風花の契り~落葉舞う、君の肩越しに~

空-kuu-

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第17話 朧の罠

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 山中の廃寺から辛くも脱出し、墨染城下を目指して、さらに深く敵地へと潜行していく。墨爪組の下忍たちから聞き取った断片的な情報は、環の心を焦燥と怒りで満たしていた。小夜の持つ天啓の力を、墨染藩が何らかの邪な目的のために利用しようとしている。そして、その計画に松平義明が深く関与している。もはや一刻の猶予もなかった。環は、傷ついた肩の痛みを堪え、昼夜を問わず歩み続けた。

 しかし、環のその切迫した動きは、皮肉にも、墨染藩の密偵である朧に、彼の存在をより明確に知らせる結果となっていた。
「ほう……我が墨爪組の下忍たちを退け、なおも城下を目指す鼠がいるとは。どうやら、ただの密偵ではなさそうですわね」
 清澄ヶ原の芸者に身をやつしたまま、墨染藩へ密かに情報を送り続けていた朧は、環の報告を受け、その紅い唇に妖艶な笑みを浮かべた。彼女は、この正体不明の侵入者が、以前から警戒対象としていた橘環であると、ほぼ確信していた。
「橘環……彩凪藩の若き剣客。その腕は確かだと聞く。殺すのは惜しい……。生け捕りにして、その口から彩凪の情報を全て引きずり出してあげましょう」
 朧は、蜘蛛が巣を張るように、環が進むであろう経路上に、巧妙かつ冷酷な罠を仕掛け始めた。彼女は、環が彩凪藩に同情的な墨染藩士や商人に接触する可能性を読み、そういった人物になりすました協力者を複数配置した。その罠は、環のような手練れを捕えるに相応しい、緻密で甘い毒を含んだものであった。

 数日後、環は食料が尽きかけ、やむを得ず山間の小さな宿場町へ立ち寄った。しかし、その町に足を踏み入れると、環は僅かな違和感を覚えた。活気があるようでいて、どこか住民たちの目に生気がない。旅人である自分に向けられる視線が、詮索するようでいて、同時に憐れんでいるようにも見えるのだ。町全体が、見えざる何かに支配されているかのような、言いようのない閉塞感が漂っていた。環は警戒を強めつつも、疲弊した体を休ませるため、一軒の小さな旅籠はたごの暖簾をくぐった。
「あら、旅のお方。お一人かい? 汚いところだけど、どうぞお上がりなさい」
 人当たりの良さそうな笑みを浮かべて、恰幅の良い女将が出迎えた。その笑顔には一点の曇りもなく、環も思わず警戒を緩めそうになる。しかし、それは朧の配下である手練れのくノ一が扮する、巧妙な演技であった。
 環は、簡単な食事と一晩の宿を頼んだ。奥の部屋に通され、やがて女将が膳を運んできた。山菜の煮物、岩魚いわなの塩焼き、そして濁り酒。質素だが、空腹の環にとってはご馳走であった。
「ささ、沢山おあがり。彩凪藩からお越しで? あちらは豊かな土地だとお聞きします。それに比べてこの墨染は……苦しいことばかりでございますよ」
 女将が、親しげに身の上話をするように、環の出自を探りながら酒を注ごうとする。その時、環の鼻腔を、微かな匂いが掠めた。それは、料理に添えられた山椒の香りに混じって、ごく僅かに香る、特殊な薬草の匂い。その匂いは以前、暁峰連山で源爺からもらった薬袋の中にあった、毒消しの効能を持つという薬草の匂いと酷似していた。なぜ、ただの料理に、わざわざ毒消しの薬草が……環の脳裏に、鋭い警告が閃いた。彼は、女将の言葉の矛盾にも気づいていた。「この辺りでは珍しい川魚が手に入ったのですよ」と言っていたが、環が通ってきた道筋に、そのような魚が獲れる清流はなかった。そして、部屋の窓には、外から容易には開けられないような、不自然なかんぬきが取り付けられている。
 環の視線が、女将が注ごうとする酒に注がれる。その表面に、ごく微量だが油膜のようなものが浮かんでいた。即効性の痺れ薬だ。一口でも飲めば、たちまち四肢の自由を失うだろう。環は、女将の笑顔の奥に潜む殺意を、はっきりと感じ取っていた。
「ありがたい。だが、酒はあまり得意ではなくてな」
 環は、そう言って盃を押し返すと、次の瞬間、膳を蹴り飛ばし、電光石火の速さで立ち上がった。女将――くノ一――は、目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
「なぜ、分かった!?」
 彼女は、着物の袖から瞬時に苦無くないを抜き放ち、環に襲いかかる。

 激しい戦闘が、狭い部屋の中で始まった。くノ一の動きは、しなやかで素早く、その体術は常人離れしていた。環は、背負っていた刀を抜き放つ暇もなく、脇差一本で応戦する。部屋の調度品が派手に壊れ、障子が破れる。襖を蹴破って廊下へ出ると、そこには宿の番頭に扮したもう一人の手練れが待ち構えていた。くノ一は、髪に隠していた毒針を吹き矢のように放ち、帯を鞭のようにしならせて環の刀を絡め取ろうとする。二対一の不利な状況の中、環は冷静に相手の動きを見極め、最小限の動きで攻撃を捌いていく。しかし、くノ一の苦無が、環の左腕を深く切り裂いた。激痛が走り、鮮血が滲む。その一瞬の隙を突かれ、環の体勢が崩れた。だが、その脳裏に一瞬小夜の顔がよぎった。刹那、「ここで死ぬわけにはいかない」という強い意志が、彼の全身に力をみなぎらせた。環は、負傷した腕の痛みを無視し、逆に踏み込んでくノ一の鳩尾みぞおちに強烈な一撃を叩き込んだ。そのまま身を翻し、番頭の喉笛を脇差の柄で打ち据えた。二人は呻き声を上げて崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 しかし、安堵する暇はなかった。環が息を整える間もなく、旅籠の外から、多数の殺気を帯びた気配が迫ってきた。墨爪組だ。環は、深手を負った腕を押さえながら、裏口から脱出を図る。しかし、その先には月明かりの下、妖艶な笑みを浮かべた朧本人が、十数人の手練れの墨爪組を率いて静かに佇んでいた。彼女が姿を現した瞬間、周囲の殺気立った空気すら、彼女一人の圧倒的な存在感の前に静まり返るかのようだった。
「橘環殿……いえ、名もなき浪人様、とでもお呼びすべきかしら。貴方の勇名は、ここ墨染にも届いておりますわ。手荒な真似はしたくありません。大人しく投降なされば、命までは取りますまい。貴方様ほどの殿方が、一人の巫女のために、このような地で野盗同然の真似をなさるとは。その巫女には、それほどの価値がおありなのでしょうか? それとも、貴方様の忠義が、その程度のものだったと?」
 朧の言葉は、夜気に溶けるように甘く、しかし環の心の最も深い部分を抉るように、冷たく響いた。
 多勢に無勢、そして深手を負っている。絶体絶命の窮地であった。環の全身から、冷たい汗が噴き出してくる。

 だが、環は諦めていなかった。彼は、この状況に陥ることを、心のどこかで予測していた。その時、まるで天が彼に味方したかのように、空がにわかに掻き曇り、大粒の雨が地面を叩き始めた。激しい風雨が、敵の視界と聴覚を奪う。
「好機……!」
 環は、この嵐を待っていたかのように、懐から小さな竹筒を取り出した。それは、彼が道中で密かに作っておいた、少量の火薬を詰めた小さな発破装置だった。点火すると、敵の注意を引きつけるように、宿の裏手にある沼地へと全力で投げ込んだ。
 数瞬後、沼地の方で大きな爆発音と閃光が轟いた。
「何事だ!」
「そちらへ行け!」
 墨爪組の者たちが、混乱し、そちらへ気を取られる。その一瞬の隙を突き、環は、朧の目の前から姿を消すようにして、闇の中へと駆け出した。
「小賢しい真似を! 追え! 逃がすな!」
 朧の鋭い声が背後から響く。その口元には、悔しさだけでなく、面白い玩具を見つけたかのような、愉悦の笑みが浮かんでいた。環は、傷口から流れる血も、叩きつけるような雨も構わず、ただひたすらに、山中の暗闇へとその身を投じた。二人の因縁はこの夜、血と炎の匂いと共に始まったのであった。
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