神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 3-13

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 その日、いつものように見舞いに来ていたニコライ二世は、玄関へ続く階段をフェリクスと共に下がっていた。

「……来たのか。」

 意外性を含んだ、憤怒と、呆れと、安堵の声だった。足を止め、ゴーレムに接待される男の姿を見下げる。

「……。」

 隻眼がニコライ二世を捉える。そういえば、昨日は現地時刻で米軍との契約が終わる日付だった。今ロシアにいるという事は、そのままドイツにある家にも寄らずに直行でロシアに到着したのだろう。コートをかけ終わったゴーレムが、恭しく手を差し出してルプレヒトの案内を始める。ニコライ二世とフェリクスには目もくれずに、すたすたと階段を上がっていってしまった。

「愛されていますね、主は。」

「そう思うか。」

 ゆっくりと階段を降りながら、背後に立つフェリクスの言葉にそう返した。

「勿論です。いかに大業を成し得たとはいえ歴史に名も刻まれなかった方であるのに、これほどまでに人が……王族まで見舞いにいらっしゃるとは。」

 ニコライ二世は眉を寄せた。その全ては、零の人となりと、そして運が引き込んだものだ。これまで来た見舞い人は数知れない。家族は勿論の事、フリードリヒ二世や、マリア・テレジアや、国土自身らも自らの体をもって見舞いに来た。

「例えグ……ラスプーチンだろうと、零だろうと、[神]の座はその痩躯に余りある。いかに偉大な君主であろうとも[神]になれるとは限らない。」

 白い手すりに手を滑らせながら、ニコライ二世は最後の段を降りた。

「だが、彼以外にもう務められるような者が、私の頭には浮かばない。」

「凡人だからこそ、出来る事もあります陛下。」

 少し驚いたようにニコライ二世は振り返る。ロシアには二種類の上流階級があった。一つは、血筋を良しとし、卑しい者を遠ざける者。もう一つは、民衆こそがロシアの真の力を秘めており、それを召し上げて国の為に使おうとする者。ニコライ二世は、その二種類において後者であった。

「お前はそのような考え方には反感的だと思っていたのだが。」

「陛下、私が殺したのはグリゴーリー・ラスプーチンという男や、民衆を慕う貴方様の主義ではなく、国を滅亡に導いた者です。」

 屁理屈を、と思いつつ、ニコライ二世は苦笑しながら前を向いた。手をひらひらと降って歩き出す。

「かつての話はやめよ。」

 玄関扉を開け、水をよく含んだ雪を踏みしめる。

「そういう意味では、グリーシャも主も少し似ておられるのかもしれません。境遇や時代が違っただけで、ただ力も持たぬ平民が、一国の主の寵愛を受けたというところが。」

 よく晴れた日だ。もう吹雪は来ないだろう。

「私には今のラスプーチンが分からない。あの男が一体なにをしようとしているのか。」

「少なくとも、陛下に牙を剥くような男ではありませんよ。」

 大きくため息を吐いて、ニコライ二世は青々とした空を見上げる。薄い雲が大海を流れていった。

「まだお怒りなのですか?あの男に。」

「……分からない。この気持ちが、果たして怒りなのかさえ。」

 果たして生前のように家族とグリゴーリーと共に過ごせたら、それは穏やかな日常なのだろうか、とニコライ二世は、心の中でただ虚空に投げかけた。



 背後で扉が閉まる音がして、ルプレヒトは扉を一瞥した。零は眠っている。ゆっくりと音を立てないように近付いて用意された二つのうち一つの椅子に腰掛けた。よく眠っているのか、零の顔は穏やかだ。しかし、その隣にある手首は酷く細かった。

「……零。」

 ゴーレム曰く、まだ聴覚と触覚はあるという。味覚と嗅覚は既に機能せず、視覚はもう薄ぼんやりとしていて使い物にはならない。

「……。」

 零は目を覚まさない。羽毛布団から出ている手をゆっくりと握って、ルプレヒトは息を吐いた。僅かに手が動いたのを見とめて、ルプレヒトはかすかに微笑んだ。

「愛してる、と言う資格はもうないんだろうな。」

 毎日、ジークフリートは足繁く零を訪れているという。ルプレヒトはそれを聞いて心の奥で安堵した。

「ジークフリートは良い奴だ。お前を幸せに出来る……俺よりもずっと。」

 目を閉じてするりと手を抜きかけ、その指先を掴まれた。

「……ぅぷれ、ひと?」

 目は薄く開いていた。まだ夢現、微睡みと霧の中だろう。唾を飲み込んで、ゆっくりと手を引けば、なすがままに零の手が開いた。声を出しては、今の聴覚が敏感な零には一瞬で気付かれてしまう。ルプレヒトはゆっくりと立ち上がって後ずさった。

「だれ……?」

 さして距離は離れていない。しかし、零の瞳はルプレヒトをルプレヒトと理解する事が出来なかった。確実にその姿を捉えているのに、その顔はあまりに朧げだ。まだ意識が上手く浮上せずに身体を起こせない零から離れて、ルプレヒトは背を向けた。気を遣われないように、扉をゆっくりと閉める。

『ルプレヒト様。』

「案内はいらない。」

 背を向けて閉めた扉から離れ、ルプレヒトはゴーレムの案内を静止して廊下を足早に去った。階段を降り、だれもいない玄関を通り過ぎて屋敷の外を出る。

(やはり……会わなければ良かったか。)

 言葉さえ交わせぬのなら、とルプレヒトは雪道の途中で立ち止まった。太陽が落ちかけている。ロシアにしては少し暖かかった。

(……。)

 振り返って、零がいる部屋に続く廊下の窓を見上げた。会わなければ会わないほど思いは募り、会えば会うほど離れ難い。しかし、それが贖いなのだと、ルプレヒトは視線を切った。雪道はいつものように雪が深いと思いきや、歩きやすくなっていた。どこかから春の小川の音がほんのかすかに聞こえてくる。ルプレヒトは、いつも通りの歩みで道を歩み始めた。

 * * *

 ただひたすらにその手を握って、ジークフリートはこんこんと眠りに耽る穏やかな零の顔を見つめていた。瞬きすらないその顔は、声をかけづらい。

「[核]は動いてるけど、もうそろそろだろうね……。」

 その日の朝はいつも通りの寒さだった。

「零……。」

 ジークフリートの背後には、リチャード一世とジャンがただ静かに立っていた。向かい側のアルフレッドの隣には、ニコライ二世とフェリクスが、寂しげな表情で座っている。目覚めを促すようなジャンの声音に、しかし零の顔はぴくりとも動かない。

「聴覚も触覚もない状態で、よく四日も狂わずにいれるものだ。[シシャ]だからか、それとも……。」

 持ち前のなにかなのか。リチャード一世はROZENでのレイを思い出して、静かに息を吐いた。ほぼ一週間の拷問に耐え抜いたあの精神力は健在というわけである。

「俺には想像出来ないし、やろうとも思えないよ。」

「そうだな、それは……私もだ。」

 ただただ暗闇を歩き続けた時もあったか、とリチャード一世は零との出会いをふと思い出した。

(懐かしい。あの頃は……こんな事になるとは夢にも思っていなかった。)

 新たな生を受けて尚、戦争に巻き込まれ、謀略を張り巡らし、憧れた者に剣を向け、一切の縁もなかった者達と結託する。

「怖い事も沢山あったけど、別にそればっかりじゃない。リチャードに会えたし、フィリップとも仲良くなれた。色々な人に出会えて……やっぱり。零は凄いよ。」

 ジャンの言葉を聞いて、リチャード一世とアルフレッドは薄く微笑んだ。これまでも、これからも、この世界で出来た縁は永遠だ。ただ静かに眠りを見守っていると、ジークフリートの身体が僅かに跳ねた。

「どうした?」

「少しだけ……握り返された。」

 ジークフリート以外の五人が息を呑み、身体を乗り出す。確かに、零の顔が先程からほんのりと動いた気がした。瞼が痙攣し、ゆっくりと赤い煌めきを伴った瞳が現れた。

「零!」

「零、俺達の事分かる!?」

 決して届く事のない表情、声と言葉、そして肌の温もり。しかし、彼らが見ている中で、零は今はっきりと赤かったであろう唇を動かした。

「零……。」

 ジークフリートは、その言葉に返せる声がなかった。ただただ、握っていた手に力を込める。孔雀青の瞳を涙が包んだ。

「零……!」

 肌に触れていたアルフレッドが、僅かに目を開いて声もなく息を呑んだ。その場にいる全員が悟った。零の顔をじっと見つめる事しか出来ない。しかしそれも耐え切れなくて、ジークフリートはふとベッドサイドのテーブルに置いてあった時計を見る。午後一時の針を見て、ジークフリートは立ち上がる。

「アルフレッド。零の身体を[死神]達に渡す前に、一つお願いがある。」

 顔を上げた先には、ジークフリートの硬い顔があった。

 零の身体を抱きかかえて、ジークフリートは屋敷を出た。昼を迎えた庭は、一斉に蕾が膨らみ色とりどりの花々が咲き乱れていた。

「お前は昔からヨーロッパの春が好きだって言ってたよな。」

 柔らかな風が草木を撫でると、花弁が天高く舞い上がった。

「……また、二人で見ような。」

 春風を受け、ジークフリートは空を見上げたまま瞳を閉じた。動いた零の唇が紡いだ言葉を思い出す。

『最期まで、ありがとう。』



 では、と拱手して、漢服風の上着を纏ったゴーレムの前まで男は摺り足で下がった。

「よろしくお願いします、司馬懿殿。」

「無論です。手厚く葬った後に、然るべき手続きを終えて転生させます故、ご安心を。」

 拱手を解き、司馬懿は布に包まれた零の亡骸を一瞥してフェリクスの背後に立つ面々を眺めた。

「よき春の日ですな。」

 漢服の裾が翻る。司馬懿は眩しそうに空を見上げた。

「多くの者が言います。終わりとは始まりであり、始まりとは終わりである。」

 再びフェリクス達を見て、司馬懿は別れの拱手を組んだ。

「春とは冬の終わりであり、年度の始まりであり。死とは生の終わりであり、この世界においては生の始まりであります。」

 一度頭を下げて、司馬懿は続けた。

「今日この春の始まりの日にさるお方が亡くなられたのも、またなにかの縁でありましょう。」

 では、と司馬懿は再び拱手を解いて、六人に背を向けた。やがてゴーレムと共に丘を下り、その姿は見えなくなる。また強い春の風が吹いて、草木が空に上がった。その日の空は、遮るもの一つない美しい青一色であった。
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