暴君は野良猫を激しく愛す

藤良 螢

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花の色は

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 昔から、植物に触れることは当たり前だった。女の子なのだから、と度々口にした母の声は、いつになっても色褪せることなく思い出せる。
 あの頃はその意味を見出せてはいなかったけれど、今は違う。数少ない縁だった。






「ーー御方様」

 閑静とした主室に声がかかる。珍しいこともあるものだと、その声の主を知る亜希は意外に思いながら応じた。
 慎重に開けられた障子から姿を現したのは、想像した通りの人物で。そんな気性をしていない癖にしかつめらしい顔をして自らの前にある彼に、毎度のことながら苦笑を浮かべた。
 額ついていた彼は、「失礼します」と一言断りを入れると、傍らに置いていたものを手繰り寄せた。
 それは花生けだった。空の花器ではない。小さなその中に、果てしなく広がる世界があった。儚さと切なさの滲む美に、思わず息をのむ。
 

「まあ……。何とも見事ですね、いったい誰がこれを?」

 素晴らしい、としきりに感嘆する女主人に、老人は隠すことなくその名を告げた。
 鑑賞に細められていた目が見開かれる。そんな、と震える唇が形作るのを確かに見た。
 けれど、一方で予期していたかのような色があったことも見逃さなかった。

「随分と気安いご気性のようですが、並の者ではないでしょうな。…………何者ですか」

 その問いかけに、亜希は答えない。亜希でさえ、正解を知らないからだ。知る必要はないとも思っている。

「とても、とてもお優しい方ですよ。過ぎるほどに。ですからどうか、見守って差し上げてくださいませ」
「御方様が、そう仰るのであれば。ですが、害ありと見なせば容赦は致しません」
「兄様……」

 困ったように呟く亜希に、彼の方こそ困り果てた顔をした。
 本来なら、用いてはならない呼び方だ。私邸内といえども、誰がどこで聞き耳を立てているとも知れない。
 血の繋がりこそないとはいえ、人に聞かれていいものではない。
 わかっているはずなのに、もう何十年もそうとは呼ばなかったのに。彼女らしくないと、旧知の仲だからこそ気にかかる。

「どうやら、疲れておいでのご様子。これは、御方様がお持ちください。御前、失礼致します」

 あくまでも淡々と並べられ、引き止める間もなく辞してしまった年長の幼馴染に、亜希は自らの過ちに片頰を覆った。
 数十年にわたる自戒も、こうもあっけなく崩れてしまうとは情けない。本当に疲れているのかと思い込みたくもなる。
 けれど、口に出してしまった言葉を悔いたところでやり直すこともできはしない。
 亜希は疲れたように置き残された花を見つめた。
 一分の隙もない、凝縮された世界観。切られれば黄泉路よみじを辿るさだめにあるはずなのに、花器に生けられたそれらは新たな生を謳歌している。
 やけに、庭を気に入っているとは思っていた。良い眼を持っている、とも。
 だがまさか、これほどまでとは思わなかった。
 きっと、これが全てではない。
 根拠もないのにそんな確信を抱いた。

「本当に、何者なのでしょうね」

 疑問に思うも、それは大した問題ではない。今回のことも、頭の片隅にでも残しておけば良い程度だ。
 腰を上げ、亜希は部屋を出た。向かう先は言うまでもない。
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