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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)
Verse 2-33
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猫の鳴き声が聞こえて、零は突っ伏した机から慌てて起き上がる。すっかりと陽は沈んだ。もう月も高い。時計を見れば既に時刻は夜の九時だ。携帯にメッセージは入っていない。ジークフリートからの直前のメッセージはこうだ。
『七時半か八時には帰ると思う。』
零の目の前にはすっかり冷めきったブイヤベースがラップをして置いてあった。
「んー……。」
伸びをして、膝に乗ってきた黒猫を撫でる。携帯を更にいじった。電話番号をタップして、耳元に当てる。
「……あ、もしもし悠樹です。ジークフリートってそっちに寄ってる? ……そっか。ありがと。うん、まだ帰ってないんだ。八時頃には帰ってるって言ってたんだっけど。今から自転車漕いで学院まで行ってみようかなって。……うん、ありがとう。気を付けるよ。」
受話器を下ろして、博人は親指と人差し指を顎に沿わせる。
「誰から~?」
「零さんから。まだジークフリートさんが帰ってないみたいなんですよね。今から自転車漕いで学院まで往復するって言ってました。」
継子謹製のわらび餅を咥えていた久志は、顔を突き出した。慌てて落としかけたわらび餅を皿で受け止める。
「今から? もう九時だよ? ちょっと危なくない?」
「いや、でも心配じゃないですか。」
博人の受け答えも聞かずに、久志は来客用スリッパでぱたぱたと居間へ行った。その後また急いでぱたぱたと、携帯を耳に当てながらベージュのトレンチコートとDAKSのマフラーを首に巻きつける。
「あ、零君? 今から車出すからさ。……うん、もう家出た? ……。そっか、じゃあそっちまで迎えに行くからさ史興と。……うん待ってて。近くなったらまた電話するから玄関に出てきてもらえると嬉しいな。」
通話が終わる頃には、史興も黒いダッフルコートと革手袋を嵌めて革靴を履き出した。襖を開け、自室で日課の日記をつけていた清張に声をかける。
「悠樹さん、ちょっと僕達、零君を学院まで送ってきますんで。特に用事なかったらその足で帰ります。あ、継子さん、夕食ご馳走様でした!美味しかったです!」
「分かった。気を付けて帰れ。」
慌てて外に出る二人に、継子は手を振って見送った。
「慌ただしかったねえ。」
そうですねえ、と博人は外に出て、史興が運転する自動車が悠樹邸から離れて行く様子を眺めて引き戸を閉じた。
後部座席に乗り込んで、シートベルトを締める。零は前のめりになって二人の間に顔を出した。
「学院までの道分かりますか。」
「えぇ、ここら辺は網羅してますから。」
良かった、と零はそのまま背もたれに背を預けた。
「銀承教絡みじゃなきゃいいんだけどね。」
「そうである事を願います。」
車窓の向こうの景色はぐんぐんと後ろへ流れて行く。九時とはいえ、都会の夜はまだ始まったばかりだ。車通りは決して少なくない。
「一応メッセージ入れたんですけど多分返事が来てないんで読んでないです。」
「一体何が……?」
分からない、とばかりに零は首を振った。ジークフリートと最近はあまりオーケストラの話はしていなかったのだ。というのは、食事時でもベッドタイムでも、学校の話やプロイセン時代と帝國の昔話に明け暮れていて、殆どは、調子はどう、の一フレーズで終わっていた。
「車どこに止めるか。この時間じゃ多分学院の駐車場には止められないな。」
「僕と零君だけ先に降りて学院入ろうか? 近くにコインパーキングならあったと思うよ。」
そうしよう、と史興は頷いた。バレエ学院に面する通りに入ると、確かにいくつか駐車場が立ち並んでいる。やがて学院の柵の前で車が止まり、零と久志が降車した。
「それじゃあ、すぐに追いつく。なにかあったら電話で。」
「分かった。行こう零君。」
僅かに空いている隙間からするりと体を通して、零と久志は車を見送った後に学院に入った。受付は既に閉まっているが、廊下は僅かながら電気がついている。
「入ってもよく分かんないな……。楽屋と稽古場を片っ端から開けていけばいい?」
「防音室でよく弾いてるとは聞いてるんですけど。」
案内板に示された見取り図を眺めていると、一人の女子が大きなバックを抱えて後ろを通り過ぎた。なんとも話しかけがたい雰囲気に、声が出ずにその背中を見送る。
「……防音室から片っ端に開けていこう。開かなかったらその時で。」
「手分けしましょう。俺はこっから開けるので。」
零が地図で最も近い楽屋を示すと、久志は頷いて防音室に向かって走り始めた。
その楽屋は初めて、そして唯一電気が点いていた。ドアが再び開く音がして、ジークフリートはだらしなく開いたワイシャツの前を辿々しく掻き寄せる。
「ジーク!」
愛しい声が聞こえた。しかし、その愛しさは今だけは少し遠くて、ジークフリートは疲れ切った脚を自らの側に引き寄せる。すっかりはだけたワイシャツもズボンも、乱れた前髪も、光の入らない青藍の瞳も、冷めきった白い肌も、そのなにもかもが彼の身にあった出来事を如実に表していた。
「ジークフリート、大丈夫か!?」
「れ……い。」
その姿が目に入るや否や、零はジークフリートに駆け寄った。まるで腫れ物を扱うかのようにその肩に腕を回す。
「れい……。」
「だれがこんな酷い事を……。もう大丈夫だよ、ジーク。大丈夫だから。」
ゆっくりと抱き寄せ、零はリュックの中から散乱した楽譜を必死で纏める。ジークフリートはその零の背中に漸く、恐る恐る腕を回した。
「零……。」
零の着る服から魚介スープの香りが漂う。ジークフリートの鼻腔をくすぐり、その心を満たす。
「ごめ、ん……零。僕は――」
「なにも、言わなくても大丈夫だよ。」
必死に紡ぎ出したジークフリートの謝罪がなにを言いたいのか、零にはなんとなく分かった。
「言ったろ、俺はもうお前の事なんてとうの昔に許してるんだって。だから……。」
胸に顔を埋めて啜り泣くジークフリートをしっかりと抱き寄せて、零は床に膝をつく。
「だから、今は自分の事を考えよ?」
僅かにジークフリートの頭が縦に動いた気がした。零はその金髪を何度も何度も、子供をあやすようにゆっくりと撫でる。
人通りの少ない通りを抜けて、いや厳密には学院に着くまでにたった一人しかすれ違わなかったが、史興はその惨状を見て長くため息を吐いた。
「凄まじいな。」
「そうだね。」
押収された証拠品を見て、久志は眉をひそめながら史興に頷いた。
「ジークフリートさんは?」
「応援に来てくれたパトカーで保護されてる。どうする? 流石に精神的に参ってるから事情聴取はしないほうがいいと思うよ僕は。」
学院の門からエントランスまでの道のりに、男の体が一つ、血の海の中に伏せていた。零と久志が入った頃には明らかになかったものだ。第一発見者は、今の所史興である。
「そうだな、今日のところはアルフレッドさんの所に寄るだけして帰ってもらおう。……ところでそれは何だ?」
「うーんと、白い鳥の産毛? 羽根だよ。」
ビニール袋に入ったその証拠品は、恐らく被害者の血に濡れた白い羽根だった。確かに小さい。
「鑑識に回してくれ。何だってこんなものが?」
「まあ今回の演目が白鳥の湖だからじゃないかな。被害者の傷に無数についてたみたいだよ。」
史興は唸りながら腕を組んだ。
「取り敢えず悠樹さんに報告して行こう。その後仮眠して――」
「アルフレッドさんだね……。」
参ったよ、とばかりに二人は同時に頭をもたげた。
* * *
『七時半か八時には帰ると思う。』
零の目の前にはすっかり冷めきったブイヤベースがラップをして置いてあった。
「んー……。」
伸びをして、膝に乗ってきた黒猫を撫でる。携帯を更にいじった。電話番号をタップして、耳元に当てる。
「……あ、もしもし悠樹です。ジークフリートってそっちに寄ってる? ……そっか。ありがと。うん、まだ帰ってないんだ。八時頃には帰ってるって言ってたんだっけど。今から自転車漕いで学院まで行ってみようかなって。……うん、ありがとう。気を付けるよ。」
受話器を下ろして、博人は親指と人差し指を顎に沿わせる。
「誰から~?」
「零さんから。まだジークフリートさんが帰ってないみたいなんですよね。今から自転車漕いで学院まで往復するって言ってました。」
継子謹製のわらび餅を咥えていた久志は、顔を突き出した。慌てて落としかけたわらび餅を皿で受け止める。
「今から? もう九時だよ? ちょっと危なくない?」
「いや、でも心配じゃないですか。」
博人の受け答えも聞かずに、久志は来客用スリッパでぱたぱたと居間へ行った。その後また急いでぱたぱたと、携帯を耳に当てながらベージュのトレンチコートとDAKSのマフラーを首に巻きつける。
「あ、零君? 今から車出すからさ。……うん、もう家出た? ……。そっか、じゃあそっちまで迎えに行くからさ史興と。……うん待ってて。近くなったらまた電話するから玄関に出てきてもらえると嬉しいな。」
通話が終わる頃には、史興も黒いダッフルコートと革手袋を嵌めて革靴を履き出した。襖を開け、自室で日課の日記をつけていた清張に声をかける。
「悠樹さん、ちょっと僕達、零君を学院まで送ってきますんで。特に用事なかったらその足で帰ります。あ、継子さん、夕食ご馳走様でした!美味しかったです!」
「分かった。気を付けて帰れ。」
慌てて外に出る二人に、継子は手を振って見送った。
「慌ただしかったねえ。」
そうですねえ、と博人は外に出て、史興が運転する自動車が悠樹邸から離れて行く様子を眺めて引き戸を閉じた。
後部座席に乗り込んで、シートベルトを締める。零は前のめりになって二人の間に顔を出した。
「学院までの道分かりますか。」
「えぇ、ここら辺は網羅してますから。」
良かった、と零はそのまま背もたれに背を預けた。
「銀承教絡みじゃなきゃいいんだけどね。」
「そうである事を願います。」
車窓の向こうの景色はぐんぐんと後ろへ流れて行く。九時とはいえ、都会の夜はまだ始まったばかりだ。車通りは決して少なくない。
「一応メッセージ入れたんですけど多分返事が来てないんで読んでないです。」
「一体何が……?」
分からない、とばかりに零は首を振った。ジークフリートと最近はあまりオーケストラの話はしていなかったのだ。というのは、食事時でもベッドタイムでも、学校の話やプロイセン時代と帝國の昔話に明け暮れていて、殆どは、調子はどう、の一フレーズで終わっていた。
「車どこに止めるか。この時間じゃ多分学院の駐車場には止められないな。」
「僕と零君だけ先に降りて学院入ろうか? 近くにコインパーキングならあったと思うよ。」
そうしよう、と史興は頷いた。バレエ学院に面する通りに入ると、確かにいくつか駐車場が立ち並んでいる。やがて学院の柵の前で車が止まり、零と久志が降車した。
「それじゃあ、すぐに追いつく。なにかあったら電話で。」
「分かった。行こう零君。」
僅かに空いている隙間からするりと体を通して、零と久志は車を見送った後に学院に入った。受付は既に閉まっているが、廊下は僅かながら電気がついている。
「入ってもよく分かんないな……。楽屋と稽古場を片っ端から開けていけばいい?」
「防音室でよく弾いてるとは聞いてるんですけど。」
案内板に示された見取り図を眺めていると、一人の女子が大きなバックを抱えて後ろを通り過ぎた。なんとも話しかけがたい雰囲気に、声が出ずにその背中を見送る。
「……防音室から片っ端に開けていこう。開かなかったらその時で。」
「手分けしましょう。俺はこっから開けるので。」
零が地図で最も近い楽屋を示すと、久志は頷いて防音室に向かって走り始めた。
その楽屋は初めて、そして唯一電気が点いていた。ドアが再び開く音がして、ジークフリートはだらしなく開いたワイシャツの前を辿々しく掻き寄せる。
「ジーク!」
愛しい声が聞こえた。しかし、その愛しさは今だけは少し遠くて、ジークフリートは疲れ切った脚を自らの側に引き寄せる。すっかりはだけたワイシャツもズボンも、乱れた前髪も、光の入らない青藍の瞳も、冷めきった白い肌も、そのなにもかもが彼の身にあった出来事を如実に表していた。
「ジークフリート、大丈夫か!?」
「れ……い。」
その姿が目に入るや否や、零はジークフリートに駆け寄った。まるで腫れ物を扱うかのようにその肩に腕を回す。
「れい……。」
「だれがこんな酷い事を……。もう大丈夫だよ、ジーク。大丈夫だから。」
ゆっくりと抱き寄せ、零はリュックの中から散乱した楽譜を必死で纏める。ジークフリートはその零の背中に漸く、恐る恐る腕を回した。
「零……。」
零の着る服から魚介スープの香りが漂う。ジークフリートの鼻腔をくすぐり、その心を満たす。
「ごめ、ん……零。僕は――」
「なにも、言わなくても大丈夫だよ。」
必死に紡ぎ出したジークフリートの謝罪がなにを言いたいのか、零にはなんとなく分かった。
「言ったろ、俺はもうお前の事なんてとうの昔に許してるんだって。だから……。」
胸に顔を埋めて啜り泣くジークフリートをしっかりと抱き寄せて、零は床に膝をつく。
「だから、今は自分の事を考えよ?」
僅かにジークフリートの頭が縦に動いた気がした。零はその金髪を何度も何度も、子供をあやすようにゆっくりと撫でる。
人通りの少ない通りを抜けて、いや厳密には学院に着くまでにたった一人しかすれ違わなかったが、史興はその惨状を見て長くため息を吐いた。
「凄まじいな。」
「そうだね。」
押収された証拠品を見て、久志は眉をひそめながら史興に頷いた。
「ジークフリートさんは?」
「応援に来てくれたパトカーで保護されてる。どうする? 流石に精神的に参ってるから事情聴取はしないほうがいいと思うよ僕は。」
学院の門からエントランスまでの道のりに、男の体が一つ、血の海の中に伏せていた。零と久志が入った頃には明らかになかったものだ。第一発見者は、今の所史興である。
「そうだな、今日のところはアルフレッドさんの所に寄るだけして帰ってもらおう。……ところでそれは何だ?」
「うーんと、白い鳥の産毛? 羽根だよ。」
ビニール袋に入ったその証拠品は、恐らく被害者の血に濡れた白い羽根だった。確かに小さい。
「鑑識に回してくれ。何だってこんなものが?」
「まあ今回の演目が白鳥の湖だからじゃないかな。被害者の傷に無数についてたみたいだよ。」
史興は唸りながら腕を組んだ。
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