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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)
Verse 4-24
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見覚えのある湖に出た。対岸が見えないが、零はそっと湖に踏み入れた。逸叡がいなくても、どうやら湖の上を歩く事は出来るらしい。自身が日本人であるからか、湖の上にぽつんぽつんと、道標のように立つ鳥居は恐怖を煽った。
(いや、でも行くしかないよな。)
一度後ろを振り返った。山脈に遮られて、グリゴーリーの家があるだろう平地はもう見えない。意を決して、零は一つ目の鳥居をくぐった。お喋りな逸叡がいないせいで、途方もなく長い道筋に思えた。何度も振り返ろうと思ってやめた。何度も、残って共に凌ぐべきだったのでは、と頭をよぎった。[人間]である自分に出来る事があまりに少ない事を思い知って、鼻の奥が痛くなった。なにもかもを捨てて、なにも知らずにただ足掻くだけで生きる事が出来た帝國の頃が懐かしくて戻りたくなった。
(皆……どうしてるんだろう。)
いくどとなく溢れ出た感情、自分が神の座を勝ち得なければ、という後悔が襲ってきた。休みが欲しかった。休む暇などないのに。そして零は、自分の来た道を振り返ろうとした。
「振り返ったらあかんのやで。特にここは。」
振り返る事が出来ないように、零は後ろから手で目隠しをさせられた。
「気になってるのは百も承知や。でもな、ここで振り返ったら、あんさんこの湖で彷徨う事になってしまうからなあ。」
ぱっと視界が開けたと思えば、目の前の青い火の玉が浮いていた。
「道案内、間に合わへんかったなあ。」
苦笑して、逸叡は零の隣に並んだ。どうやらこの火の玉は逸叡が送り込んでくれたゴーレムだったらしい。
「グリゴーリーが心配なのは分かるんやけど、この湖を抜けるまでは辛抱してえや。」
逸叡は零を慰めるようにその手を握った。零は少しばかり高い位置にある逸叡の顔を見上げる。
「あんさんの思ってる事はよお分かる。わいも戻れるなら戻りたいんや。わいを知らない……坂本隼人だったあの頃に。」
寂しげに微笑む逸叡に、零は俯いた。
「戻りたいんやけど戻れへんわ。せやけど、戻らんくても在るもんは在る。」
そう言って、逸叡は零の胸に手のひらを押し当てた。
「縁や思い出や誇りや……そういうもんが、わいらには在る。」
な、と逸叡は呟いた。零は小さく頷く。彼の言う通りだ。仮に戻ったとしても、グリゴーリーが言った通りに、彼らは在るべき立ち位置に戻らなくてはならない日が来る。逸叡の狩衣姿の背中に先導されて、零は再び、前へ歩みを進めた。
[妖界]で零にあてがわれた部屋は、以前訪れた温泉旅館風の建物の玄関ホールを突き抜けていった先の平屋であった。広大な敷地にどんと構えたその屋敷は、中央から真っ二つに、大雑把に言うと公家の館と武家の館で分かれていた。
「ほんならここ。顔見知りも多いやろし。」
「顔見知りて……。」
人生の殆どを欧州で過ごした零の、日本にいる顔見知りなどたかが知れていた。まさか、と思いつつも夜の遅くに鉢合わせるわけもなく、零は悠樹邸にある自室よりも明らかに広い部屋を見渡した。
「ここは特殊な作りでな、ちゃんと昼夜が出来てるさかい。」
零の部屋から一望出来る小さな庭園の中央には、日時計がぽつんと置いてあった。
「あとなんか言う事あったかいな……あー!せや、これ渡さんとな。」
逸叡が出る時に命じたのか、既に部屋の中央にはふかふかの敷布団があった。それはともかく、逸叡は袂をごそごそと弄って毛皮を取り出した。
「てれれれってれ~、たーぬーきーのーかーわー。」
毛皮の大きさは、大体今の身長が一六〇センチを超えている零の、胸から腹までをすっぽり覆える程のものだった。逸叡に投げて寄越され、その狸の毛皮をまじまじと見つめた。
「……えっ、これ何?どうすれはいいんだ。」
「狸の皮は化けの皮や。あんさん、今のその体でここにおるんはなんかと不自由や思うてな。」
零から再び狸の皮を受け取って、逸叡はトップスの裾を上げるように手を払った。渋々と零がその赤いニットをたくし上げると、狸の皮をまるで湿布を貼るようにぺたりとくっつけた。
「わいの特注品やから大事に使ったらええんや。ほな、風呂入る時も寝る時もこのまんまでええで。」
みるみるうちに胸がなくなっていったかと思えば、へその位置が上がっていく。腰付きも少しだけ変わった気がして、零は慌てて近くにあった姿見の布を剥ぎ取った。
「……まじかよ。」
「飽くまで見せかけや。呪いの類でしかあらへんけど気休めにはなるやろ。」
ぺたぺたと狸の皮が馴染んでしまった場所をさすってみたが、ものの見事に人の皮膚であった。胡乱げな顔で零は逸叡を振り返る。
「勿論タダじゃないんだろ。」
「そんなんタダでやっとったら商売あきまへんなぁ。」
けらけらと笑って、逸叡はいつの間にか取り出していた煙管の煙を細く吐き出した。
「やってもらう事はありますさかい。せやけど、今日はもう遅いし寝たほうがええ。また明日、朝餉の時に来ますわ。」
障子にもたれていた逸叡は、漸くそこから離れてひらひらと手を振った。
「ほんなら。」
障子を閉めて、逸叡は零の寝室を後にした。月明かりで浮かぶそのぼんやりとした影が随分と風流に見えて、零は暫くなにも考えずにそれを見つめていた。
* * *
(いや、でも行くしかないよな。)
一度後ろを振り返った。山脈に遮られて、グリゴーリーの家があるだろう平地はもう見えない。意を決して、零は一つ目の鳥居をくぐった。お喋りな逸叡がいないせいで、途方もなく長い道筋に思えた。何度も振り返ろうと思ってやめた。何度も、残って共に凌ぐべきだったのでは、と頭をよぎった。[人間]である自分に出来る事があまりに少ない事を思い知って、鼻の奥が痛くなった。なにもかもを捨てて、なにも知らずにただ足掻くだけで生きる事が出来た帝國の頃が懐かしくて戻りたくなった。
(皆……どうしてるんだろう。)
いくどとなく溢れ出た感情、自分が神の座を勝ち得なければ、という後悔が襲ってきた。休みが欲しかった。休む暇などないのに。そして零は、自分の来た道を振り返ろうとした。
「振り返ったらあかんのやで。特にここは。」
振り返る事が出来ないように、零は後ろから手で目隠しをさせられた。
「気になってるのは百も承知や。でもな、ここで振り返ったら、あんさんこの湖で彷徨う事になってしまうからなあ。」
ぱっと視界が開けたと思えば、目の前の青い火の玉が浮いていた。
「道案内、間に合わへんかったなあ。」
苦笑して、逸叡は零の隣に並んだ。どうやらこの火の玉は逸叡が送り込んでくれたゴーレムだったらしい。
「グリゴーリーが心配なのは分かるんやけど、この湖を抜けるまでは辛抱してえや。」
逸叡は零を慰めるようにその手を握った。零は少しばかり高い位置にある逸叡の顔を見上げる。
「あんさんの思ってる事はよお分かる。わいも戻れるなら戻りたいんや。わいを知らない……坂本隼人だったあの頃に。」
寂しげに微笑む逸叡に、零は俯いた。
「戻りたいんやけど戻れへんわ。せやけど、戻らんくても在るもんは在る。」
そう言って、逸叡は零の胸に手のひらを押し当てた。
「縁や思い出や誇りや……そういうもんが、わいらには在る。」
な、と逸叡は呟いた。零は小さく頷く。彼の言う通りだ。仮に戻ったとしても、グリゴーリーが言った通りに、彼らは在るべき立ち位置に戻らなくてはならない日が来る。逸叡の狩衣姿の背中に先導されて、零は再び、前へ歩みを進めた。
[妖界]で零にあてがわれた部屋は、以前訪れた温泉旅館風の建物の玄関ホールを突き抜けていった先の平屋であった。広大な敷地にどんと構えたその屋敷は、中央から真っ二つに、大雑把に言うと公家の館と武家の館で分かれていた。
「ほんならここ。顔見知りも多いやろし。」
「顔見知りて……。」
人生の殆どを欧州で過ごした零の、日本にいる顔見知りなどたかが知れていた。まさか、と思いつつも夜の遅くに鉢合わせるわけもなく、零は悠樹邸にある自室よりも明らかに広い部屋を見渡した。
「ここは特殊な作りでな、ちゃんと昼夜が出来てるさかい。」
零の部屋から一望出来る小さな庭園の中央には、日時計がぽつんと置いてあった。
「あとなんか言う事あったかいな……あー!せや、これ渡さんとな。」
逸叡が出る時に命じたのか、既に部屋の中央にはふかふかの敷布団があった。それはともかく、逸叡は袂をごそごそと弄って毛皮を取り出した。
「てれれれってれ~、たーぬーきーのーかーわー。」
毛皮の大きさは、大体今の身長が一六〇センチを超えている零の、胸から腹までをすっぽり覆える程のものだった。逸叡に投げて寄越され、その狸の毛皮をまじまじと見つめた。
「……えっ、これ何?どうすれはいいんだ。」
「狸の皮は化けの皮や。あんさん、今のその体でここにおるんはなんかと不自由や思うてな。」
零から再び狸の皮を受け取って、逸叡はトップスの裾を上げるように手を払った。渋々と零がその赤いニットをたくし上げると、狸の皮をまるで湿布を貼るようにぺたりとくっつけた。
「わいの特注品やから大事に使ったらええんや。ほな、風呂入る時も寝る時もこのまんまでええで。」
みるみるうちに胸がなくなっていったかと思えば、へその位置が上がっていく。腰付きも少しだけ変わった気がして、零は慌てて近くにあった姿見の布を剥ぎ取った。
「……まじかよ。」
「飽くまで見せかけや。呪いの類でしかあらへんけど気休めにはなるやろ。」
ぺたぺたと狸の皮が馴染んでしまった場所をさすってみたが、ものの見事に人の皮膚であった。胡乱げな顔で零は逸叡を振り返る。
「勿論タダじゃないんだろ。」
「そんなんタダでやっとったら商売あきまへんなぁ。」
けらけらと笑って、逸叡はいつの間にか取り出していた煙管の煙を細く吐き出した。
「やってもらう事はありますさかい。せやけど、今日はもう遅いし寝たほうがええ。また明日、朝餉の時に来ますわ。」
障子にもたれていた逸叡は、漸くそこから離れてひらひらと手を振った。
「ほんなら。」
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