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本気のキスは甘くとろけて(上)
「柚子、お願いっ! 今夜の合コン、一緒に来て!」
「えっ、ええ~?」
「お願い! 柚子しか頼める人がいないの! 今日はカテキョのバイト、ないでしょ?」
「ないけど……」
「じゃあ、お願い! ね、ただの数合わせだから、のんびり相槌を打ってるだけでいいって! 柚子がいないと、あたし一人アウェイで心細いんだよ~」
「う……うん……わかった」
大学で一番親しくしている友人の大西真帆から必死に頼まれて、柚子は仕方なく頷いた。
(合コンなんて……行ったことないんだけどなあ)
大学三年生の指原柚子は、私立大学の文学部海外文学コースに通う学生だ。同じコースの真帆は、一年生の時の必修科目の講義で同じグループになった時に意気投合し、一緒に遊びに行くなど、とても仲良くしてもらっている。
その真帆が必死に合コン参加を頼んでくるのには、わけがあった。
そもそもその合コンは、真帆が入っているワイン同好会というサークルの先輩のお姉さんが幹事を務めている。参加者はそのお姉さんと、お姉さんの職場の後輩、それにワイン同好会の四年生二人だったそうなのだが、その四年生が一人、前日になって参加できなくなってしまった。そこで真帆が呼ばれ、ピンチヒッターとして参加することになったという。それだけなら柚子にはまったく関わりがない合コンなのだが、なんと当日の今日になって、もう一人の四年生も欠席になってしまったという。
そこで真帆は、柚子に泣き付いたのだ。ほかの参加者は全員社会人で、サークルの先輩がいないとなると、学生である自分一人が完全にアウェイになってしまう。だから、同じ大学生であり、一番の仲良しである柚子に一緒に行ってほしいと。
柚子としてはまったく気乗りはしなかったが、困っている友人を放ってはおけないと思い、たいそう気を重くしながらも真帆と二人、会場である大衆居酒屋に向かった。
相手の男性たちどころか、女性側の二人の社会人メンバーも「どうも、初めまして……」という状態だったが、生真面目な柚子は誰に対しても一歩引いた丁寧な態度を心掛け、知らないなりに話を合わせ、時には広げ、相槌を打った。自分は出会いなど求めていないので、積極的に男性陣にアプローチをする社会人女性二人の邪魔を決してすることなく、聞き役に徹したり、空の皿やグラスを下げたりして、とにかく前に出ないように気を遣った。
相手の男性たちは、年齢は違うが同じ会社の先輩、後輩という四人で、その中に一人、芸能人になれそうなほど顔の整った男がいた。幹事でないほうの社会人女性――名を河合八重といった――が、終始その男性に熱い視線を送っていたので、柚子は彼女のアプローチの妨げにならないように、その男性のことはなるべく見ないようにしていた。
しかし、今日から一週間ぐらいは忘れられないだろうな、と思うほどにその男――大熊賢人はイケメンで、これまでに柚子が出会った男性の中で最もステータスの高い男性だった。
(こんなイケメンと知り合えるのなら、合コンしたがるのもわかる……かもしれない)
出会いを求めているわけではないが、へたな芸能人よりもオーラを放ち、洗練された雰囲気の賢人に柚子はひっそりと感動し、合コンをしたがる人の心情が少しだけ理解できた。
合コンは一次会で解散となり、柚子は真帆と一緒に電車に乗った。そして真帆と別れ、家に向かって歩きながら考える。
激しい気疲れはしたが、目の保養になるほどの素敵な人に会うことができた。ただ、賢人も決して乗り気で合コンに参加したわけではないのか、河合八重からの懸命のアピールをのらりくらりとかわしていた。もしかしたら、彼も柚子と同じように数合わせで呼ばれたか、先輩からの参加命令に逆らえなかったのかもしれない。合コンに参加しなければならないほど、女性との縁が薄い生活を送っている――なんてことはきっとないだろうし、彼にとっては不本意な時間だっただろう。
(お疲れ様でした……)
自分と同じく、参加したくて参加したわけではないと思われる賢人を、柚子は心の中でねぎらった。「再び会うことはないでしょうが、とても格好いい人に出会えたことで、ほんの少しだけ、合コンの疲れはなくなりました。ありがとうございます」と、感謝も添えて。
そうして帰宅した柚子は、お風呂に入ってからぐったりとベッドに横になった。
その数日後、骨伝導イヤホンが一つ見当たらなくなってしまったので、柚子はバッグの中をひっくり返して捜していた。すると、はらり、とやや硬めの小さな紙が一枚、床に落ちたことに気が付いた。
(なんだろう?)
不思議に思った柚子がその紙を手に取ると、そこには「連絡してほしい」という一言と、電話番号が書かれていた。「連絡?」と思いながら柚子がその紙を裏返すと、そこには証券会社のロゴマークと社名、部署名、そして社員名がきっちりと印刷されていた。
(大熊……賢人……えっ?)
一瞬誰だろうか、と思ったが、柚子はすぐに思い出した。数日前の合コンで、誰よりも輝いていたイケメンの青年。目つきはやや冷たく鋭かったが、河合八重が熱を上げていたあの男性だ。
(大熊さんの名刺……連絡してほしいって……え、これ……誰宛?)
その時、柚子はとても純粋に、彼はこの名刺を渡す相手を間違えたのだと思った。運動神経も頭も顔も年収も優良な、パーフェクトなあの男性が、地味で平凡なただの女子大生の自分に「連絡してほしい」と思うなど、絶対にあり得ない。だから、この名刺は自分以外の誰かほかの女性参加者に渡そうとしたもの――そう信じて疑わなかった。
(どうしよう……間違ってると思うから……)
それから、柚子はまず一人で悩んだ。真帆を通して、合コンの幹事だった女性に連絡するべきか、それとも直接賢人に連絡するべきか。彼の手違いを、どうやって失礼のないように正せるだろうかと。
しかし、一人で考えても答えが出なかったので、合コンの参加者でもある真帆に相談した。すると真帆は、柚子と違って一気にテンションを上げて、「違うよ、これ! ほかの誰かじゃなくて、柚子に渡したくて渡したんだよ!」と言って、頬を赤らめた。
そんなわけがない。きっと間違いだよ。だって、真帆も彼を見たでしょう。顔も学歴も、おそらく収入もとても良いあんな完璧な男性が、こんな平凡な年下の女子大生に粉をかける? そんな必要がある? 絶対にないよ。あの人、私みたいな凡人に手を出さないといけないほど、女性関係に困ってなんかいないって。
柚子はそう言って、「連絡しなよ!」とせっつく真帆に首を横に振り続けた。それでも真帆は、「だって、せっかくの縁なんだし……連絡しないのも、それはそれで失礼じゃない?」と言って、柚子の背中を押し続けた。
真帆のその言葉に、柚子は揺れた。
賢人は決して、自分に気があるわけではない。あんな完璧な社会人男性が、見た目も能力も性格も平凡な、こんな普通の女子大生と付き合いたいなどと、思うはずがない。百歩譲ってそうだとしても、一時の遊び相手として扱われるだけだろう。だから、甘い期待なんてしてはいけない。
けれども真帆の言うとおり、無視を決め込むというのは失礼にあたる気がする。名刺を渡す相手が間違っているのなら、きちんと対応すべきだとも思う。
(たぶん間違い……間違いのはず……)
相談しておきながら真帆のアドバイスにはすぐに従えなかった柚子だが、どうにか時間をかけて自分を納得させ、奮い立たせると、賢人の電話番号宛にメッセージを送った。
その後は驚きの連続だった。名刺を渡したかった相手は間違っていないという返事だったし、おまけに今度二人で会えないかと、お誘いの言葉まで頂いてしまったのだ。
柚子は驚き、悩み、悩み、非常に悩んだ。どうして自分なんかに? 賢人は何を考えている? これは本当に、少し遊ぶだけの手頃な関係を築きたいだけなのでは? そう賢人を悪く思う気持ちも少しはあったが、しかし柚子は、「一回ぐらいは会うのが礼儀かな……」と思い、賢人とのデートに向かった。
この国で最も権威のある大学を卒業し、大手の証券会社に務めて四年目という賢人は、知れば知るほど二次元の世界のヒーローか、と思う人物だった。
高校時代はサッカー部で、全国大会に出場したことがあるという。それなのに模試では常に成績上位で、予備校では一部費用免除の特別待遇を受けるほどだったらしい。プロになれるのでは、とも言われたらしいが、サッカーは高校限りですっぱりと辞め、今では普通のサラリーマンをしている。しかし、ぱっちりとした二重にしゅっとした鼻筋、スポーツをしていたのだと容易に想像できる首の太さと厚い胸板。女性ならば誰もが一瞬は見惚れるような容姿。芸能界に興味はありませんかと、スカウトされたことがあるに違いない。「普通のサラリーマン」と言うには、できすぎている。
柚子には三歳上の社会人の兄がいるが、兄こそ普通のサラリーマンだ。まだ学生気分が抜けていなくて、毎日疲れたと愚痴をこぼし、そのくせ学生時代よりも財布の中身は潤っているので飲み会にはやたらと行って、早くもビール腹が育ちつつある。
そんなごく普通の会社員の兄がいるからこそ、柚子は思う。
賢人のスペックは決して普通ではなく、高嶺の花と言っても過言ではない。対して自分は、不細工ではないと思うが飛び抜けてかわいいわけでもきれいなわけでもなく、あっと驚くような特技や能力があるわけでもない。キスの経験はあるし、大学生になってから一度だけ男の子と付き合ったこともあるが、しかし性行為の経験はまだなく、垢抜けしきれていない。
そんな平々凡々すぎる小娘の自分のいったいどこに、賢人は興味を持ったのだろうか。
たいそう疑問だったのだが、義理のつもりで賢人と二人きりで会ったその後も、柚子は賢人からデートに誘われ続けた。断りたいと思う明確な理由も特になく、柚子は戸惑いながらも何度か賢人と二人で出かけた。そしてある日、賢人から正式に交際を申し込まれた。
賢人は基本的に愛想がなくて、言動がクールすぎると思うところもあった。だが、言い換えれば常に冷静で、軽率さや放漫なところはない。何回か重ねたデートで、賢人に対して不満や嫌悪感を抱いたこともない。「好きだ」と思うには、まだ少し心が遠いところにある気がしていたが、彼から「付き合ってほしい」と言われて素直に「嬉しい」と思えたので、柚子は恐れ多くもその申し出を受けた。
賢人は人目を惹く印象的な見た目と違って、芯から落ち着いていた。急に声を荒げたり激しく気分を変えたりすることはなく、メッセージアプリのやり取りでも、たまにする電話でも、いつも一定のテンションを保っていた。
そして大手の証券会社だからなのか、賢人の仕事は常に忙しそうだった。残業は毎日のようにあるし、急な仕事で柚子とのデートをキャンセルすることもあった。取引先の相手の希望であれば、キャバクラへ一緒に行くことも珍しくはないらしい。柚子に知るすべはないが、もしかしたら一人や二人、店外での付き合いのある顔馴染みのキャストもいるのかもしれない。
ハイスペックで、仕事のできるとても多忙な社会人の恋人。ただの大学生にすぎない自分には、正直もったいなさすぎる相手だ。
(私って……ただの遊び相手なのかな)
だから、柚子はつい何度も考えてしまう。
彼にとっての自分は、年下で言いなりにさせやすく、社会人よりも日々の時間に余裕のある学生だから、都合よく遊べる相手にすぎないのではないか。多忙な日々の合間にちょっと遊ぶ程度の、お手軽な相手でしかないのではないか。普段は充電器に差したまま放置しておいて、気が向いた時だけ手を伸ばすゲーム機のようなものだ、と。
賢人と付き合い始めてから数カ月が経つが、柚子は何度も何度も卑屈にそう考えた。
しかし、遊び相手にすぎないのではないかと考えると、一つだけ腑に落ちないことがある。それは、賢人がキス以上のことをしてこない、という点である。
ファーストキスは高校生の時に済ませてしまった柚子だが、セックスの経験はまだない。五歳年上の賢人は当然あるだろうが、不思議なことに、柚子に手を出す気配は一切なかった。
デートで夕食を終えたあとは、それ以上の寄り道をすることなく必ず柚子を帰らせるし、怪しげな空気のバーに誘うだとか、無理やり飲ませて酔った勢いのままホテルに直行だとか、そんなことも一切ない。賢人は一人暮らしをしているそうだが、自宅に柚子を招くこともなく、健全な屋外でのデートしかしない。もしも本当に、ただの遊び相手にすぎないのならば、さっさと身体の関係を持ちたがるのが当然のような気がする。
付き合ってはいるのにセックスをしないこの関係は、遊びにすぎないのか、そうではないのか。ひっそりと、しかし明確に引かれているような気がする見えない線は、いったい何のためにあるのか。絶妙に縮まらないと感じてしまっている賢人との距離感は、いったいいつになれば埋められるのか。自分は彼の恋人だと、胸を張って思っていてもいいのか。
賢人と付き合っていても、柚子はいつもどこか、淋しさを感じていた。
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「えっ、ええ~?」
「お願い! 柚子しか頼める人がいないの! 今日はカテキョのバイト、ないでしょ?」
「ないけど……」
「じゃあ、お願い! ね、ただの数合わせだから、のんびり相槌を打ってるだけでいいって! 柚子がいないと、あたし一人アウェイで心細いんだよ~」
「う……うん……わかった」
大学で一番親しくしている友人の大西真帆から必死に頼まれて、柚子は仕方なく頷いた。
(合コンなんて……行ったことないんだけどなあ)
大学三年生の指原柚子は、私立大学の文学部海外文学コースに通う学生だ。同じコースの真帆は、一年生の時の必修科目の講義で同じグループになった時に意気投合し、一緒に遊びに行くなど、とても仲良くしてもらっている。
その真帆が必死に合コン参加を頼んでくるのには、わけがあった。
そもそもその合コンは、真帆が入っているワイン同好会というサークルの先輩のお姉さんが幹事を務めている。参加者はそのお姉さんと、お姉さんの職場の後輩、それにワイン同好会の四年生二人だったそうなのだが、その四年生が一人、前日になって参加できなくなってしまった。そこで真帆が呼ばれ、ピンチヒッターとして参加することになったという。それだけなら柚子にはまったく関わりがない合コンなのだが、なんと当日の今日になって、もう一人の四年生も欠席になってしまったという。
そこで真帆は、柚子に泣き付いたのだ。ほかの参加者は全員社会人で、サークルの先輩がいないとなると、学生である自分一人が完全にアウェイになってしまう。だから、同じ大学生であり、一番の仲良しである柚子に一緒に行ってほしいと。
柚子としてはまったく気乗りはしなかったが、困っている友人を放ってはおけないと思い、たいそう気を重くしながらも真帆と二人、会場である大衆居酒屋に向かった。
相手の男性たちどころか、女性側の二人の社会人メンバーも「どうも、初めまして……」という状態だったが、生真面目な柚子は誰に対しても一歩引いた丁寧な態度を心掛け、知らないなりに話を合わせ、時には広げ、相槌を打った。自分は出会いなど求めていないので、積極的に男性陣にアプローチをする社会人女性二人の邪魔を決してすることなく、聞き役に徹したり、空の皿やグラスを下げたりして、とにかく前に出ないように気を遣った。
相手の男性たちは、年齢は違うが同じ会社の先輩、後輩という四人で、その中に一人、芸能人になれそうなほど顔の整った男がいた。幹事でないほうの社会人女性――名を河合八重といった――が、終始その男性に熱い視線を送っていたので、柚子は彼女のアプローチの妨げにならないように、その男性のことはなるべく見ないようにしていた。
しかし、今日から一週間ぐらいは忘れられないだろうな、と思うほどにその男――大熊賢人はイケメンで、これまでに柚子が出会った男性の中で最もステータスの高い男性だった。
(こんなイケメンと知り合えるのなら、合コンしたがるのもわかる……かもしれない)
出会いを求めているわけではないが、へたな芸能人よりもオーラを放ち、洗練された雰囲気の賢人に柚子はひっそりと感動し、合コンをしたがる人の心情が少しだけ理解できた。
合コンは一次会で解散となり、柚子は真帆と一緒に電車に乗った。そして真帆と別れ、家に向かって歩きながら考える。
激しい気疲れはしたが、目の保養になるほどの素敵な人に会うことができた。ただ、賢人も決して乗り気で合コンに参加したわけではないのか、河合八重からの懸命のアピールをのらりくらりとかわしていた。もしかしたら、彼も柚子と同じように数合わせで呼ばれたか、先輩からの参加命令に逆らえなかったのかもしれない。合コンに参加しなければならないほど、女性との縁が薄い生活を送っている――なんてことはきっとないだろうし、彼にとっては不本意な時間だっただろう。
(お疲れ様でした……)
自分と同じく、参加したくて参加したわけではないと思われる賢人を、柚子は心の中でねぎらった。「再び会うことはないでしょうが、とても格好いい人に出会えたことで、ほんの少しだけ、合コンの疲れはなくなりました。ありがとうございます」と、感謝も添えて。
そうして帰宅した柚子は、お風呂に入ってからぐったりとベッドに横になった。
その数日後、骨伝導イヤホンが一つ見当たらなくなってしまったので、柚子はバッグの中をひっくり返して捜していた。すると、はらり、とやや硬めの小さな紙が一枚、床に落ちたことに気が付いた。
(なんだろう?)
不思議に思った柚子がその紙を手に取ると、そこには「連絡してほしい」という一言と、電話番号が書かれていた。「連絡?」と思いながら柚子がその紙を裏返すと、そこには証券会社のロゴマークと社名、部署名、そして社員名がきっちりと印刷されていた。
(大熊……賢人……えっ?)
一瞬誰だろうか、と思ったが、柚子はすぐに思い出した。数日前の合コンで、誰よりも輝いていたイケメンの青年。目つきはやや冷たく鋭かったが、河合八重が熱を上げていたあの男性だ。
(大熊さんの名刺……連絡してほしいって……え、これ……誰宛?)
その時、柚子はとても純粋に、彼はこの名刺を渡す相手を間違えたのだと思った。運動神経も頭も顔も年収も優良な、パーフェクトなあの男性が、地味で平凡なただの女子大生の自分に「連絡してほしい」と思うなど、絶対にあり得ない。だから、この名刺は自分以外の誰かほかの女性参加者に渡そうとしたもの――そう信じて疑わなかった。
(どうしよう……間違ってると思うから……)
それから、柚子はまず一人で悩んだ。真帆を通して、合コンの幹事だった女性に連絡するべきか、それとも直接賢人に連絡するべきか。彼の手違いを、どうやって失礼のないように正せるだろうかと。
しかし、一人で考えても答えが出なかったので、合コンの参加者でもある真帆に相談した。すると真帆は、柚子と違って一気にテンションを上げて、「違うよ、これ! ほかの誰かじゃなくて、柚子に渡したくて渡したんだよ!」と言って、頬を赤らめた。
そんなわけがない。きっと間違いだよ。だって、真帆も彼を見たでしょう。顔も学歴も、おそらく収入もとても良いあんな完璧な男性が、こんな平凡な年下の女子大生に粉をかける? そんな必要がある? 絶対にないよ。あの人、私みたいな凡人に手を出さないといけないほど、女性関係に困ってなんかいないって。
柚子はそう言って、「連絡しなよ!」とせっつく真帆に首を横に振り続けた。それでも真帆は、「だって、せっかくの縁なんだし……連絡しないのも、それはそれで失礼じゃない?」と言って、柚子の背中を押し続けた。
真帆のその言葉に、柚子は揺れた。
賢人は決して、自分に気があるわけではない。あんな完璧な社会人男性が、見た目も能力も性格も平凡な、こんな普通の女子大生と付き合いたいなどと、思うはずがない。百歩譲ってそうだとしても、一時の遊び相手として扱われるだけだろう。だから、甘い期待なんてしてはいけない。
けれども真帆の言うとおり、無視を決め込むというのは失礼にあたる気がする。名刺を渡す相手が間違っているのなら、きちんと対応すべきだとも思う。
(たぶん間違い……間違いのはず……)
相談しておきながら真帆のアドバイスにはすぐに従えなかった柚子だが、どうにか時間をかけて自分を納得させ、奮い立たせると、賢人の電話番号宛にメッセージを送った。
その後は驚きの連続だった。名刺を渡したかった相手は間違っていないという返事だったし、おまけに今度二人で会えないかと、お誘いの言葉まで頂いてしまったのだ。
柚子は驚き、悩み、悩み、非常に悩んだ。どうして自分なんかに? 賢人は何を考えている? これは本当に、少し遊ぶだけの手頃な関係を築きたいだけなのでは? そう賢人を悪く思う気持ちも少しはあったが、しかし柚子は、「一回ぐらいは会うのが礼儀かな……」と思い、賢人とのデートに向かった。
この国で最も権威のある大学を卒業し、大手の証券会社に務めて四年目という賢人は、知れば知るほど二次元の世界のヒーローか、と思う人物だった。
高校時代はサッカー部で、全国大会に出場したことがあるという。それなのに模試では常に成績上位で、予備校では一部費用免除の特別待遇を受けるほどだったらしい。プロになれるのでは、とも言われたらしいが、サッカーは高校限りですっぱりと辞め、今では普通のサラリーマンをしている。しかし、ぱっちりとした二重にしゅっとした鼻筋、スポーツをしていたのだと容易に想像できる首の太さと厚い胸板。女性ならば誰もが一瞬は見惚れるような容姿。芸能界に興味はありませんかと、スカウトされたことがあるに違いない。「普通のサラリーマン」と言うには、できすぎている。
柚子には三歳上の社会人の兄がいるが、兄こそ普通のサラリーマンだ。まだ学生気分が抜けていなくて、毎日疲れたと愚痴をこぼし、そのくせ学生時代よりも財布の中身は潤っているので飲み会にはやたらと行って、早くもビール腹が育ちつつある。
そんなごく普通の会社員の兄がいるからこそ、柚子は思う。
賢人のスペックは決して普通ではなく、高嶺の花と言っても過言ではない。対して自分は、不細工ではないと思うが飛び抜けてかわいいわけでもきれいなわけでもなく、あっと驚くような特技や能力があるわけでもない。キスの経験はあるし、大学生になってから一度だけ男の子と付き合ったこともあるが、しかし性行為の経験はまだなく、垢抜けしきれていない。
そんな平々凡々すぎる小娘の自分のいったいどこに、賢人は興味を持ったのだろうか。
たいそう疑問だったのだが、義理のつもりで賢人と二人きりで会ったその後も、柚子は賢人からデートに誘われ続けた。断りたいと思う明確な理由も特になく、柚子は戸惑いながらも何度か賢人と二人で出かけた。そしてある日、賢人から正式に交際を申し込まれた。
賢人は基本的に愛想がなくて、言動がクールすぎると思うところもあった。だが、言い換えれば常に冷静で、軽率さや放漫なところはない。何回か重ねたデートで、賢人に対して不満や嫌悪感を抱いたこともない。「好きだ」と思うには、まだ少し心が遠いところにある気がしていたが、彼から「付き合ってほしい」と言われて素直に「嬉しい」と思えたので、柚子は恐れ多くもその申し出を受けた。
賢人は人目を惹く印象的な見た目と違って、芯から落ち着いていた。急に声を荒げたり激しく気分を変えたりすることはなく、メッセージアプリのやり取りでも、たまにする電話でも、いつも一定のテンションを保っていた。
そして大手の証券会社だからなのか、賢人の仕事は常に忙しそうだった。残業は毎日のようにあるし、急な仕事で柚子とのデートをキャンセルすることもあった。取引先の相手の希望であれば、キャバクラへ一緒に行くことも珍しくはないらしい。柚子に知るすべはないが、もしかしたら一人や二人、店外での付き合いのある顔馴染みのキャストもいるのかもしれない。
ハイスペックで、仕事のできるとても多忙な社会人の恋人。ただの大学生にすぎない自分には、正直もったいなさすぎる相手だ。
(私って……ただの遊び相手なのかな)
だから、柚子はつい何度も考えてしまう。
彼にとっての自分は、年下で言いなりにさせやすく、社会人よりも日々の時間に余裕のある学生だから、都合よく遊べる相手にすぎないのではないか。多忙な日々の合間にちょっと遊ぶ程度の、お手軽な相手でしかないのではないか。普段は充電器に差したまま放置しておいて、気が向いた時だけ手を伸ばすゲーム機のようなものだ、と。
賢人と付き合い始めてから数カ月が経つが、柚子は何度も何度も卑屈にそう考えた。
しかし、遊び相手にすぎないのではないかと考えると、一つだけ腑に落ちないことがある。それは、賢人がキス以上のことをしてこない、という点である。
ファーストキスは高校生の時に済ませてしまった柚子だが、セックスの経験はまだない。五歳年上の賢人は当然あるだろうが、不思議なことに、柚子に手を出す気配は一切なかった。
デートで夕食を終えたあとは、それ以上の寄り道をすることなく必ず柚子を帰らせるし、怪しげな空気のバーに誘うだとか、無理やり飲ませて酔った勢いのままホテルに直行だとか、そんなことも一切ない。賢人は一人暮らしをしているそうだが、自宅に柚子を招くこともなく、健全な屋外でのデートしかしない。もしも本当に、ただの遊び相手にすぎないのならば、さっさと身体の関係を持ちたがるのが当然のような気がする。
付き合ってはいるのにセックスをしないこの関係は、遊びにすぎないのか、そうではないのか。ひっそりと、しかし明確に引かれているような気がする見えない線は、いったい何のためにあるのか。絶妙に縮まらないと感じてしまっている賢人との距離感は、いったいいつになれば埋められるのか。自分は彼の恋人だと、胸を張って思っていてもいいのか。
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