三鍵の奏者

春澄蒼

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第五章 星は天を巡る

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 ヘイレンに連れられて行ったのは、クウェイルの館から繋がる海岸だった。この領地を訪れた一行が最初に船を泊めた、あの見せかけの水門の前に、小さな船が揺れている。

 崖の上から飛び乗ったヘイレンに手招きされて、二人は顔を見合わせる。
 目を合わせて、目を逸らして、しばらく逡巡したが、先にジェイがやけくそのようにその後に続くと、クレインも不承不承足を踏み出した。


「俺は一人になりたい時、この船に乗る」
 古びた外観に似合わず、船室は品のいい内装でまとめられている。寝台にはふかふかのふとん、丸窓の下には長椅子と机、簡単な調理場まであって、ここだけ見れば船の中とは思えないほど。

「これは一人でも操縦できるようになってる。やり方は分かるな?燃料はここ。食糧やら飲み水やら酒やら一式揃ってる。この海岸沿いを港とは反対に行って、岬をぐるりと回った先に停泊させるといい。そこなら他の船も来ない」

 息継ぎなしで言い切ったヘイレンは、「じゃ、後はお好きに」とさっさと踵を返す。

「っ、待て!」取りあえず呼び止めたはいいが、言葉を構築できないジェイに代わって、クレインが髪を弄りながら聞く。

「……なんの、つもり?」
「おわびのつもり」
「……なにに対しての?」
「面倒を引き起こした一端に対して」
「……面倒を、狙ってたんじゃないのか?」
「人魚がジェイに惚れるのを狙ってたって?そんでお前らの間に波風立てるのが目的だったって?……おいおい、それは俺を過大評価し過ぎだぜ」

 ヘイレンは芝居がかって肩を落としてから、「俺の狙いは、クウェイルに先を越されたからな。戦わずして退散だ」と両手のひらを見せる降参の仕草をする。

「クウェイル……?」
 訳が分からないと目をすがめたクレインに、ヘイレンは手を挙げたまま後退りしながら、にっと笑う。

「人魚たちに勘づかれる前に、船を出した方がいいぜ。周りの目も時間も気にせずに、じっくり二人で話し合ってこい。──ちなみに、寝具は新品だが、どれだけ汚してくれても怒ったりしねぇから、なっ!!」
「ヘイレン!!」

 言うや否や崖に手をかけたヘイレンは、クレインの怒号を背に、闇の中へと姿を消した。


「クレイン……」
 その頰の紅潮が、怒りではなく羞恥によるものであることは、ジェイと目を合わせてさらに染まったことで知れる。

 欲望など斬って捨てて、さらに冷たい視線を浴びせるような印象のクレインが、『寝台を汚す』という言葉で恥じらったことが、ジェイの背中を押す。

「……船を、出す。クレイン、いいか?」
 らしくない強引な聞き方で小さなコクン……を引き出すと、ジェイははやる心を抑えながら舵に手をかけた。



******
 錨を下ろして船が泊まるまで、操舵室にいたジェイは、船室に逃げたクレインと顔を合わせることもなかった。

 船室の前で深呼吸してから、ジェイは扉を叩く。返事を待つことなく開けると、クレインは長椅子をガタッと鳴らして立ち上がり、身を守るように胸の前で手を組んだ。

 その仕草に、さっきまで保っていた強気が薄れていく。

 足踏みしてから中へ入り、迷って、寝台の端っこに腰を下ろす。ジェイの場所を確認してから、クレインはもう一度長椅子に座り込んだ。

 沈黙は長引くほど破りにくくなることを知ったジェイは、何でもいいから話そうと思うのだが……口下手はそう簡単には克服できないらしい。口を開いては閉じ、閉じては開いて「っ、」呼気だけを繰り返す。


 それを見かねたように、クレインから口火を切ってくれた。
「……お前と言い合いになったのなんて、初めて、だな」

「そう、だな」もらったきっかけをせめて無駄にしないように、ジェイはいつもならばそこで終わるところを、今はどうにか言葉を紡ぎ続ける。
「初めて、だ。いつもは、その……お前が怒っても、俺はすぐに引いてしまう、から」

「そう……それで、珍しくお前がキレた時は、俺が引く。だからケンカにもならない」


 互いに言葉足らずなのは自覚している。その根本にあるのは、相手を思いやり過ぎて何も言えなくなっているということ。

 それではダメだと、アスカ村でマイナに喝を入れられて、ジェイは気づいたつもりだったのに──(俺はまた、同じことを繰り返すところだった)

 言葉を飲み込んで、波風立てずに現状維持を選ぶことは、もっとも楽な道。しかしそれを続けていても、どこへも行けないということを、ジェイは過去から学んだはずだ。

 自分がまず変わらなければ、相手を変えることもできない。


「俺は矛盾ばかりなんだ」
 ジェイは考えることを止めた。自分だけでうだうだと考えて、煮詰まって、最終的に何も言えなくなってしまわないように、思いついた先から全て言葉にしていく。

「クレインに辛い思いはさせたくないのに、嫉妬もされないと虚しい。嫉妬してほしいなんて傲慢だと思う一方で、クレインの気持ちを疑いたくないとも思う。……お前の幸せをただ願っているのに、それを叶えるのが俺以外なんて許せない。触れたいのに……触れるのが怖い」

 全て吐き出してから、その勢いに任せるように立ち上がると、長椅子で目を伏せているクレインの隣へと、座る場所を近づけた。

「俺はずっと怖れていた。この関係を、はっきりさせることを……」

 並んで座った二人に、丸窓から月の光が降り注ぐ。どちらもその光に照らされた、膝の上に置いた自分の拳を見つめている。


「決定的な言葉を言ってしまうことで……決定的に変わってしまうことが怖かったんだ。分岐点でいつも、俺は現状維持を選ぶ」
「俺は……俺も、同じだ。いつも俺は、終わりを考える。だから……終わらせないために、この時間を引き延ばそうとばかり……」

 素直になったジェイに、クレインも素直な心情を返してくれる。
 言い合いになった時と同じだ。怒りには怒りが返ってくるように、素直には素直が返る。一方通行ではなく、返し合うことで、互いの中に深く深く入り込んでいく。

 同じ方向を向いて、二人の手が繋がった。


「……未来を考えると、俺はいつもに立ち返ってしまう」
 キュッと指に力がこもったのは同時で、ジェイと同じ記憶がクレインにも蘇っていることが伝わってくる。これまでならその反応で引き下がるジェイだが、今回ばかりは踏み込んた。

 先へと進むために、過去に今、ケリをつける。

「クレインに辛い過去を思い出させたくない、という言い訳もあったが、それ以上に……自分自身の厭なところを直視したくなくて、俺はずっとあの時に向き合えていなかった」



***
 ジェイが語ったのは、愚直なまでの過去。
 何の疑いもなく剣を握り、ただ目の前の敵を殺し続け、闘技場で剣闘士となって、そして──「最後には傷つける側……加害者になった」

「ジェイ……っ」
 思わず名前を呼んだクレインだが、自虐が過ぎるぞと叱りつけることなく、口を閉じる。
 ジェイの表情には罪人としての昏い表情ではなく、罪を背負って生きていくことを決めた、穏やかにも見える表情が浮かんでいた。


「剣闘士までは、被害者ぶれた。身を守るために、生きるために他を殺したのだと。だが……闘技場の衛兵になった時には、もうそんな気持ちもなくなっていた。むしろ死んだ方が楽だと思いながら、それでも何かを変えることもしないで、ただ流れに流され続けた」

 一瞬、ギュッと強くまぶたを閉じてから、ジェイは初めて、己の所業を語った。


 助けを請う罪人を、鎖で繋いだこと。
 逃げ出した剣闘士を捕らえ、地獄に連れ戻したこと。
 見世物にされていた亜種たちを見捨てたこと。
 犯され、弄ばれ、斬りつけられた人々を、見捨てたこと。
 そして自らも、客を相手に接待のような性交を────



 あの闘技場で、クレインと出会う前のジェイ──その罪は、積極的に人を害したとまではいかないが、それを黙認していたという傍観者としての一端。

 それはクレインが想像していた範囲内のことではあった。だが、覚悟していても耳を塞いでしまいたくなるほど、本人の口から語られることは生々しく真に迫る。

 途中で止めようと何度も思ったクレインだったが、その優しさは自分のためであってジェイのためではないと、最後までぐっと堪えた。

 ジェイは何かを求めてこの話を始めたのでない。ジェイが語り、クレインが聞く。それだけでいいのだ。


 罪の告白の終わりには、繋いだ手が汗ばんでいた。


 それに先に気づいて、離れていきそうになったジェイの指を、クレインはぎゅっと繫ぎ止める。少しの拒絶も感じさせたくなくて、さっきよりももっときつく手のひらを合わせた。

 実際にクレインは、強がりでも盲目になっているのでもなく、事実は事実として受け止めた上で、ジェイの過去を受け入れていた。
 知りたくなかったと思うよりも、知ることができてよかった、と。

(おかしいな、俺……ホッとしてる。いや、それ以上……)
 そして今、クレインの心を急激に支配していくのは、ジェイに対する温かな感情──愛おしいと、ただそれだけ。

 過去に犯した罪の告白を聞いて、惚れ直すなんて──クレインは変だとおかしみながらも、そんな自分が嫌いではないと、場違いな柔らかな笑みがこぼれた。


「クレイン……?」
 訝しんで顔を覗き込んでくるジェイに、何でもないと緩く首を振ったクレインは、努めて真っ直ぐに彼の目を見つめる。

「……よかった、と思って」
「え……」
「お前が……生きていてくれて、よかった……」
「クレ、イン……」

 なぜかぼやけていく視界の向こうに、目を見開いてオロオロと動揺するジェイがいる。

(なんだろう、目が熱い……)
 震える指で頰を拭われて、クレインはその理由にやっと気づく。

「クレイン……」
「なん、だ、これ……」

 じわじわと滲み出していた涙が、自覚した途端、一気に溢れ出た。
 自分でも何の涙か分からないのに、目尻からそれはとめどなく零れ続ける。


「クレイン……っ、どう、いや、悪いっ、どうすれば……っ」
 この世の終わりとでもいうような顔で、自分の指と袖口を濡らすジェイを見ていると、クレインは動揺も通り越してなぜか笑えてきた。

「ふ、別に大丈夫だって。なんか、自分でもよく分からないから。止まらないだけ……ふふ」
 クレインは涙を流しながら笑って、呆然とするジェイの胸にゆっくりとひたいを押しつける。
 頰を擦り寄せて、腕を背中に回すと、戸惑っていたジェイの腕がクレインの腰を引き寄せて、膝の上へと登らせてくれた。


「お前に罪があるっていうなら、俺がそれを赦すよ」
「クレイン……?」
「俺はお前が悪いなんて思わないけど、お前は後悔してるんだろう?」
「……そう、そうだ。なにかするべきだった、なにか、俺にもできることがあったはずだ……」
「でももし、お前がその『なにか』をしていたら、俺は助からなかった」


 もし、ジェイが衛兵になっていなかったら。
 もし、ジェイが反抗的な態度を取っていたら。
 もし、ジェイが生きていなかったら。


 一つでも違っていたら、この『今』はなかった。


(そうか……)
 クレインの中にストンと落ちてきたのは、晴れやかな諦めだった。
『もしも』はない──その境地に達したクレインは、これまでこびりついて落ちなかった罪悪感や劣等感を、綺麗に消してしまうのではなく、その汚れと共に生きていけばいいと、素直にそう思えた。


「『赦す』んじゃないな……ジェイ、お前の罪だというのなら、俺もそれを一緒に背負うよ。背負わせて、ほしい」
「なに、言って」
「だって俺は、これでよかったと思ってる。過去に戻っても、お前には同じ道を選んでほしい。お前が死ぬくらいなら、傍観者でいてくれ。たとえ後からどれだけ後悔することになっても……」

 苦しげに寄せた眉に、クレインは唇を寄せてちゅ、と吸った。

「前に言ったろう?俺はそんなに強くもない。潔くもないし、綺麗でもない。……他の誰を犠牲にしてもいい。お前を苦しめても、それでも」

 こんな狡い自分が、ジェイの目にどう映るのか──クレインの一瞬の不安は、唇に返ってきた口づけで、一片も残さず消えていく。


「俺も、同じだ。もし、過去を変えられるとしても、俺は……クレインを救う道を迷わず選ぶ。……矛盾、だな」
「ジェイ?」
「この後悔は俺に罪悪感を与えて、自分がクレインには相応しくないと思わせられる。だが……この後悔がなければ、そもそもクレインには会えなかったし、今の自分もいないだろう」


 辛い過去も、悲しい記憶も、その総てが積み重なって、今の自分がいる。
 でも、今のためにその辛い経験があっただなんて、そんな達観はとてもできない──クレインのその想いを感じ取ったように、ジェイは「本当に矛盾ばかりだ」と続けた。


「俺はクレインの生き方を尊敬している」
「え……」
「流されず道を選び、強くあろうと努力する──そんな今のクレインを創ったのも、そして俺と出会うことになったのも、積み重ねた過去があってのことだ。クレインの痛みの上に、今はある」


 もし、父親が死ななければ。
 もし、人魚の亜種ではなかったら。
 もし、母がまだ生きていたら。
 もし──。


「もしクレインの過去が変えられるのなら、暗い過去など最初からなかったことにして、幸せに……──本当に、心の底からそう思う、のに……」

 苦悩するジェイに、クレインは自分でも思いがけない言葉を返していた。


「おれ……心のどこかでずっと、母さんのこと、恨んでた」


 言葉に出してから頭が働いて、ハッと身を引こうとしたクレインだったが、反射のようにジェイの腕の力が強まって、硬い胸板に逆戻りする。

 その次に、ジェイがクレインを抱き締め直し、クレインがひたいとひたいを合わせたのは、反射ではなくそれぞれの意思を持った行動だった。


「……人魚の亜種なのは、別に母さんのせいじゃないって分かってたし、母さんも苦労してたって知ってた。でも……もっと普通だったら、ずっと楽に生きられるのに、って……」
「……ああ」
「でも……これは母さんとの繋がりでもあって──」

 足首に巻いたさらしを、クレインは視界の外で撫でる。
 視線はずっと、ジェイのこげ茶の瞳に囚われている。見慣れたその色が甘そうに思えたのは、ベレン卿の館で初めて食べた甘いチョコレートを連想したからだろう。


(『同情でもいい』だなんて、嘘だ)
 いつの間にか止まっていた涙が、もう一度目の端に滲むのを、クレインは感じていた。

 今度はその意味が分かる。これは──嬉し涙だ。

 同情でも何でもいいから、ジェイを自分の元に縛っておきたいと思っていた。でも──やはり本心では、それだけでは足りなかったのだ。

『俺はクレインの生き方を尊敬している』

 クレインの人生を可哀想と思うのでも、同情しているのでもなく、ジェイはそう言ってくれた。
 クレインには、その言葉が何よりも嬉しい。


 ずっと拘っていた色んなものが、どうしてそんなに拘っていたのか不思議になるほど、どうでもいいように思えてきて、クレインの心が軽くなっていく。



「俺も矛盾だらけだ。この鱗を剥ぎたいと思う時もあれば、誇りに思う時もある……」

 さらしに伸びたクレインの手は、すっきりとした心とは裏腹に、重たくうっそりと動いた。
 今さらジェイの反応が怖いとは思わないのに、生まれてからずっと人目を憚ってきたその秘所は、クレインにとって自分の弱さや醜さの象徴として立ちはだかる。


 結び目に手をかけても、クレインの心はまだ揺らいでいた。

 総てをさらけ出してくれたジェイに、自分も応えたいという想いが背中を押す。
 それでも漠然とした不安は消えなくて、躊躇した手が震えて、それが目に映るとさらに不安は増して──そんなクレインの葛藤を、ジェイは黙って見守ってくれていた。


 最後のひと押しは、その自分だけをひたと見つめる瞳。


 これを、誰にも渡したくない──自覚していた以上に根深かった、人魚に対する劣等感がジリジリとうなじを焦がすのを、クレインは感じた。


 本物の、それも女性の人魚がジェイに好意を寄せても、それでもジェイは、俺を選んだ。
 その事実が、クレインに自信をもたらし、そして──ジェイを自分だけのものにしておくために、できることは全部しようという決意を連れてきた。



 クレインの指が、結び目を解く。

 着替える時や湯浴み、さらしを巻き直す時など、ちらっと見えることはあっても、見せることは初めてだ。

 する、と右脚から白布が落ちる瞬間、クレインの目は閉じていた。


「……触れても……?」


 長いようで短い沈黙の後、ジェイからそっとそう問いかけられる。

「ん……」
 指だけで足首から甲まで辿られ、くすぐったさに足が縮こまる。
 次に、手のひら全体で感触を確かめるように撫でられてから、両手で優しく持ち上げられた。そして腰を支えられながら、横抱きに抱かれて──

「え……」
 湿った感触に驚いて、閉ざしていた視界を開くと──薄桃色の鱗に、ジェイの頰と唇が触れている。

「なに、……っ」
 その偏愛的な仕草に、かあぁぁっとクレインは紅潮する。ジェイの唇は鱗の端をめくるように引っかけては、食んでいる。まるで、それを剥がして食べてしまいたいとでもいうように。

 自分の一部が、彼の一部になる。

 その想像に、クレインの身体がかあっと火照った。

「んっ、ジェイ……っ」
 ずっと空気にも触れさせなかった鱗は、敏感に繊細に、彼の優しい触れ合いを感じ取る。
 むずむずとしたくすぐったさは、「んぅ」そのうちに心地のよいしびれに変わっていく。

 ジェイの手つきも、唇も舌も、狂おしいほどに愛おしげで、まるで自分が至宝にでもなったような気がして、クレインは恥ずかしいような、でも──自分を慈しむ気持ちが込み上がってくる。


 ジェイが愛おしんでくれる自分を、大切にしたい。


「ジェイ……」
「うん?」
「俺はずっと、矛盾も罪悪感も劣等感も解消したいと思ってた」
「うん」
「でも……それも抱えて生きていけばいいんだな」

 抱えたままでも、答えは出せる。ただひとつ、揺るぎない想いがあれば。


「ジェイ、俺は……お前がいればいい。お前だけ──」
 溢れる想いに邪魔されるように、クレインの口は上手く言葉を紡げない。もどかしいばかりのクレインを、いつもは口下手なジェイが継いだ。

「クレイン、俺と一緒に生きてほしい」
「ジェイ……」
「俺の罪を一緒に背負ってくれるというのなら、クレインの荷も俺に背負わせてくれ。一緒に、生きていこう。ずっとお前と一緒に……もしこの旅が終わりを迎えても、その先を一緒に生きてくれ」
「旅の、終わり……」

 それはクレインもずっと考えていたことだった。楽観的になれないクレインは、いつも終わりを覚悟していた。

 だがジェイは、クレインにとって行き止まりだと感じていたその到達点に、さらに先の道があることを示したのだ。


「いつか旅が終わったら……その、一緒に、暮らさない、か?」
「え……?」

 クレインの頭に全くなかった台詞に、世界が時を止めたように静まった。
 その静けさを恐れるように、ジェイは言葉を連ねる。

「場所はどこでもいいんだ……!マイナの近くが安心なら、アスカ村でもいいし、ほらっ、さっきクウェイルが『領兵として雇ってもいい』と言っていたから、ここでも……!」
「それって……」

 じわ……とクレインの頰に紅が昇ってくる。
 自分の早とちりを恥ずかしいと思う以上に、ジェイの真意に照れが止まらない。

(だってこれって……)求婚プロポーズに等しい申し出だ。

 いつの間にやら、ジェイはクレインの手を両手で包み込んでいる。

 顔を見られたくなくて俯いても、耳まで真っ赤になっているから、クレインの気持ちはジェイにも伝わっているだろう。
 それに励まされてか、ジェイは少し強引な手つきで、クレインの頭を抱え込むようにして、耳元に口を寄せた。


「クレイン、」「ん」「俺は生まれてからこのかた、『家』というものがなかった」

 戦災孤児だったジェイは、帰るべき家はなく、そして帰りたい故郷もない。
 今は仲間たちが家族のようなもので、帰るのはその仲間の元ではあるが、旅を続けてきた一行には、ホームと呼べる場所はなかった。


「もちろん、みんなのことを家族のように思っているし、アスカ村を故郷のように感じたり、マイナの家やフェザントの家、それからメイとクウェイルの家も、ホッとできる場所ではある。だが……俺が本当に欲しいのは、クレイン、お前が待っていてくれる場所だ」

 一拍置いてから、ジェイは心を込めて希う。

「クレインに、俺の家族になって欲しい」
「か、ぞく」
「俺と一緒にいることが、日常になってほしいんだ。俺を──いや、俺と一緒に、幸せになってほしい」
「しあわせ、に……?」


 クレインは言いたいことが山ほどあった。

「いきなり過ぎる!」「こんなこと考えていたなんて知らなかった」「俺に相談もなく……!」「さすがに話が一足飛びだ!」

 それでも、この一言で全て吹き飛んでしまうのだから、返事は決まっている。


「好きだ」


 求婚プロポーズの後の告白に、クレインは「……順番が逆だ」と力の抜けた声で呟いてから──同じ台詞を震える声で返した。


 二人の間を隔てるものは、もう何もない。


 たったの二音が、心と身体に纏っていた何枚もの目に見えない鎧──矜持や強がり、意地や恥──を剥ぎ取った。裸になった心と身体で、クレインとジェイは抱き合った。




******
「えっ?!じゃあヘイレンも、ジェイを商会に勧誘スカウトするつもりだったってこと?!」
 仰け反って驚くヘロンに、したり顔のヘイレンが緩く首を振る。

「ジェイとクレインを、だな。両方まとめて欲しかったんだが……まさかクウェイルに先を越されるとは」

「ほほう、お前がそこまで評価しているとは。私の剣の腕を見極める目はそれほど当てにならんのだが、ジェイはそれほどか?」
 思わぬ収穫かと目を輝かせるクウェイル。

「純粋な強さだけで言えば、おそらくカイトよりジェイが上だ。その上、あの見た目……見栄えがいいと、式典なんかで役に立つ。クレインの弓の腕とあの容姿も捨てがたい、が……あの二人の性格を考えると、俺の誘いは簡単に蹴られそうだ。特に、クウェイルの後ではな」


 早くもやけ酒気味のヘイレンを、クウェイルとヘロンが面白そうにからかう横では、女性陣がこちらも酒を片手に輪になっている。


「人間っておかしいのね。男同士なんて、もったいない」

 振られた人魚の一人が、まだ納得していない顔を見せるが、メイがそれを咎める前に、もう一人があっさりと言い放つ。

「あら、でも人間って人魚とは違って、男が極端に少ないってことがないのでしょう?それなら、おかしくはないのじゃない?」
「そっか、うん、そうよね」
「人魚だって、女同士の恋人が増えているのだし」

「うっ……!ごほっ、えっ?今なんて……?」
 むせたメイに不思議な目を向ける若者たちに、メイの方こそその目を返したい。

 しかし二人の人魚は、メイの混乱を晴らすことなく、むしろさらに混乱を広げていく。

「それに、まだ諦めてないわ」
「私たち二人とあのクレインって人間の三人で、ジェイを共有すればいいのよ」
「そうよね、いい男はみんなで分け合わなくちゃ」


 人魚と人間の常識の違いをどう説明すればいいのか、頭を悩ませるメイの隣で、ヘロンがからみ酒になっている。


「つーか、ヘイレンもクウェイルも、引き抜きなんてずっけぇーよ!誰に許可取ったんだよー?!まず俺に話通してくれねぇと!!」

「まあまあ」とフェザントに水を飲まされるヘロンに、ヘイレンがふんと鼻を鳴らす。

「引き抜きじゃあないさ」
「ああー?!引き抜きじゃなきゃなんなんなら──!!」
「俺は『旅の後』の話として、提案するつもりだったのさ」
「『旅の後』?」

 ろれつの回っていないヘロンに代わって、フェザントがヘイレンの相手を回る。

「そ、引退後の再就職先さ。あの二人だけじゃなくて、お前たちも大歓迎するぜ。商会でもギルドでも、もちろん盗賊団でも」
「い、引退って……」
「なんだよ、フェザントだって五十にも六十にもなって旅を続けてるなんて、そんな夢みたいなこと考えてねえだろう?」

「あ゛あん?!そんなこと勝手に決めんじゃねぇやい!!俺はなー……俺だってー!!」


 立ち上がって演説を始めたヘロンの後ろでは、メイの苦労の賜物によって、人間の恋愛が一対一であることをなんとか理解した人魚二人が、たくましく次の標的を定めている。


「あーあ……それじゃあ後は、姫様に似ているっていうユエって人魚に期待ね」
「早くここへ来ないかしら」
「姫様に似ているのなら、とびきりの美人のはずよね」
「なんて言ったって、ユ──姫様は美人の代名詞──」

「んん?!待った!」

 いきなりグルンと振り向いて、女性陣に乱入したのはヘロンだ。
 酒に酔った頭をブンブンと振って、さらにフラフラになりながら、やっとのことで口を動かす。

「待った待った!聞き捨てならない!!なんか今おかしな言葉が聴こえた……『ユエ』姫って言った……?」
「ちっがうわよー!」

 恐ろしいもののように言うヘロンの言葉を、人魚の一人が笑い飛ばす。

「あ、なんだ。よかった。ん?あそっか、姫ってあの、メイが話してくれた人魚のお姫様?そう言えば、ずっと『姫』って呼んでて、名前まだ聞いてねぇや。ユ……なに姫様だって?!」

 ゆらゆら頭を揺らしながらも、美女の名前は記憶しておこうというヘロンに、メイが笑いながら教えてくれる。


姫よ」


 なーんか、名前までユエに似てるな、というヘロンの感嘆を、全てを知るヘイレンだけは笑えずに、酔ったフリで聞き流した。

 これから先、目の前の彼らに降りかかるであろう試練を、この男だけが予期していた。

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