紅の時

空-kuu-

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第1章 失われた音

夜を彷徨う旋律

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 薄暗い照明がステージをぼんやりと照らしている。壁際のスピーカーから流れるジャズの音は、しっとりとした残響をにじませていた。深夜のライブバーは平日の夜更けということもあり、店内にはまばらな客がいるだけだ。カウンター席ではバーテンダーが静かにグラスを拭き、数人の常連客がそれぞれの夜を過ごしていた。

 その片隅に、ギターを抱えた男の姿があった。彼の名は相馬悠真そうまゆうま。長めの前髪が顔に影を作り、その奥で伏せられた瞳には感情の色が薄い。彼は、目の前のグラスに視線を落としながら、ゆっくりと弦に指を這わせた。かつて何百回と奏でたはずのフレーズ。しかし、今の彼の演奏には何の色もない。ただ、形だけのものだった。

 店内の雑音に紛れるように、ギターの音がかすかに響く。指板しばんをなぞる動きはどこか鈍く、音の一つひとつに迷いが滲んでいる。それでも、身体が覚えているままにコードを押さえ、旋律を紡いでいく。

 ――ここでやめてしまうか。

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。音楽に意味を見出せなくなった今、なぜ未だにギターを手にしているのか、自分でもわからなかった。ただ、指を止める理由もないから、無意識に弾き続けているだけ。

 その時だった。

 ふいに、彼の指が止まる。

 いつものように流れるはずのフレーズが、突如として指先から零れ落ちた。それは、紅音あかねと共作した大切なフレーズ。しかし、続きを弾こうとした瞬間、まるで何かに阻まれるように指が動かなくなる。

「……チッ」

 わずかに舌打ちをすると、悠真はギターを静かにテーブルに立てかけた。その様子に、カウンター越しに見ていた女性が、小さく溜息をつく。

「あんた、また途中で止めるのね」

 悠真は顔を上げることなく、その声の持ち主を察した。橘凛たちばなりん。幼馴染であり、音楽業界でプロデューサーとして活動している彼女だった。

「この曲、こんな色のない曲じゃなかったでしょ。本気で弾いてるようには見えないけど?」

 カウンターの向こうで、凛はグラスを揺らしながら言った。悠真は答えず、ただ視線を伏せたまま無言を貫く。

「……あの曲、もう二度と弾かないつもり?」

「関係ないだろ」

 ようやく口を開いたが、その声には冷たさが滲んでいた。凛は肩をすくめ、「まあね」と呟く。そして、彼の前に新しいグラスを置いた。

「もう一杯飲んだら?」

 悠真はグラスを手に取ると、一口だけ飲み、深く息をつく。俺の音楽はもう終わった。もう、奏でる理由も意味もない。そう自分に言い聞かせながら。

 その帰り道だった。

 街頭のスピーカーから流れる曲に、悠真は足を止める。

 ピアノの旋律。

 それは、あの日の紅音の音に似ていた。
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