よいこ魔王さまは平穏に生きたい。

海野イカ

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五歳記の祝い⑤ 父親

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 執務室の換気をするべく、窓を半分ずつ開けていく。壁一面の書架に詰められた資料や書類のせいで、この部屋はいつも紙とインクの匂いが充満している。
 カミロ個人としてはその匂いも嫌いではないのだが、幼い令嬢を迎えるにあたり、こもった空気など吸わせて気分を悪くさせる訳にはいかない。
 ただでさえ午前中の祈祷とその往復で疲弊しているはずなのだ。馬車の中、自分の膝の上で無防備に寝入る幼い顔を見て、ひどい罪悪感に駆られた。官吏の件があってまだ間もない、祈祷などもっと簡易に済ませるべきだったのに。揺れる馬車での移動を強いて、祭祀長の接近を許し、他人の露骨な悪意に晒させることになった自らの不注意を呪う。
 片手でも容易に持ち上げられてしまう軽く小さな体躯に、改めて驚いた。受け答えが並の大人などより余程しっかりしているため、まだ五歳という年齢を忘れがちだ。
 せっかくの祝の日だというのに、幼い娘に無理をさせてしまった。慣れない外出の後は夜までゆっくり休ませてやりたい所だが、こちらも他の予定が詰まっているため中々そうもいかない。
 本来であればファラムンドの私室へ招くことになっていたのだが、きっと彼女はこちらの方が喜ぶだろうと、カミロの一存で面会の場を執務室へ変更した。父親の私室にも興味はあるかもしれないが、あちらにはリリアーナが見て楽しいものは何もない。何もない部屋だ。

 傍らでは机の周囲をぐるぐると周り続ける挙動不審な男が、頭を激しく上下させながら何やら呻いている。せっかく衣服も髪も整えたのだから、あまり動き回ってそれらを崩さないでもらいたいものだ。
 侍女へ準備ができたことを告げてしばらく経つ。そろそろ彼女がおとなう頃だろう。

「もうリリアーナ様が来ますから、そろそろ落ち着いてください」

「お、ぉ、おつ、落ち着いているとも、大丈夫だ、何度も脳内で対話の練習はしてきた、ばっちりだ、そう、大丈夫、大丈夫、大丈夫」

 全く大丈夫ではない状態で、ファラムンドは虚空を見上げながら開いた手を繰り返し前後に突き出す謎の動作を始めた。

「……何ですか、その面妖な動きは」

「だ、抱き上げる練習に決まってるだろう、もう五歳だぞ、大きくなったなぁ。抱き上げて、高い高いして、その成長を噛みしめるんだ」

「やめておきましょう。本日は会話のみに留める、おさわりは一切禁止です」

「な、なんだって――!」

 半腰で両手を突き出した格好のまま、この世の終わりのような顔を向けてくる領主。とても子どもたちには見せられない。
 それだけ会話の練習を積んできたのなら、もっと早くにリリアーナと話をしてやれば良かったものを。母親とあまりに似ているため、生まれてすぐの頃から近づくことすら避け続けてここまで来てしまった。レオカディオが生まれた頃も似たようなことはあったが、リリアーナに対してはそれ以上だ。
 子どもが生まれるたびに喜びが過ぎて半狂乱になるのも、四年振り三度目ともなれば慣れたもの。
 だが、リリアーナに限っては母親の面影を宿すこと自体が問題だった。あの顔を、あの髪を目にする度に、ファラムンドはもういない妻のことを思い出してしまうのだろう。カミロから見る限りそこまで瓜二つには思えないのだが、娘というだけで過去を彷彿とするに違いない。自分には知り得ない類の感傷だ。そっと息をついてカーテンの位置を整えた。

 ……駆け回った犬のような呼吸音が聞こえる。ほんの少し目を離した間に、ファラムンドが興奮のあまり過呼吸に陥っていた。
 手袋をはめたままの手を伸ばし、高い鼻をつまんで口を塞ぐ。次第に顔中が赤くなり痙攣を始め脂汗が浮かぶ。もう一押しで大人しくなるかと思ったところで、腹に至近距離からのボディブローが飛んできた。
 油断を突かれて内臓へのダメージをもろに食らうが、離れる前にその脳天へ固めた拳を振り落とす。

「っぐ……」

 互いに一歩ずつ距離を取り、頭と腹を押さえて膝をつく。

「……頭は、だめだろ、バカになったらどう責任を取ってくれる」

「頭だけでなく手と口と目も大事ですよ、ご自愛ください」

 執務に関係のない他の部位ならば、なくなってもどうにかなるだろう。痛む箇所を押さえながら互いに何とか持ち直したところで、部屋に叩扉の音が響いた。

「き、きた――!」

「髪が乱れてますから早く整えて下さい。それと、おさわり厳禁」

「わかった、わかった……」

 渋々といった様子で黒髪を撫でつける。背筋を伸ばし、乱れた襟と裾を正せば外見上は立派なイバニェス家当主の完成だ。リリアーナが退室するまではこれを保ってもらいたいものだが、果たしてもつかどうか。
 まぁ早々に本性を知られた方が、後々になってばれるよりも彼女の衝撃が少なくて済むかもしれない。そんな適当な思いを胸に、侍従長は扉を開いて領主の愛娘を迎え入れた。


    ◇◆◇


 ノックの音からしばらく待つうちに、侍従長の手で扉が開かれた。ここまで案内をしてくれたフェリバは「がんばってください」と一言残して礼をすると、ちらりと眼鏡の男を見上げてから廊下を戻っていく。
 初めて足を踏み入れる辺境伯の執務室。濃紺の絨毯はリリアーナの部屋のものより毛足が短く感じるが、侍従たちの頻繁な出入りによるものだろう。窓側以外の壁がほぼ書架で埋め尽くされているのは圧巻の一言だ。隣の控え室同様に、背表紙のある本とない本、紙を綴じただけと思われる束が無数に並んでいる。
 周囲をぐるりと見回してから、窓のそばに佇む長身の男へ向き直った。

「父上、忙しい中に時間を作って頂き、感謝する」

「……うん。よく来たねリリアーナ、五歳の誕生日おめでとう。そのドレスもよく似合っている」

 ファラムンドは藍色の目を細め、感慨深げに深く息をつきながらこちらを見下ろす。
 声をかけられたり、姿を見たことくらいは何度もあるのだが、やっと正面から顔を見て話をすることができた。
 三十を過ぎた辺りの年齢だと聞いているが、肩幅のある体躯も張りのある顔にも老いの影は欠片も見えず、覇気と精力に溢れている。外見年齢だけで言えば生前の自分と同じくらいだろうか。だがデスタリオラとは違って日に焼けた顔色は良く、その瞳には未だ少年の稚気も残しているようだ。

「この衣装は、父上が指示を出して作られたものと聞いた。似合っているのなら良かった。あの人形たちも、日々の食事も教育も、様々なものを与えてくれていること、有り難く思っている」

「どれも父親として当たり前のことだよ、お前がそんなにかしこまって礼を言うほどのことではないさ。リリアーナは謙虚かつ賢くて可愛い上に礼儀正しいね」

 朗らかな笑みを浮かべていたファラムンドは、「そういえば」と目線を下げて自ら発注した衣装やリリアーナの手元を観察した。

「私がお土産に渡したぬいぐるみを、いつも肌身離さず大事に持ち歩いてくれていると聞いたのだが。今日は一緒じゃないのかい?」

「あぁ、この服にはポケットがないから、部屋に置いてきた」

「!!!!!!」

 そんな何でもない返答に、ファラムンドは正面から突風でも受けたようによろめく。
 額を押さえて呻き、「何という見落とし……私としたことが……いや、今からでも遅くは……」などぶつぶつ呟くと、すぐに体勢を立て直した。

「うん、あのぬいぐるみを気に入ってくれているなら嬉しいよ。可愛いだろう?」

「……見た目に愛嬌があるのは、分かる。手に馴染むし、さわっていると落ち着く」

「そうか、うんうん」

「……」

「……」

 互いに、次は何を言おうかと迷うような間が空いた。
 すると少し離れた衝立の向こうから、「お茶の準備が整いました」とカミロが顔をのぞかせる。タイミング的に気を利かせたのだろう。ゆっくりしていってくれと促すファラムンドに続き、応接セットらしい固いソファへ腰掛けた。

「聖堂での祈祷は滞りなく済んだようだね。授業に来ていた官吏の件は、本当にすまないことをした」

「いや、特に何もなかったから安心してほしい。今後、精霊教については書斎にある本で学ばせてもらいたいと思う」

 声音を落とし謝罪をしてくる父に、片手を振って問題ないと伝える。こちらとしては、書斎を自由に使わせてもらえればその方がありがたいくらいだ。官吏の件は、むしろ領主であるファラムンドの方こそ面倒なことになったはず。
 出された香茶を一口啜る。
 以前、隣の部屋で飲んだものや、普段フェリバが淹れてくれるものよりずっと深く良い香りがする。色は大差ないように見えるが、やはり領主の部屋ともなれば使っている茶葉が違うのだろうか。香りの違いに初めて気がついた。

「……おいしい」

「そ、そうかい? 来客用のものだが、気に入ったのならリリアーナの部屋にも用意させよう。シルヴェンノイネンから取り寄せている茶葉なんだ」

「シルヴェンノイネン……たしか南西部にある領だったか。ずいぶんと遠い所から買っているんだな、茶葉がよく取れる場所なのだろうか?」

「リリアーナは物知りだね。そう、あそこは長らく茶葉を特産品としているし、品質も抜きん出ている。私はあまりこだわらないが、あそこの茶葉にはファンも多いようだよ」

 聖王国内は広い国土を領として分割統治しているため、各所にそれぞれの気候を活かした特産があるようだ。キヴィランタではほとんど自領内で賄っていたから、余所から取り寄せるという概念があまりない。様々な資料を触れられるようになったら、国内のどこで何を産出しているのか詳しく知りたいものだ。

「この先の授業では、地理に加えて特産品などについても学べるだろうか?」

「うん、興味があるならその方面にも明るい先生をつけてあげよう。本来は、そこまで多岐に渡った授業なんてしないんだけどね」

「しない、とは?」

 父親の言葉に疑問を浮かべて瞬く。大人と同じ仕事のできないうちにこそ、予め様々なことを学んでおくべきではないだろうか。

「いや、リリアーナは女の子なんだし、お兄ちゃんたちのように無理して勉強することは……、あぁ、リリアーナは勉強が大好きなんだっけ」

「うむ、学ぶのは楽しいだろう」

 口を引き結んだファラムンドは、ちらりと斜め後ろへ控える侍従長の方を見る。視線だけで何らかの会話が為されたのか、カミロは小さく首肯を返す。

「……分かった。興味のある分野があれば言いなさい、こちらで先生を用意しよう。無事に五歳を迎えられたんだ、他に望みがあれば何でも言うといい」

「計らいに感謝する。それにしても、五歳を迎える日は、なぜ他の誕生日よりも特別なのだろうか?」

 ここ最近ずっと気になっていた疑問をぶつけてみると、ファラムンドは虚を突かれたような顔をした。すぐに目元を引き締め、テーブルに肘をついて指を組む。

「そうか、まだその説明も受けていなかったんだね。もっとも、父親である私から話す方が都合良いだろう」

 何やら改まった様子にリリアーナも背筋を伸ばす。素直な反応を見せる娘に、父親は唇の端にだけ笑みを浮かべた。

「きゃわゆい……」

「ん? 今何と?」

「いや、こほん。……えー、古い慣例として、生まれた子どもは五年毎の祝いを三度することになっている。これは生まれたことを祝う誕生日と違って、その年数を無事に生きたことを祝い、精霊の祝福と加護に感謝し祈祷を捧げる日、という意味があるんだ」

 生まれたことを祝う日と、生き延びたことを祝う日。……それで五年毎に三回の祈祷が行われるのか、と腑に落ちた。いつ病や些細な事故で命を落とすとも知れない幼子と違い、十五歳ともなれば己の判断と力でそれらを跳ねのけられるし、体も丈夫になって生きるための支障が減っている。
 三度目の祈祷、十五歳の誕生日は、成長における加護を必要としなくなる、大人として認められる独り立ちの日ということなのだろう。

「なるほど、それで三回か。この五年間は実に手厚く育ててもらった。十五歳を迎えたら、その恩はきちんと還元したいと思う」

「ははは、そんなこと考えなくても良いよ。リリアーナは律儀で貞淑で思いやりがあって可愛いね。無事に五歳記を迎えてくれただけで充分さ、神殿への登記も済ませられたし、これでやっとリリアーナもイバニェス家の一員だ」

 香茶のカップを持ち上げようとしていた手がぴたりと止まる。優に数秒は固まってからゆっくりと視線を上げた。
 父の言葉を頭の中で反芻する。「これでやっとリリアーナもイバニェス家の一員だ」……まるで、これまではそうではなかったように取れるが、一体どういうことだろう。
 血の繋がった父や兄たちに対しては、初めて得た家族としてそれなりに尊重する思いを抱いてきたのに、今までは家族ではなかった、ということか。自分でも得体の知れないショックを受けたリリアーナは、指先をカップへ触れたまま固まる。

「旦那様、やや語弊のある言い方をされているかと」

「ん、……そうだな、リリアーナは生まれた時からずっと私の大事な娘であり、我が家の一員だ、それは変わりないとも」

 横手から入った侍従長の言葉に、ファラムンドは深くうなずいて説明を補足した。

「残念なことに、生まれた子が五歳まで生きられる確率は、そう高くはないんだ。……リリアーナにこんな話をしたくはないが、死産も多いし、幼くして命を落とす子は後を絶たない」

「そう、だろうな。体は小さいし脆弱だ。不意の事故に遭ったり、病にかかることも多かろう」

「うん。……そういった理由が発祥なのだろうね、領民としての登記は生誕時ではなく、五歳まで無事に生きた祝いの日にされる習わしとなっている」

「そ、そうだったのか……」

 五歳となる今日まで、家族どころか領民ですらなかったらしい。書類上だけのこととはいえ、少なからず動揺を覚える。だが、お陰で五歳の誕生日が特別視されている理由がやっと分かった。いつうっかり命を落としてもおかしくない年頃を無事に過ぎ、民の一員として登録されるまで成長したことを、生きていることを祝う日なのだ。
 納得をするとともに、リリアーナはここまで育ててくれた侍女たちや成長を守ってくれた侍従長、アマダ、その他の屋敷の皆に、そして家族であるファラムンドたちに、強い感謝の想いを抱いた。

「五年間、無事に生きられたこと感謝している。これからも世話になる」

「こちらこそだよ、リリアーナ。それにしても……、報告では聞いていたんだが。本当に堅い話し方をするね、それどこで覚えたんだい?」

「ど、どこで?」

 急な話題の転換に、数度瞬きをする。
 たしかにレオカディオと比べれば、いくらか自分の口調は堅いのかもしれない。だが生まれてこの方、年齢の近い子どもと接したことなど一度もないため、ずっと標準がわからないままだった。これまで誰も話し方を指摘する者はいなかったのだが、父親が気になるならレオカディオの話し方を真似した方が良いのだろうか?
 もしくは、同性で年が近い例でいうとフェリバになる。あの柔らかい口調であれば普段から聞いている分、真似しやすいかもしれない。

「不都合があるなら、レオカディオ兄上か、侍女のフェリバの口調を参考にしたいと思う。……どちらであれば良いだろうか?」

「い、いや、不都合なんてないさ、大丈夫、大丈夫だ。言葉が達者だからちょっと驚いただけだよ。リリアーナはそのままで良いともっ!」

 父親の許可を得られたのであれば、口調に関してはこのままでも問題ないらしい。そのうち同年代の子どもと接する機会があれば、その際に少しずつ取り入れていけば良いだろう。

 無事に困惑が晴れ、リリアーナは安堵に頬を緩めた。

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