神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 2-17

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 芝生の上には、淡い卵色でダマスクス柄が入った純白のテーブルクロスがはためいている。綾子に軽井沢で会って二日後のちょうど正午の光景であった。

「久し振りにこういう所に顔出したよ。」

 円形のガーデンテーブルに踏ん反り返っていた零の向かい側に、シャンパンを持った久志が腰を下ろした。相変わらず、少し上体を曲げる時に腹部を抱えている。

「それ美味しい?」

「辛い。」

 グラスの中身の金色の液体を見つめて、久志はそう返した。

「僕甘めのほうが好きなんだけど、ちょっとこれ辛過ぎる……。」

 くるくるとグラスを回して中身を全て飲み干すと、シャンパングラスをテーブルの上に置く。

「悠樹さんは?」

 辺りを見渡す久志に対して、零は見ている方向を顎でしゃくった。首相と宮内庁長官、そして清張という、一般人からすればどこか物々しいトリオで妻も同伴して言葉を交わしている。社交的な場に出る時、清張は常に着物でやってくる。今回はストライプの深緑に、濃紺の単衣羽織を着ていた。

「はーい、零! いっぱい持ってきたわよ!」

「そんなに食えんわボケナス。」

 沈黙を守って清張の様子を眺めていた二人の緊張を破り、理恵が皿を片手に背後からやってきた。見もせずに苦言を呈す零の様子を、久志は少し清張に重ねた。

「そんな事言わずに。貴方また朝食ヨーグルト一杯なんだから。」

「ヨーグルト一杯!?」

 横に置かれた皿には、きちんと上品にテリーヌだのローストビーフだのが並べてあった。清張から視線を外し、零はテーブルに向かう。

「……食べる気力がない。」

「多分セルフネグレクトだよそれ。」

 肘をついて、すっかりぬるくなったグレープフルーツジュースを口にすると、零は目の前に差し出されたフォークを見下げる。

「はい、あーん。」

 楽しそうな理恵に対して、半眼で胡乱げな顔の零は暫くして漸くテリーヌを頬張った。

「美味しい?」

「まあまあ。」

 理恵が差し出す食事をパクパクと食べ始めた零を、久志は両肘をついて眺めていた。

「零君って少食なんだっけ?」

「違うのよ、この人噛む回数が足りないの。」

 やれやれ、とばかりに理恵は額を押さえた。勝手にフィアンセを名乗る図々しい女とは表面ばかりで、随分と零には手を焼いているようであった。

「そういえば島田さんは何処に行ったのかしら?」

「史興ならさっき喫煙所に行ったよ。」

 零が食事を全て平らげると、理恵はすぐに別れを告げてウェイターを探しに行った。

「……。そういえば、腹の傷は?」

 傷の具合を聞かれて、久志は驚いたように腹部に手を当ててさすった。

「もうそんなに酷くないよ。そこまで深く刺されたわけじゃないし。まあただ……激しい運動は少しね?」

 微笑む久志に、硬くなっていた零は少しだけ顔を綻ばせた。

「そういえばこの間学友にあったんだっけ?」

「あぁえっと……学友っていうか先輩なんだけど。」

 金の混じった銀色の長い髪に、零は角燈館での男の姿を思い出す。

「お兄さんと一緒にこっちに来てたみたいで。」

「……もしかして東條明宏さんの事?」

 二度ほど頷いた零に、久志はふむ、と顎に手を当てた。

「一昨日に史興から……夕食の時話聞いたんだよね。東條って苗字でちょっとびっくりしちゃってさ。」

 史興は軽井沢にいる間、久志の別荘で世話になっていた。旧日本軍であれば盛り上がりもするのだろう。その苗字に機敏に反応する二人を彷彿として、零は少し口ごもった。

「いや、それは偶然だと思うけど……。」

「僕も偶然だと思いたいんだけど、そうか。報告書ギリギリに提出したからまだ見てないんだね……。」

 薄手の臙脂ベルベットで出来たジャケットから、久志はメモを一つ取り出した。すっかり使い込まれた焦げ茶色の革が捲られる。

「大川さんの事は聞いたよ。それで、僕がベッドに籠ってる間、ジークフリートさんとフィリップさんで彼女のパーソナルデータの調査をしたんだ。」

 何枚もページを捲って、久志は、これこれ、と呟く。

「大川……しゅうめい? ってあの頭おかしい人、だっけ?」

「そうそう、極東裁判で頭叩いた人……って僕は裁判の時には既に死んでたからだいぶ後で知ったんだけど。」

 それは置いておいて、と久志は物を持ち上げて隣に下ろすジェスチャーをする。

「彼女は遠い親戚だけど彼の血縁なんだ。遠いって言っても、同じ苗字にしては、って意味ね。それで今回の東條と来た。」

「や、やっぱ偶然……。いやでも、これで苗字近衛とか来たらちょっと信じる……。」

 仏の顔も三度までである。零は口を尖らせながら腕を組んだ。

「でも、旧日本軍で何をしようって言うんだろうな……?」

「そうだね……。それは、当事者だった僕でもちょっと、想像つかないかも。」

 久志は俯いて口元を押さえた。沈黙が流れる。立食会会場の人々のざわめきだけが二人に聞こえていた。庭園はとても広く、首相が私的に所持する別荘だけあって小さな湖もあれば小川もあり、橋もあった。悠樹邸の日本庭園もまた美しいものだが、広さで言えば無論首相の保持する庭に軍配が上がった。

「零君!」

 軽やかな鈴を転がすような声が聞こえて、零は振り返った。

「綾子さん。」

 名前を聞いて、久志もその姿を一目見ようと体を揺らした。

「招待されてたんですか?」

「えぇ、このパーティーの為に軽井沢に来たようなものですから。」

 大変ですね、と零は社交辞令として労りの声をかける。

「そちらの方は?」

 立ち上がった零に対して、綾子は久志の正体を聞いた。久志も痛みを感じさせないようにゆっくりと立ち上がる。

「初めまして、咲口久志です。」

「父の部下です。」

 会釈して手を差し出す久志に対して、綾子も微笑んでその手に答えた。

「こちらこそ初めまして、東條綾子と申します。」

 白い細かいレースが編まれた手袋はとても柔らかかった。綾子から注目を逸らすと、その隣にいた零が背中を向けていた。

「えっと……あちらはもしかしてお兄様ですか?」

 手を下ろした綾子は、久志の声できょとんとして後ろを向く、零の視線の先で、片手を上げてやってくる男が一人いた。

「はい、私の兄の明宏です。……ふふ、警察の方は情報が早いのですね。」

 歩み寄って来た明宏に、零は緊張で固まる。手を差し出すと、明宏もフランクに答えた。

「二日振りですね零さん。お風邪は召しませんでしたか。」

「えっあぁ。はぁ……まあ、おかげ様で……。」

 すっかり社交慣れしていない零の受け答えにこみ上げる笑いを飲み込みつつ、久志も一歩前に進み出た。

「お話は聞いていますよ、名門財閥の咲口家が存続していたとは驚きました。」

「はは、ご冗談を。もう何も持っていませんよ。」

 どうやら久志の名前は、悠樹の部下という以前に咲口財閥の末裔という方面で知られているようだった。いつもの対面の良い微笑みで握手を交わすと、明宏は零に視線を送って、すぐに久志に戻した。

「彼をお借りしても?」

「構いませんが……。」

 背中を向けられてすぐに、久志は唾を飲み込んだ。隣の綾子はただ微笑んで佇んでいる。しかしそれゆえに、気を付けて、の一言が交わせなかった。



 談笑する紳士婦人の囲いを縫って歩いて、零は芝生を踏みしめる明宏の半歩後ろを追った。

「それで、あの……何かお話が?」

「あぁそうだった。本人の前では言いにくいでしょうから。」

 零が横に並んだのを見て、明宏はゆっくりと歩を進め始めた。

「実は綾子が、あまり学校生活に関して口を割ってくれないものでね。友達もあまりいないと聞くので――」

 金色の瞳がじろりと零に視線を注いだ。

「出来れば、貴方からお話を伺えたらと。」

 瞳をそのまま見返そうとして、零はすぐに視線を逸らした。一昨日の感覚を思い出して、人知れず身震いする。

「俺は……なにも知りませんよ。殆どお会いしてませんし。」

 じっと見つめられるのがあまりに居心地悪く、零は顔を背けて手の甲で口元を覆った。

「そうですか。綾子からは学内で貴方をよく見かけると聞くもので。」

「別段、良くも悪くも評判もお聞きしませんから。俺は、綾子さんは良い人だと……思いますよ。」

 じりじりと、明宏にばれないように片足を後ろに引く。頭がぐらりと揺れて、視界がおぼつかない。今走り始めても、果たしてどこへ行けるか分かったものではなかった。引いていた足に力を入れようとした時、ぐにゃりと土がへこんだ。口元を覆う零の腕を掴もうと、明宏が手を伸ばす。

(まずっ!)

 また世話になるのはごめんだ、と零は足を踏み込んだ。それが仇となったのか、体は更に背中のほうへ倒れていく。明宏が零の名前を怒鳴った。



 水の中だとは理解出来た。しかし、と零は肺に手をやる。息をしている。そして水面があるだろう方向に手を伸ばす。首相の別荘にあった湖にしては随分と深い。

『相変わらず油断も隙もない。』

 暗い場所だと思っていたが、それはそもそも水が黒く澄んでいるという事が分かった。沈んでいく零の体を、黒いシルクのようなひらひらとしたなにかが支えて受け止める。

『あの男に近付くのはやめておいたほうがいい。』

 優しく、まるで人の手のように布は零の目元を覆った。初夏の水にしては生暖かい、それは人肌そのものだった。

『と言っても、あの男は嫌でもお前に近付いてくるのだろうがね。』
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