世界の終わりに、想うこと

鈴木りんご

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21話「雨上がる」

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             内田うちだ 雅史まさし  五十四歳



 もし見返りを求めないものが愛であるというのなら、私は妻を愛してはいなかった。

 私は自分が正しく、誠実な人間であると自負している。

 父は私に常に正しくあれと説いた。人のために尽くし、見返りを求めてはならない。自分が失ってでも、相手に与えなければならない。優しくあることこそが人の人たる所以だと、そう父はまだ幼かった私に強く言い聞かせた。

 私は父の言う通り、そうあろうと努力し自分を律してきた。自分より他者の幸福を優先し、今日まで正しく生きてきたつもりだ。

 そんな私が唯一見返りを求めるのが妻だった。私が妻のために何かをするのは、妻の笑顔を求める自分自身の欲望を満たすためだった。妻はとても大らかで、良く笑う向日葵のような女性だった。そんな妻の笑顔のために何かをすることは、私にとって少しも苦ではなかった。

 父は私にこうも言った。自分に痛みを伴わず、相手に与える行為は本当の優しさではない。痛みに耐えて、相手のために尽くしてこそ価値があるのだと。

 そうであるのなら、私は妻に優しくしたことすらなかったのかもしれない。

 それでも私たちの生活は満たされていた。子宝こそ恵まれなかったが、夫婦二人で三十年という時を幸せに歩んできた。

 しかしそんな日々は唐突に終わりを迎えた。妻が脳梗塞で倒れたのだ。何とか一命こそ取り止めてくれたが、後遺症が残った。右半身麻痺と脳血管性認知症。右半身麻痺はそれほど酷いものではなかった。リハビリを続ければ、完全とはいかないものの、日常生活を問題なくこなせるくらいには回復が見込めた。しかし認知症のほうはかなり深刻なものだった。妻はこの二十年ほどの記憶を喪失し、さらに新しいことをほとんど記憶することが出来なくなってしまった。

 妻には介護が必要だった。だから私は仕事を辞めて自宅で介護をすることに決めた。

 そう私が決めたとき、親の介護経験のある知人が助言をくれた。施設に預けることや、仕事の間はヘルパーの手を借りることなども検討したほうがいいと。しかし私にそんな選択肢は存在しなかった。私が妻のためにしてやれることがあるのなら、それを人任せになど出来るはずがなかった。

 そうして私の介護生活は始まった。

 私は妻の介護を始めたとき、それが妻のためになると信じていた。それが妻にとってより良い選択で、夫として一番正しい行いだと確信していた。そうすることによって私は妻を幸せにし、妻はそれを喜んでくれるものだと思っていた。

 しかし現実は違った。

 妻は記憶の一部を喪失していて、今の私を夫だと認識してくれなかった。妻にとって私は自分を監禁し、夫だと言い張る見知らぬ男だった。私は妻にとって恐怖の対象でしかなかったのだ。

 妻は私の愛した笑顔を失ってしまった。介護を始めてから妻が私に向ける表情は、脅えているか怒っているかのどちらかだけだった。

 それでも私はそれが妻のためだと信じて尽くしてきた。きっと誰もが私の行いを評価してくれるはずだ。皆が私を献身的で優しい良き夫だと賞賛してくれるはずだ。

 しかしそんなことは私にとって何の価値もない。

 私はただ妻に喜んでほしかった。妻に笑ってほしかっただけのだ。それなのに妻は私を恐怖し、拒絶する。とても幸せそうには見えなかった。それでは私の行いに、いったい何の価値があるのだろう。どれだけの意味があったのだろう。

 わからなかった。答えは見出せなかった。

 そんな妻と二人きりの生活の中、私に心の休まる時はなかった。限界だった。これ以上は耐えられそうになかった。どれだけ苦痛に耐え続けたところで、今後事態が好転するとは思えなかった。私にはもう……幸せな未来を想像することさえ出来なかった。

 介護を始めて数年、私はいつからか心中を考えるようになっていた。日々心は磨耗し、生きる意味がわからなかった。このままの日々が続いていくのなら、終わらせてしまったほうが楽になれる気がした。私だけではなく妻のためにも、その方が救いになると思った。

 忠告してくれた知人の言う通りだったのかもしれない。しかし今更引き返すことは出来なかった。私は既に仕事は辞めてしまっていて収入がない。妻を施設に入れてやることは出来なかった。

 そして今日、世界は滅びる。

 それを知って私は安堵した。安堵した自分に涙を流した。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は父の言う通りに、正しくあったはずだ。私は自分を犠牲にして人に尽くしてきた。私は全てを捧げて妻のためにと尽くしてきた。私は不幸でも構わなかった。ただそのみかえりに妻には幸せであってほしかった。それだけだった。

 私はどこで間違え、失敗してしまったのだろう。

 今にして思えば正しくあろうとしたこと自体、間違いだったのかもしれない。

 私の場合、正しくあろうとすることは父の教えを意識し、他人の目に自分がどう映るのかを気にしての行いだった。痛みに耐えて人に尽くす自己犠牲が崇高な行いであることに異論はない。それでもそれは本当に他者のための行いであるのだろうか。正しくあろうと思う気持ちこそ、他者の目を気にして、己の見栄えを取り繕う行いではなかろうか。もしそうであるのなら私は他者を利用して、自分の正しさを誇示していただけだ。

 そう言えばマザー・テレサはいつも笑顔だった。慈悲の象徴のように扱われる彼女は、少しも痛みに耐えているようには見えなかった。いつだって楽しそうに微笑んでいた。彼女はきっとただ自分がしたいことを、したいようにやっていただけなのだろう。

 そもそも他者のための行いなど存在し得ないのかもしれない。

 例えば自分が空腹であるにもかかわらず、たった一つのパンを分け与えるような行為。それは賞賛されるべき正しい行いだ。しかしそれだって結局は自分のためにしたことに変わりはない。

 自分の空腹を満たすことより、誰かの笑顔のほうがその人にとっては価値のあるものだったのかもしれない。自分一人だけが食事にありつけたことを申し訳なく感じるような、気の小さい人だった可能性もある。他人のために犠牲になっている自分に陶酔するための行いかもしれないし、自分が良い人だと思われたいがための行動かもしれない。

 例えどんな理由だったにせよ、それは自分が望んだ自分のための行いだ。つまるところ人は自分の欲を満たすためにしか行動出来ないのだ。

 もしそうであったのなら、父の言葉は間違っていたのだろうか。それはわからない。私の至った答えが真実である保証もない。

 それでもそれは、私が自分で辿り着いた答えだった。今までの私の行動の指針には、常に父の教えがあった。私はそれを疑うこともせず、妄信してきた。私は私の心ではなく、父の言葉に従って生きていた。そんな私が苦悩の末にやっと自分自身の答えを見つけることが出来たのだ。

 もし私に子がいたのなら、私は父とは違ったことを教えるだろう。パンを分け与えることが正しいことだと教えるのではなく、一人で食べるより誰かと一緒に食べるほうが楽しく食べられることを教えてあげよう。優しくありたいと願うのなら、優しくあろうとするのではなく、人の幸せを望み喜べるような心を育むことだと説いて聞かせよう。そしてそうやることを強制するのではなく、私の言葉を参考に自分自身の答えに辿り着けるように導いてやろう。

 わかった気がした。

 今、私はこの答えに至った。しかし妻の前では初めからそうやって生きることが出来ていたのだ。妻の前で私は、正しくあろうとは考えなかった。ただ妻を喜ばせて、笑顔が見たかった。強くそう望み、そのためだけにまっすぐに行動出来た。妻の前でだけ、私は自分に正直でいられたのだ。

 妻が子供を産めないとわかったとき、私は悲しくて妻と一緒に泣いた。その数日後、妻が離婚を申し出てきたときも、私はそんなのは嫌だと泣いた。私の両親が子供の産めない妻と離婚したほうがいいのではないかと言ったとき、私は激怒した。何が正しい行いかなどとは考えることもなく、心のおもむくままに行動していた。私はなぜか、妻の前では自分を取り繕うことが出来なかった。

 それなのに介護を始めることになってから、私は妻の前でも正しくあろうとしてしまっていた。自分を犠牲にして妻に尽くすことが夫として正しい行いなのだと信じ、そうあろうと努力し苦痛に耐えていた。

 それが、それこそが間違いだったのかもしれない。だからこんなことになってしまったのかもしれない。

 そうであるのなら……

 世界が終わる前のほんのわずかな残りの時間くらい、あの頃を思い出そう。幸せだったあの頃の私は、妻の前で自分を取り繕うことはしなかった。妻にどう思われるかなどと考えず、いつも自分に正直に行動していたはずだ。

 妻は恐がるかもしれないし、嫌がるかもしれない。それでも、もうそんなことは気にしない。

 私は妻を抱きしめた。

 案の定、妻は嫌がった。知らない男に抱きしめられているのだ。それもしかたがない。

 しかし私は気にしない。妻を抱きしめて、私は泣いた。もう何が何だかわからない。悲しくて、悲しくて何がそんなに悲しいのかもわからない。ただ涙だけがとめどなく溢れてきた。嫌がる妻を強く抱きしめて、その胸の中で子供のように声を上げて泣いた。

「まさ君?」

 妻がそう口にした。

 結婚するよりもっと前、まだ恋人同士だった頃、妻は私をそう呼んでいた。

 涙がいっそう溢れてきた。

「どうしたの? まさ君。大丈夫だよ。私がずっと一緒だからね、もう大丈夫」

 そう言いながら妻は優しく私を抱きしめて、頭をなでてくれた。

 世界はもうすぐ終わる。

 それなのに私は幸福に涙を流していた。
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