風花の契り~落葉舞う、君の肩越しに~

空-kuu-

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第19話 藩を襲う天災

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 環が、墨染藩の山中で死の淵をさまよい、忘れ雪の里で束の間の安息を得ていた頃、彼の故郷である彩凪藩は、別の抗いようのない脅威に見舞われていた。それは、人の手によるものではなく、天がもたらした災厄であった。
 初秋から降り続いた長雨は、季節外れの梅雨のように、何日も何日も、陰鬱に大地を叩き続けた。藩の生命線である白凪川の水位は、日に日にその高さを増し、人々はその濁った水面を、不安げな面持ちで見つめるしかなかった。そして、ついにその日は訪れた。満月の夜、大潮と豪雨が重なり、ミシミシと軋む不吉な音を立てていた白凪川の堤が、大地が裂けるかのような轟音と共に数カ所で崩れ落ちたのだ。

 濁流は、飢えた龍のように雄叫びを上げ、瞬く間に城下の一部と、黄金色に実った広大な稲田を飲み込んでいった。家屋が根こそぎ流され、人々の絶叫が、降りしきる雨音と、ごうごうと全てを破壊し尽くす水の音にかき消されていく。家族とはぐれ、泥水の中で母の名を叫ぶ子供の声。必死に掴んだ家の柱ごと、為す術もなく流されていく老人の姿。それは、まさしく地獄絵図であった。水が引いた後には、一面の泥濘と家々の残骸、そして言葉にならないほどの絶望が残された。避難所となった寺社では、僅かな食料を分け合い、人々は疲弊しきった顔で、ただ呆然と空を見上げていた。

 藩主天城輝政は、寝食を忘れ、対応の陣頭指揮を執った。しかし、彼の善意と必死の努力は、残酷な現実の前ではあまりにも無力だった。自ら泥水に浸り、流されそうな民を助けようとするが、経験不足からくる指示の混乱が、かえって現場の足を引っ張ってしまうことさえあった。評定の席で、輝政は「民の命が第一だ! 蔵の米を全て開放し、救助に全力を注げ!」と理想を叫ぶが、家老松平玄蕃はそれを冷ややかに一蹴した。
「殿、お言葉ですが、それはあまりに青臭い。目先の民を救うために蔵を空にすれば、冬を越せずに死ぬ者がさらに増えましょう。今は非情に徹し、生き残った者で藩を立て直すのが、為政者の務めにございます」
 玄蕃の現実的、しかし非情な言葉に、輝政はぐうの音も出なかった。
 「父上……右京……環……私には、この彩凪を守ることができぬのだろうか……」
 彼の心は、民の嘆きと自らの不甲斐なさによって、日に日に蝕まれていった。そして、災害発生から十日後、次々と報告される被害状況と、評定の場で完全に実権を握った玄蕃の威圧的な姿を前に、ついに心労が限界に達した輝政は、自らの血で床を汚し、意識を失って倒れた。

 藩主の不在は、藩庁の混乱を極限まで高めた。そして、この機を待っていたかのように、玄蕃が、その辣腕を振るい始めた。彼は、自らの私財を投じて米を買い付け、被災した民に配給し、巧みな采配で藩士たちを動かし、堤の応急処置を次々と成功させていった。時には、民衆の前で涙を流してその労苦をねぎらう。その姿は、民衆の目には、頼りない若き藩主に代わる、力強い指導者として映ったことだろう。
 しかし、その裏で、玄蕃は配下の者を使って、民衆の不満を巧みに輝政への批判へと誘導していた。
「これも全ては、若き殿の不徳の致すところ」
「輝政様が、木花咲耶の巫女を城に呼び寄せず、一個人の屋敷へ私的に囲ったがために、天罰が下ったのだ」
 そんな噂が、被災地の隅々まで、まるで疫病のように広がっていった。玄蕃は、この天災を利用して、人心を掌握し、藩政の実権を完全にその手に収めようと、冷徹に画策していたのだ。

一方、小夜は、この未曾有の天災に、誰よりも深く心を痛めていた。彼女は、義明の屋敷から神社へ戻って以来、連日、民の安寧と、荒れ狂う川の鎮静を祈る神楽舞を、本殿で舞い続けていた。その舞は、もはや儀式というよりは、彼女自身の魂の叫びそのものであった。疲れ果て、倒れそうになる体を、ただ一心な祈りの力だけで支え、彼女は舞い続けた。その神々しくも悲壮な舞の姿は、被災し、希望を失いかけていた人々の心を打ち、彼らに一時的な癒しと、明日を生きるための僅かな力を与えた。舞を見ている間だけは、人々は恐怖を忘れ、穏やかな表情を取り戻すのだった。
 しかし、彼女の祈りも、舞も、天災そのものを止めることはできない。雨は降り続き、川の水位は依然として高いままだった。舞い続けることで、彼女の足袋の裏は血で滲み、意識は朦朧とし始めていた。その舞の中で、小夜は遠い地にいる環の気配を感じ取ろうと必死だった。この祈りが、民だけでなく、どうかあの人にも届けと、そう願わずにはいられなかった。
 環の不在という心の空白を埋めるかのように、彼女は祈りに没頭した。だが、その祈りを込めれば込めるほど、自らの無力さを痛感させられるばかりであった。

 姉女房役の楓は、日に日にやつれ、その命を削るかのように舞い続ける小夜の姿を、身を切られるような思いで見守っていた。「このままでは小夜様の心が壊れてしまいます。神に仕える以前に、あの子はまだ年若い娘なのですぞ!」
 楓は、何か手立てはないものかと、他の神官たちの目を盗んでは、神社の書庫に籠もり、埃を被った古文書の束を、寝る間も惜しんで読み解き始めた。この神社に、過去の天災を鎮めたという記録が残されているやもしれぬという、藁にもすがるような思いだ。
 数日が過ぎた夜、楓はついに、一冊の古びた巻物の中に、それらしき記述を見つけ出した。それは、数百年前に彩凪藩を襲った大干ばつを鎮めたという、『天水あまみずの儀』と呼ばれる特別な儀式に関するものであった。楓は、息を詰めてその難解な古文書を読み解いていく。そこには、不気味な絵図――血を流し、祭壇に倒れる巫女の姿――と共に、恐ろしい言葉が記されていた。
『――古の龍神の怒りを鎮めんがため、天啓の巫女、その魂魄を捧げ、血を大地に注ぎ、神と人を繋ぐ柱となれ。さすれば、天は涙し、地は潤わん――』
 それは、紛れもない人身御供の儀式であった。巻物の最後には、こう記されていた。
『――この儀、大いなる力を顕すも、その代償はあまりに大きい。執行せし巫女は、その天命を著しく縮めること必定なり。故に、これを禁断の儀とす――」
 楓は、その記述を読んだ瞬間、全身から血の気が引くのを感じ、巻物を落としそうになった。小夜を救うための手立てを探していたはずが、彼女を死へと誘う儀式を見つけてしまったことへの絶望と恐怖。
「これだけは……これだけは、あの子に知らせるわけにはいかない……」
 そう固く心に誓い、楓はその巻物を、誰の目にも触れぬよう、書庫の最も深い場所へと、震える手で隠した。しかし、一度知ってしまった知識は、呪いのように、彼女の心に重くのしかかり続けるのだった。
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