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日常
しおりを挟むエメリが侯爵邸に来て暫くした頃、お腹の子の健診と記憶喪失に関する診察の為、侯爵家の主治医が訪れた。
立派な白い顎髭を撫でながら、眼鏡の奥の目が細められ慈しむような眼で見つめられた。
「無事のお戻り、心から安堵いたしました」
「スープラ医師ですね…私とは初対面ではないそうですね。覚えていなくてごめんなさい」
「お気になさらぬように。記憶の件に関しましても診察をさせていただきますので、どうか気を張らずにいてください」
診察が終わると待っていたジョアキンも部屋に入り、エメリと共に診察結果を聞く為ソファに座った。
「お腹のお子様は順調に育たれております。ご安心ください」
「そうか、良かった」
ジョアキンは柔らかく微笑む。
エメリは真実を聞かされ、カイルイ王国から侯爵邸への移り住み。記憶のない中、全く違う環境に身を置き生活を始めたのだ。精神的にも体力的にも疲労が溜まっているだろうと案じていたのだ。
記憶喪失の件に説明が及ぶと、ジョアキンはまた表情を硬くさせた。
「記憶喪失の原因は事故により脳が衝撃を受けた事での外的要因と、強いストレスによる心的外傷などの要因が大きく考えられます」
「…強いストレス…そんなこともあるのですね…」
エメリは記憶喪失の原因は事故による頭部への衝撃の所為だと思っていた。
心を傷つけられ、心を病むことで記憶を失うというのは初めて知った。
「とにかく今は、お腹のお子様のことを考えて無理をせず、穏やかな日常を送ることをお勧めします。元の生活に戻られ日常生活をおくる中で、懐かしい感じがするとか、身体が覚えているとか新しい発見もあるものです」
「…そうね…ありがとう」
エメリが力なく頷く横で、ジョアキンはスープラ医師の『強いストレスによる心的外傷』という言葉に心がざわめいた。
男爵邸でエメリが見たレナータと自分の姿は彼女を深く傷付けた筈だ。それがエメリの記憶喪失の原因だとしたら。
ジョアキンは眉間に深い皺を寄せ自責の念にかられた。
過去を変えることは出来ない。ならば…今、そしてこれから自分に出来ることとは…。ジョアキンは膝の上の拳をギュッと強く握った。
翌日から、周囲の心配をよそにエメリは膨らむお腹を抱えながらも精力的に動いた。
以前、自分が送っていた日常を再現したいとお願いし、ジョアキンの書斎で書類整理を始めていた。
「エメリ、決して無理はしないでくれ」
「無理などしておりません。それに…不思議なものですね。体が動きを覚えていて、書類の内容自体はわからなくとも、どうしたら良いかと頭が最適な方法を探していて…しかも、それが合っている」
驚いた表情を崩し、フフフっと笑う。
「スープラ医師の話は本当ですわね!」
山になっていた書類が半分も減らないうちにジョアキンが書類から顔を上げた。
「休憩の時間にしよう」
そう言うと、待ってましたとばかりにローラがお茶やフルーツ、焼き菓子の載ったワゴンを押して入って来た。
エメリの前に置かれたのはホットミルク、フルーツが沢山添えられたヨーグルト。皿には緑色のクッキーが並べられていた。
紅茶やコーヒーよりも妊婦の体を考えたメニューなのだそうだ。
「この、緑色のクッキーは?」
「小松菜のクッキーでございます。なんでも小松菜には妊婦が必要な栄養がたくさん含まれているとかでシェフが考案したものです」
一枚摘まみ、口へと運ぶ。
サクサクとした軽い歯触りで小松菜特有の苦みもなく、ほのかな甘みが口の中に広がった。
「美味しい…こんなに美味しくて栄養が摂れるなんて嬉しいわ」
満面の笑みになり、もう一枚口に運ぶ。
ジョアキンは嬉しそうにエメリを見つめると自分も一枚頬張る。
「ん、美味いな」
互いに微笑み合いながらクッキーを頬張る。
ジョアキンの穏やかな笑顔はエメリを少しだけ、くすぐったい気持ちにさせた。
「この後は少し庭を散歩しないか?妊婦には適度な運動も必要だと聞いたからな」
庭に出ると、ジョアキンはエメリに手を差し出した。
一瞬、手を取るのを戸惑う。
「…ごめん、嫌だったか?」
「い、いえ…そんなことはありません」
差し出された手に自分の手を重ねた。
どうして手を取るのをためらったのだろう。
紳士が淑女の手を取るなんて普通のことなのに何故か違和感を感じたのだ。
「その…ジョアキン様と私はよくこうして散歩をしていたのですか?こんなふうに手を繋いで」
エメリとジョアキンは並んでゆっくりと歩き始めた。
「……いや、以前はしていなかった。君の手を取ったのは必要にかられて数回だったと思う…」
なるほど…この違和感はその為か。
これからは言葉にするとか行動で示すとか言っていた一貫だろう。
悔い改めたといったところだろうか。
「今こうやって手を繋いでくれているのは必要にかられて…ですか?」
「違う!」
足を止めたジョアキンはエメリを真剣な顔で見つめた。
「お腹が大きくなると足元が見えづらいと聞いた。エメリが転んで痛い思いをするのは嫌だ!お腹の子も危険だ!それに、おまえの柔らかい手に触れるのは好きだ…こうやって手に触れられるのが嬉しいんだ」
こんな美しい男に、触れられて嬉しいなんて言われたら大概の女性はいくらでも触らせてあげたいって体を差し出すだろう。
例に漏れず私も気を良くしていた。
「じゃあ、もう少し…触れても良いですよ」
繋いでいた手の指を絡ませギュッとジョアキンの手を握り直した。
ジョアキンは目を見張り、赤くなると唇をわななかせた。
ジョアキンの率直な好意と、初々しい反応が楽しくて仕方ない。
エメリはもっとジョアキンの反応が見たくてた堪らなくなっていた。
最初はポロポロ泣かれるのに鬱陶しささえ感じていたのに。
はっきりと大好きだと言われれば悪い気はしない。
こんな美しい男に好意を寄せられて浮き足立たない女はいないだろう。
手を繋ぎ、暫く進むと東屋のベンチに座った。
「疲れてはいないか?」
「ふふ、大丈夫です。心配ばかりしていますね」
座っても手を繋いだままの二人。
ジョアキンは繋いでいた手を自分の胸元に引き寄せた。
「考えていたんだが…もし、エメリの記憶が戻らなくても…それでも構わないと思っている。こんなこと言うと諦めて投げやりになっているように誤解されそうだけれど…そうじゃないんだ…」
緩く首を振る。
「おまえ…記憶を取り戻せない事や周囲の慣れ親しんだ人を思い出せないことに心を痛めているだろう?でも、申し訳ないと思う必要はないんだ。俺も、おまえの周りの人々も皆、おまえと、また良い関係を築こうと思い接している。思い出せなくとも、これから作って行けばいいと思っているんだ」
「ジョアキン様…」
ジワリと涙が滲み視界がぼやける。
「今、ここにいるエメリに好きになってもらえるように…俺が頑張れば良いのだ」
ジョアキンは繋いだ手を口元に運ぶとキスをした。
エメリは驚くほど柔らかな唇の感触に息を止めた。
しっとりとしたジョアキンの唇が肌の感触を確認するようにゆっくりと押しつけられ、ゆっくりと離れる。
彼から与えられたキスでわかった。
記憶としては何も思い出せないのに…それだけは確信できた。
自分の肌の上に残るしっとりとした湿度と柔らかな感触、唇を押しあてる強さ…全てを私の肌は覚えている。
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