三鍵の奏者

春澄蒼

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第六章 追憶の海に花束を浮かべて

90 悲しい告白

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「俺は少し席を外そう」
 カイトはそう言うと、壁に預けていた背中を取り戻す。「頭の中を整理する時間が必要だろう」

 カイトの気遣いに、仲間たちはふっと息をつく。溜まりに溜まった驚きは、本人の前では言葉にしにくい。カイトがいない場で、じっくりと衝撃に向き合う時間が必要なことを、誰もが感じていた。

 ──いや、ひとりだけ、その時間が必要ない人物が。

「カイト、どこ行くの?」
 早々と事実を受け入れたユエが、扉に向かいかけたカイトを引き止める。

「……どこ、ということもないが」
「俺も一緒に行く……っ」
 目の届かない場所へひとりで行かせまいと、ユエは海の中から必死に手を伸ばしている。


 カイトは躊躇して、迷って、考えて──それから「わかった」と静かに返した。

「ヘイレン、どこか他の場所を貸してくれ」
「……海岸を東へ行くと、崖に洞窟がある。その奥に特等席があるから、そこを使ってくれや」

 ヘイレンからそのコテージの鍵を受け取る際に、カイトは周りには聞こえない声で「……後は任せた」と呟く。

 一瞬怯んだヘイレンから奪うように鍵を手に収めると、カイトはもう何も言うことはないとばかりに背を向ける。


「カイト、連れてって」
「……人間になればいい」
「今は、ちょっと……だから、カイトが運んで」


 押し問答にはせず、カイトは海の中からユエを抱き上げると、振り返ることなく部屋を出て行く。
 残された仲間たちは、戸惑いながらも背中を見送ることしかできなかった。



******

 世界は真夜中の静けさを思い出したが、疲れや眠気は誰の元にも戻ってこない。

「……びっくり、した」
 誰かの率直な感想を皮切りに、思い出したばかりの静けさがかき消えて、すぐに、明け方の鶏にも匹敵する騒々しさが訪れる。

 しかし驚きがひと段落すると、互いを様子見するような気詰まりの時間がやってきた。


「案外、冷静に受け止めてるな」
「これでか?」
 ヘイレンの評価をからかいだと受け取ったのか、アイビスが鼻白んだ声を出す。

「おう、想定よりずっと冷静だ。全面的に否定したり、話を聞くこと自体を拒否したり、嘘だと疑ってかかったり、騙していたとカイト責めたり……そうしなかっただけでも、上等だ」


 過去に秘密を知った仲間たちの例と比べると、今ここにいる者たちは受け止める準備ができていた。

 ユエのこと、アスカのこと、純血の存在、世界の成り立ち──常識を遥かに超える出来事を何度も経験してきたのだ。
 疑うべきは自分の目ではなく、常識だということが、自然と身についていた。

 カイトがこんな嘘をつく意味などないし、何より──ジャン・ノー存在がカイトの話を補強している。


「先に見ちゃったもんね、ジャン・ノーとカイトのやり取り。ジャン・ノーと知り合いだってだけで、カイトが百年前から生きてることの証拠になるよ」
「だなー。あれ見てなかったら俺だって、『うっそだー』って思わず言っちゃってたかも」

 ラークとヘロンの自己分析は、よく的を射ている。



「だが実際、そんなこと、本当にあり得るのか……?」
 しかし二人よりも頭の固いクウェイルは、猜疑心を捨てきれずに素直な感情を吐露する。

「なんだよ、おっさん。まだ信じらんねぇのかよー」
「……信じたくないのかもしれん」
「ぷっは!素直ー!」
「……どうやったらそう簡単に受け入れられるのか、教えて欲しいくらいだ」

 ヘロンのからかいにも反応せず、力なく肩を落とす。


 それに救いの手を差し伸べたのは、この場の誰よりも長く──二十年以上をかけてカイトを見極めてきたヘイレンだ。

「んー……だいたいさ、カイトの存在に拒否反応を示すヤツってのは、常識ってもんにとらわれ過ぎてるんだよなー」
「……それが普通だと思うが」
「俺だって常識なんてもんクソくらえとまでは言わねぇが、それこそが正義だとか正解だとか、そういう考えになるのは危ないと思うワケよ。だって常識っつーのは、作られるもんなんだからな」

 年上らしく諭すような口調になったヘイレンに、クウェイル以外も聞き入っている。

「例えば……さっきカイトの話に出てきた、大山脈についての言い伝え──『越えることならず』っての。今はそれが常識になってるだろ?でもよ、それは最初からそう決まってたってもんではないんだよ」
「どういう……?」

「先人たちが何度も挑んで、そのことごとくが失敗に終わった。その結果があって、『大山脈は越えられない』という常識が生まれたんだな」
「ふむ」
「それではここで問題」
「……は?」
「『大山脈を越えることならず』──この常識は正しいか否か?」

 指を差されたクウェイルは、ヘイレンの人差し指の先を不本意そうに払いのけながら、「正しいんじゃないのか」

「本当に?」
「誰ひとり成功者が出ていないのだから、もっともだろう」

 クウェイルの最終解答ファイナルアンサーを待っていたとばかりに、ヘイレンはチッチッチッ!と指を振る。

「俺はそうは考えなかったのさ」
「……じゃあ、どう考えたのだ?」
「『まだ、誰も成功していないだけ』」
「……はあ」
「または、『誰も知らないだけで、もしかしたら成功者がいるのかもしれない』」

 この答えに、アイビスが「なるほど」と頷いたのは、この話題がどうやってカイトに繋がるかに気づいたため。


「『三百年生きる人間』だって、もしかしたらカイト以外にも存在したかもしれないし、もしくは──」
「これから、生まれてくるのかもしれない」

 出来のいい生徒にニヤッと笑って、ヘイレンは立てる指を人差し指から親指に変える。

「そんなこと考えれば、常識や普通や当たり前なんて、あってないようなものだろ」
「そう……なのか?いや、でも」

 簡単には納得しないクウェイルに、ヘイレンは「悩め、悩め」とけしかける。「中途半端に分かった気になるより、よっぽどいいぜ」



 そう言われると……と、他の仲間たちもドキッとなったらしい。本当に自分は受け入れられているのだろうか、物分かりのいいフリをしてるだけなんじゃないか、と。


 さらにそこへ──「あのね、」意外なところから、今さらな爆弾が落ちてくる。

「ど、どうした、アスカ?」
 フェザントの服の袖を引っ張って、じっと視線をヘイレンに注いだアスカは「もう、言ってもいいの?」と周りには分からない質問をする。

 ヘイレンからどうぞと許可をもらったアスカは、大事な秘密を打ち明けるように声を潜める。

「あのね、カイトに口止めされてたから言わなかったけどね」
「口止め?」
「アスカじゃないの」
「……へ?」
「太陽の間の遺跡の文字を紙に書き写したのは、アスカじゃなかったの。あれは全部、カイトだったんだ」

「んん?どういうこった」
「カイトはね、太陽の間まで行ったんだ。お父さんもドワーフ王国の偉い人たちも辿り着けなかった地下でも、カイトは平気だったんだよ!」


 アスカから聞かされた新事実によって、再び大騒ぎが巻き起こる。
 ついでに、クウェイルの家でヘイレンがついた嘘もあばかれることになって、特にクレインから身も凍るような冷たい視線が浴びせかけられることとなった。


「待てよ……待て待て!っつーことはだな、カイトの能力は俺たちが考えてたより、もっとずっと凄かったってことか……!」

 ここにきて、カイトの情報が上方修正されたことに、フェザントは頭が破裂しそうだとうめく。

「亜種の能力が全部備わってる──なんて程度じゃない……」
「下手したら、純血にも匹敵するってこと?!」


「カイトは、何者なの?」


 アスカのひと言が、一同を代弁していた。

「何者……」
「アスカはね、最初、カイトも純血のドワーフだと思ったの。アスカだけじゃなかったんだって、ちょっとホッとした。けど、」
「アスカ……」
「カイトはアスカとも違った。……違うことは分かるんだけど……カイトの話、全部聞いても、カイトがなんなのかはちっとも分からなかった」


 みんなは分かったの?と率直に尋ねられて、フェザントはタジタジだ。

 やっぱり分かった気になっていただけなのかと、我が身を振り返る大人たちに、再びヘイレンから救いの手が差し伸べられる。


「カイト本人にも分からねえのさ。分からないから、調べてるんだ」
「自分のことなのに、自分で分からないの?」
「それならお前は、自分のことを全部知ってるか?」
「……アスカは純血のドワーフ」
「それこそ、誰かが作った定義に当てはめて、分かった気になってるだけだ」

 子どもにも容赦ない。

「人間だの人魚だの亜種だの──そういう分類でいいなら、カイトだって当てはめることができる。『それ以外』って分類に、な。でもそれだけで納得はできないから、カイトはこうして旅を続けてきたんだろうよ」



 目の前に並んだもやもやとした顔たちに、「後は自分で考えろ」とそろそろ突き放そうとしたヘイレンだったが、「このままでは眠れない!」と訴える目力にほだされて、もう少しだけとっかかりをやろうという気になる。

「これはあくまで、俺個人の考えだということを、念頭に置いて聞いてくれや」
「うん」
「俺が思うに、カイトは別に、こう……聖会やらが考えているような、世界のことわりから外れた理解不能な存在──なんかじゃねぇんじゃないか、と」
「それってつまり……?」
「ちゃんと、俺たちと繋がりのある存在ってこと」

 ヘイレンはそこでポリと鼻をかいて、「あくまで俺の妄想、だからな」ともう一度釘をさす。

「分かったから、で?」
「……さっきも似たようなことを言ったが、カイトは『これから』の存在なのかも、とか」
「これから?」
「そ。つまり、『ヒト』の進化した姿」


 自分でも突拍子もないことを言っている自覚があるのか、ぽかんとした一同に苦笑いを返す。

「もしくは……もっと前」
「も、もっと前?」
「そ。つまり、人間の祖が三種だったように、三種の前段階の存在、とか?」

 進化説より祖先説の方がまだマシだったようで、何人かが興味を示した。


「もしくは──」
 だが、もうひとつ続いた『もしくは』に全てを持っていかれる。

「──ただの亜種の亜種」
「……って、なんだそりゃあ?!」

 大げさにずっこけてくれたフェザントに、ヘイレンは期待通りだと嬉しそう。

「亜種の中のさらに珍しいやつ、みたいな?」
「『みたいな?』……っじゃねぇよ!」
「時々、動物の中にもいるだろ?真っ白なカラスとか」

「それと同類に語っていいのか?!」
「えっ?!白いカラスなんているの?!」

 フェザントと重なったヘロンの台詞に、なんだか全員、肩から力が抜けていく。


***

 結局これだけ話し合っても、誰ひとりモヤモヤが晴れた者はいなかったが、確実に気持ちは楽になっていた。

 それは各々が、自分の本音に安心できたから。
 そして仲間たちも同じだと、確認できたから。

 悩みながらも理解しようと努力し続けるのは、ここにいる全員が、これからもカイトと付き合っていくつもりであることの表れ。

『怪物』だと切り捨てるつもりなら、ここまで真剣に悩んだりしない。


(……こいつらは、大丈夫そうだな)
 ヘイレンはこっそり心の中で安堵しながら、ここまで取って置いた言葉を効果的に披露することにした。


「別に全部理解しようとしなくてもいいんだよ。そんなことを求めて、カイトは話したんじゃねぇんだから」

「え、じゃあ、なんのために?」
 ヘロンは間抜けな声で訊く。

「信頼の証、だろ?」
「しんらいぃ?!」
 あまりに似合わない単語に、フェザントが思わず裏返った声を出したが、ヘイレンは特に気を悪くすることなく笑う。

「俺に対しての、じゃなく、お前たち──中でも特に、ユエに向けての信頼だろうよ」

「あ、なるほど」
「ああ、ユエね」

 ユエの名前が話題に上った瞬間、全員の視線が扉へ向けて注がれる。


「……ユエは、大丈夫かな?」
 ラークがぽろっと溢した心配に、「ユエなら大丈夫でしょ」「な!」「話を聞く前から大丈夫そうだったし」「だよなー」「『三百年って何年前?』……とか、とぼけた質問してそう!」──次々と太鼓判が押されていく。


「ま、ユエは心配ないだろうよ。最後のあの台詞が言えるんだからなー……『話してくれてありがとう』って!ありゃあ、ちょっと、尊敬したぜ」

 手放しで褒めちぎったヘイレンは、それと同時に心の中で、(そう、ユエは大丈夫なんだ。大丈夫じゃないのは、むしろ──)と付け加える。


『後は任せた』──去り際のカイトの言葉が、ここまで保ってきた平常心を揺らがせる。


 ヘイレンの期待通り──いや、期待以上に、ユエはカイトの重石おもしになってくれた。カイトがこうして秘密を明かしてくれたことが、何よりの証拠だ。

 だから、後はユエに任せておけばいい──そう、ヘイレンは自分に言い聞かせるのだが、一度目覚めた胸騒ぎはなかなか消えてくれない。


 寄る辺ない舟を岸に繫ぎ止める重石──だがそれは、一歩間違えれば、舟を沈ませることもできる。
 ──その可能性に気づいた時に、ヘイレンは自分の想定の甘さを思い知ることになる。




******




 ヘイレンの説明通りに進むと、なるほど、特等席と呼ぶに相応しい場所に出た。

 洞窟の先には、崖に囲まれた小さな海岸。
 きめの細かい砂浜と、深い色の海、そして満天の星空を二人だけのものにできる、閉ざされた空間だ。

 その縦穴の洞窟は、崖から続く入り口の他には、外海へと続く穴が海の中に空いているだけ。
 つまり、二人を邪魔する者が現れる心配は、ほとんどないということ。


***

 自然が創り出した特等席プライベートビーチに、唯一の人工物は、砂浜と海をまたぐように建てられたコテージ。

 ユエを横抱きにしたカイトは、玄関を入ってすぐの床のある部屋は通り過ぎ、海の上へ張り出したウッドデッキへと直行する。

 そこからユエを海の中へ移動させようとしたが、ぎゅうっと首に巻きついた腕はよけいに力を増して、それを拒否した。

「ユエ」
「待って。鍵、使ってみるから」

 ついさっきの言葉を翻して、ユエは少し緊張しながら『人魚の鍵』を胸に突き立てる。
 たどたどしい手つきで鍵を回すと、光が放たれた後には、しっくりと脚が戻ってきた。

 シャツから伸びる太ももに触れて、ユエは安堵する。
(よかった……ちゃんと、人間に戻れる)


 ユエの思いっきりのよさに驚かされたのか、カイトは自分の腕の中で起こった一瞬の出来事に、目をパチクリさせる。

「お前……ついさっき、人間には戻らないようなことを言ってたのに」
「だって……みんなの前で裸になるの、恥ずかしかった、から」

 人魚に戻った時に、自然と脱げてしまった下衣。今のユエは、濡れたシャツ一枚でギリギリ股間が隠れている状態だ。

「不思議だよね。いつの間にか、服を着ることに慣れちゃった。昔は平気だったのに、今は……人魚の姿でも、落ち着かなくって」

 だから、いくら泳ぐ時に邪魔になっても、ユエは濡れたシャツを脱げなかった。

 しかし濡れた服というものは、とにかく気持ちが悪い。海の中でも大概だと思っていたが、水から出たら出たで、肌に貼りついてまとわりついて、水を吸って重くなって、風に吹かれて冷えて……。


 モゾモゾと落ち着かなくなったユエを見かねたカイトは、ウッドデッキに濡れた身体を座らせると、自分が着ていた上着を渡して着替えを促した。

 ユエはもそもそと着替えてから、一度離れてしまった体温を捕まえて、自分の隣へ座らせる。

 片膝を立てたカイトと、正座を崩したようにぺたりと座ったユエ。
 どちらも、部屋の中へ入ろうとは言い出さず、夜風と潮の香りに包まれて波の音を聴く。


 伝えたいことがたくさんありすぎて、ユエは言葉に迷っていた。


 ユエが悩んでいる間、カイトは黙って待っていてくれる。凪いだ瞳で、どんな言葉でも受け入れるという静かな覚悟を秘めて。


 言葉はいらないと、ユエはそう感じた。
 言葉では伝えられないことなら、行動で示せばいいと、自然に手が動いていく。

 両手を広げて、抱き寄せて──カイトの頭を胸の中に包み込む。
 それはまるで、赤子を守る母親のように、慈愛溢れる仕草。


 つむじに鼻を埋めながら、労わるように髪を撫でるユエに、カイトはされるがまま、自分より小さな身体に身を預ける。


 優しさに満ちた時間は、永遠にも一瞬にも感じられた。


「……どうして、お前は──」
 絞り出すようなカイトの声に、その安寧は破られる。

「カイト?」
 きつく抱き締めるユエの腕に、そっとカイトの手が添えられる。まるで触れることが怖いような、そんなおずおずとした動き。


「……怒って、いいんだぞ」
「怒る……?」
「『どうして黙っていたんだ』とか、『もっと早く話してくれ』とか」
「そんなの、無理だよ」

 カイトは胸の中から顔を上げる。

「だってカイトの気持ち、分かるもの。そんな簡単に話せないよね。それに、もっと早くに聞かされてたら、たぶん信じられなかった。だから、今でよかったんだよ」

 見上げてくる表情が寂しげに見える。
 ユエは撫でていた髪を耳の後ろへかけると、露出した耳を無意識に指でもてあそび始めた。


「……俺が、恐ろしくはないのか」
「怖くなんて、ない。カイトはカイトでしょう」

 ユエの答えを分かっていたように、カイトはぎゅっと目を閉じた。
 それもやはり、寂しげで、そして苦しそうな表情。


(どうして……こんな顔するの?)
 ユエが優しい言葉をかけるたび、慰めの仕草を見せるたび、カイトは癒されるよりもむしろ──傷ついていくように見える。


 どうしていいのか途方に暮れるユエに、カイトは出し抜けに「……覚えてるか?」と問う。

「なに、を?」
「『後悔することになるぞ』」

 初めて身体を繋げた夜を、ユエはすぐに思い出す。あの時にされた忠告がカイトの優しさだったことを、ユエは今理解する。

 それと同時に、カイトが多くは語らなかった人間関係を察してしまう。


「……俺が逃げ出すとでも思ってた?秘密を知ったら、怖くなって、カイトのこと嫌いになるって思ってたの?」

 ユエには『俺を信じてなかったの?』とカイトを責めるつもりは、微塵もない。

 それよりも何より、そんな予防線を張ることが当たり前になっていたカイトが可哀想だと、そう思わずにはいられない。


「……カイト、優しいね」
「まさか」吐き捨てるように言ってから、すぐに冷静さを取り戻して「……本当に俺が優しかったら、お前に手は出さなかった」と、カイトは目を逸らす。


「俺は、後悔してないよ」
「ユエ……」
「だって俺、カイトの過去を知って、カイトのこと、もっと──」「ユエ」

 その先の二音を聞きたくないと、カイトは最後まで言わせなかった。


「カイト……?」
 ここへきて、不安が再燃する。


 ユエはこれでもう、大丈夫なのだと思っていた。
 カイトが秘密を明かして、ユエがそれを受け入れる──そうすれば、二人の間に何の障害もなくなるのだと。

 期待があったことも、隠せない。
 ここを乗り越えれば、もっとカイトとの関係が深まるはずだと。自惚れではなく、カイトが自分のことを特別に想ってくれていると、ユエに伝わってきていたから。


 カイトの過去を知ることは、新たな関係の始まりなのだと、ユエは未来を見ている。
 ──カイトは違うのだろうか?


「ユエ、俺は──」「カイト」
 今度はカイトの台詞をユエが遮る。
 聞いてはいけないと、直感した。

 言わせてはいけないと、悪あがきに無理やり話題を変える。

「カイト、『カイト』って名前は、誰がつけてくれたの?」
 ──時間稼ぎの意味もあったが、それを抜きにしても、ユエが真実知りたかったことでもある。

 カイトにとっても時間稼ぎは歓迎だったようで、突拍子もないとは言わずに、あえて乗ってくれる。


「誰……かは、分からない。が、孤児院の司祭ではないことは、確かだ」
「そう、なの?」
「司祭が名付ける場合、聖典に登場する神の使いの名を借りることがほとんどだから。ミカエルやリイルなんか、典型的だな」
「へぇ」

「だから『カイト』はおそらく、孤児院以前につけられたものだろう。俺を孤児院に運んだ人物が司祭に教えていったのか、なにか持ち物にその名前が刻まれてでもいたのか……物心つく前から、そう呼ばれていたから」


「それじゃあ……カイトはちゃんと『カイト』なんだね」


 ユエが言う『ちゃんと』には、『カイト自身が自分の名前をちゃんとカイトだと認めている』という意味が込められていた。

 その意味はカイトに正しく伝わって、無意識を自覚したようにハッと小さな驚きを見せた。


「そう……ユエ、お前も知ってるんだったな。自分が何者か分からない、不安定さを」


 故郷の海でのこと。
 亡くなった子どもの名前で呼ばれ続け、周囲からまるで存在しないように扱われていたユエ。
 自分は何者か──自己を確立するための根幹が揺らいでいた。

 そんな経験をしたユエは、名前というものが自分を保つためにとても重要な要素であることを知っている。

 当たり前に『ユエ』と呼んでくれる存在ができて、初めて、ユエは『ユエ』になったのだ。



「俺はまだマシだよ。とりあえず、人魚だってことは明白だったんだから。……カイトは俺よりもっと、大変だったんでしょう」

「……立っている場所すら分からなような、そんな不安定は、実験で身体を弄られることより、化け物と追い回されることより、ずっと──」
「つらかった?」

 曖昧にかぶりを振ったカイトは、強がるように苦く笑う。

「……嘘をつくことも多かったからな。せめて名前くらい本物を使い続けていないと、自分の輪郭すらあやふやになりそうだった」


 カイトは偽名を使わず、その名を名乗り続けてきた。自分で名乗り、他者から呼ばれることで、「自分はカイトなのだ」と自分に言い聞かせる──カイトにとって名前は、拠り所になっていたはず。


 だからこそ──「聖教会は、ひどい」


 ユエの声が怒りに震える。
「『ノクス』なんて勝手に呼んで……!」

 聖教会は自分たちで名前をつけることで、カイトを支配しようとしたのだと、ユエにはそう思えてならない。自分たちの理解を超える存在を、枠に収めて、分かった気になろうとしたのだと。

 それは、呪いをかけたのと同じ。

『ノクス』と呼ばれるたびに、少なからずカイトは「お前は化け物だ」と刷り込まれてきたはず。

 そして『ノクス』と呼ぶ側も、「これは化け物だから」と自分に刷り込む。
 そうすることで、残虐な行為を正当化するのだ。ヒトではなく『ノクス』という化け物なのだから、何をしてもいいのだと。


 望まない名で呼ばれることの苦痛を、ユエは知っている。

 もう過去のカイトを救うことはできないが、せめて──「これから、俺がたくさん呼ぶよ」

 ユエは壊れ物に触れるような優しい手つきで、カイトの頰を包み込む。

「俺はね、カイトに名前呼んでもらうと、すっごく安心するんだ。自分がちゃんとここにって……いてもいいんだって、思える。だから──『カイト』って、いっぱい呼ぶよ」
「ユエ……」
「ここにいるのは、『カイト』だよって。ちゃんと、ここにいるよって」



 それは、ひとつの結論だった。

 自分は何者か──カイトが探し求めていたその問いに対する、ユエなりの結論。
 分類や定義なんてどうでもいい。人間でも、三種でも亜種でも、普通でも普通じゃなくても、誰が何を言おうと関係ない。

 あなたは『カイト』だ。
 闘い、傷つきながら三百五十年生きてきた存在。ユエを救ってくれた存在。ユエが好きになった存在。──それが、『カイト』だよ。


 名前を呼ぶたびに、愛しさが募っていく。



「カイト」ユエの手の上に、大きな手が重ねられる。
 ユエの口から零れ出る気持ちを、カイトはもう止めなかった。

「すき。だいすき」
「ユエ」
「ありがとう、カイト」
「……なんの、お礼だ」
「ぜんぶ。最初に助けてくれたこと、名前を呼んでくれたこと、好きって感情を教えてくれたこと──」


 感情に身を委ねて、ユエは膝の上へ乗り上がる。両手で挟んで顔を上向かせると、奪うような口づけを何度も、何度も降らせる。
 迷うカイトの舌を捕まえて、彼に教えられた動きで愛撫しているうちに、同じ熱量が返ってくるようになった。

 相手を求めて止まない、溺れるほどの口づけ。

 息継ぎの合間に、互いの名前を何度も呼ぶ。

「カイトっ、」「ユエ……!」「好き……っ、カイト」「……っ」「も、すきじゃ足りない……」「ユエ、ユエ……っ」「……あいしてる」

 唐突に、口づけは止んだ。

 息を乱し、心臓を射抜かれたような目をしたカイトに、ユエはもう一度同じ言葉を贈る。

「好きよりもっと……愛してる、カイト」



 カイトの瞳から、迷いが消えた。
 迷いが消えて、決意が浮かぶ。でもそれは──とても悲痛な色。


「カイ、ト……?」
「ユエ、俺は……俺にとってお前は──特別だ」
「え……」

 甘いはずのその台詞を、カイトは苦いもののように口の中で転がす。
「特別、だからこそ──」

 ユエが伝えた深い愛の言葉が、皮肉にも、カイトの決意を揺るぎないものにした。


「──お前とは、一緒にいられない」


「……え、カイト?え……?どういう、意味……?」
 心地いいぬるま湯に浸かっていたら、いきなり頭から冷水を浴びせかけられた気分のユエは、真っ白になりかけた頭のまま、茫然と問い返す。


 カイトは寂しく微笑んで──「俺に、家は、絶対に、持てない」


「……え」
「お前は全然分かってないんだ。俺と……共に生きるということが、どういうことなのかを」

 カイトは膝の上のユエを隣に下ろすと、立ち上がって一歩、二歩と離れる。

「お前と俺は、クレインとジェイのようには、絶対になれない。年を取らない俺は、ひと所に留まることはできないんだから」
「っ、待って!あれは、だって……ち、違う……!」


 旅を終えたら、家を持って、二人で一緒に住む──クレインとジェイが表明した、夢。
 その話を聞いてユエから溢れたのは、「いいな」という羨むひと言。


 それがとても残酷だったことを、ユエは今になって思い知る。


 自分がカイトを傷つけたのだという事実に、サッと血の気が引く。
「あ、」ごめんなさいを呑み込んだのは、それがカイトをさらに追い込むと気づいたから。

『お前のせいじゃない。だから謝るな』──こうなることを見越していた、カイトの言葉が蘇る。

 そうだ、これは何も知らなかったユエが悪いのでも、秘密を隠していたカイトが悪いのでもない。
 そう思ってしまったユエが悪いのでも、それを叶えられないカイトが悪いのでもない。

 だから謝って終わる問題でもないし、言葉を撤回して楽になるものでもない。


「俺と共にあるということは、そんなささやかな幸せさえ望めないということだ。土地を移ろい、人と深く関わらず、嘘をつき、逃げては闘い……そこまでしても、最期に待っているのは、別れだけ」

「おれ……カイトと一緒なら、いいよ。だって俺が本当に欲しいのは、『カイト』だけだもの。『家』も『幸せ』も、カイトが一緒じゃないなら、意味ないよ……!」

 離れていくカイトを追いかけ、ぶつかるように抱きつく。
 カイトは抱き返すことなく腕をだらりと下げたまま、「……俺も同じことを思ったんだ」ポツリと呟く。

「カイト……?」
「──羨ましい、と」
「え……」
「クレインとジェイが、羨ましいと。帰る場所があって、待っていてくれる人がいて……普通の人にとっての、普通の生活──それを、欲しいと思ってしまった」


(ああ……)
 あの時カイトが感じた絶望に、ユエはようやく追いついた。


「それが一番の幸せだと、思ってしまったんだ」


(ああ、カイトがあの時諦めたのは──)


「お前がそれでもいいと言ってくれても……俺が、だめなんだ。救いのない道に、お前を引き込むことはできない。俺が、耐えられない」


 カイトがあの時諦めたのは、未来──カイトは全てを終わらせるつもりで、過去を明かしたのだ。


「お前が大切だ。だから、ここで──お別れにしよう」


 ユエの目から涙が止めどなく溢れてくる。
 こんなに悲しい告白があるなんて、ユエは知らなかった。



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