黒太子エドワード

維和 左京

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第2章 経済令嬢

黒死病

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 エドワードが港町ボルドーに着いてから十日後に、キャロラインは数人の供を連れて追いついてきた。タイラー家は弟に当主の座を譲り、信頼できる部下をその補佐としてつけたという。
 彼女はエドワードに、あくまで一平民として仕えたいと言った。大きな立場を求めれば、それだけ名門貴族たちの反感が強くなる。そのことに配慮しての申し出であった。もちろんエドワードに否やはなく、彼女はエドワードの配下の一員として名を連ねることになった。
 彼女に与えられた役職は、王太子秘書兼経済諮問役というものであった。もちろんこれまでにそんな役職が存在したことはなく、独自に設けられたものである。はじめ彼は、彼女をもっと重要な役職につけようとしたのだが、ニールとキャロラインの双方から反対されて、思いとどまったのだった。
 しばらくの間、貴族たちの中では、エドワード王太子が愛人を政界に入れた、という噂が流れた。貴族たちは、困ったものだと思いつつも、まあ名目上の役職なら、さほど我々にとって害もあるまい、要は権力を握らせなければよいだけのことだ。そんな風に考えた。しかし、そんな噂と思惑は、彼女が入って初めての会議で、雲散霧消することになる。
 エドワードたちはその日、宮殿で会議を開いていた。宮殿と言っても、修道院を改装して使っているものである。港町ボルドーは城壁に囲まれた自治都市であるが、古くからイングランド王家とのつながりが強く、半ば王家に開放しているようなところがあった。その海から一番遠いところにある広い宮殿の会議室で、エドワードとその部下たちは、会議を行っていた。そこの末席、前回はニールが座っていた席に、キャロラインは列席を許されていた。
 ちなみにニールは、「あんなむさくるしい男だらけの会議なんか、二度と御免です」と言い放って、今日は女漁りという名目で都市の情報収集にいそしんでいる。もっとも、どちらが名目でどちらが真の目的なのかは、エドワードにもはっきりわからないところであったが。
 会議は政治、軍事と話が進み、財政の話になる。その冒頭では、前回と同じく、騎行戦術、そして商人への投資依頼の話が出た。
 会議では、列席する者に、具申すべきことはないかと王太子が聞き、それから聞かれた者が答えるのがならわしであった。自分から進んで発言する者などは存在しない。言うべきことがあれば、事前に根回ししておくのが通常だからだ。
「少しよろしいでしょうか」
 慣例を破った主を、会議の出席者全員が注視した。そこには飾りと見られていた、王太子の愛人候補の女性が立っていた。
「資料を見させていただきましたが、収入に比べ、支出が異常な割合まで膨張しています。支出、特に軍事費の削減を求めます」
 出席者の間に、低いざわめきが起こる。彼女がまさか自ら発言するなどとは、誰も夢にも思っていなかったのだ。
「軍事費、か?」
 聞き返したのは、エドワードだった。それは別に意味がわからなかったというわけではなく、確認の相槌に過ぎない。
「はい。支出が収入の一.五倍にのぼり、そのうちの半分を軍が占めているというのは、正常な収支ではありえません」
 再び、ざわめきが起こる。議会が財政の決定権を担う英国において、好戦的な国王エドワード三世は、議会に軍事費を捻出させるためならば、あらゆる手段を使っていた。それだけに、軍事費はいわば聖域と見られており、議会ならともかく、王室内では軍事費の削減を求める者は誰もいなかったのである。
「待ちなさい。いきなり軍事費を削減するというのは早急だ。まずは収入を増やすことから考えたらどうだ」
 そう言ったのは、名門貴族の中では穏健派に属する、ソールズベリ伯である。武勇の誉れ高いウィリアム・ロングソード卿を先祖に持つ彼は、スコットランドやフランスとの戦闘に功があり、国王エドワード三世の寵臣でもあった。もっとも、本人は常に謙虚で驕ることはなかった。それゆえに、国王の信頼も篤いのである。
「それは考えました。しかし、収入と支出のバランスを常に考えるのは、財政の基本です。支出だけ考えないというわけには参りません」
 キャロラインが正論を持って答えると、ソールズベリ伯は返答に窮し、黙り込んでしまう。口達者な小娘の口を封じんと、今度はダービー伯が攻撃を試みた。
「しかし、軍事は恐れ多くも国王陛下と王太子殿下の決めたこと。軽々しく変えることは許されますまい」
「それならば、はじめから会議などやらぬがよろしいかと思います。最終的な決定権がそのお二人にあるのはもちろんですが、その決定に当たって私たちの意見を申し上げる必要があるからこそ、会議は開かれているのではないですか」
 彼女がそう言うと、部屋の温度が上がったように感じられた。
――――小癪な娘めが! こちらが下手に出ておればつけあがりおって。本来ならば、おまえなど我々の前で口を開くことすらも許されぬ身分なのだぞ。
 沸騰寸前の空気を読んだか、今度はエドワード自ら、下座にいるキャロラインに問いただした。
「双方とも、まず落ち着け。私は軍事費を決して変えぬと言っているわけではない。しかしキャロラインよ、そこまで言い切るからには、軍事のどこを削減すればよいか、考えがあるのであろうな?」
「私は軍事の専門家ではありません。しかし、兵士の数、兵士への給金、軍需物資の削減。いずれを行ってもよいかと思われます」
 エドワードはその言葉を聞き、気分を害した。キャロラインの言葉は軍事の素人の発言であって、そう簡単に兵の数やその給金を下げられるものではない。そんなことをすれば、たちまち治安の悪化や士気の低下を招くであろう。
「我が軍の強さは、一つには常備軍を養っているからだ。フランスのように戦のときだけ徴収する制度では、今の強さは保てまい。しかも、給金や軍需物資を削減すれば、兵の士気が下がろう」
「殿下、畏れながら、それは最初に軍事を優先として考えるからです。予算を先に決め、その範囲で軍事の増強を図るとなれば、他に手段がありましょう」
 面白くない中、精一杯丁寧に諭した言葉を即座に返されて、さすがにエドワードも怒り心頭に達した。
「キャロラインの言はわかる。しかし、やはり我が軍においては勝利しなければ次はなく、また我が国は勝利が約束された国でもある。そう簡単に軍事削減には踏み切れぬ。その提案は却下する」
 断言され、静やかに座るキャロラインに、名門貴族たちが侮蔑のまなざしを投げかけた。それらは一様に、「それ見たことか」と語っていた。身分の卑しい小娘が、我々に意見するとは何事か。あまつさえ軍事費の削減を求めるなど、思い上がりもはなはだしい。

 会議が終わったとき、名門貴族たちは、これであの娘は任を解かれるだろうと確信していた。もともと遊びで作った役職なのに、殿下を怒らせた以上、その任にとどまる理由などないのだ。
 一方、思慮深いソールズベリ伯は、自らの意見をキャロラインに否定されはしたものの、彼女の正しさを一方では認めていた。そこで彼は、殿下に彼女の解任を思いとどまるよう進言しようとして、エドワードに近づいた。
 しかし、会議室を出たエドワードは、思いのほか満足げな顔をしていた。そこで彼は、エドワードに尋ねてみた。
「殿下、お怒りではないので?」
 彼が言うと、エドワードは眉の内側の両端を下げた。
「怒らないはずがあるまい。キャロラインの言葉は不愉快だ」
「それでは、解任なされるのでしょうか」
 恐る恐る聞いたソールズベリ伯に対し、エドワードは思いがけない言葉を聞いたというように、目を見開いた。
「何を言う。なぜ私が彼女を解任せねばならぬ」
「は? しかし不愉快だと……」
「確かにキャロラインの言葉は不愉快だ。しかし、理にかなっている。財政担当はああでなくてはいかん。私は経済に疎い。あれくらい言ってもらわねば、軍事費をすぐ増やしたくなる。私の主張と財政側の主張がぶつかり合い、妥協点が見つかる。会議とは、そうでなくてはな」
 エドワードの発言に、ソールズベリ伯は自らの主人の度量の大きさを知った。今まで、不快だからという理由で部下を変える人物は山ほど見てきた。しかし彼は、耳の痛い意見であっても遠ざけようとはせず、逆にその発言者を評価さえしている。
 なるほど、ニールや自分のような人物が傍に置いてもらえるわけだと、ソールズベリ伯は改めて感嘆した。
 また、感嘆したのはエドワードも同じだった。これまで彼が会議を嫌っていたのは、はじめから結論の出ている話し合いなど、時間の浪費以外の何物でも無いと思っていたからだ。こんな風に、意見がぶつかり合うのであれば、会議を開くのも悪くない。彼はそう考えていた。

 そんなある日、思うところがあって、エドワードは紋章官を呼び出した。紋章官とは、王家や貴族たちの紋章の作成や許可を司る役職である。貴族が紋章を定めるときは、紋章官に許可を取らねばならないことになっており、能力はさほど必要でないものの、名誉職として高家の者が就くことが多かった。
「新たに紋章を作ろうと思う」
「紋章、でございますか」
 英王家には、すでに赤地に獅子の紋章がある。近頃では、国王エドワード三世がフランスの王位も主張して、フランスの象徴たる百合も紋章に加えたが、ともかくこれが英王の公式の紋章であった。
そしてエドワードもまた、代々の王太子がそうしてきたように、その父王の紋章を一部加工して、自分の紋章としている。盾の形が四分割され、銀のレイブルの下に、赤地の金獅子と青地の金百合を二つずつ入れたものがそれである。
 なのに紋章を作るとは、いったいどういう意味だろう。まさか王太子が国王に相談もせずに自分の紋章を変更するというわけでもないだろうから、もう一つ自分の紋章を作るということなのだろうか。紋章官はそう想像し、相手に確認すると、エドワードはうなずいた。
二つの紋章を作る。それは非常に稀有な例だが、前例が皆無というわけでもなかった。何より、紋章官の仕事は、第一に王家の命に従うことである。
「かしこまりました。どこに出しても恥ずかしくないデザインの紋章を作ってごらんに入れます。そのデザインに何かご注文はございますでしょうか」
「三本の羽根を入れてくれ。その他は任せる」
 紋章官は恭しく一礼して、エドワードの命を受諾した。名将として名高き王太子の紋章を自分が作れるということに、彼は感激を覚えていた。
 エドワードのこの行動は、言うまでもなく、キャロラインを腹心の部下の一人として認めたということであった。三本の羽根はそれぞれ、エドワード、ニール、キャロラインを意味する。この三人が当たれば、どんな大国も砕くことが出来よう。エドワードはそう信じていた。
 一月の後、紋章官が彼の元に三本の矢羽根が入った紋章の図柄を持ってきた。彼はそれを彼個人の二つ目の紋章として、生涯愛用することになる。そしてこのデザインは、のちに英王家の正式な紋章にも使われることになるのである。

 それから一ヵ月後、エドワードは兵士の新規募集をしばらく停止することを発表した。戦争に勝ったにもかかわらず給与減や解雇があったのでは、兵の不満が募る。一方で、新規募集を停止するだけであれば、兵士に与える影響は少なく、民も戦いが当分無いことを察知して、安心する。そういう狙いであった。
 その原因は、キャロラインの進言に加え、九月にイングランド国王とフランス国王の間でカレー休戦協定が結ばれたことにより、騎行戦術が大っぴらにはできなくなったことにもある。略奪ができず、戦争も当分ないとあっては、軍事は縮小せざるをえないのだった。
 クレシーの戦いでフランスを圧倒し、ニールやキャロラインをはじめ、エドワードの下に優秀な人材は次々と集まる。イングランドは順風満帆であった。
 ところがそこに、悪夢のような出来事が襲い掛かる。すなわち、黒死病の流行である。一三四七年十月、イタリアのシチリア島に上陸したこの伝染病は、一年と経たぬうちにフランス全土に広がった。
 伝染すると全身が黒紫色に変色し、遅くとも発病から数日内、早ければその日のうちにも死に至るこの病気は、ヨーロッパ中を恐怖のどん底に叩き落した。イングランドも例外ではなく、大陸に滞在する軍の兵士からも死者が出始め、エドワードはその対策に明け暮れていた。
「どうだ、街の様子は」
 ニールを自室に呼び寄せておいて、エドワードは尋ねた。エドワードの表情は、戦のときとは違い、暗く沈んでいた。もともと政治がさほど好きではないということもあるが、毎日自分の住む都市の住民が死んでいくのである。気も滅入ろうというものであった。
 しかも彼自身、嫁入りを目前に控えた妹を、つい先日この黒死病により失っている。まさしく、他人事ではないのだった。
「ひどいもんですね。昨日も三人が死にました。街の人は、感染を恐れて家の外にすら出たがらない有様で」
 以前はかしましいくらいに聞こえていた街の喧騒が、今はすっかり鳴りを潜めている。生活に不満があれば、それが統治者に対する批判につながることが多いが、今回はそうした批判も出ていない。 どうやら不満や批判というものは、ある程度の生活基盤の上に成り立つものであるようだった。明日死ぬかもしれないのに、呑気に不満や批判をぶちまけている場合では無いのである。
「このままでは、兵を出すことはおろか、経済システム自体が崩壊してしまうぞ。ニール、何かいい手はないか」
「そんなものがあったら、とっくに使ってますよ。第一、私は医学はもちろん、経済も不得手です。そういうことは、そちらの経済令嬢に聞くのがスジってもんでしょう」
 経済令嬢、とはニールがキャロラインにつけた呼び名である。一年前にキャロラインがエドワードに仕えるようになって以来、エドワードは経済に関することを専ら彼女にばかり聞くものだから、そのような呼び名がついたのだ。悪意をこめて呼ぶ者もいるが、キャロライン自身のその呼び名についての感情は、案外フラットなものだった。
「感染源は、全力で探らせています。今のところ、水と食べ物が原因ではないかと考えておりますが、なにぶんはっきりとした証拠がありません」
 ニールの指名とエドワードの視線に従い、キャロラインは返答した。もっともその報告は、エドワードに対しては何度もなされているものであり、どちらかと言えばニールに聞かせるためになされたものであると言っていい。
「うむ、頼むぞ」
 エドワードもそう言うだけで、具体的な指示が思いつかない状態であった。もちろん彼も手をこまねいていたわけではなく、キャロラインの提言に従い、種々の手段を尽くしてはみたのだ。病人を隔離し、水を清潔にし、食料も切らさぬようにした。それでも、黒死病は収まらなかった。巷では、神罰だなどと言って、自らの身体を鞭打たせるものまで出始める始末である。
 実はこの黒死病は、ネズミに寄生するノミを仲介役として伝染する病気だった。しかし当時の医学では、それを解明することは不可能だったのである。黒死病はその後、海を渡り、イングランド本国やスコットランド、さらには北極圏までも猛威を振るうことになる。
 その後、黒死病がようやく収まったのは、黒死病の上陸から三年後の一三五〇年のことであった。ヨーロッパは総人口の約三分の一を失い、半ば崩壊していた。
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