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うろこ道

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第三章 地下都市

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 所属長は苛立ちを隠さず、機動隊員たちに居丈高に命じた。
「そんな物騒なものしまえしまえ! ガラス壁やエアフィルタに穴が開いたらどうするんだ。あの猫がやっかいな病原菌を持ってたりしたら、被害はこの棟内だけじゃ済まなくなるぞ」
 機動隊員たちはぎょっとしたようにグレネードランチャーをおろした。
 所属長はおもむろにくるりと振り向くと、一眼レフを構えた白衣の一人を見据えた。
「実験の監督者は誰かね?」
「彼です」
 一眼レフの男は、ガラス壁に額を張り付けて助けを求めている眼鏡の研究員を指さした。
「……彼に尋ねるのは無理か。では君に聞くが、実験室の給排気装置ドラフトチャンバーの操作は室外からでも行えるのかね?」
「はあ、できますが」
「では実験室内にガスを充填させる。君、やりたまえ」
 はあ、と間延びした返答をした一眼レフの研究員は、ふいに我に返ったように目を見開いた。
「麻酔ガスですか? しかしあれだけの巨体を眠らせる量のガスとなると、中の研究員たちの身も危険です」
「誰が眠らせろと言った。シアン化物ガスを使え」
 その場にいた全員に緊張が走った。
 シアン化物――細胞を殺す毒ガスだ。
「中にいる研究員の防護服は防ガス仕様ではありません」
「化け猫に食い殺されるか、ガスで楽に死ぬかだ。後者の方が彼らにとってもよかろう。――あんたがたもそれで解決で構わないかね。ええと、軍の方々かな?」
 今さらのように問うた所属長を、隊のリーダーの男は憮然と見やった。
「我々は日本軍所属ではない。警察庁地下都市国立研究所第三管区機動隊連隊の者だ。踏み込めないとなれば我々はここで待機するしかない。そちらの対処に任せる」
「そんな……」
 一眼レフの男は一変しておろおろと左右を見渡した。まわりの白衣たちはそろって素早く目をそらす。
「彼らも納得ずみなはずだ。研究員は全員リスクに関する指導を受けているからな。念書だってちゃんととってあるしな」
 ガラス壁に張り付いていた眼鏡の青年は今にも泣きだしそうな顔で激しく首を左右に振った。
「嫌だ……誰か……誰か助けてくれ!」
 スピーカーから耳を覆いたくなるような悲痛な声が漏れ聞こえてくる。
 寛人は動悸が激しくなるのを感じた。
 下半身を蛭に覆われた地上調査隊員――白井の姿が脳裏に浮かぶ。
 助けてくれ。
 助けてくれ。
 殺してくれ。
 その時。唐突にスピーカーから冷めた声音が響いた。
「無駄ですよ、先輩。やつらにゃ俺たちを助ける気なんか更々ないんだ。あの化け物が柴田しばたさんを喰うのだって黙って見てやがったんだ。目え輝かせてな」
 渥美の声だった。寛人ははっと我にかえる。
 柴田。地上調査隊員をシリンジに例えた男だった。
(犠牲になったのはあの人だったのか)
 寛人は深く息を吐いた。恐怖で沸騰した脳が、急激に冴えてゆく。
(……研究員の誰がどうなろうがかまわないじゃないか。――でも渥美累だけは殺されるわけにはいかない)
 寛人はちらと所属長を見やった。お偉方が押っ取り刀で駆け付けて来るまでは彼がここの事実上のトップだ。
 彼に、せめて渥美だけは生かしてもらえるように仕向けねばならない。
 寛人は、あえてと所属長に話しかけた。
「あの……待ってください。他に手はないんでしょうか。優秀な人材を失うことは研究所の損失にもつながりますし、人的被害が大きくなればなるほど研究室運営がやり難くなる可能性があります。それに研究員を職務中にガス死させたとなれば人道的な側面から見ても……」
 ぎょろりと団栗どんぐりまなこが寛人を見据えた。
「君か。猫なんぞも知らんくせに口を出すんじゃない! すでに一人喰われてるんだぞ。皆殺しも時間の問題だ。だったらガスで楽に死なせてやった方がずっと人道的だと思うがね。そもそも病原因を外に出すこと以上に取り返しのつかない被害はあるかね? 君も研究員であるなら無知にもほどがあるんじゃないかね。君は……どこの所属だ?」
 所属長は、苛立たしげに寛人の首に下げたネームプレートに目を馳せ――はっとしたように目を上げた。
「柚木? 君があの柚木くんか? 柚木竹流博士のご令孫れいそんの」
 機動隊員が驚いたように振り向いた。背後に集う白衣の群れからもいくつものざわめきが起こる。
(――しまった。ネームプレートを外してくるんだった)
 寛人は一瞬ひるんだが、すぐさまおもねるような笑みを作った。
「今は関係ないでしょう、そんなことは。それより」
「いやいや。こんなところで君のような有名人と会えるとは」
 所属長は寛人の顔をしげしげと眺め、口の端に皮肉な笑みを浮かべた。
「新人の研究員がこの私に意見するとはと思ったが――柚木博士の威光を笠に着られちゃ何も言えんなあ」
 その悪意に満ちた口調に、下手したでに出て上手く言いくるめる作戦が失敗したことを悟る。
(ここでも柚木竹流あいつが足を引っ張るのか)
 どれだけ自分の人生の邪魔をすれば気がすむのか――。寛人はぐっとこぶしを握った。
「柚木。てめえの命乞いなんて必要ねえよ。すっこんでろ」
 スピーカーから怒鳴り声が響いた。ガラス壁越しに渥美がこっちを見据えている。
 寛人が目を向けると、渥美は忌々しそうに顔をそらし、ガラス壁の前で崩れるようにうつむいている眼鏡の男の腕を引き上げた。
「立てよ先輩。あんなやつらにひざまずくなんて無駄なだけだぜ。俺たちは見捨てられたんだ。自分たちの身は自分たちで守るしかねえってこった」
「そんな……自分の身を守るったって、武器もないのにどうやって……」
 先輩は、震える声音で言った。
 渥美のフェイスガードが微かに揺れた。笑ったようだった。
「武器? 何言ってんすか。ここには何でもある。電鋸でんのこ、電メス、ガスバーナー、遠心機、オートクレーブ……」
「――あ、渥美っ!! 機材をそんなことに使うのは許さん!!」
 青ざめて叫ぶ所属長に、渥美は顔を向けた。表情が見えなくとも怒気が伝わってくるようだった。
 所属長はごくりと唾を飲み込み、なだめるように言った。
「渥美、落ち着いてよく考えろ。その化け猫は伝染性の病原菌を持っとるかもしれんのだぞ。そんなものを使ってこのガラスが割れてしまったらバイオハザード被害は予想がつかない。最悪この地下都市全体が汚染され、取り返しがつかなくなる」
「自分が死んじまった後の話なんてどうでもいいね」
「おまえ、よくもそんなことが言えたなっ。入社誓約書にサインしただろうがっ。被害が実験室外に拡大する可能性がある場合、研究員に重大な障害及び死亡のおそれがあろうとも被害拡大を防ぐ処置を優先すると――」
「うるせえ!! こっちは命かかってんだよ。こんな化け物の相手させといて、国から武器使用許可も取れねえ上司が偉そうにほざいてんじゃねえ」
 渥美はどすをきかせて言い放った。所属長は蒼白になる。
「ミギャオオオゥ」
 不意に首長猫が大きく跳躍した。渥美の頭上を跳び越え、ガラス壁の真ん前にどすんと着地した。
 長い首をくねらせてガラス壁の向こうの観衆を舐めまわすように見回し、「シャーッ」と牙を剥き出す。機動隊員はたじろぎ、背後の白衣の連中はいっせいにどよめいた。
「聞いたか今の声?」
「すげえな! さっきの鳴き声と全然違うな」
解剖バラして声帯見てえなぁ……」
 ふいに首長猫は巨体を持ち上げて後ろ足立ちになると、前足をガラス壁に押し付けた。何度も体当たりされたであろうガラス壁がみしりと軋む。
 柔らかそうな丸い足先から鎌のごとくの爪が飛び出した。肉球だ肉球だと騒いでいた研究員たちは一気に静まり返る。
 首長猫はガラス壁に爪を立てると、前足を引き下ろした。
 ぎぎぎ、と凄まじい音がフロア全体に響き渡る。研究員たちは苦痛に顔をゆがめ、次々に耳をふさいで縮こまった。
 首長猫は意気揚々と爪を研ぎはじめた。ガラス壁には見る見るうちに細かな傷がついていった。
(強化ガラスだぞ。なんて硬い爪なんだ)
 寛人は歯を食いしばりながら、鼓膜をつんざく激音に耐えた。
 爪とぎに満足した首長猫は、廊下の大騒ぎに興奮したようにふしゅ、ふしゅ、と鼻息を荒げ、作業台に飛び乗った。実験器具が飛び散らかり、遺体が作業台から落ちて湿った音を立てた。
 首長猫は身を低めると、前傾姿勢で尻を振る動作をみせた。ガラス壁を前にした研究員たちがぎょっとしたのもつかの間、突如跳躍し、太い胴をガラスに打ち付けた。
 ピシッっと軋んだ音を立てて、ガラス壁に亀裂が一本、大きく入った。とたん白衣の連中は競いあうようにして一目散に階下へ逃げて行った。
「ガ……ガスの噴射だ! 今すぐやらんと取り返しのつかんことのなるぞ!」
 所属長は一眼レフの青年の腕をがっしりとつかんだまま叫んだ。
 嫌だあ離せと抵抗する青年をなかば羽交い絞めにした所属長は、「手伝いたまえ」とクリーンルームの操作室に引きずってゆく。
(このままじゃあの猫もろとも渥美は殺される。なんとかしなきゃ。なんとか……)
 寛人は踵を返し、逃げ惑う人の波に混じって階下へ駆けた。
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