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男爵邸
しおりを挟む男爵邸の門をくぐり玄関前に馬車が到着すると執事が出迎えてくれた。
ジョアキンはまだ到着していないのだろうか。
尋ねると少し前に到着していると言うが、対応する執事の表情は曇り自分の到着に困惑している様子が見て取れた。
不審に思いながら出迎えに礼を述べた。
「お食事の席は既に用意出来ておりますが、主がまだお戻りではありません…実は火急の用件で、騎士団より呼び出しがございました…暫くすればお戻りになるかと思うのですが…」
一旦、応接間で待つことになった。
初めて訪れる男爵邸、これから元妻と現在の妻が対面するのだ。
否が応でも緊張感が高まる。
ローラが選んでくれたドレスは落ち着いた濃紺だ。胸元と袖口そして裾に黄色や白、薄桃色等の淡い色調の花の刺繍が施されていた。
落ち着いた色合いでありながら可憐さを残したデザインはエメリに良く似合っていた。
妊婦であるエメリに配慮し、お腹を締め付けないように胸元からストンと落ちる直線的なシルエットのエンパイアドレスを選んでくれたいた。
ローラのセンスの良さと心遣いに感謝した。
おかげで少しばかり自信持ってレナータに会うことが出来そうだ。
それに…大丈夫、自分は一人ではない…そっとお腹に手を置く。
何よりも今の自分の支えとなる存在。まだまだ小さな実ったばかりの生命。
案内され、ある部屋の前を通り過ぎようとした瞬間…ガタンと大きな音がして聞きなれた声がした。
「ぐっ…う……レナータ…」
この声は…間違いない旦那様の声だ。
エメリが立ち止まると、執事は顔色を変えエメリと扉の間に立ちはだかった。
「なんですか?」
「いえ…お部屋にご案内いたします。ここではございませんので…」
「今、声が聞こえて…夫の声だったと思うのですが?」
「そ、そんな筈はございません…」
不可解な執事の態度と、いつも冷静なジョアキンとは思えない声色に危機感を覚えたエメリは慌てふためく執事を一喝した。
「そこをどきなさい!」
執事を押し退けドアを開けた。
「………旦那様?」
強烈な酒の匂いに顔を顰める。
そこでエメリが見たのは今日、誰よりも自分の報告に喜んでくれる筈の夫ジョアキンの姿だった。
ジョアキンは床に寝転がり美しい女性とキスを交わしている。
その美しい人は紛れもない元妻レナータだ。
ジョアキンの上にレナータが情熱的に覆い被さり恋人同士がするような濃厚なキスを交わしていた。
目を見開いたまま言葉も出ず呆然と立ちつくす。
入って来たエメリと目が合ったジョアキンは驚きで目を見開くと、どうにか顔を動かし唇を外した。
「…エメ…リ…」
執拗にキスしようとするレナータ。
立ち上がろうと四つん這いになったジョアキンにレナータが縋るように後ろから抱き着くと、ジョアキンの乱れて脱げかけているフロックコートのポケットから小さな箱が落ちた。
その箱には見覚えがある。
『レナータ』と書かれたメモと小さな美しい箱。
暫し、その箱を見つめた。
そうだったのか、今日、旦那様が自分より早く到着したのはプレゼントを渡す為。
しかも、妻である自分が屋敷に来るのを分かっていながらも我慢できずに交わす濃厚なキス。
そんなに…そんなにレナータが忘れられないの?
親友の妻となっても恋焦がれて止まない程に。
『最愛の人に贈る香り』…言葉が重くのしかかる。
手が震えて…パウンドケーキの入った箱を落としてしまうがエメリは落としたことにさえ気がついていない。
二人を見つめていた筈なのに焦点が定まらない。
この場から早く逃げ出したい、その一心で震える体をゆっくりと動かし後退り静かに部屋の扉を閉めた。
グッと奥歯を噛みむと、震える手でドレスを握り締め裾を上げると急ぎ足で玄関へと向かっていた。
まだエントランスに停まっていた侯爵邸の馬車に自ら乗り込むと御者に叫んだ。
「すぐに出して!」
馬車は勢いよく男爵邸を出ると行先も聞かないまま進んでいた。
何も言わずとも多分このまま侯爵邸に着いてしまうだろう。
ジョアキンは帰って来るのだろうか?
愚問だ…ジョアキンはきっと帰って来る。
そして、何も言わずいつもの様に同じベッドで私の横に寝るのだ。
わなわなと唇が震えた。
濃厚なキスを交わしていた二人の様子が頭から離れない。
その唇の弾力を感じ、湿り気に満ちた甘い唇を与えられるのは私だけじゃなかった。
わかりきっていた筈なのに…………。
顔なんて見たくない。
彼が戻ってくる侯爵邸になんて帰りたくない。
酷く混乱したまま馬車を止めさせると、制止する御者の声も聞かず足早に喧騒の中に消えた。
ポツポツと雨が降り始めた雨の中を人波を縫い足早に進んだ。
後を追う御者の姿が見えなくなるとエメリは歩調を緩め息を整えた。
途端に目の前が暗くなり目に映る光景がぐにゃりと歪みその場にしゃがみ込んだ。
拙い…妊娠初期だから気をつけるようにと言われたばかりなのに…急な目眩に怖くなり震える手でお腹を擦った。
「エメリ?」
誰かに名前を呼ばれたような気がする…意識が朦朧とし視線を上げることさえ出来なかった。
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