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第三章 関係修復
第11話 安心感(中)
まだ閨事をしていない夫と二人、性行為のための教本を読む。なんとも恥ずかしい提案だが、しかし媚薬のことも含めてありがたい解決策ではあった。痛みが無になるということはないだろうが、軽減できる方法がいくつかあるならば希望が持てる。
「今日ロイックに言われたんだが、いま騎士団が抱えている負担が少しだけ減るようだ。団長の俺も、少しは家にいる時間が増やせると思う。フメ族から媚薬をもらえるまで、ゆっくり準備していこう」
「はい……」
キアンはそう言うと、ティルフィーユの頬をゆっくりとなでた。キアンの大きな手で包まれるようになでられて、ティルフィーユは気持ちよさそうに目を閉じてしまう。
「そういえばティル、厨房で働きたいと――」
「……すぅ」
ティルフィーユとの間に生じた勘違いや認識不足によるわだかまりがまだ残っていることを思い出し、キアンはそう切り出した。しかしキアンがティルフィーユを見つめると、彼女はすでに夢の中へと旅立ってしまっていた。
「ティル……」
キアンは小声で妻の名を呼んでみるが、ティルフィーユは穏やかな寝息を立てていて返事はしてくれない。
(そうか……ようやく安心して眠れるのか)
ティルフィーユはこの一カ月、母国を離れた寂しさや慣れない環境への緊張感だけでなく、共寝すらもしてくれないキアンに対して孤独感を覚えながら毎日眠っていたのだ。それが今夜、ようやく心から安心して穏やかに眠れるのだろう。
(すまない……本当にすまなかった)
キアンは自分とティルフィーユの両方に掛布団をかける。そしてティルフィーユを起こさないように気を遣いつつも、ティルフィーユの腰に片腕を回して少しでも彼女を抱きしめようとした。その胸中で、数えきれない謝罪を繰り返しながら。
(この先は必ず、君を守る……幸せにする)
そう決意をしてから、ふとキアンは自分を苦く思った。こうやって自分の心の中でばかり呟いているから、言ったつもりになってしまっているのだ。
二度とこんな悲しいすれ違いを起こさないためにも、今後はどんな些事であれティルフィーユに伝えていこう。それにおしゃべりが得意でないのなら、もっと行動に出そう。先ほどのように「好きだ、愛してる」と思うなら、その燃ゆる感情のまま、彼女にふれて口付けよう。
そう考えながら目を閉じたキアンもまた、ティルフィーユと同様にようやく心から安心して眠れるのだった。
◆◇◆◇◆
ほんの少しだけ意識が戻る。身体の位置が気になるので、寝返りを打つ。なんだか、いつもと違ってベッドが温かい。それに、背中側がずいぶんと沈み込んでいる気がする。気になるけれど、いい感じに眠気があるのでまだ眠れそうだ。
――ぎゅむ。
何かが背後から伸びてくる。脇腹のあたりが不思議と重い。全身を包むようなほんのりとした熱気が近付いてきて少し驚くけれども、眠気には勝てなくてそのまま寝てしまう。すぅ、すぅ。ああ、こんなにも心地よく眠れたのはとても久しぶりだ。
そうして気持ちよく眠って、どれくらい経っただろうか。また身体の位置が気になったので寝返りを打つ。すると、目の前に何か壁のようなものがあることに気付く。
(壁……キアン様?)
意識を失うように眠る直前まで、隣にはキアンがいた。初対面の日から一カ月と少し、ようやくキアンが共寝をしてくれたのだ。
(ふふっ……嬉しい)
ぺた、と貼りつくようにティルフィーユはキアンの胸板におでこを寄せた。まだ全然嗅ぎ慣れていないキアンの匂いがする。乾いた風の中にほんのりと甘味が沁みたような、不思議な匂い。けれど、いい匂いだ。
(キアン様……)
ごめんなさい。話したいことはまだあったのに、眠気には勝てないんです。隣にあなたがいてくれることが嬉しくて、起きてその嬉しさを味わいたいのだけれど、こうして夢心地のふわふわした感覚であなたを感じるのも悪くはなくて、動けないの。
(好きです……もっと……)
これかはらもっと、たくさん話しましょう。お互いにおしゃべりが上手な方ではないけれど、だからこそきっと、ゆっくりとした歩調で一緒に過ごせるはずです。
再び夢の中に旅立ったティルフィーユの口元は、ほんのりと笑みを作る。そうして穏やかな夜が過ぎていった。
ふわふわと意識が覚醒してきたティルフィーユは、体内時計に異常を感じた。いつも起きているはずの時間を、とっくに過ぎているような気がする。グントバハロンへ歩いて帰ろうとした強行軍の疲れがまだ、残っていたのだろうか。
「ん……」
ティルフィーユはゆっくりと目を開けた。紺色の生地が視界いっぱいに映る。その光景を不思議に思い、ゆっくりと視線を上向けると、キアンのこげ茶色の瞳と目が合った。
「キ、アン……様」
「おはよう」
寝起きのタイミングで、すぐ傍にキアンがいる。その初めての経験を、ティルフィーユはまるで夢みたいだと思った。
「これは夢……ですか」
「なぜだ」
「キアン様が……隣で寝てくださっているから……」
「夢ではない。これからは可能な限り、これが普通だ」
キアンは少しだけ口元をつり上げて苦笑すると、ティルフィーユの前髪をかき分けてあらわにしたひたいにちゅ、と口付けをした。
「あ、の……おはよう……ございます」
「ああ」
キアンは返事をしたが、まだ起き上がる気配はない。じっとティルフィーユの表情を見つめている。
「よく……眠れたか」
「えっ、と……はい」
「そうか」
「キアン様は……」
「俺もよく眠れた」
キアンはそう言うと、ティルフィーユの腰に腕を回して彼女を自分の方にぎゅっと引き寄せた。
「こうすれば、まだ眠れそうだ」
「ふふっ」
背が高くて体格のいいキアンにしてみれば、小柄な自分はちょうどいい抱き枕なのだろう。そう考えるとキアンがかわいらしく思え、ティルフィーユはおかしくて小さく笑ってしまった。
「あっ、でもだめです! 起きないと!」
しかし、あることを思い出してティルフィーユは早口になった。
「姉がっ……姉が来てしまうかもしれませんっ」
「姉?」
「昨夜お話しした、私のすぐ上の三女の姉、ベアトリーチェです! 実は昨日の夕方頃、グントバハロンから急に来訪してきて……ソイラ様が招いてくださるというので昨日はヘンドリックス家のお屋敷に泊まったはずですが、朝食を終えたらすぐにここへ来るかもしれません!」
ティルフィーユはキアンの腕と掛布団を退けて寝台を降りた。室内履きを履き、急いで自室のドアの方へ寄る。しかし、ドアを開けて退室する前にキアンに振り返った。
「キアン様は、今日もお仕事ですよね?」
「いや……その予定だったが、しばらくゆっくりしていいとロイックから言われたからな。今日と明日は、急だが休みにした」
「よかった! 今日もゆっくりお話ししたいです。では、またあとで」
ティルフィーユはそう言って笑顔をこぼすと、自分の部屋へ行ってしまう。すぐにバルボラを呼び出すための遠隔呼び鈴の音が聞こえたので、テキパキと朝の身支度を始めるようだ。そんなティルフィーユに倣ってキアンも起き上がると、自分の部屋へと戻って着替え始めた。
◆◇◆◇◆
「奥様、お姉様がお見えです」
いつもより一時間以上も遅い朝食を終えたちょうどそのタイミングで、食堂を去ろうとしていたティルフィーユにホルガーが声をかけた。ティルフィーユはキアンに目配せをして、二人そろって玄関ホールに向かう。
「ティル!」
「リチェお姉様っ……その……それは……」
玄関ホールに行くと、バルボラと二人の侍女が、玄関ドアを背にしたベアトリーチェを囲む半円を描くように仁王立ちしていた。
「失礼かとは思いましたが、昨日のようにプライベートなお部屋に突進されても適いませんので」
バルボラが仁王立ちのまま、ティルフィーユに説明する。
「昨日は急いでいたのよ! さすがに毎回あんなことをするわけじゃないわ!」
「ふふっ……リチェお姉様ってば、もう」
制止するバルボラをはねのけるように部屋に飛び込んできた昨日のベアトリーチェを思い出し、ティルフィーユはくすくすと笑った。
ティルフィーユが来たので、バルボラと侍女たちはベアトリーチェを解放するようにその場をどく。それからティルフィーユは、隣にいたキアンに姉を紹介した。
「キアン様、こちらが私の姉で、グントバハロン宗家が三女のベアトリーチェです」
「キアン・ミリ・ストーラーだ」
「っ……!」
キアンがごく普通に自己紹介をすると、ベアトリーチェの表情は一瞬で凍りついた。そしてベアトリーチェはあからさまに顔を斜め横に向け、床を見つめながら震えるような声で返す。
「ベ、ベアトリーチェ・グントバハロン……ですわ……。い、妹が……お世話に……いえ、お世話になる以前に……妹を無視していたとか?」
「リチェお姉様っ、あの、その……そのお話は……」
定型文の挨拶をする途中でキアンのティルフィーユへの所業を思い出したベアトリーチェは、キアンから目をそらしたまま険しい表情になった。そんなベアトリーチェの背後に怒りの炎が揺らめいたのを見て、ティルフィーユは焦った。だがすぐに、キアンがベアトリーチェに頭を下げた。
「申し訳ない。グントバハロンから嫁いできて心細いはずのティルフィーユに、俺は数々の思い込みを重ねてとても寂しい思いをさせてしまった。だが、この先は二度とそんな失態は演じない。この地で必ずティルフィーユを幸せにするので、どうか姉君は安心してほしい」
キアンのことが怖くて目も合わせられないベアトリーチェに対して、キアンは誠実にそう告げた。
「ティルにはいつだって、グントバハロンという帰る場所があること……くれぐれも忘れないでいただきたいものだわ! もしもまたティルを傷つけたら、この私が絶対に許さないんだから……!」
するとベアトリーチェは少し心を許したらしく、キアンを視界に入れないようにはしていたものの、ふんと鼻を鳴らしてキアンに忠告した。それからベアトリーチェは、ティルフィーユを見つめて笑顔を浮かべた。
「ティル、今日はね、ソイラ様がこの街を案内してくださるというの。だからソイラ様と一日過ごしてくるわ。でも、あなたともゆっくり話したいの。今夜はこちらのお屋敷にお世話になっても構わないかしら?」
「ええ、大丈夫だけれど……キアン様、よろしいでしょうか」
姿勢を正したキアンを見上げ、ティルフィーユは尋ねる。キアンは一言、「いくらでも」と深い声で答えた。
「よかったわ! じゃあティル、今夜は遅くまでおしゃべりしましょうね!」
ベアトリーチェはそう言い残すと、さっと踵を返して出ていった。
そんな姉を見送ろうと、ティルフィーユも玄関ドアの外に出る。すると、正門の先に止まっていたヘンドリックス家の馬車に乗り込む寸前で、ベアトリーチェがこちらを振り返って手を振るのが見えた。
「今日ロイックに言われたんだが、いま騎士団が抱えている負担が少しだけ減るようだ。団長の俺も、少しは家にいる時間が増やせると思う。フメ族から媚薬をもらえるまで、ゆっくり準備していこう」
「はい……」
キアンはそう言うと、ティルフィーユの頬をゆっくりとなでた。キアンの大きな手で包まれるようになでられて、ティルフィーユは気持ちよさそうに目を閉じてしまう。
「そういえばティル、厨房で働きたいと――」
「……すぅ」
ティルフィーユとの間に生じた勘違いや認識不足によるわだかまりがまだ残っていることを思い出し、キアンはそう切り出した。しかしキアンがティルフィーユを見つめると、彼女はすでに夢の中へと旅立ってしまっていた。
「ティル……」
キアンは小声で妻の名を呼んでみるが、ティルフィーユは穏やかな寝息を立てていて返事はしてくれない。
(そうか……ようやく安心して眠れるのか)
ティルフィーユはこの一カ月、母国を離れた寂しさや慣れない環境への緊張感だけでなく、共寝すらもしてくれないキアンに対して孤独感を覚えながら毎日眠っていたのだ。それが今夜、ようやく心から安心して穏やかに眠れるのだろう。
(すまない……本当にすまなかった)
キアンは自分とティルフィーユの両方に掛布団をかける。そしてティルフィーユを起こさないように気を遣いつつも、ティルフィーユの腰に片腕を回して少しでも彼女を抱きしめようとした。その胸中で、数えきれない謝罪を繰り返しながら。
(この先は必ず、君を守る……幸せにする)
そう決意をしてから、ふとキアンは自分を苦く思った。こうやって自分の心の中でばかり呟いているから、言ったつもりになってしまっているのだ。
二度とこんな悲しいすれ違いを起こさないためにも、今後はどんな些事であれティルフィーユに伝えていこう。それにおしゃべりが得意でないのなら、もっと行動に出そう。先ほどのように「好きだ、愛してる」と思うなら、その燃ゆる感情のまま、彼女にふれて口付けよう。
そう考えながら目を閉じたキアンもまた、ティルフィーユと同様にようやく心から安心して眠れるのだった。
◆◇◆◇◆
ほんの少しだけ意識が戻る。身体の位置が気になるので、寝返りを打つ。なんだか、いつもと違ってベッドが温かい。それに、背中側がずいぶんと沈み込んでいる気がする。気になるけれど、いい感じに眠気があるのでまだ眠れそうだ。
――ぎゅむ。
何かが背後から伸びてくる。脇腹のあたりが不思議と重い。全身を包むようなほんのりとした熱気が近付いてきて少し驚くけれども、眠気には勝てなくてそのまま寝てしまう。すぅ、すぅ。ああ、こんなにも心地よく眠れたのはとても久しぶりだ。
そうして気持ちよく眠って、どれくらい経っただろうか。また身体の位置が気になったので寝返りを打つ。すると、目の前に何か壁のようなものがあることに気付く。
(壁……キアン様?)
意識を失うように眠る直前まで、隣にはキアンがいた。初対面の日から一カ月と少し、ようやくキアンが共寝をしてくれたのだ。
(ふふっ……嬉しい)
ぺた、と貼りつくようにティルフィーユはキアンの胸板におでこを寄せた。まだ全然嗅ぎ慣れていないキアンの匂いがする。乾いた風の中にほんのりと甘味が沁みたような、不思議な匂い。けれど、いい匂いだ。
(キアン様……)
ごめんなさい。話したいことはまだあったのに、眠気には勝てないんです。隣にあなたがいてくれることが嬉しくて、起きてその嬉しさを味わいたいのだけれど、こうして夢心地のふわふわした感覚であなたを感じるのも悪くはなくて、動けないの。
(好きです……もっと……)
これかはらもっと、たくさん話しましょう。お互いにおしゃべりが上手な方ではないけれど、だからこそきっと、ゆっくりとした歩調で一緒に過ごせるはずです。
再び夢の中に旅立ったティルフィーユの口元は、ほんのりと笑みを作る。そうして穏やかな夜が過ぎていった。
ふわふわと意識が覚醒してきたティルフィーユは、体内時計に異常を感じた。いつも起きているはずの時間を、とっくに過ぎているような気がする。グントバハロンへ歩いて帰ろうとした強行軍の疲れがまだ、残っていたのだろうか。
「ん……」
ティルフィーユはゆっくりと目を開けた。紺色の生地が視界いっぱいに映る。その光景を不思議に思い、ゆっくりと視線を上向けると、キアンのこげ茶色の瞳と目が合った。
「キ、アン……様」
「おはよう」
寝起きのタイミングで、すぐ傍にキアンがいる。その初めての経験を、ティルフィーユはまるで夢みたいだと思った。
「これは夢……ですか」
「なぜだ」
「キアン様が……隣で寝てくださっているから……」
「夢ではない。これからは可能な限り、これが普通だ」
キアンは少しだけ口元をつり上げて苦笑すると、ティルフィーユの前髪をかき分けてあらわにしたひたいにちゅ、と口付けをした。
「あ、の……おはよう……ございます」
「ああ」
キアンは返事をしたが、まだ起き上がる気配はない。じっとティルフィーユの表情を見つめている。
「よく……眠れたか」
「えっ、と……はい」
「そうか」
「キアン様は……」
「俺もよく眠れた」
キアンはそう言うと、ティルフィーユの腰に腕を回して彼女を自分の方にぎゅっと引き寄せた。
「こうすれば、まだ眠れそうだ」
「ふふっ」
背が高くて体格のいいキアンにしてみれば、小柄な自分はちょうどいい抱き枕なのだろう。そう考えるとキアンがかわいらしく思え、ティルフィーユはおかしくて小さく笑ってしまった。
「あっ、でもだめです! 起きないと!」
しかし、あることを思い出してティルフィーユは早口になった。
「姉がっ……姉が来てしまうかもしれませんっ」
「姉?」
「昨夜お話しした、私のすぐ上の三女の姉、ベアトリーチェです! 実は昨日の夕方頃、グントバハロンから急に来訪してきて……ソイラ様が招いてくださるというので昨日はヘンドリックス家のお屋敷に泊まったはずですが、朝食を終えたらすぐにここへ来るかもしれません!」
ティルフィーユはキアンの腕と掛布団を退けて寝台を降りた。室内履きを履き、急いで自室のドアの方へ寄る。しかし、ドアを開けて退室する前にキアンに振り返った。
「キアン様は、今日もお仕事ですよね?」
「いや……その予定だったが、しばらくゆっくりしていいとロイックから言われたからな。今日と明日は、急だが休みにした」
「よかった! 今日もゆっくりお話ししたいです。では、またあとで」
ティルフィーユはそう言って笑顔をこぼすと、自分の部屋へ行ってしまう。すぐにバルボラを呼び出すための遠隔呼び鈴の音が聞こえたので、テキパキと朝の身支度を始めるようだ。そんなティルフィーユに倣ってキアンも起き上がると、自分の部屋へと戻って着替え始めた。
◆◇◆◇◆
「奥様、お姉様がお見えです」
いつもより一時間以上も遅い朝食を終えたちょうどそのタイミングで、食堂を去ろうとしていたティルフィーユにホルガーが声をかけた。ティルフィーユはキアンに目配せをして、二人そろって玄関ホールに向かう。
「ティル!」
「リチェお姉様っ……その……それは……」
玄関ホールに行くと、バルボラと二人の侍女が、玄関ドアを背にしたベアトリーチェを囲む半円を描くように仁王立ちしていた。
「失礼かとは思いましたが、昨日のようにプライベートなお部屋に突進されても適いませんので」
バルボラが仁王立ちのまま、ティルフィーユに説明する。
「昨日は急いでいたのよ! さすがに毎回あんなことをするわけじゃないわ!」
「ふふっ……リチェお姉様ってば、もう」
制止するバルボラをはねのけるように部屋に飛び込んできた昨日のベアトリーチェを思い出し、ティルフィーユはくすくすと笑った。
ティルフィーユが来たので、バルボラと侍女たちはベアトリーチェを解放するようにその場をどく。それからティルフィーユは、隣にいたキアンに姉を紹介した。
「キアン様、こちらが私の姉で、グントバハロン宗家が三女のベアトリーチェです」
「キアン・ミリ・ストーラーだ」
「っ……!」
キアンがごく普通に自己紹介をすると、ベアトリーチェの表情は一瞬で凍りついた。そしてベアトリーチェはあからさまに顔を斜め横に向け、床を見つめながら震えるような声で返す。
「ベ、ベアトリーチェ・グントバハロン……ですわ……。い、妹が……お世話に……いえ、お世話になる以前に……妹を無視していたとか?」
「リチェお姉様っ、あの、その……そのお話は……」
定型文の挨拶をする途中でキアンのティルフィーユへの所業を思い出したベアトリーチェは、キアンから目をそらしたまま険しい表情になった。そんなベアトリーチェの背後に怒りの炎が揺らめいたのを見て、ティルフィーユは焦った。だがすぐに、キアンがベアトリーチェに頭を下げた。
「申し訳ない。グントバハロンから嫁いできて心細いはずのティルフィーユに、俺は数々の思い込みを重ねてとても寂しい思いをさせてしまった。だが、この先は二度とそんな失態は演じない。この地で必ずティルフィーユを幸せにするので、どうか姉君は安心してほしい」
キアンのことが怖くて目も合わせられないベアトリーチェに対して、キアンは誠実にそう告げた。
「ティルにはいつだって、グントバハロンという帰る場所があること……くれぐれも忘れないでいただきたいものだわ! もしもまたティルを傷つけたら、この私が絶対に許さないんだから……!」
するとベアトリーチェは少し心を許したらしく、キアンを視界に入れないようにはしていたものの、ふんと鼻を鳴らしてキアンに忠告した。それからベアトリーチェは、ティルフィーユを見つめて笑顔を浮かべた。
「ティル、今日はね、ソイラ様がこの街を案内してくださるというの。だからソイラ様と一日過ごしてくるわ。でも、あなたともゆっくり話したいの。今夜はこちらのお屋敷にお世話になっても構わないかしら?」
「ええ、大丈夫だけれど……キアン様、よろしいでしょうか」
姿勢を正したキアンを見上げ、ティルフィーユは尋ねる。キアンは一言、「いくらでも」と深い声で答えた。
「よかったわ! じゃあティル、今夜は遅くまでおしゃべりしましょうね!」
ベアトリーチェはそう言い残すと、さっと踵を返して出ていった。
そんな姉を見送ろうと、ティルフィーユも玄関ドアの外に出る。すると、正門の先に止まっていたヘンドリックス家の馬車に乗り込む寸前で、ベアトリーチェがこちらを振り返って手を振るのが見えた。
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