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第一部 三章

第二十五話 兵との食卓

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「あっ、えっ、泣いてる!? 何で!?」

 驚いたアヤメが兵士の顔を覗き込むと、次から次へと瞳から涙が溢れている。

「閃皇様」

 アヤメの向かいに座っていた兵士が、隣で泣いている兵士の肩に手を置く。
 そしてアヤメに顔を向けると、こう言った。

「こいつ――アーガスは、昨日の夜まで死の淵にいたのです」

 アヤメには、とてもそうは思えなかった。
 確かに兵士にしては痩せていると思ったが、さっきまで普通に立っていたし、動作がフラついていたという感じも無い。

「矢傷から傷口が腐る病気にかかり、全身に腐毒が回りつつありました。医者の話では昨夜が峠であると――。それが昨日の夜に起きた奇跡のおかげで、あっという間に全快したのです」

 語る兵士の目には貰い泣きしたのか、うっすらと涙が浮かんでいた。

「噂では奇跡を起こしたのは閃皇様と聞いております。ですが我々は、この奇跡を起こしたのは閃皇様であると確信しているのです。闘技場で、それ以上の奇跡を目の当たりにしているのですから」

 アヤメはその兵士の言葉で、ミーミルだけではなく自分も相当やらかしているのだと、やっと気づいた。
 城壁や闘技場や訓練場を滅茶苦茶にしたミーミルの一撃を無効化すれば、ミーミル以上に危険な存在であると思われてもおかしくない。
 というか実際にそう思われたから暗殺対象に入ったのだろう。
 見た目の派手さではミーミルに劣るが、人心への影響力ではアヤメの方が派手な事をしているのだ。

 その事に気づくのが遅すぎた。

「もう――こんな美味いものは食べられないと――思っていました」

 途切れ途切れになりながら、俯いた兵士が、絞り出すように声を出した。

「昨日の夜、リオンに飲ませて貰った麦湯が――友との最後の食事だと――」

 リオンと呼ばれた兵士が堪えきれず嗚咽を漏らし始める。

「しかも閃皇様、自ら食事を振る舞って頂けるなど――なんと感謝すれば良いのか――」

 さっきまでの喧騒はいつの間にか吹き飛び、辺りは静まり返っていた。
 というか静まり返るどころか、兵士の何人かは嗚咽を漏らしている。
 静けさが余計にアヤメに牙を剥いていた。

「うん……そんな……うん」

 アヤメは顔を引きつらせながら、兵士の言葉に相づちを打つ。
 ミーミルもいきなりの状況変化に戸惑うばかりだ。
 目立ってはいけないのに、これでは完全に逆方向である。
 とにかくこの状況を打開しなければならない。

「こ、これくらいならいつでも作るから、そんな深刻にしなくていいよ。簡単だし!」

 アヤメは笑みを浮かべながら兵士達に言った。

「何と勿体ないお言葉……」
「伝説の閃皇様にそんな言葉をかけられるなんて、我々は恵まれすぎている……」
「今まで帝国に仕えて本当に良かった」

 やはり逆方向だった。

 というかこの状況では何をしても、逆方向にしか走れない一方通行だ。
 これ以上悪化する前に、早急にこの場から離れるしかない。

「そ、そうです。用事があったの忘れてたのです。早く食べなくちゃ。い、頂きます」

 棒読みのアヤメは兵士が一口つけた食事を食べ始める。
 兵士に味見させた皿こそが自分用の食事だった。
 自然な毒見も完璧である。

 だがそんなアヤメの様子を見た兵士達が、急に色めき立った。

「……う?」

 何かマズい事をしたのか? と卵の白身を咀嚼しながら辺りを見渡す。
 だが兵士は何も言ってこない。
 しかしさっきまでの沈痛な空気とは明らかに様子が違う。

 卵の白身から食べるのがマナー違反、という訳ではないはずだ。
 アーガスの食べ方を真似して、最初に白身に手をつけたのだから。

 全く訳が分からない。
 アヤメは顔をひきつらせたまま、正面に向き直る。

 するとアーガスが号泣していた。
 テーブルに突っ伏して食事すら忘れ、「ぐおお……うおおお……!」と泣いている。
 何がどうしたのか分からないが、さっきより確実に状況が悪化していた。

「ふえぇ」

 自分が泣きたいくらいだ。
 意味が分からないまま、とにかくアヤメは食事を進める。
 とりあえず毒は入っていなかった。


『自分で作ってみんなで食べれば毒料理は回避作戦』は大成功で大失敗であった。


 
 食堂の騒めきは、閃皇と剣皇の二人がいなくなっても続いていた。
 多くはオルデミア騎士団長に促され、持ち場に帰っていたが、持ち場のない兵士はその場に留まっていた。
 持ち場から外されていた兵士――つまり、怪我や病気に侵されていたが、昨晩の奇跡により復活した者だけは仕事が割り当てられておらず、暇があったのである。

 そしてその場にはリオンとアーガスも留まっていた。

 二人の付き合いは長い。
 出身は違っていたが、兵士に志願した年が同じで、同い年であった事から、自然と仲良くなっていた。
 立身出世も似たような速度で、新兵からの五年間で、何とか二等兵に昇進していた。
 だが数週間前の戦闘で二人は傷を負った。
 リオンは足の健を断っていたが命に別状はなかった。
 だがアーガスは矢傷から呪毒を受けており、療術士に怪我を見せる頃には、全身に毒が回ってしまっていたのだ。

 戦線から医療施設の整った中央に帰る頃には、すでに手遅れであった。

 後は少しずつ死に至る友人を見送るしかなかったリオン。
 アーガスも自分の死を覚悟しており、遺言を友人に遺す。

 その最中に、あの奇跡が起きたのだ。
 リオンの完治まで数か月かかるはずの健断裂は、走れるほどにまで回復し、アーガスの腐りかけて塞がらない傷口は、あっという間に肉が盛り上がって塞がり、全身の腐毒は消え失せていた。

 それも二人だけではない。
 病室にいた怪我人や、死の淵にいた病人が等しく全員、数分のうちに健常者となったのである。
 神の御業と言われても容易に信じられる程の奇跡であった。

「二人とも、良かったな」

 二人の上官である一等兵のヴァラクが、いつの間にか近くに立っていた。
 感動や感謝や驚きや様々な感情を処理しきれず、茫然としていた二人は、上官に声をかけられても反応が数秒遅れてしまった。

「こ、これはヴァラク隊長!」
「失礼しました!」

 二人は慌てて椅子から立ち上がり、敬礼を返す。
 ヴァラクも怪我をして中央へと戻ってきた兵士の一人であった。
 ヴァラク隊は戦績優秀な部隊だったが、その部隊が半壊する程に、先の戦いは激しかったのである。

「怪我の調子はどうだ?」
「閃皇様のおかげで、もう何ともありません」

 そう元気に返すアーガスにヴァラクは笑みを浮かべた。

「元気そうで何よりだ。昨日まで死にかけていたとは思えん。食事も問題なく摂れているようだしな」
「……見られていましたか」

 アーガスはヴァラクの言葉に、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
 食事のシーンを見られていたという事は、二人が泣いていたシーンを見られていたという事だ。
 大の大人が泣いている所を、上司に見られるのは何とも恥ずかしい限りであった。
 リオンもアーガスと似たような表情をしていた。

「構わんさ。あそこはきっと泣いていい場面だ」

 ヴァラクはそう言って、先ほどの異様な光景を思い浮かべる。

 君主制であるアイリス帝国では、一般兵士が皇帝と関わりを持つ事は無い。
 それが常識であった。
 にも拘わらず閃皇と剣皇が、何と一般兵が利用する食堂へと現れたのである。

 しかも一般兵と同じ食事を食べたのだ。
 アーガスやリオンより軍属期間が長く、階級も上のヴァラクでも、そんな事例があったという話は聞いた事がない。
 それだけでもあり得ないのに、皇帝自ら一般兵士に手料理を作り、振る舞うなど――。

 もはや常軌を逸していると言っても過言ではない。

「それにしても、信じられません。まだ夢ではないかと思う程です」
「ああ……俺もだ」

 果てには兵士の食べかけを、皇帝が食べたのである。
 アイリス帝国軍には「仲間と食事を分ける」という風習がある。
 食べ物を分け与える事で『苦楽を分かち合い、お互いを仲間として認める』という意味が込められている風習だった。

 それを皇帝が一般兵士と行ったのだ。

 アイリス帝国では皇帝は、神にも等しい存在である。
 その神が怪我を治してくれたと思ったら、すぐ隣に降臨し、ご飯を作ってくれて、しかも一緒に食卓を囲んでくれた。
 感動の余り号泣しない方がおかしい。
 現実を信じられなくなるのもやむなしだ。

「実際の所、英雄が復活した――何てのは眉唾ものだと思っていたのだがな」

 そう言ってヴァラクは顎を撫でる。

 誰もが口には出さなかったが、多くの市民が前皇帝は暴君であると思っていた。
 市民だけでなく、東西南北の四貴族も相当に困らされたらしい。
 その暴君がやっと崩御したと思ったら、今度は残された王族同士で殺し合いである。
 並みの兵よりは、少し帝国の状況を知っているという程度のヴァラクですら、もはやこの国は駄目なのではないか? という想いが心に浮かんでしまうくらいだった。

 だがあの二人――少なくとも閃皇は、かつての皇帝と全く違う。

 何かこの帝国を大きく変えてくれるかもしれない。
 そんな予感があった。

「私はもう信じました。あんな幼子がてきぱき料理を出来る訳がありません。英雄は間違いなく復活したのです」
「ふっ、確かにそうだな」

 リオンの面白い信じ方に、ヴァラクは思わず吹き出してしまった。

「とりあえずヴァラク隊長、私を殴って頂いてもよろしいですか。実は私は死んでいて、天国にいるのかもしれません」

 アーガスはそう言って直立し、目を閉じる。

「馬鹿。生きてるよ」

 ヴァラクはアーガスの額を指で弾く。

「痛っ――本当に生きているのですね」

 アーガスの目に涙がまた浮かんだ。

「ほら、また泣きそうだぞ。今は泣くべき時じゃない。笑え」
 
 そう言ってヴァラクは目を細めるのだった。
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