ウツクシ村のミチル

岡本ジュンイチ

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逃亡

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 二人のじいさんからやっと離れることができたトメラとミチルは、行く当てに困っていた。
「トメラ、どうしよう」
「そうだなぁ……」
 ミチルの不安の声に対して、トメラは曖昧な返事をする。
 そして、彼はブライト市の中を見回した。
 次々と二人を素通りする大人たち。
 彼らはそれぞれ自分の行く先へ向かって、おのおの異なるスピードで歩いている。
 路上にはダンスを繰り広げる若者もいれば、キッチンカーを止めてアイスクリームを販売しているおじさんもいる。
 気がつけば、時間はもう午後の3時だ。
 トメラはふと、自分のポケットにある財布を手に取った。
「とりあえず、夕食の買ってくるよ」
「わかったわ。ありがとう、トメラ!」
 ミチルはトメラの腕によりかかる。
 プオンと漂う、女の子独特の汗ばんだにおい。
「……その前にミチル。どこか、銭湯にでも行こうか」
「えっ?」
「こんな不潔な状態で居続けちゃまずいよ。ボクが今から、銭湯に連れていってあげるよ」
 トメラがそう言うと、ミチルはふと巻きついた手を放し、彼から離れた。
「……ごめん」
「ううん、いいよ。さ、行こう!」
 トメラは率先して前へ進み、彼女を浴場へ案内するのだった。

   ☆ ☆ 

「うぅ~んっ、気持ちいい……!」
 ミチルは温水浴場の中で、そう小さくつぶやいた。
 彼女にとって、こんなにぜいたくな風呂に入ったのはものすごく久しぶりだった。
 ミチルは、タイルが敷き詰められた浴場の壁のほうに目をやる。
(トメラには、本当に申し訳ないことをしちゃった。こんなに立派な浴場に連れてってくれて……)
 ミチルはそう思いながら、ふと浴場の中を見回した。

 温水浴場の中には、いろんな民族の客人がいるようだ。
 肌が雪のように白い女性もいれば、真っ黒にこげたような肌質の女性もいる。
 髪の毛の質も人それぞれだ。
 若いのに白いクリーム色の髪質を持っている少女もいるし、高齢なのにもかかわらず立派な茶髪の老女だっている。
 中にはピンク色の髪の毛をしている人もいるのから驚きだ。
 あの人の髪は、生まれつきなのだろうか……?
「フフフッ」
 ミチルは、つい笑い声をこぼしてしまう。
 すると、ピンク髪の人がじっとミチルのほうに見つめだす。
 それを見て、ミチルは必死に笑う顔を隠し、天井のほうを見上げた。
 白い温水の湯気が、淡い水色の天井にぶつかっている。
(……そろそろ、出ようかな)
 ミチルはそう心の中でつぶやきながらふと立ち上がり、浴槽から出て行くのだった。

 ミチルはロビーへ出た。
すると、目の前にはトメラが立っていた。
「ごめん、トメラ。待たせちゃった?」
 ミチルの問いに対し、トメラは軽く首を振る。
「ううん、大丈夫だよ。僕もいま出たところだから」
「そう、ならよかった」
 その割には、もうトメラの頭の上からは湯気が全然出ていない。
 おそらく気をつかって、ウソをついているのだろう。
 彼女はふとそういう思いが頭をよぎったが、トメラの声がその思いをさえぎった。
「ごめんよ、ミチル。こんなお古の服しか渡せなくて」
「えっ?」
「ウチは女子の姉弟がいなくて。そのせいで、結局僕のお古になっちゃってさ」
 それを聞いて彼女は首を大きく振り、にっこりと笑う。
「ううん、気にしないで。むしろ、こんなぜいたくができて、こっちが申し訳ないぐらいよ」
「そんな」
「いいえ、トメラは本当にやさしいわ。服の着替えも用意してくれるし、おにぎりやサンドイッチまでくれるし。私はそれだけで、十分幸せよ」
「いやぁ。それほどでもないよ……」
 トメラはそう言って恥ずかしげに頭をかき出し、ふとブースにあるお土産の商品のほうに目をやった。
「ねえ、トメラ。私達、これからどうしよう……」
 ミチルのその問いかけに対し、トメラは表情を一変させる。
「そうだね……」
 彼はじっと考えながら、いまだに棚に陳列されているお土産屋さんの商品を見つめていた。
「……いっそのこと、二人で、どこか逃げようか」
「えっ?」
 そう驚くミチル。
 トメラは真剣な眼差しで、ミチルのほうを見つめる。
「この辺のマンションでも借りてさ、僕とキミとで、共働きして生きていくんだ。幸い、僕は大手の有名劇団に就職が決まってるから、その収入とキミのアルバイトで、十分生活できるさ」
「いいの?」
ミチルの問いに対し、トメラは「ああ」と応じる。
「実は、君と再会した時点で、もう覚悟はできてたんだ」
「トメラ……」
 ミチルは口を両手で覆い、あまりの嬉しさに涙ぐんでしまう。
 トメラは、それを見ておどおどしてしまう
「おいおい、そんな人前で泣くなよ。僕が悪いことをしたように見えちゃうじゃないか」
「ごめん、トメラ」
 そう言って、ミチルはトメラのほうに寄り添っていく。
 トメラは顔を真っ赤にして天を仰ぎ見ながら、自動レジのほうへ進んでいった。
 無機質に金額を請求するロボット。
 トメラは財布の中からスマートフォンを取り出して起動させ、目の前にあるバーコードを認証させた。
「こんな方法で、お金が払えるのね」
 ミチルが興味津々に機械を見つめている。
「そんなに珍しい?」
「うんっ」
「ウツクシ村には、キャッシュレスが普及されてないの?」
「ええ。ウツクシ村は、大の田舎だから」
「そう……」
 二人は、店の外へ出ていった。

   ☆ ☆


 いま二人が見ているブライト市は、少し前までのブライト市とは明らかに違っていた。

 街を歩く人々はビクビクしている様子で、中には辺りを何度も見ながら歩いている人もいる。
 華やかだった先進国の首都圏とはとても思えない、とても重苦しい雰囲気が漂っている。
 これまでのブライト市とは全然違う空気感になったことを、彼は痛感した。
「トメラ?」
 ミチルは、トメラに向かって問いかける。
 トメラはぶんっと首を振り、ミチルに笑顔を見せた。
 だが、ミチルはとても不安げな表情だ。
「トメラ、どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ。心配しなくていいよ」
「そう……ならよかった」
 ミチルの顔が、ようやく安堵の表情になる。
 トメラは彼女の手を強く握って「行こう」と声をかけ、ミチルをエスコートしていった。
 
 なんでなんだろう。
 トメラはブライト市の街全体に、独特の殺気を感じていた。
 街中には防犯カメラが設置されており、警護ロボットのドローンがあちこちに飛び交っている。
 それだけじゃない。
 市の警察もそこかしこにパトロールをしていた。
 これまでのブライト市で、こんなにも妙な緊張感が漂う土地柄だっただろうか。
 いいや、違う。
 以前までは、そんな治安の悪い都市ではなかった。
 ブライト市は世界有数の「安全な都市」として知られていた、治安が行き届いていた豊かな都市だったはずだ。

 そんなブライト市がこうなってしまったのは他でもない。テロリズムのせいだ。
 もしもあの時、テロリストがこの街を襲わなかったら、トメラはミチルを大学の卒業制作の公演に呼べたはずだ。
 あのテロがなければ、今ごろ彼は、自分の脚本を完成させられたはずだったのだ。

 なぜ、テロなんて起こす馬鹿がいるのだろうか。
 人を殺して得をする人間が、いったいどこにいるんだ。
 そもそも、何でよりによってブライト市なんだ。
 ブライト市が何か、悪いことをしていたのか?
 いや、たとえ悪いことをしていたとしても、民間人を巻き込むのは明らかに違うだろう。
 テロなんかを起こして、いったい奴らは何をしたいんだ。

 考えれば考えるほど、トメラの中に憤りの感情が芽生えてくる。

「トメラ、大丈夫……?」
 おびえた声で、ミチルはトメラに声をかける。
 トメラはハッとした。

 いまはそんなことを気にしてるヒマはない。
 まずは、大切なミチルを守ることに集中しないと!

 彼は自らの両頬を強く叩き、これからのことをしっかりと考え始めた。

 ……でも、彼女の寝る家はどうすればいい?
 今日いきなりマンションを借りて、そこで泊まることができるのだろうか?
 いや、できないだろう。
 だとしたら、あと数日は彼女をビジネスホテルで泊める必要があるか。
 いやいや、もうバイトで稼いだお金は底をついてきてる。
 これ以上出費をするのは限界だ。

 じゃあ、これからどうすればいい?

「トメラ?」
 彼女は不安げに、また声をかける。
 トメラは必死になって言う。
「大丈夫! 心配しなくていいよ、何とかするから」
「トメラ……」
「大丈夫、大丈夫だから!」
 彼は、そう言い聞かせることで精一杯だった。
 地元を出たことがない、ただバイトをこなしながら学校生活を送っている21歳の青年には、必死に彼女の不安をなだめることしかできなかったのだ。

「トメラ? トメラじゃないか!」
 どこからか、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
 ふと振り向くと、トメラの背筋は凍ってしまった。
「おっ、お父さん!」
「えっ?!」
 ミチルは驚いた表情で、トメラを見つめる。
 トメラは立ち止まり、警察服を着たジョージのほうを凝視した。
「こんなところで何をやってるんだ。学校はどうした、トメラ」
 うわっ、言うと思った!
 トメラはそう思いながら、おどおどした口調で話した。
「も、もう終わったよ!」
「そうかぁ? まだ午後の3時じゃないか。昨日聞いてた予定だと、午後の7時まではかかるって言ってたよな?」
(ギクッ!)
 トメラの気持ちが表情に現れているからなのか、父はさらに険しい顔つきで、トメラに近づく。
「いいか? 学校へはちゃんと行くんだぞ。お前のためにどれだけ父さんが働いているのか、わかってるよな」
「わっ、わかってるよ!」
 ミチルは、トメラの後ろに隠れている。
 そんなミチルの姿を見て、ジョージはトメラに尋ねた。
「トメラ。お前の彼女なのか?」
「ま、まぁね……」
 よかった、まだミチルだと気づかれてない。
 そう思い、彼はふとミチルの方に目をやる。
 すると、ミチルはこちらの方をキラキラした目つきで見つめているではないか。

 やめろっ、どうしてこんなに嬉しそうに見つめるんだ。

 トメラはそう彼女に問いたくなったが、それをグッと堪えて、ゆっくりと彼女の肩を抱いた。
 そして、徐々に彼らはジョージのもとから距離を置いていく。

「ちょっと待った」

 ドキッ!

 トメラはまたも、心臓が飛び出るほど驚いた。
 その勢いで、のどに生唾を詰まらせてしまい、ついむせてしまう。
「大丈夫? トメラ」
 傍らでトメラの心配をするミチルを、彼は左手で制した。
 ふと振り向き、平常心を装って、ジョージに聞いた。
「ど、どうしたの、お父さん」
「いや。お前に聞きたいことがあるんだけどな」
「うん。なに」
 トメラがそう尋ねると、父はトメラとの距離を、急にずしずしと詰め寄ってきた。
 そして、彼はトメラたちに向かって、密かに話をする。
「この辺で、怪しい人間を見かけてなかったか?」
「え?」
 トメラは聞き返した。
 ジョージはなおも小さな声で、話を続けた。
「ほら。最近、この辺でテロが起きたのは知ってるだろ? おかげで街中に最新のロボットを張り巡らせて、父さんたちもブライト市の警備に当たってるところなんだが」
 父の問いに対し、トメラはビクついた表情で目を泳がせた。
「いや、見かけないね。僕たちも、ついさっきここに来たばかりだから」
 ジョージはしばし、目を細めた。
 だが、彼はふと口から「そうか」とつぶやき、その怪訝そうな目つきはやさしげな目つきに変わった。
「わかった、ありがとう」
「どういたしまして。それじゃあ……」
 そう言って、トメラはミチルと一緒に、その場を急いで去ろうとした。
 すると……

「見たところ、外人みたいだな」

 トメラの背筋に、電撃が走った。
 
 このまま長居していたら、ジョージにミチルの身元がバレてしまう。

 そう悟ったトメラは、ふと父から数歩だけ距離を置いた。
 ミチルもこのプレッシャーに耐えかねているらしく、ビクビクした表情を浮かべている。
 彼は、必死に知らばくれるように努めた。
「え?」
「そこの彼女のことだよ。アハハハ」
 父の笑い声に、トメラも必死に苦笑いで応じる。
 彼は、息子の肩に手を置いた。
「ごめん、お父さん! そろそろ行かなきゃ……」
「ああ、そうだな。悪かった悪かった」
「いいよ。お父さんも、お仕事がんばって」
「ありがとよ」
 そして、トメラはミチルの手を引いて「ミチル」と、彼女の名前を呼んだ。
 その言葉を、ジョージは聞き逃さなかった。
「ミチル?」
 二人は電撃を撃たれたように、背筋がビビビッと揺れてしまった。

 しまった!

 なんとかしなくちゃ!

 だが、そう思った時には、もう手遅れであった。
 父は再び眉間にしわを寄せて、トメラに詰め寄る。
「お前、まさか……」
 トメラはふと目を背けてしまう。
 その様子を見て、ジョージはますます、彼を突き刺すように見つめた。
 そして、ジョージは蜂の針のような鋭い目つきの矛先を、ミチルの方へ向けていく。
「キミはもしかして、あのミチルなのか?」
「…………」
「…………」
 二人は固まった表情で、互いに目を合わせた。
「おい。聞こえてるのか?」
 彼がそう問いかけた瞬間、彼女は、意を決した表情になった。
 それに応じて、トメラも強く頷く。
「おい」
 父の声を無視して、トメラはミチルの手を引き、その場をブワァッと走り去っていく。
 ジョージはカンカンになって怒った。
「おい、こらっ! 待て! 公務執行妨害だぞ! 待てぇ!」
 そう言って、彼も二人のあとを追いかけていくのだった。

 ☆ ☆

「待て、トメラ!」
 父の声を背に受けて、トメラは必死に、ミチルの手を引いて走っている。
 街の人々は、恐ろしい形相でこちらを見つめている。
 通り過ぎるブライト市民たちの顔。
 夕日に照らされた赤いビルたちを通り越し、トメラとミチルは道路のスクランブル交差点へ躍り出た。
 そして、彼らは歩いている人ごみの中にまぎれて消えていく。
「トメラ!」
 ジョージは必死にトメラたちを追いかけようとするが、幸い彼の巨体は、人ごみの合間を縫うことができないでいる。
市民にどいてもらうように一人一人話をしているうちに、ジョージは二人を見失ってしまったのだった。

「ハァ~、なんとか逃げられた~」
 路地裏の歩道の上で、トメラは深い安堵のため息をつく。
 ミチルも後ろの方で、息を整えている。
 辺りには生ゴミの詰まったポリバケツや鉄棒の端くれ、壊れた電球などが放置されていた。
 その悪臭のせいで、かなり息苦しい。
「でも、本当にこれでよかったのかな……?」
 ミチルの不安の声に、トメラははっきりと頷く。
「ああ、いいんだ」
「でも」
「父さんは、ミチルを捕まえる気だったんだ」
 トメラは、ミチルの方へ振り向いた。
「父さんたちは、ウツクシ村の市民を悪者として見てるんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
「どうして」
 ミチルの問いに対し、トメラは首を横に振った。
「わからない。ただ、ウツクシ村はテロリストたちの温床なんだってさ」
「ひどい……」
 ミチルの両目の奥に、煌きが失われていった。
 かわいそうに、よっぽど絶望してしまったのだろう。
「ホント、そうだよね。ウツクシ村の人たちだって、みんな同じ人間なのに……」
 トメラはミチルに、そう同情の言葉をかける。
 だが、ミチルの目つきはまだ絶望的なままだ。
「私たちは何も悪くない! 何もしてないの! 信じて、トメラ。信じて!」
「ああ、もちろん信じてるさ! 落ち着いて、ミチル」
 彼がそう慰めの言葉をかけても、ミチルの動揺は止まらない。
「イヤ。イヤイヤイヤ! 私は悪くない! 本当に悪くないの!」
 そう言って、ミチルは自分の両肩を震わせて縮こまった。
(どうしよう……どうしよう……)

 トメラは一瞬、そう不安げな気持ちになったが、彼は自分の気持ちを押し殺した。

「大丈夫。僕がついてるから。キミをゼッタイ、ひとりぼっちにはさせない」
「トメラ……」
 薄暗い闇夜の街。
 ぽつぽつと、辺りの電灯がつきはじめた。
「大丈夫。大丈夫だから……」
 トメラはミチルの手を強く握り、そう何度も言い聞かせた。
 ミチルにだけでなく、自分自身にも。

「ようよう、こんなところで何やってんだよ」
 二人の目の前に、男がそう声をかけてきた。
 ふと前を向くと、トメラの前に立ちはだかっていたのは、複数の不良少年たちのようだった。
 彼らはそれぞれ派手なダボダボのTシャツを着ており、ゆがんだ笑みを浮かべていた。
 このブライト市では、こういう不良の男たちはザラにいる。
 人によっては、いきなり物をたかったり襲いかかったりする輩もいる。
 トメラは身構えて、不良少年達の方をキッとにらんだ。
「聞こえてんのか? 何やってんだって聞いてんだよ!」
 灰色の帽子をかぶったグループのリーダーらしき人物が、しびれを切らしてトメラに怒鳴り散らす。
 トメラはミチルの肩を抱いて、後ろの方へ後ずさる。
「まあまあ。落ち着きましょうよ、リーダー。こいつらがこんなところでウロウロしてるってことは、まぁ察しがつきますよ。これはデート中に、迷子ッスよ。十中八九」
「うるせえ、お前は黙ってろ」
 不良のリーダーらしき男が、チビの少年の頬をひっぱたいた。
 彼らは図々しい態度で、少しずつトメラたちとの距離を縮めていく。
 不良たちが、トメラとミチルに向かって言う。
「兄ちゃん、きれいな彼女を持ってんじゃん」
 後方にいた不良のその挑発的な言葉に、トメラたちは決して乗らなかった。
 ミチルは恐怖のあまりに身をこわばらせている。
 そんな隠し切れない動揺を、トメラは左腕でもって察した。
「トメラ? トメラじゃねえか!」
 聞き覚えのある声だ。
 トメラはじっと目を凝らし、先頭にいる不良の顔を見つめた。
 すると、その不良の親分らしき顔には、なぜか見覚えのあった。
「忘れたのか? オレだよ。マダーだよ」
 トメラはその言葉を耳にした途端、頭の中でずっと記憶していた顔と、目の前にいるこの男の顔が一致した。
 そうだ、この銀髪の頭にたるんだ二重顎は間違いない。
 小さい頃によく絡まれた、あのいじめっ子のマダーだ!
「ようやく、思い出したようだな」
 マダーは見下すような目つきで、トメラたちの方をじっと睨んでいる。
「リーダー、知り合いなんスか?」
 不良の一人がマダーに聞くと、彼はこくりと頷いた。
「オレの昔のダチでさ。いつもピーピー泣いてた泣き虫ヤローなんだよ」
「えっ、マジスか?」
「ああ。そうだよな、トメラ」
 マダーはそう言って、気味の悪い笑みを浮かべた。
 だが、トメラはその言葉には応じない。
 マダーにとっては古くからのダチなのかもしれないが、トメラからしたらとんだ迷惑だ。
 毎日頭突きやパンチを喰らわされて、いつもコイツにサンドバッグの代わりにさせられたのだから。
「おめえ、何でここにいんだよ」
 マダーの問いに対し、トメラは目を背ける態度でもって応じる。
 その態度にカチンときたのか、マダーは軽く舌打ちをしだした。
「まぁ、いいさ。久しぶりに会ったんだからな。仲良くしようや」
 ミチルはビクビクと身をこわばらせて、トメラの後ろの方でじっとマダーの方をにらんでる。
「悪いようにはしねえから、ほら。こっちへ来いよ」
 ズシズシ近寄ってくる不良グループ。
 トメラはどんどん後ずさっていくが、やがて後ろが行き止まりの壁であることに気づく。
(まずい。どうしよう……)
 トメラは必死に考えた。
 しかし、どう考えてもまともに逃げれる手段は見当たらなかった。
 舌打ちをし出すマダー。
「シカトすんなよ、この野郎!」
 マダーは足元にある鉄棒を蹴っ飛ばした。
 そして、ズンズンとトメラたちの方に歩み寄っていく。
(だめだっ。これは思い切って、戦うしかない!)
 そう思った、その瞬間だった。

 ドゴッ!

 一瞬に響く、にぶい音。
 ミチルが足元の鉄の棒を拾って、先頭にいるマダーの股間をめがけて攻撃していたのだ。
「イッテエエエエ~!」
 自分の大事な股間を押さえてあちこちのたうち回っているマダー。

 女とは、実に恐ろしいものだ。

 トメラはそう心の中で思いながらも、彼も彼女のつくってくれたチャンスを活かして、足元にあるゴミ山から長い鉄の棒をつかみ、不良少年たちに向かって突進しだした。
 そして、彼は不良たちの身体を鉄の棒によって払いのけていく。
「待て!」
 不良たちもついに、本気になってしまった。
 トメラとミチルは棒を片手に、必死に細い路地裏を駆け抜けていく。
 その場からなんとか突破口は開けたものの、向こうから来る強烈な殺気はすさまじい。
「待てよ、コラ!」
 ブチ切れたマダーの怒号が鳴り響く。
 トメラとミチルは、路地裏から表の道路へ躍り出た。

「見つけたぞ!」
 トメラとミチルの方に飛ばされた、太い大人の声。
 ふと振り向くと、トメラたちのいるの数十メートル先には、あのジョージが待ち構えていたのだ。
 父の傍らには、2、3台のパトカーが控えている。
(げっ! マッ、マズい!)
 彼は不意にそう感じたが、あまりの出来事につい立ち止まってしまう。
 そんなトメラの足取りに、ミチルもひどく戸惑っている様子だ。
(どうすればいい……考えろ、考えるんだ!)
 後ろからやってくる怒れる男たち。
 目の前には警察のパトカー。
 右側にはスクランブル交差点の歩行者天国……

 トメラとミチルは互いに目を見る。
 そして、二人は道路のど真ん中を貫くように、まっすぐに逃げていった。

   ☆ ☆

 トメラとミチルは、逃げることばかりで必死だ。
 交通ルールなど気にも留めずに、彼らはひたすら道路の真ん中を駆け抜けていく。
 たとえまわりの人が驚愕な顔つきでこちらの方を見つめようとも、彼らには気にしている余裕などなかった。
車が走ってようとも、トメラはまったく気にも留めない。
 クラクションの音が、道路中に響いた。
「何やってんだ! あぶねえだろ!」
 トラックを運転していたオヤジから、罵声が飛ばされる。
 それでもトメラは、ミチルの手を強く握りしめ、歩行者天国を両断するように駆け抜けていった。

 トメラは、後ろの方へ振り向く。
 すると、不良少年たちは警察に食い止められている様子であった。
(よかった! 何とか逃げ切れた!)
 トメラは走りながら、ミチルの方に微笑みかけた。
 ミチルもトメラの顔を見て、安心した様子だ。

 このまま逃げていけば、二人は自由になれる!
 もう、これからはトメラとミチルの、二人で過ごす生活が始まるんだ。
 二人でどこか知らない街で暮らすんだ。
 そしてミチルに、告白するんだ。
 「好きだ」って、告白するんだ……!

 トメラはたくさん走り過ぎたせいか、とても胸の鼓動がバクバクと感じていた。
 いや、この激しい動悸はきっと、いろんな人たちに追われているがゆえの緊張感なのかもしれない。
 なぜ胸がこんなにも苦しいのかを、彼は気づかないでいた。

 人はこの状況を、「青春」と呼ぶのかもしれない……

 彼がそう思った、その時だった。
 
 バキューン!

 いきなり鳴り響く銃声。
 トメラたちは、駆ける足を急に止めた。
 あまりの唐突な出来事に、二人は状況を理解できなかった。

 トメラたちの目の前に、血を流した遺体が転がったのだ。

「えっ……」
 ミチルはこの無残な光景に、言葉を失った。
 広がっている血みどろの道路は、あまりにも鮮明な赤色に染まっている。
「きゃあああ!」
 悲鳴を上げるミチル。
トメラは、ミチルの恐れわななく身体を抱きしめ、自分の身体を覆いかぶせる。
「見るな、ミチル! 見てはダメだ!」
 トメラがそう怒鳴るが、ミチルの混乱はおさまらない。
 彼女は赤いアスファルトの上で、尻もちをついてしまった。、
「いや、いやああ~」
「落ち着け、ミチル! 落ち着けって! とにかく、いまはここから逃げるんだ」
 トメラはミチルに向かって必死にそう言い聞かせ、体を起こした。
 だが、彼女の体に付着する血みどろが、ますますミチルを一層混乱させてしまうばかりである。
「逃げよう、はやく! 早く逃げるんだ!」
 彼はなおも必死にミチルに呼びかけるが、ミチルの視線は正面の方を凝視しているだけだった。
 その眼差しの向こうを見て、トメラは背筋を凍らせた。

 二人の目の前には、フードをかぶった黄色い肌の男がたたずんでいる。
男は、回転式拳銃を手にしている。

 逃げ惑う市民たちは、まるで自分の巣を壊されたアリの大群のように、あちこちに四方八方でぶつかり合っている。
 男のもとから放射線状に、人ごみが次々と消えていった。
 男は赤い血にまみれたアスファルトを踏みしめ、二人にどんどん近づいてくる。

「お兄ちゃん? お兄ちゃんなの?」

「えっ?」
 ミチルの言葉に、トメラは驚いた。
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