本気のキスは甘くとろけて(リメイク版)

矢崎未紗

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本気のキスは甘くとろけて(中)

「電車、間に合うか?」

 初夏に行われた合コンから、気付けば季節は二回変わり、年も明けた。
 新年をむかえた空気がほんの少し薄まった、冬の土曜日のデート終わり。
 賢人は自分の左手首の腕時計と改札内にある時計の両方を確認してから、柚子に尋ねた。

「はい、大丈夫です」

 柚子はこくりと頷く。
 今日は久しぶりに長い時間、賢人と一緒にいられた。長く首都圏に住んでいるが、実はまだ行ったことのない最新の巨大電波塔に行って観光し、のんびりと食事をして、途中でスイーツの食べ歩きもした。そして、今日は夕飯前に別れることになっている。

「また連絡する」

 背の高い賢人は、柚子を見下ろした。
 電車なんて、まだいくらでも走っている時間なのに。柚子には門限なんてないのに。まるで早く柚子を家に帰さねば、という空気感で、賢人は柚子と別れる瞬間を待っていた。

(私は……私は本当に、賢人さんの恋人……?)

 ターミナル駅を行き交う大勢の人々。その中の何人かの女性が、賢人にちらちらと視線を向けているのがよくわかる。賢人の格好はごく普通の冬物のロングコートだが、イケメンオーラが余すことなく自然と放たれているのだ。
 芸能人と並んでも見劣りしなさそうなほど、麗しい外見の賢人。しかし、自分に注がれるあまたの女性の視線などすべて無視して、ただ柚子だけを見つめている。

「じゃあな」
(……いや)

 数カ月前に賢人から告白された時は、「好きと思えるにはまだ遠い」なんて思っていたが、今ははっきりとわかる。この高嶺の花のような年上の恋人のことが、とても好きだ。
 だって、別れのその言葉が、胸に突き刺さってとても痛い。「また今度」と言って、離れたくなんてない。その言葉が胸の中に冷たく広げる淋しさに濡れながら、帰りの電車になんて乗りたくない。もっと一緒にいたい。もっともっと傍にいたい。

「柚子?」

 いつもならおとなしく「はい、また今度」と返すはずの柚子が黙ったままなので、賢人は怪訝な表情になった。

「あの……賢人さん」

 最近ようやく呼べるようになってきた彼の名前を、柚子はぎこちなく呼んだ。呼び捨てでいいと彼は言ったが、呼び捨てにできる勇気はまだなく、かろうじてさん付けで呼べるようになったばかりだ。

「賢人さんの家に……行きたい……です」

 緊張で全身が縮こまってしまっていた柚子の声は、とても小さかった。
 ちゃんと聞いてもらえただろうか。自分の声は、賢人に届いただろうか。
 柚子は賢人の顔を直接見ることができず、自分の手で自分の手をもじもじとさすりながら、賢人のウェストあたりをそれとなく見つめる。
 しばらくの間、賢人からの返事はなかった。もしかしたら、柚子の声が小さすぎて聞こえなかったのかもしれない。あるいは、聞こえてはいたが承諾しかねるので、断りのための言葉を探しているのかもしれない。
 柚子は緊張したまま、永遠にも思える時間が流れていくのを感じた。しかし、やがて賢人は柚子の手を取ると、目の前にある柚子が乗るはずだった路線の改札に背を向けて、自分の自宅に向かう地下鉄の改札を目指して歩き出した。



(キスって……こんなに甘いんだ)

 初めて訪れた賢人の部屋は、築浅と思われるきれいなマンションの一室だった。あまり物は持たない主義なのか、1DKの室内はすっきりと片付いていて、生活感は薄い。けれど、部屋の隅のスチールラックの上には高校時代のものと思われるサッカーの賞状とトロフィーがあり、なんだか男の子らしくてかわいいと柚子は思った。
 バッグをダイニングルームの床に置き、案内された洗面所で手洗いとうがいをした柚子は、短い廊下の壁を背にし、賢人に顎を固定されて深い口付けをされた。ディープキスはこれまでにも数回ほどしたが、今の賢人はどこか余裕がなく、彼の舌はいささか性急に、柚子の口内と唇を舐め取っている。しかし、そのキスにはいつにない甘さが含まれているような気がした。

「んぅ……」

 長い口付けの終わりに、柚子は小さな息を吐き出す。それから、恐る恐る賢人を見上げた。至近距離で見つめれば、整った顔の作りをまじまじと観察したくなってしまう。くっきりとした二重に、長いまつげ。やや小顔だが首は太く、今でも定期的に運動をしているのか、着ているシャツは少し窮屈そうで、その布の下にある筋肉の硬さが見て取れる気がした。
 何かを言いたい、言わなければならない。そんな焦りを柚子は感じたが、うまく言葉が出てこない。これからここで何が起きるのか、何もわからないほど子供ではないつもりだ。けれど、この空気を動かして手懐けることができるほどには、まだ大人になりきれていない。

(私は……)

 勇気を出して、賢人の部屋に行きたいと言った。そうしたら賢人は、黙ってここへ連れてきてくれた。きっとこれから、抱いてもらえるのかもしれない。それは緊張するが嬉しいことで、嫌なことではない。
 だがその前に、訊いておきたいことがある。どうしても、たしかめたいことがある。

「遊び相手……ですか」
「なに?」

 柚子の言葉が突拍子もなかったのか、賢人の眉間に皺が寄る。端麗な顔だと、少しでも不機嫌そうな表情になっただけで、かなりの迫力が出る。

「私は賢人さんにとって都合のいいカノジョ……ただの遊び相手……ですか」

 きっと、彼の周りには魅力的な女性が大勢いることだろう。これだけのスペックと端正な容姿を持っているのだから、合コンの誘いもお付き合いの誘いも、彼にはいくらでもあるに違いない。そもそも、自分たちの出会いも合コンだった。
 そんな賢人が、彼のように突出した良さなど何も持っていない平凡な自分を恋人にしていることが、柚子には信じられない。都合のいい遊び相手だと言われたほうが、まだ納得できる。

「おい、柚子」

 賢人は俯いた柚子の両頬に手を添えて、彼女の顔を上げさせた。するとその拍子に、柚子の両目から一滴の涙がはらり、と頬を伝った。

「ひっ、く……」
「なんで泣くんだよ」
「だって……わからない」
「何が」

 賢人の声は少し尖っていて、決して優しくはない。なぜだか怒っているようだ。
 そのことに柚子は気付いていたが、賢人のことを慮るよりも、自分の中に溜め込んでいた不安を一気に吐き出してしまうことにした。

「私……私なんか、賢人さんに全然釣り合わない……。顔も、学歴も、性格も……全部平凡で、普通すぎて……かわいくもないし、きれいでもない……。何も、賢人さんみたいにすごくない……好きになってもらえるところなんて……私にはないんです」
「だから俺に遊ばれていると思ったのか」

 賢人の声に冷たさが混じる。
 ああ、完全に怒らせてしまった。柚子は一抹の恐怖を覚えたが今さら否定することはできず、こくりと頷いた。

「あのな、柚子」

 賢人は柚子の顔を少しだけ自分のほうに引き寄せると、前髪のかかったひたいにちゅ、とキスをした。それから、親指で柚子の涙を拭う。
 自分の雰囲気で柚子を怯えさせてしまったことを胸の中で申し訳ないと思いながら、賢人はどうにか彼女の誤解と緊張を解くために、意識して少しゆっくりと話し始めた。

「俺はお前と付き合うまで、正直に言って、女癖が悪かった。学生の頃から、遊び相手の女はいくらでもいた。俺が何かしなくても、向こうから勝手に寄ってくるからな。俺のほうからわざわざ優しくする必要なんてないと思ってて……まあ、誰に対しても、なかなかのクズだったよ。でもな、そんな俺だけど、柚子のことを遊びだと思ったことは、一度もない。お前と付き合う前に、関係のあった女は全員切った。今は真面目に、柚子一筋だよ」
「でも……」
「何をどんな言葉で言えば、信じてくれるんだ?」

 賢人は柚子のひたいに自分のひたいをごちん、と当てると、懸命に言葉を探した。

「お前、あの合コンには数合わせで参加しただけなんだろ? それなのに、参加者全員にすごく気を遣っていたよな。正直、初対面のよく知らない相手なんかもっと雑に対応して、気楽にすりゃいいのにって思った。でも同時に、全員に笑顔を絶やさないようにして、細かく気配りをして、場の空気を和やかにしようとしていたその生真面目なところが……なんかいいって思ったんだ。クズな俺にはない、他人への思いやりがあるところ……って言えばいいのか。だから、あの日限りで柚子との縁が切れるのはなんか嫌で……それで名刺を渡した。デートを重ねるたびに、お前の生真面目で丁寧なところにどんどん惹かれて……それで好きになったんだ」
「そ、そうだった……んですか……?」
「ああ。それに、俺は柚子のこと、かわいいと思ってる。世間一般の評価基準なんて知らねぇし、柚子が自分と他人を比べてどう評価するのかは自由だが、俺は柚子のこと、めちゃくちゃかわいいと思ってるよ。お前ほどかわいくて優しくて思いやりのある女なんか、そうそういない。俺はそんなお前に見合うようになりたくて、これでも結構必死なんだぜ? なんせ、本当にクズな男だったからな」

 賢人は柚子のひたいから顔を上げると、優しい目つきで柚子を見下ろした。

「俺は柚子のことが好きで、心底大事にしたいと思ってる。だから、身体目的だなんて万が一にも思われたくなくて、これまでお前に手を出さなかったんだ。今まで何人もの女としてきたような、性欲解消のためだけの行為をお前とするなんて、絶対に嫌だった。まあ、でも……言うは易しだが、信じにくいよな。デートのドタキャンはするし、仕事の付き合いなら、相変わらずキャバクラにも行くしな。でも、勘違いすんなよ? 同伴とか、ましてや風俗とか、柚子以外の女とそういう一対一の付き合いは一切していない」
「ほ、ほんとに……私、遊び相手じゃ……ないんですか」

 期間限定の遊びとかではないの? 大事に想ってもらえているの?
 まだぽろり、ぽろりと涙をこぼす柚子に、賢人は再び口付けた。とてもやさしくゆっくりと柚子の唇をみ、少し離しては再び口付ける。手探りで柚子との距離を縮めながらも、もっともっと近付いて重なりたいと、懇願でもしているかのように。

「ただの遊び相手なら、こんなキスはしねぇよ」

 賢人は苦笑した。
 一時の遊び相手のつもりなら、さっさと抱いていただろう。帰りの電車の時間の心配なんてしないし、ドタキャン後のデートで心から申し訳なく思って謝りもしない。柚子が何を感じて何を考えているか、気にかけたりもしない。
 柄にもなくあれこれと考えて振る舞うのは、柚子のことが好きだからだ。
 外見や経歴など、わかりやすい情報で他人と比較したら、たしかに柚子は、凡人中の凡人かもしれない。だが、他人との比較評価なんて、賢人にとってはなんの意味もない。控えめながらも一生懸命に和を保とうとする柚子の丁寧さは尊敬するし、照れくさそうににっこりとはにかむ笑顔は本当に心の底からかわいく、そして愛おしいと思っているのだから。

「風呂、使うよな?」

 まだ呼吸は浅いが、一応涙の止まった柚子に賢人は声をかけた。柚子はこくりと頷き、賢人からタオルと、そして着替え代わりの彼のシャツを受け取って、シャワーを浴びる。浴室から出てきた柚子と交代で賢人もシャワーを浴びると、二人は寝室のベッドの上で向かい合った。

「それに、柚子は若いからな」
「え?」
「何かとコンプライアンスにうるさい世の中だろ。いくら成人しているとはいえ、お前は学生なわけだし……焦らなくてもいいと思うぞ。それにお前、セックスの経験がないから怖いだろ」
「それは……でも」

 柚子は賢人の太ももの上に手を置くと、下から見上げるようにして賢人の顔をのぞき込んだ。

「私が、もっと賢人さんと近付きたいから……」
「そう言われたら、据え膳食わぬは男の恥だが……本当にいいんだな?」
「はい」

 柚子はぎこちなくほほ笑む。
 すると、賢人は柚子の身体をそっと押し倒して、ベッドの上に仰向けにさせた。それから、柚子に覆いかぶさるように四つん這いになると、角度を変えて何度も何度も柚子に深く口付けた。
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