放課後の君は、まだ遠い。

海月いおり

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第5章 非日常な時間

2. 揺れる想い

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 職員室の片隅にあるコピー機の前。
 規則正しく紙を吐き出していく機械の音が、静かな空間のなかで妙に大きく感じられる。
 文化祭が近づき、俺と綾瀬は生徒に配布する用のアンケート用紙を印刷していた。
 隣り合って立つこの状況は、決して自然とは言えなかった。
 沈黙が続くと、空気の温度まで変わったような気がして、なんとなく落ち着かない。
 けれど、そんな沈黙を破ったのは、意外にも彼女の方だった。
「……最近、気づいたんだけどね」
 ぽつりと呟かれた声は、コピー音にかき消されるような小ささだった。
 でもそれが、俺の耳にはやけに鮮明に響く。
「はるくん……君のこと、よく見てる」
 その内容が唐突すぎて、思わず手が止まった。
 視線を落としたまま、俺は答えを返せずに黙り込む。
 彼女はそんな俺に構うことなく、まっすぐ前を見たまま話を続けた。
「同じクラスだから、なんとなくわかるの。最初は気のせいかと思ってたけど……」
 そう言って、すこしだけ声を落とした。
「君が視界に入るたびに、彼の目が動く。ほんの一瞬だけど、何度も」
 抑えた口調。だけど、そこにあったのは、確かな確信だった。
 言葉は柔らかいのに、やけに力強さが胸に残る。
 俺は言葉に詰まり、ただコピー機から排出される紙の流れを見つめた。
 まるで、その先に答えがあるかのように。無言で見つめ続ける。
「……そんなこと、あるかな」
 なんとか絞り出した声は、自分でも頼りなく聞こえた。
 ほんとうは、動揺していた。
 だけどその気持ちに、名前をつけることができなかった。
「……」
 綾瀬はようやく、ゆっくりと俺の方を見る。
 その横顔には、どこか寂しさを押し殺したような静けさがある。
 けれど、瞳の奥に宿る光は、どこにもない。
「あるよ」
「……」
「すくなくとも、私の目には、そう映った」
 はっきりと断言されて、返す言葉が見つからなかった。
 彼女はそれ以上何も言わなかったが、その視線が胸に残る。
 俺の中に、何かがわずかに沈んでいった。
 言葉にならないざわめきが、ずっと心の奥に残っていた。



 文化祭を数日後に控えた放課後。
 昇降口から外に出ると、すこし先に見覚えのある後ろ姿が見えた。
 ひと目でわかった。
 俺は名前を呼ぶより先に、胸の奥がわずかに跳ねる。
「南条!」
 振り返った彼の顔は、いつもよりもほんのすこし、影を落としていた。
 元気がなさそうな様子に、心配を覚える。
「……白浜くん」
「なんか……顔色悪くね? 大丈夫? ってか部活は?」
 息もつかずに問いかけると、南条はあきれたように口を動かす。
「質問はひとつずつにして」
 言葉はいつも通り、淡々としていて冷たい。それでも、その声はどこか弱々しかった。
 俺は自然に彼の隣に立ち、足並みを合わせる。
 ゆっくりと校門に向かう道。夕焼けが斜めに差し込んで、歩道を長く染めていた。
「……僕さ、絵が描けなくなったんだ」
 小さく、けれどしっかりとしたその声に、思わず立ち止まりそうになる。
「……スランプってやつ?」
 問いかけるように言うと、南条は頷きもせず、ただ前を見たまま言葉を続けた。
「焦れば焦るほど、手が止まる。描かなきゃ、って思うのに、描けない。時間だけが過ぎて……前日から進んでないキャンバスを見てると、呼吸が浅くなる」
「……」
 どんな言葉を返せばいいのか、すぐには浮かばなかった。
 それでも、彼がこうして自分から何かを語るのは珍しいことで、その事実だけは胸に温かく残った。
 並んで歩く足音だけが、静かな下校の道に響いている。
 南条は黙ったまま、前だけを見て歩いている。その横顔を見ながら、俺は何か声をかけようか迷っていた。
 そのとき、ふいに彼の小さな声が落ちる。
「……そういえば今日も、ゆいと話してたね」
 突然、思い出したかのような言い方だった。
 けれど、言葉のあとに続く沈黙が、どこか引っかかる。
「あ……うん。まぁ、実行委員で一緒だからね」
 そう答えても、南条は頷くでもなく、ただまっすぐ前を向いたままだった。
 南条の考えていることがわからない。
 すこしの不安に駆られながら、俺はまっすぐ前を向く。
「……まぁ、だからと言って別に、何もないんだけどね」
 彼はそう、ぽつりと呟いた。
 意外な言葉。けれどそれを口にしたということは、すこしだけ、何かが引っかかってる証拠なのだと思った。
 風が吹き抜ける。
 しばらくの沈黙のあと、南条がまた一言だけ、言葉を落とした。
「……なんか、わかんないけど。見てたら、変な気分だった。ただ、それだけ」
 語尾がかすれていた。
 何が『変』なのか、それ以上は語られない。
 本人もわかってないのだろう。きっと、心の奥がすこしだけさざめいた。それを、うまく言葉にできないだけなのだと思う。
「……ねぇ、南条。その言葉の意図が、俺もよくわかんないけど」
 そう返したら、南条がちらと横目でこっちを見た。
 その視線はいつもよりすこしだけ、探るようだった。
「僕も……わかんない」
「……そっか」
 でもすぐに視線を外して、彼は前を向いたまま、また歩き出す。
 微妙な空気が、俺たちを包み込んでいた。

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