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見知らぬ人
しおりを挟む毎週水曜日にしか営業しないパン屋があり、そこのクロワッサンが絶品だと聞いてハンナと二人楽しみ勇んで街へと向かう。
「午前中には売り切れてしまうのでしょう?まだ残っていると良いのだけれど」
「慌てなくとも、もし売り切れていたなら他のパンを買いましょう。どのパンも美味しいと評判ですから。急がず、ゆっくりですよ?奥様、足元には気をつけてくださいね」
ハンナと二人、のんびりと朝の散歩を楽しみながらパン屋まで歩いた。
芸術の街と謳われるカイルイ王国の王都は街のあちこちに銅像や彫刻が飾られている。それらを眺めながら歩くだけで楽しい時間だ。
王都の中でも賑やかな商店街へ入ると朝なのに多くの人が行き交う。
二人は目的のクロワッサンと他にもパンを何種類か買い店を出た。
今日は、目的のパンを手に入れたら街で買い物を楽しみ、午前中で仕事が終わるマルセルと合流し帰宅することになっていた。
「奥様、少し休憩しましょう。ここに座っていて下さい」
ハンナがレモネードを売る出店を見つけ、買って戻ってくるまで待つことになった。
膨らんだお腹を支えながらベンチに腰を下ろす。
ゆっくりと周囲を眺めると近くに佇む銅像が目に入った。子供の像の様に見える。もっと近くで見ようと歩み寄ると、それは天使の銅像だった。
「ふふっ…可愛いわね。弓矢を手にしているってことは、もしかしてキューピッドかしら」
愛らしい像に自然と顔がほころぶ。
「エメリ!!!」
大きな声で誰かを呼んでいる。
何故か条件反射の様に振り返ると漆黒の髪をなびかせた長身の男が、凄い勢いで走ってくるのが見えた。
もの凄い速さで、どんどん近づいてくる彼をじっと見つめたまま動くことが出来ない。
勢いよく抱き締められた瞬間、懐かしい香りが風に舞った。
驚いたが不思議と恐怖は感じなかった。
抱き締められたまま必死に藻掻き、どうにか顔を上げると自分を見下ろす美しい男の顔がある。青白く白い肌、こけた頬、金色の瞳は潤み、顔を歪めた瞬間頬には涙が伝う。
男は、ハッとして私のお腹を見つめると慌てて抱きしめる腕を緩め、そのまま跪いてお腹に手を当て頬を擦りつけてきた。
「なっ…なんなの!?」
急に怖くなり、お腹から男の頭を引き剥がそうとするが男は動じず、遂にはおいおいと泣き始めたのだ。
ギョッとして今度は男の髪を乱暴に引っ張ってみるもののピクリとも動かない。
「エメリ!…無事で…無事で本当に良かった。おまえにもお腹の子にも…何かあったらと生きた心地がしなかった…エメリ、お願いだ!俺に謝罪の機会をくれ!…俺に説明する機会を与えてはくれないか?」
悲愴感を漂わせ懇願する男。
私のことを知っているのか、謝罪と言うからには喧嘩別れした友人とか知り合いだろうか。この男の惨状を見ると、ちょっとやそっとの喧嘩ではなさそうだ。
でも…名前を間違えているし、ただの人違いの可能性もある。
如何せん記憶がないのだ、昔の友人とか知り合いの可能性も含めておずおずと聞いてみる。
「あ、あの!…どなたですか?……私のことを知っているのですか?…実は私」
「奥様!ちょっと、あんた!奥様を離しなさいよっ!」
慌てた様子のハンナは駆け寄ると男に飛び掛かり私から引き剥がそうとした。
「な、なんだ!」
揉み合っていると長身の男の後ろから、更に体躯の良い大柄な男が現れた。
咄嗟に三人の間に割って入り私の顔を見ると、この男もまたクシャリと顔を歪め涙目になる。
「ジョアキン!やったな…遂に夫人が見つかったんだな!…本当に…良かった」
一体どいう状況なのだ。
大柄な男は、この美しい男の知り合いのなのだろう、私を知っているようだ。
見知らぬ男二人に涙ぐまれ困惑してはいるものの、取り敢えず騒ぎ立てるハンナの落ち着かせるのが先決だ。
「…落ち着いてハンナ」
「エリー!」
振り返るとマルセルが走ってくるのが見え安堵した。
この状況をどうにか抜け出せそうだ。
しかし、マルセルの顔を見るなりジョアキンと呼ばれた美しい男は憤怒の形相になり、駆け寄ってきたマルセルに掴みかかった。
「やはり、おまえか!」
マルセルの襟ぐりを乱暴に掴み引っ張るとシャツは破けボタンが吹き飛んだ。
「やめて!夫から手を放して!」
ジョアキンの手にしがみついた。
「夫だと?」
ジョアキンは信じられない言葉を聞き愕然とする。
「な、何を言っているんだ?エメリ…」
さっきから、自分をエメリと呼ぶ男を怯える目で睨む。
「エリー…大丈夫だ…こっちへ」
マルセルが背後に庇ってくれたことでホッと息を吐いた。
「…エリー?」
男の呼吸が荒くなり再びマルセルの胸倉を掴み上げると、大柄な男が慌てて割って入る。
「ジョアキン、ここは他国だぞ!騒ぎを起こせば面倒なことになる!」
マルセルの背にしがみつくエメリの怯えた視線からジョアキンは目を背けた。
「エメリ…おまえの夫は俺だ…どうして…」
力なく手を降ろした。
「マルセルと言ったかな…君には事情を聞きたい。わかっているだろうが、逃げても無駄だ。直ぐに侯爵家の追っ手に捕まる。大人しく従ってくれ」
テオは強い威圧を隠しもせず静かに言った。
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