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失われた記憶
しおりを挟むカイルイ王国でマルセルが妻と住まう家は、住宅が建ち並ぶ閑静な町の一角にあった。
四人は小さな応接間のソファに腰掛けた。
「おまえが、エメリを連れ去ったのか?」
重い空気の中、口火を切ったのはジョアキンと呼ばれていた美しい男だった。
「いや、最初はそうではなかった…でも結果的にそうなったのかもしれない」
マルセルは硬い表情のままだ。
「何を言っているのマルセル?連れ去るって…一体…」
マルセルはエメリの背に手を置き、向かいに座る男が放つ苛烈な視線を正面から受けた。
「エリー…いや、エメリには…半年前の土砂崩れに巻き込まれる前の記憶がない。命は助かったが僕達は馬車から投げ出され僕は怪我をして…エメリは意識を失ったまま病院に運ばれた。診察した医師に言われた…記憶が戻るとも戻らないとも現状では、わからないそうだ……」
「記憶喪失……記憶喪失なのか?」
テオは信じられないと言うように言葉を繰り返した。
「…本当か?俺を謀っているのではないだろうな。そもそもおまえの言うことなんて信じられない!記憶喪失なんて、そんなことが…」
状況が飲み込めずエメリは不安な顔でマルセルを見上げる。
ジョアキンはマルセルの手を握るエメリの左手薬指にサファイアの指輪が嵌められているのに気が付いた……それも、自分が結婚式で彼女の指に嵌めた結婚指輪のすぐ上に。
今までエメリは結婚指輪の上に重ねて指輪をするようなことはなかった。
彼女の何気ない様子や仕草がジョアキンを傷つけ苛立たせた。
「エメリは、おまえを夫だと言った。一体どういうことだ?!」
「それは…まず、僕からエメリに説明させて欲しい。二人だけにしてもらえないか?」
「ふざけるな!」
また掴みかかりそうな勢いで立ち上がった。
「お願い、怒鳴らないで!」
エメリが叫んだことで、その場が静まりかえる。
「私は…エリーじゃなくて、エメリという名前なの?……私の夫はマルセルじゃないの?」
エメリは縋るようにマルセルの手を強く握った。
「……ごめん、エリー。君の本当の名前はエメリだ…そして僕は…君の夫じゃない。本当の夫は目の前にいるこの人だよ…ミュラー侯爵だ」
目の前に座る男は、苦しげにエメリを見つめる。
「じゃあ、この子の父親は……」
そっとお腹を撫でる。
「俺だ。他の者である筈がない」
断言したジョアキンという美しい男の顔には迷いがない。
「……どうして、エメリがおまえと一緒にいるんだ?」
「半年前のあの日、偶然街で体調の悪い彼女を見かけて助けた…そしたら、エメリは侯爵様の元に帰りたくないと泣いていた…」
「…私が夫の元に帰りたくないと言ったの?…どうして?」
「君は…夫である侯爵様と他の女性との関係に悩んでいた」
マルセルは責めるような視線をジョアキンに向けた。
「君を、そんな辛い目に合わせた男の元に返したくないと思った。それで、君の気持ちが落ち着く少しの間だけ匿うことにした…だが、あの事故に遭遇し君は記憶を失った…そして僕は君に酷い嘘をついた」
「……自分が夫で……子供の父親だと?…」
「本当に…許されないことをした。幼い頃から君が好きだった…その想いが叶うなんて幻想を僕は勝手に抱いた…結果、君を混乱させ深く傷つけた……僕は最低の男だ…ごめんエメリ」
悲痛の表情で頭を下げた。
エメリの唇は震えていた。
「……信じていたのよ?マルセルの言葉全てを。だから私はここで穏やかに過ごせた…あなたの嘘が…記憶を失った私を救ったのは事実だわ…酷い人、なのに…私にあなたを責めることなんて出来ない」
「エメリ、おまえがこの男を責めなくとも…俺は許すことが出来そうにもない」
大きく深呼吸するとジョアキンはマルセルを強い目つきで見据えた。
「おまえが俺の妻を国外に誘拐したのは事実だ。この罪は重い。然るべき手順を踏んで罪を償ってもらわなくてはならない」
「や、やめて!…誘拐なんてされてない…マルセルは記憶のない私の面倒を見てくれていたのよ…罪には問うようなことしないで!お願い…お願いします」
ジョアキンは自分に縋り頭を下げるエメリを見つめる。
頭の中で激しい警鐘が鳴った。
エメリがこの男の為に俺に頭を下げるなど…そんなにこの男が大事なのか?もしかして愛しているのか?
「エメリ、おまえをここには置いておけない。この男と一緒になんて…俺と帰るんだ」
ジョアキンは立ち上がりエメリの手を掴んだ。
「ちょっと、ちょっと待って!」
「おまえは!俺の、俺の妻だ!」
取り乱していたのはエメリではなくジョアキンの方だった。
「ジョアキン、落ち着け!おまえの気持ちはわかる!だが、強引な態度は彼女を追い詰めるだけだ…夫人は身重なんだぞ」
テオはジョアキンの肩を掴み無理矢理座らせた。
掴まれた手首が痛む。
エメリは痛む手を胸元に引き寄せ擦ると唇を噛んだ。
最初は怯えてばかりいたエメリだったが、自分の主張ばかりする男に苛立ちが抑えられなくなった。
「私とあなたが夫婦であったとしても…仲違いをしていたのでしょう?しかも、仲違いの原因は、あなたの女性問題なのでしょう?!」
言い返す言葉もなく、グッと拳を握る。
「全ての誤解はこれから時間をかけて解いていく」
「これからではなく、今ここで説明してください!」
毅然としたエメリの態度にジョアキンは覚悟を決めた。
「記憶のないおまえを混乱させてしまうかもしれない…それでもいいか?」
「聞かないと、何も決められないし先に進めないわ。記憶を取り戻せるかどうかもわからなというなら…なら、今の私がどう判断するかそれが全てだと思うの」
その後、私の夫だというジョアキンと彼の幼馴染みだというテオが順を追って代わる代わる説明を続けた。
全て聞き終えたのは夕刻だった。
「……お二人の話を聞いて、ああ、そうだったのね。全ては誤解だったのね…とはなれないわ。少なくとも今の私には」
ジョアキンに向き直った。
「あなたは、私を連れ帰りたいと言ったけれど…直ぐには無理だわ…考える時間をいただけませんか?」
「………わかった…」
明らかに気を落としながらも、こちらの言い分をのんでくれた。
「だが、この家に二人だけにはしておけない。俺達もここに滞在する」
「は?」
エメリは目を丸くした。
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