エンプセル

うろこ道

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第三章 地下都市

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 寛人は中庭を突っ切り、裏口から実験棟に入った。
 エントランスホール手前の廊下は階上から逃げてきた人間でごった返していた。至るところで「化け物」「死」といった不吉な言葉が飛び交っている。
 白衣の人の波をかき分けて、四階まで一気に階段を駆け上がる。第八実験室の前には人だかりができていた。
 警報ランプが点滅を繰り返し、研究員のむれの生白い横顔を毒々しい赤に染めていた。人気ひとけの消えた三階フロアでその一角だけが奇妙な熱気に包まれている。これだけの人間が身の危険をかえりみずに、なまの地上生物に対する学術的興味のために野次馬に徹しているのだ。
 寛人はなかば呆れ半ば苛立ちながら研究員の間をかいくぐり、最前列に出た。
 第八実験室の真前の廊下には、モジュラー戦闘服の上にボディアーマーを着用した完全武装の機動隊員八人がグレネードランチャーを室内に向けて構えていた。その物々しさは無機質な実験棟にあまりに不釣合いで、異様でさえあった。
 バイオセーフティレベル四の赤いロゴシールが貼られた第八実験室は、廊下から室内が見えるようガラス張りとなっていた。目に飛び込んできた実験室内の様子に、寛人は言葉を失った。床のみならず、壁や天井にまでバケツをぶちまけたような血糊が飛び散っていた。作業台や椅子はことごとく倒され、ダストボックスはひっくり返り床の血溜りに中身を広げている。
 そして作業台の上には、散らばった実験器具と共に若い男性の死体が横たわっていた。頭部はなく、腹も食い破られて肋骨がむき出しになっている。
 台の端からだらりと垂れた四肢が奇妙な方向に曲がっているのを見て、寛人はぐっと歯を食いしばった。
(もてあそばれたんだ。――あの化け物に)
 寛人は目線を上げた。ひしゃげた安全キャビネットの上に、体長二メートルを超える生き物が乗っており、悠然とこちらを睥睨していた。
 鳥だ、と寛人は思った。卵を横にしたような形の重量感のある胴体に、細長い二肢。りゅうと伸びた長い首の先には小さい頭がついていた。その生き物は、走鳥類――駝鳥だちょう火食鳥ひくいどりといった、飛ばない地上性の大型の鳥類を思わせる姿をしていた。だが翼もくちばしも無く、全身を覆っているのも羽毛ではない。茶、白、黒で構成された体毛だった。
「シャーッ、フシャーッ」
 室内の音を拾うスピーカーから化け物の鳴き声が響いた。
 左右にぱっくりとひらいた口から、細かく尖った歯がずらりと覗いた。化け物は二脚の足で足踏みするように、自分の乗っている安全キャビネットをひっかいている。キィキィと金属のこすれる耳障りな音が周囲に響き渡った。
(解剖のために安全キャビネット内に閉じ込めようとしたところを逃げられたのか。……なんてことだ)
 足元から震えが立ちのぼってくるのを感じた。とんでもないことが起きている。
 第八実験室内に取り残された人間は三人だった。一人は食い破られた遺体。もう一人は防護服に身を包んだ眼鏡の研究員で、廊下に面したガラス壁に張り付き「助けてくれ」と叫んでいる。
 寛人は最後の一人に目を向けた。
 その防護服の男は、安全キャビネットの真ん前で鳥紛いの生き物を決然と睨みあげていた。ゴーグルの上にフェイスガードをつけてはいたが、すらりとした立ち姿は渥美あつみるいに違いなかった。
(渥美――無事だったんだ)
 寛人は、安堵のあまり大きく息を吐いた。だが依然、危機的状況には変わりない。
 ガラス壁に駆け寄ろうとした寛人の前に、一人の機動隊員が立ちふさがった。
「これ以上、前に出るんじゃない! まったく研究者ってやつは……!!」
 機動隊員が苛立ちもあらわに睨み付けてきた。防護ヘルメットのシールドから、こめかみに血管が浮いているのが見えた。背後につどう、追い払っても動こうとしない研究熱心な白衣の群れに散々手を焼いたのだろう。
 寛人は引き下がると、最前列にいた研究員の一人に声をかけた。
「助けに行けないんですか?」
「――ああ、駄目なんだ。あの化け物が体当たりしたせいで内扉の気密ロックが閉じなくなっちまった。室内は地上の細菌やウイルスが蔓延している危険性があるから警官隊は踏み込めない」
 寛人は絶句した。
 鳥紛とりまがいの生き物は、長い首をくねらせて廊下の観衆にぐるりを顔を向けた。居並ぶ機動隊員が一斉に身動みじろぎした。
(――あれ? 瞳孔が縦長になってる)
 不意に寛人は違和感を覚えた。鳥類なら普通、瞳孔は丸いはずだ。
 思わず一歩踏み出すと、機動隊員がぎょっとしたように寛人の眼前に腕をかざした。その瞬間、化け物はシャーッと奇妙な音を発っした。体毛がぶわっと立ち上がり、胴体の大きさが一回り膨らむ。
(……威嚇してるんだ)
 不意に背後で感嘆の声があがり、カシャカシャとカメラ音が響いた。振り返ると、研究員たちはそれぞれデジタルカメラやビデオカメラを構え、陶然と鳥紛いの生き物を見つめている。
(目を輝かせて見る光景じゃないだろう!)
 その時だった。ポーンと場違いな音とともに昇降機エレベーターのドアが開き、小太りのスーツを着た中年の男が現れた。地上環境研究所の地上生物実験部第一課の所属長だった。
 白衣の群れがさっと道を開ける。眉間にしわを寄せた所属長は後退した額の汗をハンカチで押さえながら、身体を揺らしてずいっと寛人の前に立った。
 突然の物々しい登場に機動隊員一同は呆気に取られたようだった。それを後目しりめに、所属長は離れたどんぐり眼を見開いた。
「なんだこの化け猫は!」
 えっと思わず声を上げた寛人を、所属長は蔑むように見やった。
「研究員のくせに猫も知らんのか。だから戦後生まれは……」
(そうか、あれは猫か……!)
 猫。動物社会学の授業にさんざん出てきたではないか。
 テキストの図の個体があまりに目の前の化け物とかけ離れていて、結びつかなかったのだ。
 言われて腑に落ちた。たしかに、鳥類よりも猫の形質が強く表れている。縦に細くなる瞳孔、全身を覆う体毛、鋭く尖った歯。そして脚は、鳥類特有のあしゆびでなく、脚先まで体毛に覆われた哺乳類食肉目猫亜目のそれである。
(所属長は確か六十代。戦前の生まれだ。――本物の猫を見たことがあるんだ)

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