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第6章 不敗神話
ブルターニュ継承戦争
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クレシーの戦いから、十八年が経っていた。少壮の意気盛んな騎士だったチャンドスも、今は齢四十九を数える身となっている。当時としては既に老人である。近頃、鍛え上げられた鋼の肉体も、節々が痛み出していた。
同輩であったウォリック伯は、既に一線を退いている。伯は領土経営を完全に息子に任せていた。本人はおどけて「旧ウォリック伯」などと自称している。今エドワードの近くにいるのは、彼の道楽のようなものだった。同時に、エドワードを見守っていないと不安だという気持ちもあるのであろう。エドワードが幼い頃から、ともに彼を後見してきたチャンドスには、その気持ちは痛いほどよくわかる。
彼もウォリック伯に倣い、そろそろ戦場を退き、エドワードやグライーのような若者に後を任せるべきなのかもしれない、と思うときがある。
それでも戦場に来ると心がはやるのは、それが若い頃から彼の活躍の場であるからだった。斬った敵の数、打ち破った軍の数は、もう数え切れない。総大将の経験こそないものの、部隊長として、幾度も戦いを勝利に導いた男である。
彼が五百の兵を率い、二週間の歳月をかけてブルターニュに着いたとき、現地ではブロワ伯とモンフォール伯の軍勢が、今にも衝突せんとしているところだった。より正確に言えば、今年になって五度目の衝突をしようとしているところだった。
彼らの小競り合いは今に始まったことではないが、今回ばかりは様相が違って見えた。チャンドスが見たところ、士気と兵数の双方において、イングランドが後押しするモンフォール伯が上回っているようだった。チャンドスが味方の陣を歩けば、兵たちの勇ましい掛け声があちこちにこだまするのに対して、敵陣はひっそりとしていて、パンを焼いたりスープを温めたりするときに上がる白煙の量も、いかにも少ない。
「決着のときかも知れんな」
チャンドスは独りごちた。おおよそ、長い戦いが終わるときというのは、どことなくそうした気配が漂ってくる。特に領土の争いにおいては、敗者がある日突然に敗者となることなど有り得ず、積み重ねられた敗北の歴史が、重量となって劣勢側にのしかかって、それを押し潰してゆくものなのである。
この戦いは地方の貴族同士の争いである。そしてその目的はブルターニュ公の後継者を決め、公の領土の支配権を獲得すること。すなわち、負けた側は滅亡へと転がり落ちてゆく。その意味で、捕虜や交易権の確保を主たる目的としたクレシーやポワティエとは戦いの質が異なる。
こちらが戦争の本質なのかもしれない、と老練な武人は思う。そこに感傷や同情の入り込む余地はない。勝者はすべてを得、負けた側はすべてを失う。
自分もいつかそうなる日が来るのかもしれない、と沈みかけたチャンドスの気持ちを奮い立たせたのは、一つの報せであった。
『パリからの援軍を率いる大将は、デュ=ゲクランの模様』
デュ=ゲクラン。その名は、彼の耳にも届いていた。フランス国王シャルル五世が、一介の傭兵隊長から異例の抜擢をし、重用しているという将軍。ならば、それが無能であるはずはなかった。
武人の血が騒ぎ出す。戦は、なるべく弱い敵と戦い、なるべく効率よく勝利を収めるのが最善。そう知ってはいるが、彼の身にもやはり騎士道精神なるものが宿っているようだった。その精神は、強い敵と敬意を持って戦うことこそ最上と考える。
その日のうちに、軍議が開かれた。本隊の大将は、当然モンフォール伯。残りは右翼と左翼に分かれ、右翼をチャンドス率いるイングランド軍が担当する。
そして、敵の左翼の大将が、かのデュ=ゲクランだということだった。まともに戦えば、チャンドスの軍と激突することになる。
モンフォール伯の軍の兵士数は、チャンドスが連れてきた兵が五百で、これがそのまま右翼に回る。左翼も同じく五百、本隊が千で、合計が二千。
これに対し、ブロワ伯の軍は総勢が千。相手の半数しか存在しない。この劣勢をゲクランとやらはどう覆すつもりなのか、チャンドスは興奮で身体の震えを抑え切れなかった。
決戦は明日と決まった。本日は休養をとるために、各自陣で休んでいる。チャンドスはモンフォール伯の別荘にも招待されたが、丁重に断った。生まれついての武人である彼には、野戦前は陣幕の中のほうが、かえって落ち着くのである。
夜襲を警戒して、見回りがてら陣幕の外に出てみる。陣内では明かり用に火が焚かれ、ぼぼっと燃える音があたりに響いていた。見張りの兵士が数名立っている他は、すっかり寝静まっている。
ゲクランはもとが盗賊頭とほぼ同義の傭兵団団長だけあって、奇襲戦法が得意と聞く。夜襲ということも考えられるが、今のところその気配はなさそうである。秋も半ばとなり、虫の声だけがうるさいほどにあたりに響いていた。
天を見上げると、暗幕に宝石をちりばめたかのごとく、満天の星空が広がっていた。チャンドスはふと、過去に思いを馳せた。
思えば、幾度戦闘を繰り広げてきたであろうか。エドワード様の父、エドワード三世陛下とともにあまたの戦争に参加し、他に類を見ないほどの武勲を立ててきた。それは懐かしくもあり、誇らしくもある戦歴であった。自分個人としての戦歴は、ここらでもう充分だろう。
あとはエドワード様の部下に、優秀な者を見つけ、その者に自分が培ってきた戦略や戦術を伝えれば、自分の役目は終わる。
それにしても、誰がいるだろう。グライーは確かに優秀だ。しかし、あの者の軍事能力は、ある意味天衣無縫なところから来ている。自分の堅実な技を教えても、かえって手足を絡めとるだろう。
他に複数の部下の顔を思い浮かべてみるが、どうもこれといった者が見つからない。まだ今後に期待というところだろうか。
エドワード様自身はと言えば、これはもう自分から教えることなど何もない。戦場だけでなく、いまや他の部分にかけても、もはやこのチャンドスの能力など大幅に上回っている。
グライーにはああ言ったが、実のところ、チャンドス自身、エドワードに生じた変化の兆しに、内心驚いているのだった。クレシーの頃のエドワードは、もっと自分の生きたいように生きているように見えた。それが周りの空気まで気にするようになったのは、大きな成長といえるのだが、何が彼をそうさせたのであろうか。ジョアンとの結婚か、度重なる戦争か、キャロラインとニールの死か。
いずれか一つではない、とチャンドスは思う。人間は、様々な経験を自分の中で消化しながら、成長してゆくものだ。願わくば、今後もエドワード様には成長し続けて欲しい。そして、消化しきれないものが現れることのないように。そう神に祈らずにはいられないチャンドスだった。
「チャンドス、見回りご苦労」
突然背後からかけられた声に、チャンドスは驚いて振り返った。そこにいたのは、青の絹織物を羽織った、一人の若者であった。織物には所々に輝く宝石があしらってあり、一目で高貴な身分とわかる。
「こ、これは、ランカスター公様」
肝の太い老人には珍しく、狼狽していた。さすがに、こんな時間にこんな場所で、エドワードの弟君たるランカスター公ジョンを見かけるとは思っていなかったのである。彼の本拠地はイングランド本国にあって、ここからは海を渡らなければゆけない。近頃は大陸にもたびたび足を運んでいるとは聞いているが、まさか戦場で会うことになるとは。
「いかがしたのです。用事とあれば、こちらから参りますのに」
「用はない。ただ、おまえと話してみたかっただけだ」
恐縮に値するその言葉に、チャンドスは逆に警戒感を強めた。エドワードとジョンは、あまり仲がよくないと聞いている。ひょっとすると、自分を抱きこみにきたのかもしれない。
「おまえは、今のイングランドをどう思うか」
「は、順調と存じます。戦も勝ちが続いておりますし、外交や経済の面でも、今のところ破綻はありません」
「そうかな、少し兄上の権力が強すぎるように思えるが。アキテーヌ公領の統治と銘打ってはいるが、あれではまるで独立国家ではないか」
その言葉に、チャンドスはますます警戒を強くした。ここで迂闊なことを言えば、自分の身に不利なことが起きる可能性が高い。彼は慎重に言葉を選んだ。
「畏れながら、殿下はポワティエの大勝をはじめ、数々の功を立てておられます。その報奨としては当然かと思います」
「ふむ。そちは忠臣だな」
言葉の上では褒めつつも、ジョンは露骨に面白くなさそうな顔をした。自分とて機会さえあればその程度の功は立ててみせるのに、という思いが透けて見えるようであった。
「まあ、それはよい。それより、ここの戦はいつまでかかるか」
二十六歳の若者は、再び話題を転じた。
「は、おそらく近いうちには決着がつきましょう」
「遅いな。この程度の戦にいつまでかけるつもりだ」
「不徳の至り、申し訳ございません」
「だいたい、父も兄も甘いのだ。以前に勝ったときに、ブロワ伯などその場で処刑してしまえば、紛争が再燃することもないのに」
チャンドスは、ジョンの真意がわからなくなっていた。この若者は、いったい誰に怒りを向けているのだ。単なる愚痴ならば、従者にでも言うがよい。下級貴族の出とはいえ、チャンドスはまがりなりにもイングランド軍の大将としてモンフォール伯の援護にかけつけ、右翼の将を任される身である。戦術のことならともかく、身内への愚痴を聞いている暇などないのであった。
「では、ランカスター公様じきじきに指揮をとられますか。それがしは副将に回ってもようござります」
「なあに、その必要はない。このような辺境の戦に、私がわざわざ出ることもあるまい」
チャンドスの感情は怒りを通り越して、呆れに入った。確かに辺境の戦には相違ない。しかし、チャンドスはその辺境の戦に参加している身なのだ。貶めるような発言は、部下の士気を削ぐということに気がつかないのか。
「では、私はこれで帰ることにしよう。勝利の報告を待っているぞ」
「護衛の者に送らせましょう」
「不要だ。この近くに宿を取っている。では、またな」
ジョンはひらりと馬にまたがり、一鞭をくれた。たちまち、ジョンの姿は草原の片隅に消えてゆく。
行動力の高さは父や兄に似ているのだが、とチャンドスは思う。国王陛下や王太子殿下が来れば、たとえその行動に意味はなくとも、チャンドスは勇気付けられた。しかしジョンの来訪は、チャンドスの心に何の感動も呼び起こさなかった。
せめて、他の者に対しては感動を与える主君であって欲しいと願うしかないチャンドスだった。
翌朝、日の出とともに、両軍は動きを見せた。チャンドスを含むモンフォール伯の軍は、打ち合わせどおり左右がやや突出する三日月形の陣を敷いた。これに対しブロワ伯の軍は、左翼を前に出す斜線陣である。
以前にエドワードがやったように、左翼を軸として回転させ、袋叩きにする作戦であろうか。しかし、それを行うにしては兵数が少なすぎる。あの作戦は、もう片方の翼が参戦するまで、突出したほうの翼は単独で持ちこたえなくてはならないため、敵よりも多い兵数を要するのだ。
やや逡巡しつつも、チャンドスは進軍の合図を出した。ラッパの音が響き渡り、兵たちは一斉に進み始める。薄い朝もやの中を、列を組んで堂々と進む兵士たち。その姿は、兵士の制服である緑と白が朝日の淡い光に映え、実に荘厳であった。これから殺し合いをするという事実さえなければ、善良な神々の鑑賞にさえ堪えうると思わせる美しさである。
それに対し、敵の軍はどうも動きが鈍い。やはり左翼を軸として回転させる策ではないようである。動かずに、こちらが攻めてくるのを待ち受けているかのようだ。斥候に探らせたところ、敵の左翼には弓兵が多いとの報告だった。昨日までの配置とは、大幅に異なっている。
「それで読めた」
チャンドスは勝ち誇ったように薄笑いを漏らした。
ゲクランの戦法は、防御体勢からの一斉射撃に違いない。クレシーやポワティエでイングランドがやったように、弓隊を待機させ、突撃してくる敵を片っ端から射る気なのだ。
それならば、こちらにもやり方というものがある。こちらはフランスの騎士と違って、突っ込むだけの能無しではないのだ。
チャンドスは大声を張り上げるとともに、各小隊に伝令を走らせた。騎馬隊は弓兵のみを狙い、突撃せよ。そして弓兵は、敵長槍兵の牽制に回れと。
実のところ、弓はそれのみで有効な武器ではない。まず、機動力が低く、射撃のときは止まらねば射られないから、どうしても防御中心になる。さらに、撃つ時に時間がかかるため、騎馬による急襲戦術に弱い。
クレシーやポワティエの戦いで、長弓兵が騎馬隊に対して効果をあげ得たのは、ひとえに幾重もの障害物をめぐらせ、馬を降りた槍隊が障害物を越えた敵を迎え撃ったからである。それらの連携なしに騎馬に立ち向かうことなど不可能だった。
「よし、騎馬隊突撃!」
チャンドスは自らも馬に跨り、敵弓兵へと突撃を図った。右翼大将の振る舞いとしてはやや軽率ではあるが、武人としての血のたぎりを抑えきれなかったのである。
敵弓兵が視界に入り、いざ突撃せんとしたそのとき、右側から喚声が起こった。
「何事だ」
慌てて叫ぶが、もちろん答えなど返ってこない。ただ周りには混乱の声と馬のいななき、それに勇ましい叫び声が聞こえるばかりであった。
それでも、歴戦の勇士たるチャンドスは、自分の軍に起きた出来事を正確に理解していた。右翼から攻め込んだチャンドスの軍のさらに右側から、敵の騎馬隊が突撃して来た。ゲクランは、チャンドスが突撃してくるコースを予想し、その外側に兵を伏せていたのだ。
つまり、防御陣自体が囮だったというわけだ。チャンドスはいまや、前方と右側の双方に敵を抱え、挟撃される立場にあった。その双方から上げられた喚声は、彼の鼓膜を大きく揺さぶってくる。しかもその声は、徐々に近づいてくる。それはまるで、蛇が捕らえた獲物を徐々に締め上げていくかのようであった。
騎馬は前面の敵に強い反面、側面や後方からの攻撃に弱い。ここで少しでも逡巡すれば、チャンドスの部隊は壊滅していただろう。しかし、チャンドスは判断を誤らなかった。双方を迎え撃つような愚かな真似はせず、ただひたすらに弓兵の陣を突っ切り、楕円状に旋回して元の位置に戻るように命じた。もちろん、その間、味方弓兵からの援護射撃は続いている。
複数の矢が、チャンドスの顔のすぐそばを飛んでは、後方に抜けてゆく。身を小さくかがめ、盾で顔を覆うようにしながら、矢の中を駆け抜ける。幸い、敵弓兵も同士討ちを恐れてか、さほど集中した射撃はしてこない。
いくつかの修羅場の後、チャンドス率いる騎馬隊は無事弓兵の陣を突っ切ることが出来た。そのまま旋回して、味方と合流する。味方弓兵もいったん下がらせ、叱咤激励して陣を立て直す。
チャンドスに委ねられた五百の兵は、四百まで減っていた。それでも、ゲクランの兵の総数がもともと二百だったから、倍は残っていることになる。半分以下の兵でチャンドスの軍を半ば混乱に陥れたゲクランの戦術は立派だが、それを抜け出したチャンドスの手腕もまた見事であった。
「わしとしたことが、随分無茶なことをしたわい」
チャンドスは冷や汗をかいた。弱点をあらわにしておいて、そこを攻めようとする心理をつくとは。やはりゲクランとは、なかなかの名将のようだ。ここは一つ、重厚な構えでじわじわと攻めることにしようか。
彼は槍隊と弓隊を前後に並ばせる形で進めた。奇襲はかけず、万全の態勢で進ませる。機動力は無い代わりに、どのような攻めにも柔軟に対応できる構えである。これをやられると、兵数の少ない側は辛い。
さらにその頃には、ブロワ伯の陣は、左翼のゲクランの軍を除いてはほぼ壊滅していた。倍の兵を擁するチャンドスの軍の侵攻に、ゲクランはそれでも抵抗を見せたが、数時間もする頃には、勝敗は決していた。正攻法で戦えば、数が多いほうが勝つのは自明の理である。まして、本隊の壊滅により、ブロワ伯の軍の士気は大幅に下がっている。
チャンドスは敵に他からの援護がないのを見て取ると、隊列を横に広げ、半包囲の態勢をとった。円状の包囲網を、じわりじわりと狭めてゆく。もはや敵兵の数は五十を切っていた。
ゲクランの姿が、チャンドスの目にはっきりと見て取れた。チャンドスがさらに、ゲクランに向けて降伏勧告を行うと、ゲクランは割合あっさりと、それを受諾した。
夕方までに、敵方の総大将ブロワ伯は戦死、ゲクランは捕虜となった。二十年以上にわたって続いたブルターニュ継承戦争の、これが結末であった。
チャンドスはモンフォール伯の屋敷内で、ゲクランと面会した。当時の習慣として、捕虜といえども両手を縛られるようなことはなく、部屋に軟禁されるほかは比較的自由が保障されていた。騎士様がこっそり逃げ出すようなことはまさかすまい、というわけである。実際には、逃亡者などいくらでも出ていたのであり、かなり時代遅れの習慣となっていたのであるが。
ゲクランは、背の高い男だった。齢四十四と聞いているが、一向にそんな感じはなく、三十代でも通りそうな感じがした。ただ、お世辞にも美形とは言いがたい。と言って見るのも嫌なくらい醜悪な外見かというと、そうでもない。手足が長く、痩せていて、どこかチンパンジーを思わせる愛嬌があった。
「ゲクラン殿、お初にお目にかかる。チャンドスと申します」
「おお、これはこれは。ゲクランです」
ゲクランは慣れない手つきで、チャンドスの敬礼に敬礼をもって返した。
「この度は誠に不運なことでしたな」
「なになに、俺が弱くて、あんたが強かった。ただそれだけのことでさ」
ゲクランはそう言うと、あごが外れそうなくらい豪快に笑って見せた。その笑い方と言葉で、チャンドスの彼に対する印象が固まった。「憎めない男」だと。
「今度は同数で戦ってみたいものですな」
「そうさなあ、うちの坊ちゃんが許してくれれば、ぜひともそう願いたいな」
「坊ちゃん?」
「ああ、シャルル坊ちゃんのことさ。今は陛下って呼ばなきゃいけないんだろうけど、なんか呼びにくくてなあ」
その一言に、チャンドスは二度ほど瞬きをした。畏れ多くも国王陛下を坊ちゃんと呼ぶほど、二人は親しいというのか。ゲクランは盗賊あがりだとの噂もあるが、シャルル五世はそんなにも砕けた性格なのだろうか。
いずれにせよ、自分までそれにあわせることはない。チャンドスはそう考えて、騎士としての礼をもって応対することにした。
「今回の敗戦で、さぞシャルル陛下はお怒りでしょうが、ゲクラン殿は良く戦ったと私からとりなしておきますゆえ、ご心配なさらず」
「いや、その心遣いはありがたいが、無用でしょうな。もともと坊ちゃんは、『負けてもいい』って言って私を送り出したんですから」
チャンドスはまたも目を瞬かせた。どうもこの男といると、耳を疑うような発言ばかり飛び出してくる。負けてもいいとはどういうことだ。兵数が少なかったとはいえ、負けるつもりで戦う戦など、チャンドスの記憶には存在していなかった。あるいは、ゲクランに気苦労をかけまいとするシャルルの思いやりであろうか。
「ゲクラン殿、それは……」
チャンドスがさらに話を続けようとしたとき、従者が彼を呼びに来た。モンフォール伯が宴の席で待っているというのである。招待主直々のお呼びとあれば、参上しないわけにはいかなかった。彼はもともと、モンフォール伯とイングランドとの友好を深めるために来たのである。
「ゲクラン殿、ではまた戦場で」
「おう、爺さんも元気でな」
チャンドスは苦笑した。敵の将軍から爺さんと呼ばれたのは、これが初めてだった。だいたい、ゲクランからして、もう爺さんと呼ばれてもおかしくない年齢ではないか。
だが、不思議と腹は立たなかった。あの男の人徳のなせる業か。チャンドスには、シャルル五世がこの男を重用しているわけが、なんとなくわかる気がした。シャルル五世は神経質な性格と聞いている。あのような大らかな男でなければ、相手は務まらぬのであろう。
結局、ゲクランの身代金はシャルル五世によって即座に払われ、自由の身となったゲクランは、数日後にはパリへと帰還していった。彼が大元帥の称号を得るのは、まだ数年先のことになる。
同輩であったウォリック伯は、既に一線を退いている。伯は領土経営を完全に息子に任せていた。本人はおどけて「旧ウォリック伯」などと自称している。今エドワードの近くにいるのは、彼の道楽のようなものだった。同時に、エドワードを見守っていないと不安だという気持ちもあるのであろう。エドワードが幼い頃から、ともに彼を後見してきたチャンドスには、その気持ちは痛いほどよくわかる。
彼もウォリック伯に倣い、そろそろ戦場を退き、エドワードやグライーのような若者に後を任せるべきなのかもしれない、と思うときがある。
それでも戦場に来ると心がはやるのは、それが若い頃から彼の活躍の場であるからだった。斬った敵の数、打ち破った軍の数は、もう数え切れない。総大将の経験こそないものの、部隊長として、幾度も戦いを勝利に導いた男である。
彼が五百の兵を率い、二週間の歳月をかけてブルターニュに着いたとき、現地ではブロワ伯とモンフォール伯の軍勢が、今にも衝突せんとしているところだった。より正確に言えば、今年になって五度目の衝突をしようとしているところだった。
彼らの小競り合いは今に始まったことではないが、今回ばかりは様相が違って見えた。チャンドスが見たところ、士気と兵数の双方において、イングランドが後押しするモンフォール伯が上回っているようだった。チャンドスが味方の陣を歩けば、兵たちの勇ましい掛け声があちこちにこだまするのに対して、敵陣はひっそりとしていて、パンを焼いたりスープを温めたりするときに上がる白煙の量も、いかにも少ない。
「決着のときかも知れんな」
チャンドスは独りごちた。おおよそ、長い戦いが終わるときというのは、どことなくそうした気配が漂ってくる。特に領土の争いにおいては、敗者がある日突然に敗者となることなど有り得ず、積み重ねられた敗北の歴史が、重量となって劣勢側にのしかかって、それを押し潰してゆくものなのである。
この戦いは地方の貴族同士の争いである。そしてその目的はブルターニュ公の後継者を決め、公の領土の支配権を獲得すること。すなわち、負けた側は滅亡へと転がり落ちてゆく。その意味で、捕虜や交易権の確保を主たる目的としたクレシーやポワティエとは戦いの質が異なる。
こちらが戦争の本質なのかもしれない、と老練な武人は思う。そこに感傷や同情の入り込む余地はない。勝者はすべてを得、負けた側はすべてを失う。
自分もいつかそうなる日が来るのかもしれない、と沈みかけたチャンドスの気持ちを奮い立たせたのは、一つの報せであった。
『パリからの援軍を率いる大将は、デュ=ゲクランの模様』
デュ=ゲクラン。その名は、彼の耳にも届いていた。フランス国王シャルル五世が、一介の傭兵隊長から異例の抜擢をし、重用しているという将軍。ならば、それが無能であるはずはなかった。
武人の血が騒ぎ出す。戦は、なるべく弱い敵と戦い、なるべく効率よく勝利を収めるのが最善。そう知ってはいるが、彼の身にもやはり騎士道精神なるものが宿っているようだった。その精神は、強い敵と敬意を持って戦うことこそ最上と考える。
その日のうちに、軍議が開かれた。本隊の大将は、当然モンフォール伯。残りは右翼と左翼に分かれ、右翼をチャンドス率いるイングランド軍が担当する。
そして、敵の左翼の大将が、かのデュ=ゲクランだということだった。まともに戦えば、チャンドスの軍と激突することになる。
モンフォール伯の軍の兵士数は、チャンドスが連れてきた兵が五百で、これがそのまま右翼に回る。左翼も同じく五百、本隊が千で、合計が二千。
これに対し、ブロワ伯の軍は総勢が千。相手の半数しか存在しない。この劣勢をゲクランとやらはどう覆すつもりなのか、チャンドスは興奮で身体の震えを抑え切れなかった。
決戦は明日と決まった。本日は休養をとるために、各自陣で休んでいる。チャンドスはモンフォール伯の別荘にも招待されたが、丁重に断った。生まれついての武人である彼には、野戦前は陣幕の中のほうが、かえって落ち着くのである。
夜襲を警戒して、見回りがてら陣幕の外に出てみる。陣内では明かり用に火が焚かれ、ぼぼっと燃える音があたりに響いていた。見張りの兵士が数名立っている他は、すっかり寝静まっている。
ゲクランはもとが盗賊頭とほぼ同義の傭兵団団長だけあって、奇襲戦法が得意と聞く。夜襲ということも考えられるが、今のところその気配はなさそうである。秋も半ばとなり、虫の声だけがうるさいほどにあたりに響いていた。
天を見上げると、暗幕に宝石をちりばめたかのごとく、満天の星空が広がっていた。チャンドスはふと、過去に思いを馳せた。
思えば、幾度戦闘を繰り広げてきたであろうか。エドワード様の父、エドワード三世陛下とともにあまたの戦争に参加し、他に類を見ないほどの武勲を立ててきた。それは懐かしくもあり、誇らしくもある戦歴であった。自分個人としての戦歴は、ここらでもう充分だろう。
あとはエドワード様の部下に、優秀な者を見つけ、その者に自分が培ってきた戦略や戦術を伝えれば、自分の役目は終わる。
それにしても、誰がいるだろう。グライーは確かに優秀だ。しかし、あの者の軍事能力は、ある意味天衣無縫なところから来ている。自分の堅実な技を教えても、かえって手足を絡めとるだろう。
他に複数の部下の顔を思い浮かべてみるが、どうもこれといった者が見つからない。まだ今後に期待というところだろうか。
エドワード様自身はと言えば、これはもう自分から教えることなど何もない。戦場だけでなく、いまや他の部分にかけても、もはやこのチャンドスの能力など大幅に上回っている。
グライーにはああ言ったが、実のところ、チャンドス自身、エドワードに生じた変化の兆しに、内心驚いているのだった。クレシーの頃のエドワードは、もっと自分の生きたいように生きているように見えた。それが周りの空気まで気にするようになったのは、大きな成長といえるのだが、何が彼をそうさせたのであろうか。ジョアンとの結婚か、度重なる戦争か、キャロラインとニールの死か。
いずれか一つではない、とチャンドスは思う。人間は、様々な経験を自分の中で消化しながら、成長してゆくものだ。願わくば、今後もエドワード様には成長し続けて欲しい。そして、消化しきれないものが現れることのないように。そう神に祈らずにはいられないチャンドスだった。
「チャンドス、見回りご苦労」
突然背後からかけられた声に、チャンドスは驚いて振り返った。そこにいたのは、青の絹織物を羽織った、一人の若者であった。織物には所々に輝く宝石があしらってあり、一目で高貴な身分とわかる。
「こ、これは、ランカスター公様」
肝の太い老人には珍しく、狼狽していた。さすがに、こんな時間にこんな場所で、エドワードの弟君たるランカスター公ジョンを見かけるとは思っていなかったのである。彼の本拠地はイングランド本国にあって、ここからは海を渡らなければゆけない。近頃は大陸にもたびたび足を運んでいるとは聞いているが、まさか戦場で会うことになるとは。
「いかがしたのです。用事とあれば、こちらから参りますのに」
「用はない。ただ、おまえと話してみたかっただけだ」
恐縮に値するその言葉に、チャンドスは逆に警戒感を強めた。エドワードとジョンは、あまり仲がよくないと聞いている。ひょっとすると、自分を抱きこみにきたのかもしれない。
「おまえは、今のイングランドをどう思うか」
「は、順調と存じます。戦も勝ちが続いておりますし、外交や経済の面でも、今のところ破綻はありません」
「そうかな、少し兄上の権力が強すぎるように思えるが。アキテーヌ公領の統治と銘打ってはいるが、あれではまるで独立国家ではないか」
その言葉に、チャンドスはますます警戒を強くした。ここで迂闊なことを言えば、自分の身に不利なことが起きる可能性が高い。彼は慎重に言葉を選んだ。
「畏れながら、殿下はポワティエの大勝をはじめ、数々の功を立てておられます。その報奨としては当然かと思います」
「ふむ。そちは忠臣だな」
言葉の上では褒めつつも、ジョンは露骨に面白くなさそうな顔をした。自分とて機会さえあればその程度の功は立ててみせるのに、という思いが透けて見えるようであった。
「まあ、それはよい。それより、ここの戦はいつまでかかるか」
二十六歳の若者は、再び話題を転じた。
「は、おそらく近いうちには決着がつきましょう」
「遅いな。この程度の戦にいつまでかけるつもりだ」
「不徳の至り、申し訳ございません」
「だいたい、父も兄も甘いのだ。以前に勝ったときに、ブロワ伯などその場で処刑してしまえば、紛争が再燃することもないのに」
チャンドスは、ジョンの真意がわからなくなっていた。この若者は、いったい誰に怒りを向けているのだ。単なる愚痴ならば、従者にでも言うがよい。下級貴族の出とはいえ、チャンドスはまがりなりにもイングランド軍の大将としてモンフォール伯の援護にかけつけ、右翼の将を任される身である。戦術のことならともかく、身内への愚痴を聞いている暇などないのであった。
「では、ランカスター公様じきじきに指揮をとられますか。それがしは副将に回ってもようござります」
「なあに、その必要はない。このような辺境の戦に、私がわざわざ出ることもあるまい」
チャンドスの感情は怒りを通り越して、呆れに入った。確かに辺境の戦には相違ない。しかし、チャンドスはその辺境の戦に参加している身なのだ。貶めるような発言は、部下の士気を削ぐということに気がつかないのか。
「では、私はこれで帰ることにしよう。勝利の報告を待っているぞ」
「護衛の者に送らせましょう」
「不要だ。この近くに宿を取っている。では、またな」
ジョンはひらりと馬にまたがり、一鞭をくれた。たちまち、ジョンの姿は草原の片隅に消えてゆく。
行動力の高さは父や兄に似ているのだが、とチャンドスは思う。国王陛下や王太子殿下が来れば、たとえその行動に意味はなくとも、チャンドスは勇気付けられた。しかしジョンの来訪は、チャンドスの心に何の感動も呼び起こさなかった。
せめて、他の者に対しては感動を与える主君であって欲しいと願うしかないチャンドスだった。
翌朝、日の出とともに、両軍は動きを見せた。チャンドスを含むモンフォール伯の軍は、打ち合わせどおり左右がやや突出する三日月形の陣を敷いた。これに対しブロワ伯の軍は、左翼を前に出す斜線陣である。
以前にエドワードがやったように、左翼を軸として回転させ、袋叩きにする作戦であろうか。しかし、それを行うにしては兵数が少なすぎる。あの作戦は、もう片方の翼が参戦するまで、突出したほうの翼は単独で持ちこたえなくてはならないため、敵よりも多い兵数を要するのだ。
やや逡巡しつつも、チャンドスは進軍の合図を出した。ラッパの音が響き渡り、兵たちは一斉に進み始める。薄い朝もやの中を、列を組んで堂々と進む兵士たち。その姿は、兵士の制服である緑と白が朝日の淡い光に映え、実に荘厳であった。これから殺し合いをするという事実さえなければ、善良な神々の鑑賞にさえ堪えうると思わせる美しさである。
それに対し、敵の軍はどうも動きが鈍い。やはり左翼を軸として回転させる策ではないようである。動かずに、こちらが攻めてくるのを待ち受けているかのようだ。斥候に探らせたところ、敵の左翼には弓兵が多いとの報告だった。昨日までの配置とは、大幅に異なっている。
「それで読めた」
チャンドスは勝ち誇ったように薄笑いを漏らした。
ゲクランの戦法は、防御体勢からの一斉射撃に違いない。クレシーやポワティエでイングランドがやったように、弓隊を待機させ、突撃してくる敵を片っ端から射る気なのだ。
それならば、こちらにもやり方というものがある。こちらはフランスの騎士と違って、突っ込むだけの能無しではないのだ。
チャンドスは大声を張り上げるとともに、各小隊に伝令を走らせた。騎馬隊は弓兵のみを狙い、突撃せよ。そして弓兵は、敵長槍兵の牽制に回れと。
実のところ、弓はそれのみで有効な武器ではない。まず、機動力が低く、射撃のときは止まらねば射られないから、どうしても防御中心になる。さらに、撃つ時に時間がかかるため、騎馬による急襲戦術に弱い。
クレシーやポワティエの戦いで、長弓兵が騎馬隊に対して効果をあげ得たのは、ひとえに幾重もの障害物をめぐらせ、馬を降りた槍隊が障害物を越えた敵を迎え撃ったからである。それらの連携なしに騎馬に立ち向かうことなど不可能だった。
「よし、騎馬隊突撃!」
チャンドスは自らも馬に跨り、敵弓兵へと突撃を図った。右翼大将の振る舞いとしてはやや軽率ではあるが、武人としての血のたぎりを抑えきれなかったのである。
敵弓兵が視界に入り、いざ突撃せんとしたそのとき、右側から喚声が起こった。
「何事だ」
慌てて叫ぶが、もちろん答えなど返ってこない。ただ周りには混乱の声と馬のいななき、それに勇ましい叫び声が聞こえるばかりであった。
それでも、歴戦の勇士たるチャンドスは、自分の軍に起きた出来事を正確に理解していた。右翼から攻め込んだチャンドスの軍のさらに右側から、敵の騎馬隊が突撃して来た。ゲクランは、チャンドスが突撃してくるコースを予想し、その外側に兵を伏せていたのだ。
つまり、防御陣自体が囮だったというわけだ。チャンドスはいまや、前方と右側の双方に敵を抱え、挟撃される立場にあった。その双方から上げられた喚声は、彼の鼓膜を大きく揺さぶってくる。しかもその声は、徐々に近づいてくる。それはまるで、蛇が捕らえた獲物を徐々に締め上げていくかのようであった。
騎馬は前面の敵に強い反面、側面や後方からの攻撃に弱い。ここで少しでも逡巡すれば、チャンドスの部隊は壊滅していただろう。しかし、チャンドスは判断を誤らなかった。双方を迎え撃つような愚かな真似はせず、ただひたすらに弓兵の陣を突っ切り、楕円状に旋回して元の位置に戻るように命じた。もちろん、その間、味方弓兵からの援護射撃は続いている。
複数の矢が、チャンドスの顔のすぐそばを飛んでは、後方に抜けてゆく。身を小さくかがめ、盾で顔を覆うようにしながら、矢の中を駆け抜ける。幸い、敵弓兵も同士討ちを恐れてか、さほど集中した射撃はしてこない。
いくつかの修羅場の後、チャンドス率いる騎馬隊は無事弓兵の陣を突っ切ることが出来た。そのまま旋回して、味方と合流する。味方弓兵もいったん下がらせ、叱咤激励して陣を立て直す。
チャンドスに委ねられた五百の兵は、四百まで減っていた。それでも、ゲクランの兵の総数がもともと二百だったから、倍は残っていることになる。半分以下の兵でチャンドスの軍を半ば混乱に陥れたゲクランの戦術は立派だが、それを抜け出したチャンドスの手腕もまた見事であった。
「わしとしたことが、随分無茶なことをしたわい」
チャンドスは冷や汗をかいた。弱点をあらわにしておいて、そこを攻めようとする心理をつくとは。やはりゲクランとは、なかなかの名将のようだ。ここは一つ、重厚な構えでじわじわと攻めることにしようか。
彼は槍隊と弓隊を前後に並ばせる形で進めた。奇襲はかけず、万全の態勢で進ませる。機動力は無い代わりに、どのような攻めにも柔軟に対応できる構えである。これをやられると、兵数の少ない側は辛い。
さらにその頃には、ブロワ伯の陣は、左翼のゲクランの軍を除いてはほぼ壊滅していた。倍の兵を擁するチャンドスの軍の侵攻に、ゲクランはそれでも抵抗を見せたが、数時間もする頃には、勝敗は決していた。正攻法で戦えば、数が多いほうが勝つのは自明の理である。まして、本隊の壊滅により、ブロワ伯の軍の士気は大幅に下がっている。
チャンドスは敵に他からの援護がないのを見て取ると、隊列を横に広げ、半包囲の態勢をとった。円状の包囲網を、じわりじわりと狭めてゆく。もはや敵兵の数は五十を切っていた。
ゲクランの姿が、チャンドスの目にはっきりと見て取れた。チャンドスがさらに、ゲクランに向けて降伏勧告を行うと、ゲクランは割合あっさりと、それを受諾した。
夕方までに、敵方の総大将ブロワ伯は戦死、ゲクランは捕虜となった。二十年以上にわたって続いたブルターニュ継承戦争の、これが結末であった。
チャンドスはモンフォール伯の屋敷内で、ゲクランと面会した。当時の習慣として、捕虜といえども両手を縛られるようなことはなく、部屋に軟禁されるほかは比較的自由が保障されていた。騎士様がこっそり逃げ出すようなことはまさかすまい、というわけである。実際には、逃亡者などいくらでも出ていたのであり、かなり時代遅れの習慣となっていたのであるが。
ゲクランは、背の高い男だった。齢四十四と聞いているが、一向にそんな感じはなく、三十代でも通りそうな感じがした。ただ、お世辞にも美形とは言いがたい。と言って見るのも嫌なくらい醜悪な外見かというと、そうでもない。手足が長く、痩せていて、どこかチンパンジーを思わせる愛嬌があった。
「ゲクラン殿、お初にお目にかかる。チャンドスと申します」
「おお、これはこれは。ゲクランです」
ゲクランは慣れない手つきで、チャンドスの敬礼に敬礼をもって返した。
「この度は誠に不運なことでしたな」
「なになに、俺が弱くて、あんたが強かった。ただそれだけのことでさ」
ゲクランはそう言うと、あごが外れそうなくらい豪快に笑って見せた。その笑い方と言葉で、チャンドスの彼に対する印象が固まった。「憎めない男」だと。
「今度は同数で戦ってみたいものですな」
「そうさなあ、うちの坊ちゃんが許してくれれば、ぜひともそう願いたいな」
「坊ちゃん?」
「ああ、シャルル坊ちゃんのことさ。今は陛下って呼ばなきゃいけないんだろうけど、なんか呼びにくくてなあ」
その一言に、チャンドスは二度ほど瞬きをした。畏れ多くも国王陛下を坊ちゃんと呼ぶほど、二人は親しいというのか。ゲクランは盗賊あがりだとの噂もあるが、シャルル五世はそんなにも砕けた性格なのだろうか。
いずれにせよ、自分までそれにあわせることはない。チャンドスはそう考えて、騎士としての礼をもって応対することにした。
「今回の敗戦で、さぞシャルル陛下はお怒りでしょうが、ゲクラン殿は良く戦ったと私からとりなしておきますゆえ、ご心配なさらず」
「いや、その心遣いはありがたいが、無用でしょうな。もともと坊ちゃんは、『負けてもいい』って言って私を送り出したんですから」
チャンドスはまたも目を瞬かせた。どうもこの男といると、耳を疑うような発言ばかり飛び出してくる。負けてもいいとはどういうことだ。兵数が少なかったとはいえ、負けるつもりで戦う戦など、チャンドスの記憶には存在していなかった。あるいは、ゲクランに気苦労をかけまいとするシャルルの思いやりであろうか。
「ゲクラン殿、それは……」
チャンドスがさらに話を続けようとしたとき、従者が彼を呼びに来た。モンフォール伯が宴の席で待っているというのである。招待主直々のお呼びとあれば、参上しないわけにはいかなかった。彼はもともと、モンフォール伯とイングランドとの友好を深めるために来たのである。
「ゲクラン殿、ではまた戦場で」
「おう、爺さんも元気でな」
チャンドスは苦笑した。敵の将軍から爺さんと呼ばれたのは、これが初めてだった。だいたい、ゲクランからして、もう爺さんと呼ばれてもおかしくない年齢ではないか。
だが、不思議と腹は立たなかった。あの男の人徳のなせる業か。チャンドスには、シャルル五世がこの男を重用しているわけが、なんとなくわかる気がした。シャルル五世は神経質な性格と聞いている。あのような大らかな男でなければ、相手は務まらぬのであろう。
結局、ゲクランの身代金はシャルル五世によって即座に払われ、自由の身となったゲクランは、数日後にはパリへと帰還していった。彼が大元帥の称号を得るのは、まだ数年先のことになる。
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