身に何が起こるか分からない――。
そう言われて、この五年、後宮の中でも外れの、冷宮とも呼ばれる幽閉用の宮殿、翠玲宮に長く閉じ込められてきた。
そこは寂れた場所で、誰も私の姿を見る者など居ない。
それなのに朝が来るたび、公主の衣装に袖を通すことを強要された。
涙が出るほど髪を引っ張られて、頭の上で高く結われ、極め付けに、重い簪をいくつも差し込まれて、大拉翅を被らされる。
それは高さが一尺(30センチ程度)もあり、黒い緞子で出来ていて、造花やら金属の飾りやらが付く扇状の飾りで、頭に付けると、数刻で頭痛がしてくる代物だった。
更に長い付け爪を強要されては、もはや書物をめくるのすら困難になる。
外の世界や下々の人間を見るのは、王子の処刑の時だけだ。
初めて、私の為に嬉々として死ぬ王子の姿を目にした時……恐ろしくて一晩中、眠ることができなかった。
犠牲が十人を超えると、もはや自分が何のために生きているのか、さっぱり分からなくなった。
幾度も自ら命を断とうとして、その度に宦官に無理やり止められた。
私は常に監視されていて、自ら死を選ぶ自由すらも無かったのだ。
己の心と体が、末端から少しずつ腐っていくのを、他人事のように眺めるしかできない日々。
夜、居室の中でだけ男の姿に戻り、剣の腕が鈍らないよう、武芸の心得のある宦官に相手をさせ……ささやかな抵抗を試みても、いつも虚しかった。
武芸の腕など磨いても、実戦で使う日など一生来ない。
どんなに努力しても、私は所詮、箱入りの公主でしかないのだから……。
孤独と自己嫌悪で疲れ果てて床につき、眠りたくなどないのに、諦めて無理矢理目を閉じる。
いっそ本当に氷の心を持った人間になってしまいたいと願い、努めてそのように振る舞った。
けれど、私は所詮、呪いと死に怯える、平凡な人間に過ぎない。
朝になればこの悪夢が覚めて、何もかもが違っていればいいのにと、何度願ったろう。
夢が覚めたら、私は皇子でも公主でもない人間になっている。
かつて、私の祖先が、地平線の向こうの西の果ての国で、そうであったように……天幕を家に、自由に新天地を求め、どこまでも馬を駆ることが出来たなら良かったのに……。
「起きて、インジェン。夕飯だ」
陽気で、耳に心地の良い声で――自分でも忘れかけていた本当の名を呼ばれ、私は目を覚ました。
どうやら、焚き火のそばに座って一休みしている間に、うっかり眠り込んでしまっていたらしい。
昔の夢を見ていたようだ。
それも、悪夢を……。
わずかでも動くと、身体中がミシミシと軋むように痛む。
無理もなかった。
一日中馬に乗って移動すると言うのは、ことのほか体力を消耗するし、普段肉体の使っていない部分も酷使する。
しかも、乾燥した風の吹き荒ぶ中、ごく薄い毛氈だけを風除けにしての夜は、常に浅い眠りしか得られず、正直なところ、私の身体は憔悴しきっていた。
「大丈夫か? 汁物は飲める?」
言われて、火にかけられた丸い鉄鍋の中をちらりと覗き込む。
硬い鱗のようなものに覆われた、細い三本のあしゆびを持つ何かの二本足が水面から飛び出し、中にはバラバラにされた白い骨、毛をむしられた、嘴のある鳥の首のようなものが見える。
血の集まる頭部から出た灰汁のせいか、酷い臭いが鼻をついた。
昼間に食べたこれの肉も、脂けというものが全くない、食べたことのないようなひどい味だったし、そもそも一体何の鳥なのかもよく分からなかった……。
だが、これが自由というものの苦味なのだろう。
「……飲む」
死に物狂いの覚悟で私がそう言うと、目の前の妖魔が、輝くばかりの笑顔で頷いた。
「良かった!」
このやりとりは、食事の度に繰り返している気がする。
妖魔は甲斐甲斐しく支度をして、私に椀を差し出した。
私はそれを受け取り、相当な覚悟で汁に口を付ける。
……臭いはひどいが、意外と味は悪くない。
少しずつ飲んでいると、妖魔が背後に回り、私の髪を解き、櫛で梳かし始めた。
一つ一つ根気強く絡みを解いて、決して私に痛みを与えないように、神経を使いながら。
「……」
……この男と初めて出会ったのは、たったの数日前だ。
奴隷の身にも関わらず、ダッタンの王子を名乗った、命知らずの無礼者。
その顔を初めて見た時……なんと無邪気で、純粋な眼差しをしているのだろうと思った。
意志の強そうな眉の下の、こぼれ落ちそうなほど大きな目。
常に少し微笑みを浮かべたような唇は、口を開けて笑うと尖った八重歯が微かに見えて、酷くあどけない印象になる。
妖魔は、私が出会った数少ない人間の中で、何故かわからないが、強く心を惹かれる顔立ちと佇まいをしていた。
だからあの時、魔がさしてしまった。
この――未来の出来事が読めるなどという、何処の馬の骨とも知れない妖魔と、自暴自棄にも等しい旅に出てみようか、などと……。
ロウ・リンの墓に行ったところで、何か分かったとしても、呪いがそう簡単に解決できるとは思えない。
二人だけで城の外に出れば、妖魔は私を殺して逃げるかもしれない。
それで、私の絶望が終わるのなら、別にそれでも構わぬ。……そんなやぶれかぶれな考えがどこかにあった。
呪いを解き、皇帝になる。
勿論それは当然の私の責務だ。
希望を求めての行動でありながら、その実は、密かに消極的な自死――。
果たして妖魔は、見事に私の脱出を成功させた。
妖魔のおかげで私は、生まれて初めて誰の監視の目もない自由の身になり、皇子でも公主でもない一人の若者になった気分を味わった。
どこまても続く茫漠とした大地を、頭上に果てしなく広がる蒼穹を、ひんやりと乾いた野の風を、たとえ一瞬でも、経験することが出来た。
しかも、いつ妖魔に無惨に殺されても全く構わない――そんな覚悟で出てきた割には、思いの外妖魔は私に忠実なそぶりを見せていて、いまだに、私を殺して逃げようとする気配はない。
それどころか、この間など、川で溺れて死にかけた私の命を救ったのだ。
その上、そのことを特に誇るでもなく、褒美を要求するでもなく、何事もなかったかのように――妖魔は今も嬉々として、私の世話をしている。
「よし、お髪が綺麗になりましたよ。さて、これから寝床を作ります。さぞかし眠いでしょうけれど、お待ち下さい」
丁寧な言葉は使わなくていいと言ったのに、しょっちゅう忘れる。
そのくせ、乳母か何かのように、私のことを手のかかる子供のように扱うのだ。
全く不敬極まりない男だが、どうしてなのか不快にならない。
妖魔は枯草をせっせと集めて、寝台を作っている。
私が手伝おうとすると、いつもやんわり断られる。
妖魔は、自分の好きなこだわりの方法でやりたいらしい。
「出来ました。どうぞ、寝てください!」
妖魔が力作の寝床を手のひらで叩く。
本当は妖魔のように座ったまま眠れるようになりたいが、翌日が悲惨なことは経験済みだ。
今夜は言う通りに、即席の寝床に横になった。
焚き火を消すと、私達を照らすのは月あかりのみとなる。
青白い光に照らされた妖魔が、剣を抱き、胡座をかいて座ったまま、うつらうつらし始めた。
何とも羨ましい寝つきの良さだ。
私は最近身体が痛すぎて、いざ寝ようと思ってもなかなか寝付けない。
昼間、眠りたくもない時に思わず気を失うことはあるのに、難儀だ。
二、三度寝返りを繰り返した後、毛氈の間から一度這い出し、妖魔の顔を改めてじっと眺めた。
頭の後ろで無造作に一つにくくった髪。
異民族の血を彷彿とさせる、細い鼻梁と顎、くっきりとした瞼。
よく笑う小さめの唇……。
この唇が私に口付け、新しい命を吹き込んだ時から、私はすっかりおかしくなってしまった。
しかも、共にいればいるほど、妖魔が呆れるほどに善良で、二心の無いことが、分かりすぎるほどに分かる。
私はいつの間にか、妖魔を好ましく思うような身体にされていた。
つまりは、認めたくはないけれど、私は短い間に、すっかり妖魔の虜になっていたのだ。
……口付けをもう一度すれば、奪われた心を取り返せるのだろうか?
それとも、吹き込まれた命を返すことになって、私は死ぬのだろうか。
それもいいかも知れない――自由の身のまま死ねる。
じっと顔を見つめていたら、妖魔は眠ったまま、にこりと微笑み、寝言を呟いた。
「陛下ぁ、便所はそっちじゃありませんってば……」
……一体、どういう状況の夢を見ているのだ……?
不思議に思って聞き耳を立てたが、妖魔は再び深く寝入ってしまったようだった。
だが、その唇は笑みの形を作ったままだ。
それが、何とも……私の胸をざわつかせる。
あの、頬の少し窪んだところに触ってみたい。
妖魔の身体は、温かいのか、冷たいのか、川で助けられた時にはよく分からなかったから、もう一度確かめたい。
そんな願望がみるみる膨れ上がり、恐る恐る手を伸ばして妖魔の顔に触れようとしたが、出来なかった。
……もしも起きてしまったら、どう思われるか分からない。
大体、寝ている人間に触れるなど、身分の高い人間がするようなことではない……。
思い直して手を引っ込めたが、やはり我慢が難しい衝動が込み上げてくる。
一体何なのだろう。
悩んだ末、思いついた。
そうだ、触れるなら起きている時にすればいいではないか。
……だが待て、他人の身体に理由もなく自分から触れるなんて、それこそ貴人の所業ではない……!
……どうしたら良いのだ。
途方にくれた挙句、思いついた。
そうだ、髪の紐になら触れたことがある。更に髪の端に触れるだけなら許されるかも知れない。
もはや、誰に得る許しなのかは分からないが……。
起きている時にしよう、と思ったそばから、私はつい、妖魔の方に手を伸ばしていた。
私の髪とは全く違う、艶のない、ところどころが途中で切れた、馬の尻尾のような毛。
その端っこに触れた――その途端に、妖魔はハッと目を覚ました。
「殿下、どうされましたか!?」
あまりの反応の良さに、私の情緒が対応しきれない。
思わず、触れていた髪を思い切り下に向けて引っ張ってしまった。
「ギャッ!! 何するんですか、殿下! 寝てる人間に悪戯をするなんて」
妖魔が驚きの表情を浮かべ、楽しそうに笑っている。
そこに拒絶の陰がないことを読み取って、密かに安堵しながら、私は手を離した。
「失敬な。悪戯など、していない。……そうだ、お前に聞きたいことがあったのだ。だから起こした」
そう言って、私は妖魔に触れたことをうまく誤魔化した。
「聞きたいことって、何でしょうか?」
「だから、その言葉遣いはやめろ」
「……はぁ。じゃあ、……何を聞きたいんだよ、インジェン」
聞かれて、私は戸惑った。
質問の内容など考えていない。
適当に思いついたままを、私は口にした。
「……。お前の名だ。妖魔め」
「あはっ……そっか、そういえば、名乗ってなかったっけ……」
実は、聞かずともとっくに妖魔の名を、私は知っていた。
あの王宮三兄弟が、妖魔をリュウと呼んでいたから……。
「私の名は、リュウと申します。……殿下、どうぞ旅の間だけでも、覚えていてくださいませ……」
そう言って微笑み、恭しく拱手した妖魔を見て、私の心臓が急に激しく動き出した。
リュウ。
リュウ……。
その名を口にしようとして、喉がカラカラに枯れ、唇が渇いて、出来ない。
「よ……妖魔の名前など、覚えていられるか!」
私は心にもないことを叫び、逃げるように自分の寝床の中に滑り込んだ。
「なっ。たったの三文字だぜ、なんでだよ!?」
妖魔が憤慨しているのは放って、固く目を閉じる。
心臓がまだ激しく鼓動していた。
私の唇の代わりに、リュウ、リュウと、何度も名を呼ぶがごとくに。
でも、本当に私が、その名を口にしてしまったら……。
妖魔と親しく名前で呼び合ってしまったら、私は元の世界に、あの城に、戻ることができなくなってしまいそうな気がする。
もう二度と城に帰らず、皇子にも公主にも戻りたくないと……この妖魔に、寝ても覚めても甘い声で「インジェン」と呼んでほしいなどと、きっと思ってしまう……!
それでは、駄目なのだ。
この妖魔を利用して、もしも呪いを解くことができたら、私は皇帝にならねばならないのだから。
許されないことのはずなのに、何故か心が言うことを聞かない……。
「インジェン、おやすみ……」
妖魔の呟く声に、胸が切なく絞られる。
……明日も髪に触れていいだろうか。
いつかは、頬に、唇に触れても、許されるだろうか……?
一体それは、誰にどう許されれば、してもよいことになるのだろう。
寝入り端の挨拶の言葉にすら何も返せない私は、寝床の中で密かに唇を噛んだ。
(おしまい)
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当然そんな未来は回避したい。
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さらに困ったことに、原作で一番の推しだった騎士団長ガイウスがやたらと距離を詰めてきて……?
平穏に生きたい元悪役令息と、過保護な騎士団長がじれじれ距離を縮める話。
ガイウス(騎士団長)×エリオット(元悪役令息)
【柳原学園】いやいや、俺は『俺様生徒会長』だから
西園 斎
BL
家の都合で『俺様』を演じてる生徒会長が、生徒会やら風紀やら教師やらから好かれるお話。
演技俺様会長総受け(愛され)/後固定CP
*10年以上前の作品を、やや加筆修正していきます
俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する
あかのゆりこ
BL
主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。
領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。
***
王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。
・ハピエン
・CP左右固定(リバありません)
・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません)
です。
べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。
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2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。
面白かった! まさかのトゥーランドットみずほ様変換バージョン😆 歌詞や曲と微妙な中華世界感がこの物語を深くしていて、異世界転生も忘れるぐらい物語に引き込まれました。ドキドキやお笑いで本当に
みずほランド楽しみました。有難う御座います♪
さくらこ様
わぁいご感想有難うございます!
トゥーランドット元からご存じだった感じでしょうか〜💕
異世界転生っていうテーマありきで、誰も書いてない私らしい小説…と、何を書くか悩みに悩んだ挙句、まさかのお笑い古典二次創作に走ってしまいましたー!😂
無事に楽しんで頂けたようで何よりです!ヤッターー!!
インジェンのツンデレが可愛すぎてやばいですね
凄く好きな作品です投稿ありがとうございます(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
ご感想ありがとうございます💕💕
気に入ってくださって嬉しいですー!
番外もあるのでもう少しお付き合いください♪