紅の時

空-kuu-

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第1章 失われた音

遠ざかったかつての音

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 狭いアパートの一室。カーテンの隙間から入り込む街灯の光が、部屋の雑然とした様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 壁際にはホコリをかぶった楽器が立てかけられている。ギターケースの上には無造作に置かれた紙の束。楽譜の端が丸まっていて、ところどころに書き込みが見える。しかし、それが手に取られることはない。悠真はぼんやりと天井を見つめたまま、ベッドの縁に腰掛けていた。

 どれくらいこうしていただろうか。自分でもわからない。時間の感覚はすでに薄れ、時計の針の音すら耳に届かない。窓の外から遠く聞こえる車の音や、通りを歩く人々の声が、まるで別世界の出来事のように感じられる。

 ふと、視線がギターに向かった。ケースのファスナーは半開きのままになっている。ため息をつきながら手を伸ばし、ゆっくりとギターを持ち上げた。

「このギターに触れるのもあれ以来か。紅音......」

 久しぶりに触れた指板の感触は、かつての親しみを思い出させるはずだった。しかし、指が弦に触れた瞬間、強張った感覚が走る。

 何かが違う。

 かつて、何時間でも弾いていられたギター。そのはずなのに、今はまるで異物を握っているかのような違和感があった。

 試しにコードを押さえ、静かに弦を弾く。音は掠れ、響きは鈍い。指が思うように動かない。

 それだけではない。

 胸の奥で、何かが引っかかる。

 思い出したくないのに、思い出してしまう。紅音と過ごした日々。夜を徹して作った曲。彼女の声。彼女の笑顔。そして、最後に交わした言葉。

「あなたの歌は、まだ途中だから」

 頭の奥で、紅音の声がふっと響いた気がした。

 その瞬間、指が止まる。

 力なくギターを抱えたまま、悠真は口元を歪めるようにして笑った。こんな状態で、まだ音楽をやるつもりなのか? いや、そもそも......。

 煙草に手を伸ばす。ライターの火をつけ、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。煙がぼんやりと天井に向かってゆらめく。その揺れをぼんやりと眺めながら、悠真は深く息を吐いた。

 机の上には、古びたレコーダーが置かれている。その隣には、いくつもの録音データが詰まったUSBメモリ。ずっと手をつけていないままのデータたち。あの頃、紅音と共に作った曲が、その中にはまだ眠っている。

 迷うように手を伸ばし、USBを指先でつまむ。ノートパソコンの電源を入れ、画面に映るファイル名を眺める。「未完成曲リスト」「紅音デモ音源」「ラストセッション」——。

 再生ボタンを押せば、あの音が蘇る。

 紅音の声が、ピアノの音が。そして、あの頃の夢見る自分が奏でたギターの旋律が、そこにある。

 だが——

 指先が震える。

 ファイルを開こうとして、寸前で動きを止めた。画面の中で、カーソルが音楽ファイルの上を彷徨う。頭が真っ白になり呼吸が早まる。次の瞬間、悠真はマウスを放し、パソコンを閉じた。

 まだ聞けない。

 そのままベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、煙草の火が消えるのを感じた。

 眠れない夜。

 紅音の声が、また頭の中で響く。

「あなたの歌は、まだ途中だから」

 その言葉が、彼を苦しめる。

 それでも、今はまだ続きを奏でることができない。ただ、薄暗い中で遠ざかる音楽の気配を感じながら、悠真は目を閉じた。
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