影の帝国

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第一章 影、海を渡る

影、海を渡る

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昭和十六年十一月、東京。
冬の空は重たく、曇天の隙間から差し込む光も、すでに戦時色を帯びていた。
市ヶ谷台の地下壕。その鉄扉を開けて階段を下りると、空気が一気に変わる。湿気と
機械油、そして焦燥。そこは帝国陸軍が極秘に設けた特務機関の中枢、「神影部」の作戦
室だった。
如月錬――元中尉。三度目の戦傷の後、前線を外れ、なぜか姿を消したと噂されてい
た男。その彼が、今また軍服に袖を通し、作戦室の椅子に腰をかけていた。
「お待たせしたな」
声の主は、神影部司令官・三好大佐。目尻に深い皺を刻み、白髪混じりの眉の下から
鋭い眼差しを投げかける。
「君に頼みたい任務がある。これまでのような、敵陣の撹乱や破壊工作ではない。国
家の未来を左右する、影の作戦だ」
如月は無言でうなずいた。彼にとって、命令は生きる意味の一つだった。
「作戦名――神影(しんえい)。任務内容は、アメリカ合衆国大統領、フランクリン・
D・ルーズベルトの、物理的排除だ」
静寂が落ちた。機械のカチリという音が、やけに大きく響く。
如月は目を細めたまま、少しだけ眉を動かした。
「成功の確率は?」
「不明だ。前例などない。だが、やらねばならん。帝国の未来のために」
三好は机の引き出しから一枚の地図を取り出し、広げた。北太平洋とアメリカ西岸。
赤鉛筆で細い線がいくつも走っている。
「中立国を経由し、アメリカ本土へ潜入する。渡航ルートはリスボン経由。ポルトガ
ルは今も中立国だ」
「偽名は?」
「堀口仁(ほりぐち・じん)。商社の外交員という設定だ。英語の履歴書、偽造パスポ
ートも手配済みだ」
如月は、そっと書類を手に取った。触れた紙の質が、妙に冷たく感じられる。
「実行のタイミングは?」
「十二月八日。真珠湾への攻撃と同時に混乱を引き起こす。アメリカは一時的に機能
不全に陥る。その隙を突け」
如月は一瞬だけ目を閉じた。彼の中で、幾つもの映像が走馬灯のように流れた。
上海で爆撃を受けた街。瓦礫の中で崩れた自宅。焼け焦げた妻の手。小さく冷たい娘
の遺体。あの日から彼の心には、氷のような感情だけが残っていた。
「了解した。任務を遂行する。……ただ一つ」
「なんだ?」
「私が最後に名乗るときは、“堀口仁”ではなく、“如月錬”でありたい。それだけです

三好は一瞬黙し、やがてゆっくりとうなずいた。
「そうなることを、祈っている」
その夜、如月は軍服を脱ぎ、スーツに着替えた。肩口に仕込まれた特殊ナイフ。懐に
忍ばせた青酸カリのカプセル。諜報員に必要な装備は最小限だ。だが、最大の武器は、
記憶だった。
地下道を抜けて、市ヶ谷の門をくぐったとき、東京の空には冷たい雨が降り始めてい
た。
翌朝、如月錬は極秘裏に東京駅から西へと向かった。目的地は神戸。そこから密航船
で南洋へ、そしてリスボン経由でアメリカ本土へ。
船上では一切の通信も禁じられ、名を呼ばれることもない。彼は誰でもなく、どこに
もいない存在となった。
だが、胸の奥には一つの問いが渦巻いていた。
――本当にこの任務は、国家のためなのか。
――それとも、誰かの「影」が動かしているだけなのか。
波の音に揺られながら、如月は空を仰いだ。
雲は厚く、遠くアメリカ大陸の彼方で、運命が音もなく動き出していた。
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