放課後の君は、まだ遠い。

海月いおり

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第1章 放課後の美術室

1. 罰の掃除

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「だああああああ、なんで俺だけぇ!?」
 放課後の美術室に、俺の叫び声だけが虚しく響いた。
 静寂を切り裂くような声だったのに、それを打ち消す反応すらない。
 この部屋には誰もいない。それがますます虚しい。
 ことの発端は、美術の授業中に俺がうっかり居眠りしてしまったことだった。いや、正確に言えば〝うっかり〟ではない。お経みたいな先生の声に、つい……というやつだ。
 でもその一瞬の油断が、しっかりと罰として返ってくるあたり、教師という存在は容赦がない。
『授業態度が悪い生徒には、清掃奉仕が一番です』
 なんて、美術の木本きもと先生は言っていた。まるで俺を見せしめにでもするかのように、ひとりでこの広い美術室を掃除しろと命じたのだ。
 拒否する勇気なんてなかった。
 『評価を下げる』と言われれば、素直に従うしかないのが、俺たち生徒の立場。
 生徒とはなんて悲しくて、弱い生き物なのか……なんて、つまらないことを思う。
「だってさ~、いつ誰がどんな絵を描いたかとか、興味なくね? ゴッホ? ピカソ? それが今の俺にどう関係あるんだって話でさ~……!!」
 ひとり叫んだところで、もちろん誰にも届かない。
 思いつく画家の名前を挙げようとしても、すぐにネタ切れになる。自分の教養のなさが悲しくなっただけだった。
 俺が寝たのが悪い?
 それはわかってる。確かに俺が悪い。
 でも、そんなに退屈な授業をする先生も悪いと思う。
 もっと明るくて、楽しくて、テンション高めで話してくれたらいいのに。
 そうしたらすくなくとも、俺の意識がブラックホールみたいに吸い込まれることはなかったはずだ。
「……わかってるんだってっ!!」
 勢いよく持っていたほうきを床に叩きつけ、ぐいっと息を吸い込んでから、大きな溜息を吐いた。
 とはいえ……何を思ってもやるしかない。
 仕方なく箒を握り直して、美術室の床をひたすら掃き始める。
 机の下、棚の隙間、落ちている鉛筆の芯。無言で黙々と掃除をする。
 掃除自体は嫌いじゃない。だから、やり出すと意外と楽しい。それがまた癪だが。
 目線を窓の外に向けると、空がすこしずつ赤く染まっていくのが見えた。夕方の空気が、ガラス越しにじんわり染み込んでくる。
 そんな頃、廊下の方からパタパタと乾いた足音が聞こえてきた。
 パソコン室や家庭科室が近いこのエリアは、放課後になると部活の生徒が集まってくる。
 やがて美術室の扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。
「……あっ」
 思わず声が漏れる。
 入ってきたのは、ひょろっとした背の高い男子だった。
 黒縁の眼鏡をかけていて、制服の着方はきっちりしている。どこか冷たそうな目とは裏腹に、透明感のある雰囲気をまとっていた。
 俺の存在に気づいたはずなのに、彼は何も言わず、ただ静かに鞄を置く。
 そして画材を取り出して、キャンバスをイーゼルに乗せる。こちらをいっさい見ないまま、無言で準備を始めたのだ。
 まさか、俺のことが見えてないのか。
 それとも掃除してる俺のことを、完全スルーでもしているのか。
「……」
 俺は何も言わないし、彼も何も言わない。
 なんだか気まずさを通り越して、ちょっと面白くなってきた。
 彼は席に座ると、さらさらと大きなキャンバスに鉛筆を走らせはじめる。
 その横顔は、まるで〝静寂〟をそのまま具現化したようで、不思議と目を引いた。
 でも。なにこの無言っぷり。
 ちょっとは反応してくれてもいいのに。
 むずむずしてきた俺は、思いきって話しかけてみた。
「……君、美術部?」
 返事はない。
 数秒の沈黙が落ちたあと、ようやく小さな声が落ちてきた。
「……そうだけど」
 あまりにもそっけなかった。
 思ってた10倍はそっけない。予想外すぎて、今度は逆にムカついてきた。
 誰とでも気さくに話せるタイプだと自負している俺だが、こんなあからさまに壁を作られると、さすがにすこし引っかかる。
「俺がここで何してたか、興味ないの?」
 すこし意地悪な言い方になった。
 けれど、彼は眉ひとつ動かさずに淡々と言う。
「……ない。木本先生が授業中に寝た生徒に掃除させるのは、いつものことだから。僕からすれば、珍しくもないよ」
「……」
 ……完全にバレていたようだ。
 俺に向けた目を、すっと鋭く細める。
 心の中を覗くかのような目つきに、心臓が掴まれたかのような感覚がする。
 俺は思わず、一歩後ろに下がった。
「……帰らないの?」
 また、刺すような一言が飛んできた。けれど今度は、視線すらこちらに向けない。
「え?」
「部活、始まるから。他の部員も来るし」
 つまり、もう出てってくれってことだろう。
 冷たすぎる態度に、すこしだけ苛立ちを覚えた。こんな態度を取る人、これまでに出会ったことがない。
「……帰るしっ」
 俺はそれだけ言って、そっと扉の取っ手に手をかけた。
 扉を開け、最後に一度だけ振り返る。
 美術室の中には、淡い夕陽が差し込んでいた。
 スケッチブックに向き合う彼の輪郭を、その光がやさしく包んでいる。
 その一瞬の光景が、なぜか頭から離れなかった。
 まるで——1枚の〝絵〟みたいだと思った。

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