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第16話 蒼葉の空の下で
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季節は巡り、蒼葉市にも初夏の気配が訪れていた。あれから数ヶ月、俺は市内の国立大学で、新しい生活を始めていた。文学部の講義は思ったよりも面白かった。そして、写真サークルに入った俺は、部室にいる時間が一番長かった。
サークルの暗室で、赤いセーフライトの光の中、俺は一枚のプリントを現像液の中でゆっくりと揺らしていた。印画紙の上に、徐々に像が浮かび上がってくる。
卒業式の日に撮った、陽菜の写真だ。
中庭の、午後の光の中。涙に濡れながらも、何かを決意したように、まっすぐに前を見つめる瞳。あの時、ファインダー越しに感じた彼女の強さが、モノクロームの諧調の中に、確かに焼き付けられていた。
この写真を見るのは、辛くないと言えば嘘になる。胸の奥には、まだじんわりとした痛みが残っている。けれど、以前のような、息もできないほどの苦しさはもうなかった。ただ、あの日の陽菜の表情を、その瞳に宿っていた光を、忘れないようにしたいと思った。そして、この一枚を撮ることができたという事実が、今の俺を支えてくれるような気もしていた。
現像を終え、写真を水洗いしていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。表示された名前は『藤井樹』。サークルが違う樹とは、大学に入ってからはたまに連絡を取り合う程度だった。
「もしもし、樹?」
「よう、相川。生きてるか」
相変わらずの、ぶっきらぼうな挨拶。
「まあな。なんだよ、急に」
「いや、別に。……ああ、そうだ。この間の、あの写真展。お前が出してたやつ、入選したらしいぞ」
「……え?」
思わず、声が裏返った。サークルの先輩に勧められるまま、軽い気持ちで応募した、小さな公募展のことだ。まさか、自分の写真が選ばれるなんて、考えもしなかった。
「……嘘だろ?」
「嘘じゃねえよ。さっき結果見たんだ。おめでとうさん」
樹の声は、どこか楽しそうだった。
「タイトル、なんて付けたんだっけか、あれ」
「……『境界線』、だけど」
「境界線、ね。……ふーん。まあ、そういうことだ。じゃあな」
一方的にそれだけ言うと、樹は電話を切ってしまった。
呆然としながら、水槽の中のプリントを改めて見つめる。『境界線』。あの時、俺と陽菜の間には、確かに境界線があった。そして俺たちは、それを越えようとして、ぶつかって、そして、それぞれの道を選んだのだ。この写真が、その瞬間の記録として、誰かの目に留まったということが、不思議な感覚だった。
暗室を出て、窓の外を見る。初夏の強い日差しが、キャンパスの緑を眩しく照らしていた。イヤホンを耳につけ、音楽を再生する。最近よく聴いているのは、少しだけテンポの速い、ギターの音が印象的な曲だ。以前のような感傷的なメロディではない。
俺は部室のロッカーから、Lumina Vision Classic 2を取り出した。カメラの重みが、心地よく手に馴染む。キャップを外し、ファインダーを覗く。
大学の門を出て、蒼葉市の雑踏の中へと歩き出す。行き交う人々、ビル群、空を横切る電車。ファインダー越しに見る世界は、相変わらず複雑で、時に冷たく、そして目まぐるしく変化していく。
けれど、以前とは少しだけ違って見えた。モノクロームの世界の中にも、確かな光と影があり、ディテールがあり、そして、そこに生きる人々の息遣いが感じられるような気がした。
失ったものは大きい。痛みも、まだ完全には消えていない。
それでも、俺はシャッターを切る。
この都会の空の下で、自分の足で立ち、自分の目で世界を見つめ、そして、何かを表現しようとすること。それが、あの『境界線』を越えた俺が見つけた、ささやかな、しかし確かな一歩なのだろう。
ファインダーの先には、どこまでも続く、蒼葉市の景色が広がっていた。俺は、ゆっくりと息を吸い込み、シャッターボタンに指をかけた。新しい季節が、始まろうとしていた。
サークルの暗室で、赤いセーフライトの光の中、俺は一枚のプリントを現像液の中でゆっくりと揺らしていた。印画紙の上に、徐々に像が浮かび上がってくる。
卒業式の日に撮った、陽菜の写真だ。
中庭の、午後の光の中。涙に濡れながらも、何かを決意したように、まっすぐに前を見つめる瞳。あの時、ファインダー越しに感じた彼女の強さが、モノクロームの諧調の中に、確かに焼き付けられていた。
この写真を見るのは、辛くないと言えば嘘になる。胸の奥には、まだじんわりとした痛みが残っている。けれど、以前のような、息もできないほどの苦しさはもうなかった。ただ、あの日の陽菜の表情を、その瞳に宿っていた光を、忘れないようにしたいと思った。そして、この一枚を撮ることができたという事実が、今の俺を支えてくれるような気もしていた。
現像を終え、写真を水洗いしていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。表示された名前は『藤井樹』。サークルが違う樹とは、大学に入ってからはたまに連絡を取り合う程度だった。
「もしもし、樹?」
「よう、相川。生きてるか」
相変わらずの、ぶっきらぼうな挨拶。
「まあな。なんだよ、急に」
「いや、別に。……ああ、そうだ。この間の、あの写真展。お前が出してたやつ、入選したらしいぞ」
「……え?」
思わず、声が裏返った。サークルの先輩に勧められるまま、軽い気持ちで応募した、小さな公募展のことだ。まさか、自分の写真が選ばれるなんて、考えもしなかった。
「……嘘だろ?」
「嘘じゃねえよ。さっき結果見たんだ。おめでとうさん」
樹の声は、どこか楽しそうだった。
「タイトル、なんて付けたんだっけか、あれ」
「……『境界線』、だけど」
「境界線、ね。……ふーん。まあ、そういうことだ。じゃあな」
一方的にそれだけ言うと、樹は電話を切ってしまった。
呆然としながら、水槽の中のプリントを改めて見つめる。『境界線』。あの時、俺と陽菜の間には、確かに境界線があった。そして俺たちは、それを越えようとして、ぶつかって、そして、それぞれの道を選んだのだ。この写真が、その瞬間の記録として、誰かの目に留まったということが、不思議な感覚だった。
暗室を出て、窓の外を見る。初夏の強い日差しが、キャンパスの緑を眩しく照らしていた。イヤホンを耳につけ、音楽を再生する。最近よく聴いているのは、少しだけテンポの速い、ギターの音が印象的な曲だ。以前のような感傷的なメロディではない。
俺は部室のロッカーから、Lumina Vision Classic 2を取り出した。カメラの重みが、心地よく手に馴染む。キャップを外し、ファインダーを覗く。
大学の門を出て、蒼葉市の雑踏の中へと歩き出す。行き交う人々、ビル群、空を横切る電車。ファインダー越しに見る世界は、相変わらず複雑で、時に冷たく、そして目まぐるしく変化していく。
けれど、以前とは少しだけ違って見えた。モノクロームの世界の中にも、確かな光と影があり、ディテールがあり、そして、そこに生きる人々の息遣いが感じられるような気がした。
失ったものは大きい。痛みも、まだ完全には消えていない。
それでも、俺はシャッターを切る。
この都会の空の下で、自分の足で立ち、自分の目で世界を見つめ、そして、何かを表現しようとすること。それが、あの『境界線』を越えた俺が見つけた、ささやかな、しかし確かな一歩なのだろう。
ファインダーの先には、どこまでも続く、蒼葉市の景色が広がっていた。俺は、ゆっくりと息を吸い込み、シャッターボタンに指をかけた。新しい季節が、始まろうとしていた。
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