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第一章 曖昧な理想
第06話 ふれて高まる欲
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こくり、と。
謙志は大きく見開いた目で桃音を見つめ、無言でただ頷いた。本当は疑問や驚愕を言葉で表現したかったが、桃音の要望に驚きすぎて、頷くことしかできなかったのだ。
桃音は膝歩きをして座る位置を変え、そんな謙志に近付く。そして謙志の左腕にピタッとひたいを寄せた。まるで猫が甘えてくるようなしぐさだ。
なぜそんなことをするのだろう。そんなふうにくっ付けば、感じている寒さが緩和されるというのだろうか。謙志は疑問に思ったが、それ以上深く考えることはできなかった。桃音の行動がかわいらしくて、そしてそうやって桃音が甘えてくれることがとても嬉しくて、舞い上がりそうなほどに喜ばしかったのだ。
「もっと……くっ付きたい……です」
桃音は謙志の袖を掴むと、それを力なく引っ張った。そして上目遣いで謙志を見つめ、許しを請う。
「構わない……けど……」
謙志は絞り出したようなかすれた声で、桃音の希望を受け入れた。
桃音は安心したように一呼吸すると、謙志の立てた両膝の上に置かれていた彼の両腕をどかす。そして、謙志のその両足の間にちょこんと座ると、謙志の胸に頬を寄せるようにしてくっ付いた。
(な……んで……っ)
謙志の心拍数がにわかに上がる。
ドッ、ドクッ、ドッ、ドクッ。それは血液を全身へ、力強く送り出す。
なぜ、なぜ、理由がわからない。
でも、でも嬉しい、すごく嬉しい。
ああ、かわいい、桃音がすごくかわいい。
疑問と喜びと、そして人生で抱いたことのないピンク色の興奮に、謙志の頭の中はパニック状態だった。
「ふふっ……すごい……心臓の音」
桃音は謙志の左胸に片手を当てて、耳をすませる。大きな太鼓でもたたいているかのように、彼の心臓は忙しそうに高鳴っていた。
桃音も同じようにとても緊張してはいるのだが、大きくて速い心音から謙志もすごく緊張して戸惑っていることがわかると、なぜか逆に冷静になってきた。自分がとんでもない行動に出ていることは、十分自覚している。しかし桃音はいま、何かに乗っ取られて操られているかのように、自分の意思を希薄に感じた。今はとにかく、したいことだけをしたい――その欲望だけで、桃音の身体は動いていた。
「松浦先輩……イヤですか?」
桃音は再び視線を上向けて、謙志の顔色をうかがった。彼の表情は真顔で固まったままだが、恐る恐る桃音を見下ろした瞳に映る光は明るい。
「嫌……じゃ……ない……けど……」
「けど……?」
「理由、が……わから……ない……」
謙志はまるで壊れた機械のように、とても途切れ途切れに答えた。それは素直な感想のようでいて、考えに考え抜いて出された言葉のようにも聞こえた。
「理由……ですか……そうですね」
桃音はおもむろに、謙志の右手を取る。初めてふれた男の人の手はなんだかやけに肉厚で、それに硬かった。皮膚が薄くてやわらかくて、骨の形がすぐわかるような自分の手とは大違いだ。
「っ……舟形っ」
桃音は謙志のその手を、自分の左胸に導いた。
(む、胸っ……や、やわらか……っ)
トレーナーの生地の下に、ほんのりと感じるやわらかな感触。それが気になって、謙志の心臓はさらに強く脈打つ。
「わかりますか、松浦先輩……。私もすごく……ドキドキして……」
ああ、そうだな。桃音も心臓の音がすごい。自分と同じように、この状況に興奮しているのか混乱しているのか――いや、自分よりは冷静でいるように見える。その心臓の音の大きさと速さよりも、ふにっとやわらかい胸の感触に意識が集中してしまうような自分とは違う。
「でもね……こうしたいんです……松浦先輩が……かわいいから」
「え……えっ?」
「変ですよね……でも私……松浦先輩がかわいく見えて……仕方ないんです」
謙志の手を自分の左胸に置いたまま、桃音は謙志を見上げる。
甘えているようで、しかしその反面、謙志をコントロールしようとしているような眼差し。謙志の異論も反論も許さず、自分の主張だけを呑み込ませる方向に持っていこうとする、妙な力強さ。桃音の目に宿る強気な色に一種の恐れを感じて、謙志の背筋は妙に伸びた。
「かわいい、って……私に思われるのは……不快ですか?」
桃音は謙志の右手の甲をゆっくりとなでさすりながら尋ねた。桃音のその手は次第に謙志の胸、首へと上がっていき、謙志の頬をやさしく覆う。
「不快、では……ない……」
こんな状況でも謙志の意思を丁寧に確認してくる桃音に、謙志は首を横に振った。
不快なことなど――嫌なことなど、あるものか。桃音が自分のどこをどんなふうに見て「かわいい」と思ってくれたのかは謎で、「かわいいからこうしたい」という意味もわからないが、それでも嫌悪など一つも抱かない。むしろ嬉しい。とても嬉しい。桃音にそう言われることを妄想していたくらいなのだから。
「じゃあ……もっとしても……いいですか?」
桃音は少しだけ上半身を伸ばす。いつの間にかもう片方の手も謙志の頬に伸ばし、桃音は謙志の両頬を包み込んでいた。
今までで一番近付いた桃音の顔に、謙志はどぎまぎしてしまう。心臓が、これ以上スピードを出せないくらいに高鳴ってしまう。それはもう、うるさいほどに。
「ああ……舟形の、好きに……してくれ」
謙志は低い声でぼそりと呟いた。
それは本心だった。ずっとずっと、誰かに対して抱えていた本心だった。心の中で思い描いていた理想のその「誰か」は桃音で、そして自分は、桃音の好きにされたい。桃音にされるがまま、どこへ流れるのかわからない妖しい流れに乗ってしまいたいのだ。
「ふふっ……嬉しい」
桃音は膝立ちになって、さらに顔を謙志に近付ける。そして頬と頬をこすり合わせてチークキスをすると、謙志の耳元でささやいた。
「いい子ですね、松浦先輩」
「っ……!」
謙志の伸びた背筋に、ぞわわっと鳥肌が立つ。
思わず震えてしまいそうなこの気持ちは、嬉しさを超えた感動だった。
それから謙志は、主導権を握った桃音にたくさんさわられた。桃音のほうは、自分はなんてことをしているんだろうと思いつつも、しかし謙志をかわいく思う気持ちが止められなくて、謙志が嫌がらないのをいいことに、破廉恥なことを言いながらその手を伸ばし続ける。
そうして二人は、耽美な時間を過ごした。
甘ったるいふれ合いをしている間にずいぶんと時間が経っていたようで、浴室の乾燥はいつの間にか終了しており、洗面所のほうは静かになっていた。
行為を終えた桃音は謙志に一言声をかけて、自分の服を居間のほうに持ってくる。そしてドライヤーを借りて、集中的に服を乾かした。
どうにか生乾きではなくなった服を持ち、桃音は洗面所に行く。そして借りていたトレーナーから着替えると、ようやくいつもの自分に戻れたような気がした。輪郭を持った欲望の妖は、すっとどこかへ消え去ったようだ。
謙志も夢から覚めたように平常運転に戻っていて、口数少なく「駅まで送る」と言って、桃音と一緒に家を出た。二人そろって無言のまま、駅までのそう遠くない距離を歩く。あんなに強かった雨は、地面にずいぶんと多くの水溜まりを残して上がっており、傘は必要なさそうだった。
「あの……服、ありがとうございました」
「ああ……」
「では、また……あの……大学で……」
桃音はちらっとしか謙志の顔を見ることができなかったが、それは謙志も同じで、下げた視線で桃音の素足のサンダルを見るのが精一杯だった。
桃音は定期券を取り出し、レンテバー駅の改札を通る。数歩歩いてから恐る恐る振り返ると、こちらを見ていた謙志とばっちりと目が合う。その瞬間、緊張はしたもののとても嬉しい気持ちが込み上げてきて、桃音は無意識のうちに笑顔になった。そして小さく謙志に手を振ってから、ホームに上がるエスカレーターに軽やかに乗り込んだのだった。
◆◇◆◇◆
謙志は大きく見開いた目で桃音を見つめ、無言でただ頷いた。本当は疑問や驚愕を言葉で表現したかったが、桃音の要望に驚きすぎて、頷くことしかできなかったのだ。
桃音は膝歩きをして座る位置を変え、そんな謙志に近付く。そして謙志の左腕にピタッとひたいを寄せた。まるで猫が甘えてくるようなしぐさだ。
なぜそんなことをするのだろう。そんなふうにくっ付けば、感じている寒さが緩和されるというのだろうか。謙志は疑問に思ったが、それ以上深く考えることはできなかった。桃音の行動がかわいらしくて、そしてそうやって桃音が甘えてくれることがとても嬉しくて、舞い上がりそうなほどに喜ばしかったのだ。
「もっと……くっ付きたい……です」
桃音は謙志の袖を掴むと、それを力なく引っ張った。そして上目遣いで謙志を見つめ、許しを請う。
「構わない……けど……」
謙志は絞り出したようなかすれた声で、桃音の希望を受け入れた。
桃音は安心したように一呼吸すると、謙志の立てた両膝の上に置かれていた彼の両腕をどかす。そして、謙志のその両足の間にちょこんと座ると、謙志の胸に頬を寄せるようにしてくっ付いた。
(な……んで……っ)
謙志の心拍数がにわかに上がる。
ドッ、ドクッ、ドッ、ドクッ。それは血液を全身へ、力強く送り出す。
なぜ、なぜ、理由がわからない。
でも、でも嬉しい、すごく嬉しい。
ああ、かわいい、桃音がすごくかわいい。
疑問と喜びと、そして人生で抱いたことのないピンク色の興奮に、謙志の頭の中はパニック状態だった。
「ふふっ……すごい……心臓の音」
桃音は謙志の左胸に片手を当てて、耳をすませる。大きな太鼓でもたたいているかのように、彼の心臓は忙しそうに高鳴っていた。
桃音も同じようにとても緊張してはいるのだが、大きくて速い心音から謙志もすごく緊張して戸惑っていることがわかると、なぜか逆に冷静になってきた。自分がとんでもない行動に出ていることは、十分自覚している。しかし桃音はいま、何かに乗っ取られて操られているかのように、自分の意思を希薄に感じた。今はとにかく、したいことだけをしたい――その欲望だけで、桃音の身体は動いていた。
「松浦先輩……イヤですか?」
桃音は再び視線を上向けて、謙志の顔色をうかがった。彼の表情は真顔で固まったままだが、恐る恐る桃音を見下ろした瞳に映る光は明るい。
「嫌……じゃ……ない……けど……」
「けど……?」
「理由、が……わから……ない……」
謙志はまるで壊れた機械のように、とても途切れ途切れに答えた。それは素直な感想のようでいて、考えに考え抜いて出された言葉のようにも聞こえた。
「理由……ですか……そうですね」
桃音はおもむろに、謙志の右手を取る。初めてふれた男の人の手はなんだかやけに肉厚で、それに硬かった。皮膚が薄くてやわらかくて、骨の形がすぐわかるような自分の手とは大違いだ。
「っ……舟形っ」
桃音は謙志のその手を、自分の左胸に導いた。
(む、胸っ……や、やわらか……っ)
トレーナーの生地の下に、ほんのりと感じるやわらかな感触。それが気になって、謙志の心臓はさらに強く脈打つ。
「わかりますか、松浦先輩……。私もすごく……ドキドキして……」
ああ、そうだな。桃音も心臓の音がすごい。自分と同じように、この状況に興奮しているのか混乱しているのか――いや、自分よりは冷静でいるように見える。その心臓の音の大きさと速さよりも、ふにっとやわらかい胸の感触に意識が集中してしまうような自分とは違う。
「でもね……こうしたいんです……松浦先輩が……かわいいから」
「え……えっ?」
「変ですよね……でも私……松浦先輩がかわいく見えて……仕方ないんです」
謙志の手を自分の左胸に置いたまま、桃音は謙志を見上げる。
甘えているようで、しかしその反面、謙志をコントロールしようとしているような眼差し。謙志の異論も反論も許さず、自分の主張だけを呑み込ませる方向に持っていこうとする、妙な力強さ。桃音の目に宿る強気な色に一種の恐れを感じて、謙志の背筋は妙に伸びた。
「かわいい、って……私に思われるのは……不快ですか?」
桃音は謙志の右手の甲をゆっくりとなでさすりながら尋ねた。桃音のその手は次第に謙志の胸、首へと上がっていき、謙志の頬をやさしく覆う。
「不快、では……ない……」
こんな状況でも謙志の意思を丁寧に確認してくる桃音に、謙志は首を横に振った。
不快なことなど――嫌なことなど、あるものか。桃音が自分のどこをどんなふうに見て「かわいい」と思ってくれたのかは謎で、「かわいいからこうしたい」という意味もわからないが、それでも嫌悪など一つも抱かない。むしろ嬉しい。とても嬉しい。桃音にそう言われることを妄想していたくらいなのだから。
「じゃあ……もっとしても……いいですか?」
桃音は少しだけ上半身を伸ばす。いつの間にかもう片方の手も謙志の頬に伸ばし、桃音は謙志の両頬を包み込んでいた。
今までで一番近付いた桃音の顔に、謙志はどぎまぎしてしまう。心臓が、これ以上スピードを出せないくらいに高鳴ってしまう。それはもう、うるさいほどに。
「ああ……舟形の、好きに……してくれ」
謙志は低い声でぼそりと呟いた。
それは本心だった。ずっとずっと、誰かに対して抱えていた本心だった。心の中で思い描いていた理想のその「誰か」は桃音で、そして自分は、桃音の好きにされたい。桃音にされるがまま、どこへ流れるのかわからない妖しい流れに乗ってしまいたいのだ。
「ふふっ……嬉しい」
桃音は膝立ちになって、さらに顔を謙志に近付ける。そして頬と頬をこすり合わせてチークキスをすると、謙志の耳元でささやいた。
「いい子ですね、松浦先輩」
「っ……!」
謙志の伸びた背筋に、ぞわわっと鳥肌が立つ。
思わず震えてしまいそうなこの気持ちは、嬉しさを超えた感動だった。
それから謙志は、主導権を握った桃音にたくさんさわられた。桃音のほうは、自分はなんてことをしているんだろうと思いつつも、しかし謙志をかわいく思う気持ちが止められなくて、謙志が嫌がらないのをいいことに、破廉恥なことを言いながらその手を伸ばし続ける。
そうして二人は、耽美な時間を過ごした。
甘ったるいふれ合いをしている間にずいぶんと時間が経っていたようで、浴室の乾燥はいつの間にか終了しており、洗面所のほうは静かになっていた。
行為を終えた桃音は謙志に一言声をかけて、自分の服を居間のほうに持ってくる。そしてドライヤーを借りて、集中的に服を乾かした。
どうにか生乾きではなくなった服を持ち、桃音は洗面所に行く。そして借りていたトレーナーから着替えると、ようやくいつもの自分に戻れたような気がした。輪郭を持った欲望の妖は、すっとどこかへ消え去ったようだ。
謙志も夢から覚めたように平常運転に戻っていて、口数少なく「駅まで送る」と言って、桃音と一緒に家を出た。二人そろって無言のまま、駅までのそう遠くない距離を歩く。あんなに強かった雨は、地面にずいぶんと多くの水溜まりを残して上がっており、傘は必要なさそうだった。
「あの……服、ありがとうございました」
「ああ……」
「では、また……あの……大学で……」
桃音はちらっとしか謙志の顔を見ることができなかったが、それは謙志も同じで、下げた視線で桃音の素足のサンダルを見るのが精一杯だった。
桃音は定期券を取り出し、レンテバー駅の改札を通る。数歩歩いてから恐る恐る振り返ると、こちらを見ていた謙志とばっちりと目が合う。その瞬間、緊張はしたもののとても嬉しい気持ちが込み上げてきて、桃音は無意識のうちに笑顔になった。そして小さく謙志に手を振ってから、ホームに上がるエスカレーターに軽やかに乗り込んだのだった。
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