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第六章 追憶の海に花束を浮かべて
88 アスクレア・ガレノス
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対外には知らされていないが、聖教会には俺以外にも、多くの囚われ人がいた。
そのほとんどは、亜種だ。特に身体的に特徴が出た者たちが、鉱山跡に造られた地下牢に繋がれていた。
太陽の光が全く届かないそこでは、一週間もすれば狂い始める。発狂し、正気を失って、そのまま死んでいく者ばかり。
聖教会は俺のことも、当初はただの亜種だと思っていた。
幼少期で成長を止めるという、ラークのような妖精の亜種の存在を知っていたため、それの変種のようなものだろうと考えていたらしい。
聖教会が亜種を捕らえる理由は、権威づけだった。
『奇怪な子どもが生まれるのは信仰心が足りないから』と信仰を強要し、『異教徒が生み出した化け物だ』と他宗教を否定する材料にし、『我々聖教会だけが怪物を退治できる』と正義の味方を気取った。亜種を生贄として利用したんだ。
そして最後まで、利用し尽くす──聖教会は彼らを使って人体実験を行っていた。
その内容は、主に病気の治療のためだ。新しい薬の実験体が多かった。
それから、長寿の研究も。──とは言え当時はまだ『不老不死』などという荒唐無稽な目的ではなく、もう少し現実的な、寿命を延ばすことや若さを保つことを求めていた。
そのため妖精の亜種だと思われた俺は、長寿の研究の格好の材料となった。
──そこでなにをされたかは、割愛しよう。あまり聞いて気分のいい話ではない。
結果だけ言えば、一年ほどの実験の末、俺は妖精の亜種ではないと証明されることとなる。
幼少期で成長が止まったように見える妖精の亜種も、それはそう見えるというだけで、実際にはちゃんと年を取っていく。通常よりも成長の頂点に達するのが早いというだけなんだ。
通常は二十代前半くらいまで成長し、その後成熟、そして老化していくが──例えばラークは、七歳で成長段階が終わり、その後の成熟期間が長くなるが、最終的に老化していくことには変わりない。
どれだけ見た目を若く保とうが、寿命はそれほど変わらないものだ。
しかし俺の身体は、違っていた。
二十代までの成長過程は、なんら普通の人間と変わりないのに、その後の三十年ずっと成熟期間が続き、全く老化が始まっていなかった。始まる気配すら、なかったんだ。
実験を主導していた研究者からそれを報告された司祭たちは、信じる前に疑った。五十歳の男が二十代の肉体を保っていると信じるより、そもそもの年齢が間違っていたのではないかと疑った訳だ。
司祭たちは俺の経歴を辿り、聖教会で二十年、聖石の鉱山で十年、そしてその鉱山に来た時点ですでに、どう見ても『大人』になっていたという事実を知る。
疑い深い司祭がそれ以前を調べさせ、孤児院時代まで辿り着いて──やっと俺の実年齢に確信を持った。
──信じられてしまった訳だ。俺が妖精の亜種とも違う、唯一の存在であることに。
それから俺は……ある意味特別扱いになった。
特別に熱を入れて、実験してくれるようになって、俺は休む暇もないほどだったさ。
だがそれで明らかになったことは、聖教会が期待していたほどの結果ではなかった。
やつらの期待よりも、俺は案外、普通だったんだな。
頑丈とは言え、病気にもかかれば怪我も負う。まあ、常人よりは怪我の治りが早く、病気にも強いらしいが……例えば、怪我が一瞬で治ったり、どんな病気にもかからないような、はっきりと目に見えるほどの超人的な能力ではない。
亜種──俺はこの地下牢で初めてこの呼称を知るんだが──の能力が全て備わっていて、他の亜種のように苦手がないとは言え、肉体的には人間そのもの。
なにか特別な器官があったり特別な血が流れているでなく、亜種以上であっても神の如き万能ではない。
それから……子孫を残す能力がないこと──。
メイには前に話したことがあったが、俺には子どもができない。純血のように生殖機能がないのではなく、生殖能力がないんだろうな。……もっと露骨な言い方をするなら、いわゆる『子種がない』んだ。
実験の一環として、まあ、なんと言うか……繁殖行為をさせられて、それが判明した。
──……俺は、むしろよかったと思った。絶望より、安心したことを憶えている。
もし本当に子どもができてしまっていたら、子どもも生まれた瞬間から俺と同じ道を辿るだけだっただろうから。不幸な子どもを生み出さなかったことは、せめてもの救いだった。
そして、このことが証明されるころには、俺に対する実験が、もう一段階引き上げられることになる。
それまで最低限、死なない程度の配慮があったものが、次は『死んでも構わない』段階まで……いやむしろ、『死ぬかどうかを知る』段階だ。
『不老』の証明を諦めて『不死』へと方針転換したってワケだ。
そこには、急ぐ理由があった。
聖教会の非人道的な実験は、何百年もこっそり受け継がれてきたものではあったが、その方針はその時々の最高権力者・法王の意向によって左右されてきた。
俺が捕らえられた当時の法王はかなりの老体で、己の病気を治すため、己の寿命を延ばすためという、個人的な目的が強く出ていて、それも、かなり切羽詰まっていた。
法王は俺の血を飲んでみたり、輸血してみたり、色々と試してはみたが、全くと言っていいほど効果はなく、とうとう最終手段にすがりついた。
──俺の心臓を取り出して食べるという、悪魔的な方法を試してみたくなったんだと。
法王以外の司祭たちは、猛反対したらしい。
まあそれも、正義感からや怖気づいたからではなく、ここで簡単に殺すのは惜しいという利己的な理由だったが。
時間がない法王とは違って他の司祭たちは、もっと時間をかければ、俺の不老性を自分にも取り入れることができるようになるかもしれないと考えた。
まだ俺の不死性は証明できていなかったから、このままではせっかくの被験体が無駄死にすると思ったんだな。
法王とその他の司祭の対立により、内輪揉めが始まった。
──その隙を突く形で、俺は牢獄を逃げ出すことになる。
俺の脱獄には、あるひとりの医学者が手を貸してくれた。
その男は俺の実験に携わっていた一人だったんだが……とにかく変わっていた。はっきり、変人だったと言おうか。
いつもへらへらと笑っているのに、時々妙に鋭く指摘することもあって、捉えどころのない人物だと同僚からは敬遠されていた。
研究者の中で唯一、実験体である俺や亜種たちを人間扱いしていたことも、そこの基準においては異質だったんだろう。
『ここから逃がしてやる』──へらへら笑いながらそう俺に言った男は、『アスクレア・ガレノス』と名乗った。
俺はその言葉の意味が理解できなかった。
混乱したんじゃなく……その時の俺は頭が働いていなかったんだ。
後から思い返せば、それは自己防衛だったんだろう。
感覚や感情を鈍らせることで、心が壊れる寸前で踏み止まっていた。身体と心が切り離されているような……意識だけが宙に浮いて、自分の身体を見下ろしているような、そんな感覚だ。
ガレノスは反応がないことを想定していたようで、勝手に鍵を開けて鉄格子を越えると、ピクリとも動かない俺に勝手に司祭服を着せた。
俺を変装させると、無気力な身体を引きずって牢獄から出し、勝手に肩を貸して歩き出した。
そこまできても俺は、自分がなにをしているのか分かっていない状況が続いていて、なんだか耳がキーンとするなとぼんやり思ったくらいだった。
どこをどう歩いたのか全く記憶がないまま、気がついた時には、目の前に夜空が広がっていた。
約七年ぶりの、空──十年も二十年も経ったように思っていたが、実際には七年。それが、俺が地獄で過ごした時間だ。
空を見て少しずつ、俺は正気を取り戻していく。
耳がキーンとしていたのは、ガレノスが耳元で喋り続けていたからだということ、協力者がいたのか道々で女性の声が聴こえたこと、昔の坑道を抜けて山腹に辿り着いたこと──聴こえていた、見えていたのに頭まで届いていなかった出来事が、だんだんと思い出されてきた。
『悪いが、こっから先は自力でなんとかしてくれ』
全く悪いとは思っていない顔で、ガレノスは言い放った。俺は話すことも忘れていたから、その時言い返すこともできなかったな。
今思えば、あいつはかなり無責任だった。
俺は七年も牢獄にいたんだ。いくら頑丈が取り柄でも、一人では歩けないほどに足腰は弱っていたし、頼りもなければ、これから追われる立場になる。
それなのにあいつは……本当にそのまま放り出してくれた。
俺を逃した理由も、かなり自分勝手だった。
曰く、『俺は自分の目で見たことしか信じない。だからお前が不老だってのも、俺はまだ信じてない。俺が確かめる前に死なれちゃ困る』だ、そうだ。
しかも『あと十年……いや、二十年くらい経ったら、俺を訪ねて来い。本当に年を取っていなかったら、その時に信じてやる』と偉そうな注文つきだった。
それでも──俺はあいつに救われた。
地下牢から逃がしてくれたことだけじゃない。ガレノスの言葉が、その後の俺を生かした。
『俺は知りたいんだ。解らないことをそのままにしておくなんて、我慢ならない。知りたいことを知るためなら、俺は悪魔にだって魂を売る』
──実際にガレノスは、それを実践していた。
聖教会が独占している知識を得るために、主義に反する人体実験にも加担していたんだからな。
『知りたい』──その言葉が、虚ろな俺の中にぽつんと残った。
ガレノスの捨て台詞は、『二十年だぞ。それだけ時間があれば、俺も聖教会中の本を読破できる。そしたら、故郷に帰って医者をやるつもりだ。お前がその時まで生きていたら、会いに来い。いや!絶対に生きていろっ!そんで、恩を返せ!約束だぞ!!』
──横暴にしか思えないその言葉が、無気力な俺の手足を動かした。
ガレノスとの出会いもまた、大きな転機となった。
***
脱獄後、俺がなんとか生き延びることができたのは、脱出した先が大山脈の山腹だったからだ。
元はドワーフから広まった信仰だが、大山脈は古来より神聖とされていて、頂上を目指して山を登ることは禁忌と避けられていた。
『大山脈を越えることならず』という言い伝えは、今では薄れかけて──と言うより忘れかけて、か──いるが、当時は聖教会も一応は守っていたんだ。
だから、追手も躊躇した。
躊躇している間に、俺は山中で体力を回復することができ、そのまま下山せずに移動することで、本部から離れることができた。長く鉱山で働いてきたから、山には慣れていたしな。
それから、脱獄後間もなく法王が死んだことも、俺の逃走を助けた。おかげで聖教会内は、次の法王の座をかけた争いに集中し、俺のことに拘っている暇がなくなったんだ。
俺は、西へと移動した。
はっきりとした目的はなかったが、ガレノスの故郷が聖教会本部より西にあると聞かされたから、それが頭の隅に残っていたのかもしれん。
本部から十分な距離を取ってから、びくびくしながら山を下りると、七年ぶりに見る外の世界は、あいも変わらず戦の真っ最中だった。
だがそれは、その時の俺にとっては歓迎すべき状況だ。
薄汚れた身なりでも、やせ細った身体でも目立たない。人々は自分が生きることで精一杯だから、見慣れない俺のことも詮索したりしない。
難民たちに紛れて移動していると、盗賊から身を守るため、自然と若い男が自警団のような役割を果たすことになり、俺も一緒に剣を取った。
──その時、初めて人を殺した。
忘れられない感覚だったな。
人の命を奪ったことに罪悪を感じるより、他人を殺してまで生きようとした自分自身に驚いた。
人間、追い込まれると思考が単純になるものなのかもしれん。
生きているのだから生きなければと、それで開き直った。
その後、難民を警護していた傭兵と知り合いになって、剣を習っていたら、そいつの傭兵団に勧誘された。
当時はまだギルドなんてものはなかったから、傭兵なんぞどこの馬の骨かという扱いだったが、だからこそ俺でも、剣の腕次第でどうとでも生きていけると思ってな、渡りに船と乗った。
傭兵たちは気のいい奴らばかりだった。
明日には死ぬかもしれないという刹那的な生き方は、その時の俺とも合っていたしな。
いくつもの戦場を渡り歩いているうちに、剣の腕も上がっていく。戦争だけはなくならないから、仕事は余るほどあった。
俺が傭兵をやっている間に、西の海では人魚と人間の大きな戦いがあったらしい。俺は直接参加していないが、終結してから海岸近くまで行ったことがある。
……惨憺たる様だった。
海はどす黒く血で染まっていて、人魚なのか人間なのか判別できない死体がそこかしこに浮いているような。
勝敗で言えば、人間側の勝ちだった。
それ以降だな。人間が人魚を『飼う』ことが流行るようになったのは。人間にとって人魚が、戦う相手ではなく、狩る獲物になってしまったんだ。
***
傭兵稼業は俺に向いていた。
組む仲間を変え、戦場を移り、他人と深く関わらないように生き延びているうちに、ガレノスと約束した二十年が過ぎていた。
もう八十歳近いはずなのに、俺の見た目は全く変わっていない。それは疑いようのない事実なのに、その時はまだ現実感がなかった。
──だから、時間の残酷さを想像できていなかった。
俺はなんの心構えもせずに、ガレノスの故郷を訪ねた。スミュルナという海を望む綺麗な町で、ほどよい田舎といった落ち着きがあった。
町でヤツの名前を出すと、すぐに家を教えてくれた。変わり者で困ったという苦笑いの中に、自慢の医者だという誇らしさを交えて。
町の外れの高台に、ガレノスの家はあった。
家の前で洗濯を干していた中年の女性が、俺の顔を見るや慌てふためいて家の中へと入ると、同じ年代の男を伴って出て来た。
『……よしよし、約束を覚えていたな』
年を食ったガレノスを目の当たりにして、愕然とした。
その時の衝撃は、自分が異常だと思い知った瞬間よりも、よほど大きかった。
白髪混じりの髪に、シワが刻まれた顔──俺を逃した時に三十前後だったんだから、それから二十年も経てば、こうなるのは当たり前だ。
その当たり前を、この時まで本当の意味で理解していなかったことに気づいた。
俺以外のヒトは、年を取る。
年を重ねて、いつか死を迎える。
ガレノスの白髪やシワの先に待っている『死』に、横っ面を思いっきり引っ叩かれて、ずっと行方不明だった現実感が、やっと戻ったんだ。
『なんだなんだ?お前の方がびっくりしてるじゃないか』
……ガレノスは俺と違って、心構えができていたんだろう。二十年前と同じへらへらとした笑いで、家へと迎え入れた。
俺の逃亡に関して、ガレノスは聖教会から疑いは持たれたらしいが、なんだかんだ優秀な医者だったことと、同僚や司祭たちの弱みを握りまくっていて、それをチラつかせることで曖昧なまま押し切ったんだと。
それからも聖教会に十五年居座って、それから故郷に戻ってきたらしい。
医者として人々を診ることもあるが、本人は『俺は医学者だ』と研究を本業として、自宅兼研究所にこもる日々を過ごしていたようだ。
俺の不老性を自分の目で確かめたガレノスは、それまで俺には知らされなかった聖教会が掴んだ情報を、余すことなく教えてくれた。
その中で最も興味を引いたのは、俺の出生について──記憶以前の過去のことだった。
親や、どういう経緯で孤児院に入ったかなどについて、俺自身が持つ情報は少なかった。
孤児院の司祭は、そういうことを丁寧に説明してくれるような人物ではなかったからな。代わりに年長の孤児たちから、少しだけ話を聞いたことがあった。
俺はどうやら、別の村からあの孤児院にやって来たらしいこと、そしてその村は、なにかの災害で村ごと消滅したこと──。
聖教会は俺から聞き出したその情報を元に、俺の生まれ故郷を探してみたらしい。
しかし孤児院の司祭は戦争で死んでいるし、孤児院どころか町そのものが焼けたから、資料も残っていない、当時を知る人もいないで、かなり難航したんだとか。
だがなんとか、場所の当たりをつけることができた。
俺がいた孤児院の近くで、俺がちょうど生まれたくらいの時期に起きた、村ごと消滅するような大きな災害を探したんだ。
──その村は、渓谷の終わりにあった。山津波によって谷が崩れ、その土砂が堰堤のように川をせき止め、村は丸ごと水の中に沈んだ。
生き残ったのは俺だけだったのか、誰が俺を孤児院まで連れてきたのか……人も記録もなく、その疑問を知る術はなかった。
結局、聖教会はそこで断念した。
俺の故郷かもしれないその村跡に、ガレノスは一度足を運んでみたそうだ。しかし聖教会が諦めるのも納得がいくくらい、なにも残ってはいなかったと教えてくれた。
俺はそれを聞いて……櫂を喪った舟のような寄る辺なさを感じた。
どこへ向かえばいいのか分からない。どうやって進めばいいのか分からない。
二十年、ガレノスとの『約束』が生きる目的になっていた俺は、再会を果たしたことで無気力になりかけていた。
そんな俺を知ってか知らずか、ガレノスは当たり前のようにこう続けた。
『それじゃあ、研究を再開しよう』
……まるで昨日の続きのように宣言すると、風邪の診察のような気軽さで、俺の身体を調べ始めた。
おかげで俺は、流されるまま協力させられることになった。
──二十年とちょっと、か。俺がガレノスの家で過ごした時間は。
最終的に、七十四でガレノスが逝くまで、俺はそこで世話になった。
主な目的はもちろん、俺の身体の調査だった。
俺自身も積極的に協力し、自分のことを少しずつ知っていく。
力を制御する方法、反対に力を解放するやり方、自分の限界、できること、できないこと──。
ガレノスの『知りたい』という知識欲は、本当に純粋なものだった。
自分の利益には繋がらないようなことでも、ただ知りたいというだけで突き進み、他の人にとってはくだらないようなことでも、気になったらとことん突き詰める。
あいつの知識欲に感化されて、次第に俺にも『知りたい』という欲求が根づいていた。
──『自分が何者なのか知りたい』
ここが出発点だ。
ガレノスと俺は、昼夜を忘れて没頭した。
研究対象は俺だけにとどまらず、人間から亜種、そしてドワーフや人魚、さらに動物や植物まで、あらゆる生態にまで手を広げ、時々、病気の治療法や新しい薬を作りつつ、果てには歴史や世界の成り立ちまで──。
それまで簡単な読み書きしかできなかった俺も、その年月で古語や古代文字まで読み解けるようになっていた。
老化しない俺が、二十年も同じ場所に居続けられたのは、ガレノスが変人だったおかげ、だな。
町から離れたガレノスの家には、やつの家族以外はまず訪ねて来なかった。そしてその家族たちが買い物やら外での用事を済ませてくれるから、俺だけでなくガレノスすら平気で、一年も二年も家の中に閉じこもっていられたんだ。
その家族たちもかなりの変わり者ぞろいでな。
俺が初めてガレノスの家を訪ねた際に、洗濯を干していた女性はガレノスの妻の一人で、元は聖教会の下働きをしていたらしく、だから俺の顔も知っていた。
『一人』と言ったからには、二人目はもちろん、三人目までいてな、その二人は元は聖教会の実験体だった。
ガレノスが自分の助手にして、囚人から解放したらしい。
この三人は、やつが俺の脱獄を助けた時の協力者でもあった。
彼女たちとガレノスの間には、それぞれ子どももいて、さらに孫までいたが、父親以外は町の中心部で暮らしていた。それも、全員一緒に、だ。
母親三人に子どもが五人。誰が誰の子どもで誰の母親なのか関係なく、三人一緒に子育てをしたらしい。
俺が訪ねた頃には上の三人はもう自立していて、さすがはガレノスの血を引くだけあって、医者や学者になっていた。
母親である三人も、助手をしているうちに医術を身につけたらしく、町ではガレノスがいなくとも充分だったようで、父親に面倒を見てもらうよりも、みんなで父親の面倒を見ている感じだったな。
時にはその子どもたちや、それから孫まで加わって、時間を忘れて議論する日々──初めて訪れた、穏やかな日常。
──それを崩したのはやはり、逃れられない時の流れだ。
ガレノスを見送って、俺は家を出た。
子どもや孫たちは『また来て』と言ってくれたが……俺がスミュルナに足を踏み入れることは、二度となかった。
今はもう、『スミュルナ』という地名さえなくなっている。
その地が戦火に飲まれ、国名が変わり、地名が変わったことを俺が知るのは、もっとずっと後のこと。
***
百歳に迫ろうかという俺は、傭兵時代に身につけた剣の腕と、ガレノスに叩き込まれた知識を駆使して、もっと広い世界の知識を集めようと旅を始めた。
親の情報はなく、子どもも生まれないのだから、俺のこの特殊性が受け継がれる類のものなのかどうかは、検証することができない。
だから俺は、自分以外を探すことにしたんだ。
過去に俺と同じような存在はいなかったか、その記録を探して、各地の歴史や神話を紐解いていく。
その過程で、聖教会が俺の存在をどうしても忘れてはくれないことを思い知る。
逃がした魚が実際よりも大きかったと信じ込んでいるのか、執拗に聖教会圏内で手配されていた。似顔絵や身体的特徴なんかを描いた手配書が、各地の聖教会に貼られていて、何度も声をかけられた。
まあ、とは言え俺は、髪も瞳も珍しい色ではないし、傭兵時代を経て体つきも変わり、聖教会が知らない傷なんかも増えていたから、似ていると言われても誤魔化すことはできた。
色々経験して、俺も図太くなっていたしな。
──それよりも気をつけなければならなかったのは、普通の人々の方だった。
過去に立ち寄ったことにある街へうっかり戻って、『あの男、十年前とちっとも変わっていない』と騒がれないように。
それから、貴族や王族連中が途中から参戦してきたおかげで、気苦労が増えた。
おそらく聖教会から情報が漏れたんだろう。『不老不死』という尾ひれがついて、死を恐れるお偉方の間で、俺は密かに話題になっていた。
血眼になって探す前に、俺の血を飲んでも永遠の命は手に入らなかった憐れな法王のことを調べるべきだったのに……──尾ひれに背びれにえらもついて、いつの間にか、その不老不死の化け物を手に入れれば自分も不老不死になれるという、おかしな伝説まで出来上がっていたぞ。
噂話なら、時間が経つごとに人々の記憶から薄れていくものだが、伝説は反対だった。時間が経つほど、なぜか真実味を帯びて語り継がれていく。
人間の国で何度か捕らわれそうになった俺は、ドワーフの国へと一度拠点を移すことにした。
それが……百四十歳か、そのくらいの時期だ。
どこでどう繋がるか分からないからと、少しでも不思議な伝承や噂があれば、片っ端から調べまくった。
当時のドワーフの国は、今よりもっと閉鎖的でよそ者に厳しかったが、一度懐に入れた者は家族同然に扱ってくれて……毎晩のように酒盛りをしたことを憶えている。
その十年で一生分の量を飲まされたおかげで、どれだけ飲んでも酔えなくなったのは、よかったのか悪かったのか。
***
……ドワーフの国を十年回り、それから北東の人間の国に渡った。そこでまた転機が訪れる。
ある兄妹との出会い──お前たちもアスカの騒動の時に名前は聞いただろう?ローランドとローサ──あの強引な兄妹に巻き込まれて、ヴェルドット建国なんていう壮大な夢に付き合うことになった。
それが今から約二百年前のこと。
そのほとんどは、亜種だ。特に身体的に特徴が出た者たちが、鉱山跡に造られた地下牢に繋がれていた。
太陽の光が全く届かないそこでは、一週間もすれば狂い始める。発狂し、正気を失って、そのまま死んでいく者ばかり。
聖教会は俺のことも、当初はただの亜種だと思っていた。
幼少期で成長を止めるという、ラークのような妖精の亜種の存在を知っていたため、それの変種のようなものだろうと考えていたらしい。
聖教会が亜種を捕らえる理由は、権威づけだった。
『奇怪な子どもが生まれるのは信仰心が足りないから』と信仰を強要し、『異教徒が生み出した化け物だ』と他宗教を否定する材料にし、『我々聖教会だけが怪物を退治できる』と正義の味方を気取った。亜種を生贄として利用したんだ。
そして最後まで、利用し尽くす──聖教会は彼らを使って人体実験を行っていた。
その内容は、主に病気の治療のためだ。新しい薬の実験体が多かった。
それから、長寿の研究も。──とは言え当時はまだ『不老不死』などという荒唐無稽な目的ではなく、もう少し現実的な、寿命を延ばすことや若さを保つことを求めていた。
そのため妖精の亜種だと思われた俺は、長寿の研究の格好の材料となった。
──そこでなにをされたかは、割愛しよう。あまり聞いて気分のいい話ではない。
結果だけ言えば、一年ほどの実験の末、俺は妖精の亜種ではないと証明されることとなる。
幼少期で成長が止まったように見える妖精の亜種も、それはそう見えるというだけで、実際にはちゃんと年を取っていく。通常よりも成長の頂点に達するのが早いというだけなんだ。
通常は二十代前半くらいまで成長し、その後成熟、そして老化していくが──例えばラークは、七歳で成長段階が終わり、その後の成熟期間が長くなるが、最終的に老化していくことには変わりない。
どれだけ見た目を若く保とうが、寿命はそれほど変わらないものだ。
しかし俺の身体は、違っていた。
二十代までの成長過程は、なんら普通の人間と変わりないのに、その後の三十年ずっと成熟期間が続き、全く老化が始まっていなかった。始まる気配すら、なかったんだ。
実験を主導していた研究者からそれを報告された司祭たちは、信じる前に疑った。五十歳の男が二十代の肉体を保っていると信じるより、そもそもの年齢が間違っていたのではないかと疑った訳だ。
司祭たちは俺の経歴を辿り、聖教会で二十年、聖石の鉱山で十年、そしてその鉱山に来た時点ですでに、どう見ても『大人』になっていたという事実を知る。
疑い深い司祭がそれ以前を調べさせ、孤児院時代まで辿り着いて──やっと俺の実年齢に確信を持った。
──信じられてしまった訳だ。俺が妖精の亜種とも違う、唯一の存在であることに。
それから俺は……ある意味特別扱いになった。
特別に熱を入れて、実験してくれるようになって、俺は休む暇もないほどだったさ。
だがそれで明らかになったことは、聖教会が期待していたほどの結果ではなかった。
やつらの期待よりも、俺は案外、普通だったんだな。
頑丈とは言え、病気にもかかれば怪我も負う。まあ、常人よりは怪我の治りが早く、病気にも強いらしいが……例えば、怪我が一瞬で治ったり、どんな病気にもかからないような、はっきりと目に見えるほどの超人的な能力ではない。
亜種──俺はこの地下牢で初めてこの呼称を知るんだが──の能力が全て備わっていて、他の亜種のように苦手がないとは言え、肉体的には人間そのもの。
なにか特別な器官があったり特別な血が流れているでなく、亜種以上であっても神の如き万能ではない。
それから……子孫を残す能力がないこと──。
メイには前に話したことがあったが、俺には子どもができない。純血のように生殖機能がないのではなく、生殖能力がないんだろうな。……もっと露骨な言い方をするなら、いわゆる『子種がない』んだ。
実験の一環として、まあ、なんと言うか……繁殖行為をさせられて、それが判明した。
──……俺は、むしろよかったと思った。絶望より、安心したことを憶えている。
もし本当に子どもができてしまっていたら、子どもも生まれた瞬間から俺と同じ道を辿るだけだっただろうから。不幸な子どもを生み出さなかったことは、せめてもの救いだった。
そして、このことが証明されるころには、俺に対する実験が、もう一段階引き上げられることになる。
それまで最低限、死なない程度の配慮があったものが、次は『死んでも構わない』段階まで……いやむしろ、『死ぬかどうかを知る』段階だ。
『不老』の証明を諦めて『不死』へと方針転換したってワケだ。
そこには、急ぐ理由があった。
聖教会の非人道的な実験は、何百年もこっそり受け継がれてきたものではあったが、その方針はその時々の最高権力者・法王の意向によって左右されてきた。
俺が捕らえられた当時の法王はかなりの老体で、己の病気を治すため、己の寿命を延ばすためという、個人的な目的が強く出ていて、それも、かなり切羽詰まっていた。
法王は俺の血を飲んでみたり、輸血してみたり、色々と試してはみたが、全くと言っていいほど効果はなく、とうとう最終手段にすがりついた。
──俺の心臓を取り出して食べるという、悪魔的な方法を試してみたくなったんだと。
法王以外の司祭たちは、猛反対したらしい。
まあそれも、正義感からや怖気づいたからではなく、ここで簡単に殺すのは惜しいという利己的な理由だったが。
時間がない法王とは違って他の司祭たちは、もっと時間をかければ、俺の不老性を自分にも取り入れることができるようになるかもしれないと考えた。
まだ俺の不死性は証明できていなかったから、このままではせっかくの被験体が無駄死にすると思ったんだな。
法王とその他の司祭の対立により、内輪揉めが始まった。
──その隙を突く形で、俺は牢獄を逃げ出すことになる。
俺の脱獄には、あるひとりの医学者が手を貸してくれた。
その男は俺の実験に携わっていた一人だったんだが……とにかく変わっていた。はっきり、変人だったと言おうか。
いつもへらへらと笑っているのに、時々妙に鋭く指摘することもあって、捉えどころのない人物だと同僚からは敬遠されていた。
研究者の中で唯一、実験体である俺や亜種たちを人間扱いしていたことも、そこの基準においては異質だったんだろう。
『ここから逃がしてやる』──へらへら笑いながらそう俺に言った男は、『アスクレア・ガレノス』と名乗った。
俺はその言葉の意味が理解できなかった。
混乱したんじゃなく……その時の俺は頭が働いていなかったんだ。
後から思い返せば、それは自己防衛だったんだろう。
感覚や感情を鈍らせることで、心が壊れる寸前で踏み止まっていた。身体と心が切り離されているような……意識だけが宙に浮いて、自分の身体を見下ろしているような、そんな感覚だ。
ガレノスは反応がないことを想定していたようで、勝手に鍵を開けて鉄格子を越えると、ピクリとも動かない俺に勝手に司祭服を着せた。
俺を変装させると、無気力な身体を引きずって牢獄から出し、勝手に肩を貸して歩き出した。
そこまできても俺は、自分がなにをしているのか分かっていない状況が続いていて、なんだか耳がキーンとするなとぼんやり思ったくらいだった。
どこをどう歩いたのか全く記憶がないまま、気がついた時には、目の前に夜空が広がっていた。
約七年ぶりの、空──十年も二十年も経ったように思っていたが、実際には七年。それが、俺が地獄で過ごした時間だ。
空を見て少しずつ、俺は正気を取り戻していく。
耳がキーンとしていたのは、ガレノスが耳元で喋り続けていたからだということ、協力者がいたのか道々で女性の声が聴こえたこと、昔の坑道を抜けて山腹に辿り着いたこと──聴こえていた、見えていたのに頭まで届いていなかった出来事が、だんだんと思い出されてきた。
『悪いが、こっから先は自力でなんとかしてくれ』
全く悪いとは思っていない顔で、ガレノスは言い放った。俺は話すことも忘れていたから、その時言い返すこともできなかったな。
今思えば、あいつはかなり無責任だった。
俺は七年も牢獄にいたんだ。いくら頑丈が取り柄でも、一人では歩けないほどに足腰は弱っていたし、頼りもなければ、これから追われる立場になる。
それなのにあいつは……本当にそのまま放り出してくれた。
俺を逃した理由も、かなり自分勝手だった。
曰く、『俺は自分の目で見たことしか信じない。だからお前が不老だってのも、俺はまだ信じてない。俺が確かめる前に死なれちゃ困る』だ、そうだ。
しかも『あと十年……いや、二十年くらい経ったら、俺を訪ねて来い。本当に年を取っていなかったら、その時に信じてやる』と偉そうな注文つきだった。
それでも──俺はあいつに救われた。
地下牢から逃がしてくれたことだけじゃない。ガレノスの言葉が、その後の俺を生かした。
『俺は知りたいんだ。解らないことをそのままにしておくなんて、我慢ならない。知りたいことを知るためなら、俺は悪魔にだって魂を売る』
──実際にガレノスは、それを実践していた。
聖教会が独占している知識を得るために、主義に反する人体実験にも加担していたんだからな。
『知りたい』──その言葉が、虚ろな俺の中にぽつんと残った。
ガレノスの捨て台詞は、『二十年だぞ。それだけ時間があれば、俺も聖教会中の本を読破できる。そしたら、故郷に帰って医者をやるつもりだ。お前がその時まで生きていたら、会いに来い。いや!絶対に生きていろっ!そんで、恩を返せ!約束だぞ!!』
──横暴にしか思えないその言葉が、無気力な俺の手足を動かした。
ガレノスとの出会いもまた、大きな転機となった。
***
脱獄後、俺がなんとか生き延びることができたのは、脱出した先が大山脈の山腹だったからだ。
元はドワーフから広まった信仰だが、大山脈は古来より神聖とされていて、頂上を目指して山を登ることは禁忌と避けられていた。
『大山脈を越えることならず』という言い伝えは、今では薄れかけて──と言うより忘れかけて、か──いるが、当時は聖教会も一応は守っていたんだ。
だから、追手も躊躇した。
躊躇している間に、俺は山中で体力を回復することができ、そのまま下山せずに移動することで、本部から離れることができた。長く鉱山で働いてきたから、山には慣れていたしな。
それから、脱獄後間もなく法王が死んだことも、俺の逃走を助けた。おかげで聖教会内は、次の法王の座をかけた争いに集中し、俺のことに拘っている暇がなくなったんだ。
俺は、西へと移動した。
はっきりとした目的はなかったが、ガレノスの故郷が聖教会本部より西にあると聞かされたから、それが頭の隅に残っていたのかもしれん。
本部から十分な距離を取ってから、びくびくしながら山を下りると、七年ぶりに見る外の世界は、あいも変わらず戦の真っ最中だった。
だがそれは、その時の俺にとっては歓迎すべき状況だ。
薄汚れた身なりでも、やせ細った身体でも目立たない。人々は自分が生きることで精一杯だから、見慣れない俺のことも詮索したりしない。
難民たちに紛れて移動していると、盗賊から身を守るため、自然と若い男が自警団のような役割を果たすことになり、俺も一緒に剣を取った。
──その時、初めて人を殺した。
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その後、難民を警護していた傭兵と知り合いになって、剣を習っていたら、そいつの傭兵団に勧誘された。
当時はまだギルドなんてものはなかったから、傭兵なんぞどこの馬の骨かという扱いだったが、だからこそ俺でも、剣の腕次第でどうとでも生きていけると思ってな、渡りに船と乗った。
傭兵たちは気のいい奴らばかりだった。
明日には死ぬかもしれないという刹那的な生き方は、その時の俺とも合っていたしな。
いくつもの戦場を渡り歩いているうちに、剣の腕も上がっていく。戦争だけはなくならないから、仕事は余るほどあった。
俺が傭兵をやっている間に、西の海では人魚と人間の大きな戦いがあったらしい。俺は直接参加していないが、終結してから海岸近くまで行ったことがある。
……惨憺たる様だった。
海はどす黒く血で染まっていて、人魚なのか人間なのか判別できない死体がそこかしこに浮いているような。
勝敗で言えば、人間側の勝ちだった。
それ以降だな。人間が人魚を『飼う』ことが流行るようになったのは。人間にとって人魚が、戦う相手ではなく、狩る獲物になってしまったんだ。
***
傭兵稼業は俺に向いていた。
組む仲間を変え、戦場を移り、他人と深く関わらないように生き延びているうちに、ガレノスと約束した二十年が過ぎていた。
もう八十歳近いはずなのに、俺の見た目は全く変わっていない。それは疑いようのない事実なのに、その時はまだ現実感がなかった。
──だから、時間の残酷さを想像できていなかった。
俺はなんの心構えもせずに、ガレノスの故郷を訪ねた。スミュルナという海を望む綺麗な町で、ほどよい田舎といった落ち着きがあった。
町でヤツの名前を出すと、すぐに家を教えてくれた。変わり者で困ったという苦笑いの中に、自慢の医者だという誇らしさを交えて。
町の外れの高台に、ガレノスの家はあった。
家の前で洗濯を干していた中年の女性が、俺の顔を見るや慌てふためいて家の中へと入ると、同じ年代の男を伴って出て来た。
『……よしよし、約束を覚えていたな』
年を食ったガレノスを目の当たりにして、愕然とした。
その時の衝撃は、自分が異常だと思い知った瞬間よりも、よほど大きかった。
白髪混じりの髪に、シワが刻まれた顔──俺を逃した時に三十前後だったんだから、それから二十年も経てば、こうなるのは当たり前だ。
その当たり前を、この時まで本当の意味で理解していなかったことに気づいた。
俺以外のヒトは、年を取る。
年を重ねて、いつか死を迎える。
ガレノスの白髪やシワの先に待っている『死』に、横っ面を思いっきり引っ叩かれて、ずっと行方不明だった現実感が、やっと戻ったんだ。
『なんだなんだ?お前の方がびっくりしてるじゃないか』
……ガレノスは俺と違って、心構えができていたんだろう。二十年前と同じへらへらとした笑いで、家へと迎え入れた。
俺の逃亡に関して、ガレノスは聖教会から疑いは持たれたらしいが、なんだかんだ優秀な医者だったことと、同僚や司祭たちの弱みを握りまくっていて、それをチラつかせることで曖昧なまま押し切ったんだと。
それからも聖教会に十五年居座って、それから故郷に戻ってきたらしい。
医者として人々を診ることもあるが、本人は『俺は医学者だ』と研究を本業として、自宅兼研究所にこもる日々を過ごしていたようだ。
俺の不老性を自分の目で確かめたガレノスは、それまで俺には知らされなかった聖教会が掴んだ情報を、余すことなく教えてくれた。
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俺はそれを聞いて……櫂を喪った舟のような寄る辺なさを感じた。
どこへ向かえばいいのか分からない。どうやって進めばいいのか分からない。
二十年、ガレノスとの『約束』が生きる目的になっていた俺は、再会を果たしたことで無気力になりかけていた。
そんな俺を知ってか知らずか、ガレノスは当たり前のようにこう続けた。
『それじゃあ、研究を再開しよう』
……まるで昨日の続きのように宣言すると、風邪の診察のような気軽さで、俺の身体を調べ始めた。
おかげで俺は、流されるまま協力させられることになった。
──二十年とちょっと、か。俺がガレノスの家で過ごした時間は。
最終的に、七十四でガレノスが逝くまで、俺はそこで世話になった。
主な目的はもちろん、俺の身体の調査だった。
俺自身も積極的に協力し、自分のことを少しずつ知っていく。
力を制御する方法、反対に力を解放するやり方、自分の限界、できること、できないこと──。
ガレノスの『知りたい』という知識欲は、本当に純粋なものだった。
自分の利益には繋がらないようなことでも、ただ知りたいというだけで突き進み、他の人にとってはくだらないようなことでも、気になったらとことん突き詰める。
あいつの知識欲に感化されて、次第に俺にも『知りたい』という欲求が根づいていた。
──『自分が何者なのか知りたい』
ここが出発点だ。
ガレノスと俺は、昼夜を忘れて没頭した。
研究対象は俺だけにとどまらず、人間から亜種、そしてドワーフや人魚、さらに動物や植物まで、あらゆる生態にまで手を広げ、時々、病気の治療法や新しい薬を作りつつ、果てには歴史や世界の成り立ちまで──。
それまで簡単な読み書きしかできなかった俺も、その年月で古語や古代文字まで読み解けるようになっていた。
老化しない俺が、二十年も同じ場所に居続けられたのは、ガレノスが変人だったおかげ、だな。
町から離れたガレノスの家には、やつの家族以外はまず訪ねて来なかった。そしてその家族たちが買い物やら外での用事を済ませてくれるから、俺だけでなくガレノスすら平気で、一年も二年も家の中に閉じこもっていられたんだ。
その家族たちもかなりの変わり者ぞろいでな。
俺が初めてガレノスの家を訪ねた際に、洗濯を干していた女性はガレノスの妻の一人で、元は聖教会の下働きをしていたらしく、だから俺の顔も知っていた。
『一人』と言ったからには、二人目はもちろん、三人目までいてな、その二人は元は聖教会の実験体だった。
ガレノスが自分の助手にして、囚人から解放したらしい。
この三人は、やつが俺の脱獄を助けた時の協力者でもあった。
彼女たちとガレノスの間には、それぞれ子どももいて、さらに孫までいたが、父親以外は町の中心部で暮らしていた。それも、全員一緒に、だ。
母親三人に子どもが五人。誰が誰の子どもで誰の母親なのか関係なく、三人一緒に子育てをしたらしい。
俺が訪ねた頃には上の三人はもう自立していて、さすがはガレノスの血を引くだけあって、医者や学者になっていた。
母親である三人も、助手をしているうちに医術を身につけたらしく、町ではガレノスがいなくとも充分だったようで、父親に面倒を見てもらうよりも、みんなで父親の面倒を見ている感じだったな。
時にはその子どもたちや、それから孫まで加わって、時間を忘れて議論する日々──初めて訪れた、穏やかな日常。
──それを崩したのはやはり、逃れられない時の流れだ。
ガレノスを見送って、俺は家を出た。
子どもや孫たちは『また来て』と言ってくれたが……俺がスミュルナに足を踏み入れることは、二度となかった。
今はもう、『スミュルナ』という地名さえなくなっている。
その地が戦火に飲まれ、国名が変わり、地名が変わったことを俺が知るのは、もっとずっと後のこと。
***
百歳に迫ろうかという俺は、傭兵時代に身につけた剣の腕と、ガレノスに叩き込まれた知識を駆使して、もっと広い世界の知識を集めようと旅を始めた。
親の情報はなく、子どもも生まれないのだから、俺のこの特殊性が受け継がれる類のものなのかどうかは、検証することができない。
だから俺は、自分以外を探すことにしたんだ。
過去に俺と同じような存在はいなかったか、その記録を探して、各地の歴史や神話を紐解いていく。
その過程で、聖教会が俺の存在をどうしても忘れてはくれないことを思い知る。
逃がした魚が実際よりも大きかったと信じ込んでいるのか、執拗に聖教会圏内で手配されていた。似顔絵や身体的特徴なんかを描いた手配書が、各地の聖教会に貼られていて、何度も声をかけられた。
まあ、とは言え俺は、髪も瞳も珍しい色ではないし、傭兵時代を経て体つきも変わり、聖教会が知らない傷なんかも増えていたから、似ていると言われても誤魔化すことはできた。
色々経験して、俺も図太くなっていたしな。
──それよりも気をつけなければならなかったのは、普通の人々の方だった。
過去に立ち寄ったことにある街へうっかり戻って、『あの男、十年前とちっとも変わっていない』と騒がれないように。
それから、貴族や王族連中が途中から参戦してきたおかげで、気苦労が増えた。
おそらく聖教会から情報が漏れたんだろう。『不老不死』という尾ひれがついて、死を恐れるお偉方の間で、俺は密かに話題になっていた。
血眼になって探す前に、俺の血を飲んでも永遠の命は手に入らなかった憐れな法王のことを調べるべきだったのに……──尾ひれに背びれにえらもついて、いつの間にか、その不老不死の化け物を手に入れれば自分も不老不死になれるという、おかしな伝説まで出来上がっていたぞ。
噂話なら、時間が経つごとに人々の記憶から薄れていくものだが、伝説は反対だった。時間が経つほど、なぜか真実味を帯びて語り継がれていく。
人間の国で何度か捕らわれそうになった俺は、ドワーフの国へと一度拠点を移すことにした。
それが……百四十歳か、そのくらいの時期だ。
どこでどう繋がるか分からないからと、少しでも不思議な伝承や噂があれば、片っ端から調べまくった。
当時のドワーフの国は、今よりもっと閉鎖的でよそ者に厳しかったが、一度懐に入れた者は家族同然に扱ってくれて……毎晩のように酒盛りをしたことを憶えている。
その十年で一生分の量を飲まされたおかげで、どれだけ飲んでも酔えなくなったのは、よかったのか悪かったのか。
***
……ドワーフの国を十年回り、それから北東の人間の国に渡った。そこでまた転機が訪れる。
ある兄妹との出会い──お前たちもアスカの騒動の時に名前は聞いただろう?ローランドとローサ──あの強引な兄妹に巻き込まれて、ヴェルドット建国なんていう壮大な夢に付き合うことになった。
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