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男爵邸~ジョアキンの誤算~
しおりを挟む扉を開けると、部屋に充満している酒の匂いが鼻を突いた。
見れば床にはウイスキーの空き瓶やワインのボトルが何本も転がっている。薄緑色の絨毯には赤ワインを零したのだろう大きなシミもある。
拙いときに来てしまった。ジョアキンは眉間に皺を寄せ、手の甲で鼻を覆う。
ソファに寝ころんでいたレナータがムクリと起き上がり千鳥足でこちらに近づいてくる。
ヤバイ…完全に目が据わっている。
踵を返して部屋から出ようとすると、さっきまで千鳥足だったレナータは凄い勢いで飛び掛かりジョアキンのフロックコートの襟を掴んだ。
「ぐ、ぐえっ…」
凄い力で襟元を後ろに引かれ首が締まる。
こいつ、今まで見た中で一番凶暴だ。
ジョアキンは襟口を掴まれた拍子に転倒し床に身体を激しく打ち付けた。痛みに顔を引き攣らせレナータを睨みつける。彼女はジョアキンに馬乗りになるとヘラヘラ笑った。
レナータの酒癖の悪さはテオとジョアキンの中では周知の事実だ。
学生時代にこっそり寮の部屋で酒を飲んだ時、レナータが豹変し手が付けられなくなったのだ。テオがレナータが寝落ちするまで後ろから羽交い絞めにし拘束した状態で過ごさなければならなかった。
細い女のどこにそんな力があるのかと思うくらい酔った人間というのは常人には理解できない力を発揮し行動を起こすのだ。
しかもキス魔だから、なお質が悪い。
迷惑を被った二人が本人にきつく注意してからというもの、レナータはテオのいる時にしか酒を口にしなくなっていた。
……いったいどうしたというのだ。
レナータのヘラヘラとした笑いに恐怖を感じずにはいられない。
「おい、おまえ!なんで酒を飲んでいるんだ!?テオがいない時に飲むなんて…何やってんだっ。こら、どけ!降りろ!」
酔っ払いの馬鹿力に対抗したいが、男である自分が本気を出して怪我をさせる訳にもいかない。力の加減がわからず取り敢えずレナータを退けようと身じろぎ彼女の腕をとろうした。
その瞬間、レナータは床に転がっていた酒瓶を掴み床に叩きつけた。
瓶は割れ砕け散った破片がジョアキンの頬を掠める。
ヒュッと息を呑む。
「…なによぉ~、テオがどうしたってぇ?!私のぉ愛しい旦那様のぉ名前を…軽々しく呼ばないで頂戴っ!…いや…もういい…愛しいなんてぇ…あんな男いなくたっていいのよぉ。どうせまた仕事、仕事ってぇ…国境辺りにでもいるんじゃないのぉ?………」
今日はエメリと二人、男爵邸の夕食に招かれていた。
正確にはこの夕食の席はジョアキンとテオ、レナータの三人で計画したものだった。
エメリと結婚してからジョアキンに対する悪評が語られるのも減り、蔑むような視線を向けられることも少なくなった。
ジョアキンだけでなく、テオやレナータも以前よりずっと穏やかな日常を送れるようになっていた。
時を同じくしてエメリとの仲も深まったと感じたジョアキンだったが…彼女の存在が近くなるにつれてエメリが自分とレナータの関係を疑い誤解していることに頭を悩ませていた。
そこで誤解を解くべく、レナータとの結婚と離婚の真相をエメリに打ち明けたいと二人に相談したのだ。
テオとレナータは快く承諾してくれた。
親友の妻ともっと親交を持ちたいと思っていた二人は四人で揃った際に全てを打ち明けることを提案してくれた。
そして食事の席を計画してくれたのだ。
正直、自分一人で説明するより三人の方が説得力がある。ジョアキンは二人の有難い提案に甘えることにした。
そして今日、ジョアキンは仕事終わりに男爵邸に向い、エメリとは男爵邸で合流することになっていたのだが……。
なのに…どうして、こうなった?
ジョアキンは青褪めた。
「あんたさぁ~、前々から思ってたけどぉ…自分にぃ興味のある女がぁ…キライよねぇ~。ちょぉ~っと顔がいいからってぇ…調子乗り過ぎだろっ!何様なんだよぉ…なぁ?!ジョ~アキン?」
馬乗りになったレナータはジョアキンの胸倉を掴み上げ揺らしながら口汚く罵る。
言い当てられたのが悔しくて睨み返す。
「はっ!俺は色目使うような女が嫌いなんだよっ…女の媚びた視線にも虫唾が走る!だが、エメリは違う、俺に色目なんて使わないし媚びたりしない!」
「ぷぷつ…それってぇ~あんたにぃ興味がないだけじゃぁ…ないのぉ~?」
レナータの言葉で一気に頭に血がのぼる。
「ちっ…違う!エメリも俺に好意を持ってくれている!でなきゃ毎晩俺に抱かれるわけがないだろぅ…」
言い返しながらも語尾が小さくなる。
見ないようにしていた妙な不安が、酔っ払いに馬乗りにされた状態で目の前に突き付けられる。
ブハッっと吹き出すとレナータは可笑しそうに顔を歪めた。
「はぁ~むっつりスケベぇの女好きぃ~。あんた!…そんなんじゃあ…幸せになれっこないって言うのっ!」
ププッ……クククッ…笑いを堪えるように肩を揺らした。
「寂しい男ねぇ…でも、まぁ…あんたのこと笑えないかもぉ…わたしも…寂しい女なんだぁ…じゅんあい?そう…純愛を貫いたのにぃ~!なぁ~のぉ~にぃ……」
さっきまでの威勢の良さはどこに行ったのか…レナータは急にポロポロと涙を流し、すすり泣きを始めたかと思ったら次第に嗚咽へと変わっていった。
レナータに馬乗りにされたままのジョアキンは、今が好機とばかりに泣き崩れる彼女を振り落としドアに向って走り出そうとした。
だが寸でのところで背後からタックルされ、また床に崩れ落ちる。
身を捩りレナータの腕を解こうとするが酔っ払いの尋常でない力に脅威を覚える。
こいつ…何か特殊な訓練でも受けていたんじゃないのか?!
疑いを持ちたくなる程の力と素早さだ。
結局、レナータに組み敷かれてしまった。
しかも、涙でグチャグチャになった顔が近づいてくる。
「ぐっ…うわっ!……レナータ…」
必死に顔を背けるが、無理矢理唇を奪われた。
心底気持ちが悪い!
エメリ以外の唇が自分の唇に触れていることに吐き気を覚えた。ゾゾゾっと全身に悪寒が走り、肌が粟立つ。
この気持ち悪いキス魔、いや泥酔変質者をどうにかしなければ!藻掻き腕を伸ばしてレナータの肩や髪を引っ張る。
ふと、人の気配を感じた。
必死に助けを求め視線を向けると、そこには呆然とこちらを見下ろす愛しい妻エメリの姿があった。
男爵邸を飛び出したエメリの後を追うように急ぎ戻ったジョアキンはエメリが戻らず街に消えたと聞いて狼狽した。
「なぜ、街で降ろした!」
「も、申し訳ございません…奥様のご命令でしたので…」
深々と頭を下げて震える御者を見据え舌打ちをすると護衛騎士を呼んだ。
我が侯爵家に仕える全ての騎士が総力を挙げて探せばそう時間はかからない筈だ。
侍女のローラが慌てて走り寄ってくる。
「奥様とはお会いになったのですか?…奥様から大切なお話は聞いていらっしゃいますか?」
「…会ったが…話をできる状況ではなかった…大切な話とはなんだ?」
「い、いえ…あ、あの…………」
「どうしたんだ?…俺は急いでいる、早くエメリを探しに行きたいんだ!重要な話でないなら後にしてくれ!」
躊躇するもののローラは口を開いた。
「侍女の私ごときがお伝えしてよい内容か迷いましたが…奥様のお身体を案じる以上、言わせていただきます」
すうっと息を吸い、吐き出すのと同時に一気に言い切った。
「奥様は侯爵様の御子を身籠られております」
雨用の外套を羽織ろうとしていた手が止まり、石にでもなったかのように動けない。
まるで魔法で時が止まったかのようだ。
言葉の意味を理解しようと漸く一回瞬きをする。
「な、なに?」
やっとのことで視線だけ動かした。
「ほ、本当か?」
「はい!昼間、スープラ医師の診断を受けております。奥様が自ら侯爵様に伝えたいとおしゃって……御子を身籠られたとわかった時の奥様は感激で涙を流されて…あんな清らかな涙を流して喜ばれていた奥様が、行方を眩ますなどありえません!きっと何者かに連れ去らわれたに違いありませんわ!」
ジョアキンは捜索の指示を出すと土砂降りの雨の中、馬を走らせた。
雨に濡れ、激しい雨が頬を打ち付ける。身体は冷え手綱を持つ指の感覚はとうに無くなっていた。
エメリは雨に濡れていないだろうか…寒い思いをしていないだろうか…彼女が今、寒い場所でひもじい思いをしているのを想像するだけで心が引き裂かれそうだ。
辛く苦しい、何よりも彼女に計り知れない苦痛を与え追い込んだのは自分自身だということに激しい自責の念にかられた。
ボコボコに自分を殴ってやりたい。いや、それでも治まらない…この剣で切りつけ自分の身を八つ裂きにしてやりたい。
彼女も俺も、最も幸せな時を迎えるはずだったのに。
彼女のお腹の中には俺の子がいる。
子を授かったことを二人で喜びエメリを抱き締めたい…エメリもお腹の中の子も二人とも抱き締めたい。
見つけ出して、直ぐに謝り許しを請うのだ。
今日、話す筈だったんだ…全てを。
お願いだ…早く見つかってくれ、無事でいてくれ。
ジョアキンは暗闇の中を激しい雨に打たれなが先を急いだ。
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