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第2話 知りたくない現実
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最後の授業が終わるチャイムが鳴る。だが、俺はしばらく席を立つ気になれなかった。教室に残る数人の生徒たちの話し声や、椅子を引く音がやけに遠くに聞こえる。窓の外では、既に傾き始めた冬の日差しが、向かいの校舎の壁を淡いオレンジ色に染めていた。鞄に教科書を押し込み、誰に挨拶するでもなく、教室を後にする。校門を出て、いつもの帰り道とは逆方向へ歩き出した。目指すのは、市内を流れる大きな川の河川敷だ。
電車を乗り継ぎ、目的の駅で降りる。土手を越えると、一気に視界が開けた。枯れた葦が風にそよぎ、川の水面が冬の低い日差しを反射して光っている。対岸では、蒼葉市のビル群が霞んで見えた。冷たい風が強く吹き付けてきて、俺はコートの襟を立てる。平日の夕方、河川敷には人影もまばらだった。
リュックから、ずしりと重い金属の塊を取り出す。父から譲り受けた、年代物のフィルムカメラ、Lumina Vision Classic 2。使い込まれた黒いボディには、細かな傷がいくつもついている。スマホでいくらでも綺麗で便利な写真が撮れる時代に、なぜわざわざフィルムにこだわるのか、と陽菜に呆れられたこともあった。けれど、俺はこの、一枚一枚シャッターを切る時の重みや、フィルムを巻き上げる時の感触、そして現像するまで何が写っているかわからない不確かさが好きだった。デジタルのように、簡単に修正したり、削除したりできない。その一瞬が、取り返しのつかないものとして焼き付けられる感覚。それが、どこか自分の性に合っている気がした。
ファインダーを覗き、ピントリングをゆっくりと回す。枯れ草の穂先、川面に浮かぶ水鳥、遠くに見える鉄橋。目に映るすべてが、フレームの中で切り取られ、意味を帯びてくる。シャッターを切る。カシャン、という小気味いい金属音が、静かな河川敷に響いた。
何枚か風景を撮っているうちに、ふと、ファインダー越しに人の姿を探している自分に気づいた。特定の誰か……陽菜の姿を。
以前は、このカメラで陽菜をよく撮った。屈託なく笑う顔、不意に見せる真剣な横顔、少し怒った時の尖った唇。フィルムに残された彼女の表情は、どれも生き生きとしていた。けれど、最近はめっきり撮れていない。カメラを向けること自体を躊躇するようになってしまった。陽菜が、俺の知らない表情をすることが増えたような気がして。
(……いや、俺が勝手にそう思ってるだけか)
自嘲気味に息を吐き、再びファインダーを覗く。ピントが合わない。心がざわついているせいか、指先がうまく定まらない。諦めてカメラを下ろし、ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出した。いつものバンドの、少しマイナーな曲が流れ出す。
『夕暮れの河川敷 伸びる影法師 隣にいたはずの君は もう違う色を見てる』
歌詞が、今の自分の心情と重なって、苦しくなる。一体いつから、こんな風に感傷的になってしまったんだろう。陽菜との関係は、ずっと変わらないものだと、どこかで信じ込んでいた。
風が冷たくなってきた。そろそろ帰るか、と重い腰を上げ、土手を登る。駅へ向かう途中、少しだけ遠回りして、駅に直結している大型商業施設「コネクト・クロス」に立ち寄った。目的は、一階にある大型書店だ。新刊コーナーをぶらつき、平積みにされた文庫本をいくつか手に取る。
その時だった。
書店のガラス壁の向こう、吹き抜けになった広場に、見慣れた後ろ姿を見つけた。陽菜だ。明るいブラウンのボブヘア。白いダウンジャケット。すぐに分かった。
そして、その隣には、見慣れない長身の男が立っていた。黒い細身のロングコートに、センターパートの黒髪。横顔しか見えなかったが、整った顔立ちをしているのが分かる。陽菜が何かを話し、楽しそうに笑うと、男も柔らかく微笑んで応えている。陽菜が、俺には決して見せないような、甘えたような、輝くような笑顔を、その男に向けている。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
咄嗟に、俺は大きな柱の陰に身を隠した。全身の血が逆流するような感覚。指先が急速に冷えていく。
あれが、陽菜が話していた『蓮』という男か。
陽菜があんな風に笑う相手。俺の知らない、陽菜の世界。
二人は親しげに言葉を交わしながら、広場に面したカフェに入っていく。ガラス張りの店内、窓際の席に隣どうしで座るのが見えた。
俺は柱の陰から動くことができなかった。胸が締め付けられるように痛い。嫉妬、というにはあまりにも生々しく、醜い感情が、腹の底から湧き上がってくる。同時に、そんな感情を抱いている自分自身に対する強烈な嫌悪感も。
どのくらいそうしていただろうか。カフェの中から、時折、陽菜の楽しそうな笑い声が聞こえてくるような気がした。実際には、聞こえるはずもない距離なのに。
俺は、逃げるようにして書店を後にした。足早に駅へ向かい、ホームに駆け込んできた電車に飛び乗る。
窓の外を流れていく蒼葉市の夜景が、やけに冷たく、よそよそしく見えた。
電車を乗り継ぎ、目的の駅で降りる。土手を越えると、一気に視界が開けた。枯れた葦が風にそよぎ、川の水面が冬の低い日差しを反射して光っている。対岸では、蒼葉市のビル群が霞んで見えた。冷たい風が強く吹き付けてきて、俺はコートの襟を立てる。平日の夕方、河川敷には人影もまばらだった。
リュックから、ずしりと重い金属の塊を取り出す。父から譲り受けた、年代物のフィルムカメラ、Lumina Vision Classic 2。使い込まれた黒いボディには、細かな傷がいくつもついている。スマホでいくらでも綺麗で便利な写真が撮れる時代に、なぜわざわざフィルムにこだわるのか、と陽菜に呆れられたこともあった。けれど、俺はこの、一枚一枚シャッターを切る時の重みや、フィルムを巻き上げる時の感触、そして現像するまで何が写っているかわからない不確かさが好きだった。デジタルのように、簡単に修正したり、削除したりできない。その一瞬が、取り返しのつかないものとして焼き付けられる感覚。それが、どこか自分の性に合っている気がした。
ファインダーを覗き、ピントリングをゆっくりと回す。枯れ草の穂先、川面に浮かぶ水鳥、遠くに見える鉄橋。目に映るすべてが、フレームの中で切り取られ、意味を帯びてくる。シャッターを切る。カシャン、という小気味いい金属音が、静かな河川敷に響いた。
何枚か風景を撮っているうちに、ふと、ファインダー越しに人の姿を探している自分に気づいた。特定の誰か……陽菜の姿を。
以前は、このカメラで陽菜をよく撮った。屈託なく笑う顔、不意に見せる真剣な横顔、少し怒った時の尖った唇。フィルムに残された彼女の表情は、どれも生き生きとしていた。けれど、最近はめっきり撮れていない。カメラを向けること自体を躊躇するようになってしまった。陽菜が、俺の知らない表情をすることが増えたような気がして。
(……いや、俺が勝手にそう思ってるだけか)
自嘲気味に息を吐き、再びファインダーを覗く。ピントが合わない。心がざわついているせいか、指先がうまく定まらない。諦めてカメラを下ろし、ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出した。いつものバンドの、少しマイナーな曲が流れ出す。
『夕暮れの河川敷 伸びる影法師 隣にいたはずの君は もう違う色を見てる』
歌詞が、今の自分の心情と重なって、苦しくなる。一体いつから、こんな風に感傷的になってしまったんだろう。陽菜との関係は、ずっと変わらないものだと、どこかで信じ込んでいた。
風が冷たくなってきた。そろそろ帰るか、と重い腰を上げ、土手を登る。駅へ向かう途中、少しだけ遠回りして、駅に直結している大型商業施設「コネクト・クロス」に立ち寄った。目的は、一階にある大型書店だ。新刊コーナーをぶらつき、平積みにされた文庫本をいくつか手に取る。
その時だった。
書店のガラス壁の向こう、吹き抜けになった広場に、見慣れた後ろ姿を見つけた。陽菜だ。明るいブラウンのボブヘア。白いダウンジャケット。すぐに分かった。
そして、その隣には、見慣れない長身の男が立っていた。黒い細身のロングコートに、センターパートの黒髪。横顔しか見えなかったが、整った顔立ちをしているのが分かる。陽菜が何かを話し、楽しそうに笑うと、男も柔らかく微笑んで応えている。陽菜が、俺には決して見せないような、甘えたような、輝くような笑顔を、その男に向けている。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
咄嗟に、俺は大きな柱の陰に身を隠した。全身の血が逆流するような感覚。指先が急速に冷えていく。
あれが、陽菜が話していた『蓮』という男か。
陽菜があんな風に笑う相手。俺の知らない、陽菜の世界。
二人は親しげに言葉を交わしながら、広場に面したカフェに入っていく。ガラス張りの店内、窓際の席に隣どうしで座るのが見えた。
俺は柱の陰から動くことができなかった。胸が締め付けられるように痛い。嫉妬、というにはあまりにも生々しく、醜い感情が、腹の底から湧き上がってくる。同時に、そんな感情を抱いている自分自身に対する強烈な嫌悪感も。
どのくらいそうしていただろうか。カフェの中から、時折、陽菜の楽しそうな笑い声が聞こえてくるような気がした。実際には、聞こえるはずもない距離なのに。
俺は、逃げるようにして書店を後にした。足早に駅へ向かい、ホームに駆け込んできた電車に飛び乗る。
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