放課後の君は、まだ遠い。

海月いおり

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最終章 光と空の先

1. 向かう道

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 春の匂いがした。
 雪の名残がまだ歩道の端に残る朝だったけれど、空はどこまでも高くて、光は柔らかい。
 空気の中に、ほんのすこしだけあたたかさが混じっている。冷たさの向こうに、ほのかな春の予感があった。

 学校へと続く道を、俺はゆっくりと歩いていた。
 制服の胸ポケットには、白い封筒。もう何度も折り目がついて、角がくたびれたその紙には、たった数行の文字が書かれている。
 けれどその数行が、俺の人生を彩る道筋だった。
 ——合格通知書。
 第一志望の私立大学、心理学部。
 昨日、ポストに入っていた封筒を手に取ったときのことを思い出す。
 玄関ですぐに、震える指先で封を切った。
 〝合格〟の2文字を見た瞬間、時間が止まったようだった。
 信じられないような、それでいて、どこかで確信していたような——なんだか、変な感じだった。
 そのとき一番に思ったのは。
『南条に伝えなきゃ』
 たった、それだった。

 この春から俺は心理学部に進む。
 誰かの話を聞いて、寄り添って、ちゃんと耳を傾けられる人になりたい。
 自分の言葉で、人の気持ちに触れられるような。
 あの日、南条と向き合ったことで——より、そう思えた。
 きっとあれがなかったら、この道は選ばなかったと思う。
 だから今、南条に早く伝えたくて足早に学校へ向かっていた。
 校門の前に立ったとき、すこしだけ息を吸う。
 もうすぐ卒業なんだなって、しみじみと思った。
 あと何回、こうして制服でここに立つんだろう。
 なんて、感傷に浸るのも俺らしくない。

 廊下に差し込む朝の陽射しが、やけに眩しく見える。
 いつものように靴を履き替え、俺は南条のクラスに向かった。
 後ろの扉から覗き込むように姿を探す。
 ——いた。
 窓際の席。
 静かに、いつも通り自分の席に座っている。
 変わらないはずなのに、なぜかその横顔がすこし大人びて見えた。
 ゆっくりと教室に入って、南条の元へ向かう。
 すると、南条も俺の気配に気づいたのか、ふと振り返った。
 目が合う。
 そしてお互いに目をすこしだけ細めて、微笑み合った。
「……おはよう」
「おはよう」
 ただそれだけの挨拶なのに、胸がきゅっとなった。
 いつものやりとり。でも今日は何かが違っていた。
 言葉のあとの〝間〟が、なんだかやけに優しくて。
 俺は意を決して、合格通知書を取り出した。
「南条、あのさ」
 手が制服の胸元に触れる。くしゃっとなった封筒の端を指先でつかむ。
 中には、合格通知書。折り目だらけのそれを、そっと机に置いた。
「……見て、受かったよ。第一志望、心理学部」
 紙を見ていた南条の目が、ふわっとほどける。
 それだけで心がいっぱいになった。
「すごい……白浜くん、ほんとうに頑張ったね」
「……うん」
 照れくさくて、つい目を逸らす。
 でも、感謝の言葉は素直に言うことができた。
「ありがとう。南条のおかげだよ。お前がいたから……俺はここまで来られた」
 そっと笑うと、南条も柔らかく微笑んだ。そして、ほんのすこしだけ視線を落としてから、また俺を見た。
「で、南条は……どうしたの?」
 一瞬だけ、間があった。
 南条は窓の外に視線を向けてから、静かに言う。
「就職にした。小さなデザイン事務所に、内定をもらったんだ。事務職だけど、近くでデザインの勉強もさせてもらえるらしい」
 そこまで言って、すこしだけ目を伏せる。
「でもね……美大を、諦めたわけじゃないんだ」
 その言葉に、俺は思わず息をのむ。
 南条は、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐこちらを見た。
「今はまだ、ちょっと遠回りするだけ。自分で働いて、すこしでもお金貯めて……もう一度、ちゃんと向き合いたいと思ってる」
 ……その目は、どこまでもまっすぐだった。
 逃げてもないし、諦めてもいない。ちゃんと、未来を見ている目。
 なんだか感動して、涙が出そう。
 俺は言葉に詰まって、ただ「そっか」とだけ頷いた。
「親には、まだ反対されててね。だったら、自分で道つくろうって、そう思った」
「……すごいよ、南条」
 気づいたら、そう呟いていた。
「俺、お前のこと……本気で尊敬してる」
 自分で言っておきながら、顔が熱くなる。
 南条はふっと優しく笑っていた。
「……そんなふうに言われたら、泣きそうになる」
 その声が、すこし震えて聞こえた。
 すぐに机の下から、そっと手が伸びてくる。
 南条の指先が、俺の指に軽く触れる。
 ほんのすこしだけ触れて、すぐに離れてしまいそうな、柔らかいぬくもり。
 俺はその手を、しっかりと握り返した。

 陽射しが、窓から差し込む。
 教室の空気が、春の気配に染まっていく気がする。
 何も言わなくても、言葉よりも強く伝わるものがあった。
 ——俺は、きっとこれから先も、この手を離したくないって、本気でそう思った。

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