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本編
29.その身に降りたのは
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(え?)
全てが一瞬のことだった。
今まさにティルに宿ろうとしていた翠光が止まる。地上近くまで到達していた緋光も急停止し、絶句する天威師たちの頭上で滞空した。
「日香!」
血相を変えた高嶺が叫ぶ。色白の面から血の気が失せ、蒼白になっていた。
(高嶺様)
私なら大丈夫です――そう返そうとした日香だが、声が出ないことに気付いた。
(あれ? あれ?)
声だけではない。手も足も、体の全てが動かせない。
(うそ……動けない!?)
虹色を帯びた黄金の燐光を放つ日香の体は、今や日香のものではなくなっていた。口が勝手に動き、言葉を紡ぎ出す。
「ごきげんよう、私の愛しき裔たち。こうして見えることができ、嬉しく思いますよ」
唇がつり上がり、満面の笑みの形に持ち上がる。ゆったりと身を起こし、衣を払って微笑む日香――の体に宿った存在――を見つめ、驚愕の眼差しを浮かべる白珠が呟いた。
「始祖……金日神様」
金日神――その称の通り、金色に輝く神威を持つ日神。最も初めに顕現した原初の至高神の内の一柱である。
白珠の声を合図に、天威師たちが跪いた。至高神は全員が同格であるが、神格を抑えている天威師の場合は、神性を晒している祖神に対して膝を付かなければならない。
「楽になさい」
衣の袖でゆったりと口元を覆い、日香の体に宿った金日神が優麗に微笑む。
「ああ、本当に……会えて嬉しいこと」
(始祖様、泣いていらっしゃる……)
自身の双眸から勝手に溢れ、頬を伝って流れ落ちる透明な煌めき。始祖神の限りない愛と優しさの波動を直に浴びている日香は、湯あたりしたように霞む思考で呟いた。
(ずっと私たちに会いたくて………抱きしめたいと思っておられたんだ)
「金日神様……」
白珠が茫洋とした目で呟く。他の面々も同様であった。始祖から発せられる同胞への絶対的な慈愛に、魂が当てられているのだ。
「もはや地上にいる必要はありません。我らの懐に還って来て頂戴な。祖神は皆、それを待ちわびているのですよ。天威師は既に、十二分にその使命を果たし終えています」
抗うことができない御稜威を秘めた声が、天威師たちを搦め捕る。
(祖神様の元に還る……それは私たち全員の願い。還りたい。私だって本当は還りたい。でも、天威師がいなくなったら人間は地上ごと滅ぼされちゃう。滅ぼされて……神罰牢行きになっちゃうんだよ)
必死で自分を保とうとする日香に同調するように、月香がポツリと口を開いた。
「ですが、私たちが還っては人間が……」
「朱の子よ。あなたの両親は人間でしたね。ですが心配は要りません。皇家と帝家の庶子に関しては、神々の怒りから逃れられる。先祖返りを起こしておらずとも、皇帝家の血筋の者ですからね」
金日神の返答は、返答になっていない。人類全体への懸念に対し、一部の特別な人間のことにしか触れていないのだから。
「そう、ですか……」
だが、月香はそれで納得したように黙った。白珠と志帆を含めた皇家の面々も異論を零さない。薄情なわけではなく、当然の反応だ。元々、至高神は同胞以外には情を抱かない。普段は人類を護ると自分に言い聞かせていても、いざという時の瀬戸際では本性が出る。
唯一、秀峰だけが苦し気に眉をひそめて首を横に振った。
「私は……私は、人を見捨てたくありません。あそこだけは、神罰牢だけは……」
(義兄様)
日香は内心で息を呑む。秀峰は既に、人に対して絶望している。いかほどの努力と誠意と実績を重ねてもなお、庶子であった自分を認めることがなかった人間たちが、天威に覚醒した瞬間にあっさりと掌を返したのを目の当たりにした時に。
『この世は所詮、力が全てだったのだ』
天威師となった自分を崇める人々を前に、秀峰は死んだ目で笑っていた。失望ではなく絶望の眼差しで。
『皇帝家の庶子として王族になる自分は、霊威が弱い人間であっても胸を張って暮らせる世界を作りたい』
その信念を支えに周囲の誹謗中傷に耐え、想像を絶するほどの研鑽と辛苦を積み上げて来た秀峰。しかし、いざ天威を宿した眼で人々を映した彼は、自分の夢は決して叶えることも果たすこともできないと悟った。
太祖が降臨する遥か以前から、この世界に根付き続けている霊威至上主義の思想は、余りにも厚く大きすぎた。
――だがそれでも、己が最も大切にしてきた信念が紙くずのように粉砕されてもなお、人間と地上を愛し護ろうとしている。
宙空に留まったままの緋と翠の輝きが、じっと成り行きを見守っている。
「まぁ」
金日神がきょとりと目を瞬かせ、ほほほと笑った。
「神格を抑制した状態でありながら、至高神の言葉に抗えるとは。黇の子は本当に人間が好きなのですね。覚醒が遅かった分、人間への情を育てる時間がたくさんあったものね」
そして、優しい眼差しで続けた。
「お願いしても聞いてもらえないのであれば、仕方がありません。帰還を命令しましょう。そうすれば聞いてくれるわね」
秀峰がさっと表情を硬くした。事態を見ていることしかできない日香も焦りを募らせる。
(まずい、命令されたら全部終わる)
神性を解放している祖神からはっきりと命じられれば、天威師に拒否権はない。強制的に還らされる。金日神を止めたくとも、真価を抑えている天威師が至高神を力ずくで制止できるはずがない。祖神がもう限界に来ているというルーディと黒曜の言葉が蘇った。
(祖神は本気なんだ。何が何でも私たちを連れ帰るおつもりでいる)
日香の口が意図せずに開く。金日神が命令を発しようとしているのだ。
(だ……駄目! 始祖様、駄目っ!! やめて下さい!)
日香は声なき声で訴えた。体の制御権を取り戻そうと、魂で抵抗する。
「金日神として天威師に命じます。今すぐに還り……紅の子よ、どうしたのですか?」
決定打となる言葉を途中で止めた金日神が、眉を下げて呟く。ぼんやりとしていた高嶺がはっと瞳の焦点を合わせ、こちらを見た。
「日香……?」
「ああ、そんなに暴れてはいけません。無理をすれば魂が傷付いてしまいますよ」
心配するように告げた金日神の言葉に、天威師たちが我に返ったように瞬きし、顔色を変えた。
「……っ、嫌!」
日香は叫んだ。自分の意思で動かせなかった唇が開き、声が弾ける。日香を気遣った金日神が、体の支配を緩めたのだ。
「人間が滅びてしまうのは嫌です! 皆、一生懸命に生きているんです! 始まりの神器だってちゃんと直しました。私は人間が好きです。大好きなんです」
嗚咽と共に、両の目から温かな滴が溢れ出る。金日神のものではない。日香自身が流している涙だ。それを見た高嶺が息を呑む。
「神罰牢になんか堕ちてほしくないの……。そんなの嫌。金日神様、お願いします。もう少し、もう少しだけ猶予を下さい…!」
死の物狂いの哀訴に、場が静まり返る。ややあって、再び日香の口と喉が勝手に動き、穏やかな言葉を紡ぎ出した。
「紅の子よ、そんなに泣かないで。辛いのはこの一時だけですよ。天威師の皮を脱いで本性に戻れば、人への情など消え失せてしまいますからね。これ以上苦しめないためにも、早く命令してしまうことにしましょう」
(そんな、金日神様……!)
ひとりでに口が動こうとする。金日神が還れと命令しようとしているのだ。
(嫌、嫌、嫌)
日香は必死で舌を動かした。まだ体の制御は緩んだままだ。
「高、嶺、さま」
成り行きを見守っている高嶺と、視線が絡み合う。
「高嶺、様……たすけ、て……」
漆黒の双眸が見開かれた。普段は感情を露わにすることがない瞳が、大きく揺れる。微かに動いた唇が、「日香」と紡いだのが見えた。
「――――」
そして高嶺は唇を噛み、決死の覚悟を乗せた顔で姿勢を正し、言葉を放った。
「勧請申し上げます。我が始まりたる黒き始祖、何卒この身においでませ」
全てが一瞬のことだった。
今まさにティルに宿ろうとしていた翠光が止まる。地上近くまで到達していた緋光も急停止し、絶句する天威師たちの頭上で滞空した。
「日香!」
血相を変えた高嶺が叫ぶ。色白の面から血の気が失せ、蒼白になっていた。
(高嶺様)
私なら大丈夫です――そう返そうとした日香だが、声が出ないことに気付いた。
(あれ? あれ?)
声だけではない。手も足も、体の全てが動かせない。
(うそ……動けない!?)
虹色を帯びた黄金の燐光を放つ日香の体は、今や日香のものではなくなっていた。口が勝手に動き、言葉を紡ぎ出す。
「ごきげんよう、私の愛しき裔たち。こうして見えることができ、嬉しく思いますよ」
唇がつり上がり、満面の笑みの形に持ち上がる。ゆったりと身を起こし、衣を払って微笑む日香――の体に宿った存在――を見つめ、驚愕の眼差しを浮かべる白珠が呟いた。
「始祖……金日神様」
金日神――その称の通り、金色に輝く神威を持つ日神。最も初めに顕現した原初の至高神の内の一柱である。
白珠の声を合図に、天威師たちが跪いた。至高神は全員が同格であるが、神格を抑えている天威師の場合は、神性を晒している祖神に対して膝を付かなければならない。
「楽になさい」
衣の袖でゆったりと口元を覆い、日香の体に宿った金日神が優麗に微笑む。
「ああ、本当に……会えて嬉しいこと」
(始祖様、泣いていらっしゃる……)
自身の双眸から勝手に溢れ、頬を伝って流れ落ちる透明な煌めき。始祖神の限りない愛と優しさの波動を直に浴びている日香は、湯あたりしたように霞む思考で呟いた。
(ずっと私たちに会いたくて………抱きしめたいと思っておられたんだ)
「金日神様……」
白珠が茫洋とした目で呟く。他の面々も同様であった。始祖から発せられる同胞への絶対的な慈愛に、魂が当てられているのだ。
「もはや地上にいる必要はありません。我らの懐に還って来て頂戴な。祖神は皆、それを待ちわびているのですよ。天威師は既に、十二分にその使命を果たし終えています」
抗うことができない御稜威を秘めた声が、天威師たちを搦め捕る。
(祖神様の元に還る……それは私たち全員の願い。還りたい。私だって本当は還りたい。でも、天威師がいなくなったら人間は地上ごと滅ぼされちゃう。滅ぼされて……神罰牢行きになっちゃうんだよ)
必死で自分を保とうとする日香に同調するように、月香がポツリと口を開いた。
「ですが、私たちが還っては人間が……」
「朱の子よ。あなたの両親は人間でしたね。ですが心配は要りません。皇家と帝家の庶子に関しては、神々の怒りから逃れられる。先祖返りを起こしておらずとも、皇帝家の血筋の者ですからね」
金日神の返答は、返答になっていない。人類全体への懸念に対し、一部の特別な人間のことにしか触れていないのだから。
「そう、ですか……」
だが、月香はそれで納得したように黙った。白珠と志帆を含めた皇家の面々も異論を零さない。薄情なわけではなく、当然の反応だ。元々、至高神は同胞以外には情を抱かない。普段は人類を護ると自分に言い聞かせていても、いざという時の瀬戸際では本性が出る。
唯一、秀峰だけが苦し気に眉をひそめて首を横に振った。
「私は……私は、人を見捨てたくありません。あそこだけは、神罰牢だけは……」
(義兄様)
日香は内心で息を呑む。秀峰は既に、人に対して絶望している。いかほどの努力と誠意と実績を重ねてもなお、庶子であった自分を認めることがなかった人間たちが、天威に覚醒した瞬間にあっさりと掌を返したのを目の当たりにした時に。
『この世は所詮、力が全てだったのだ』
天威師となった自分を崇める人々を前に、秀峰は死んだ目で笑っていた。失望ではなく絶望の眼差しで。
『皇帝家の庶子として王族になる自分は、霊威が弱い人間であっても胸を張って暮らせる世界を作りたい』
その信念を支えに周囲の誹謗中傷に耐え、想像を絶するほどの研鑽と辛苦を積み上げて来た秀峰。しかし、いざ天威を宿した眼で人々を映した彼は、自分の夢は決して叶えることも果たすこともできないと悟った。
太祖が降臨する遥か以前から、この世界に根付き続けている霊威至上主義の思想は、余りにも厚く大きすぎた。
――だがそれでも、己が最も大切にしてきた信念が紙くずのように粉砕されてもなお、人間と地上を愛し護ろうとしている。
宙空に留まったままの緋と翠の輝きが、じっと成り行きを見守っている。
「まぁ」
金日神がきょとりと目を瞬かせ、ほほほと笑った。
「神格を抑制した状態でありながら、至高神の言葉に抗えるとは。黇の子は本当に人間が好きなのですね。覚醒が遅かった分、人間への情を育てる時間がたくさんあったものね」
そして、優しい眼差しで続けた。
「お願いしても聞いてもらえないのであれば、仕方がありません。帰還を命令しましょう。そうすれば聞いてくれるわね」
秀峰がさっと表情を硬くした。事態を見ていることしかできない日香も焦りを募らせる。
(まずい、命令されたら全部終わる)
神性を解放している祖神からはっきりと命じられれば、天威師に拒否権はない。強制的に還らされる。金日神を止めたくとも、真価を抑えている天威師が至高神を力ずくで制止できるはずがない。祖神がもう限界に来ているというルーディと黒曜の言葉が蘇った。
(祖神は本気なんだ。何が何でも私たちを連れ帰るおつもりでいる)
日香の口が意図せずに開く。金日神が命令を発しようとしているのだ。
(だ……駄目! 始祖様、駄目っ!! やめて下さい!)
日香は声なき声で訴えた。体の制御権を取り戻そうと、魂で抵抗する。
「金日神として天威師に命じます。今すぐに還り……紅の子よ、どうしたのですか?」
決定打となる言葉を途中で止めた金日神が、眉を下げて呟く。ぼんやりとしていた高嶺がはっと瞳の焦点を合わせ、こちらを見た。
「日香……?」
「ああ、そんなに暴れてはいけません。無理をすれば魂が傷付いてしまいますよ」
心配するように告げた金日神の言葉に、天威師たちが我に返ったように瞬きし、顔色を変えた。
「……っ、嫌!」
日香は叫んだ。自分の意思で動かせなかった唇が開き、声が弾ける。日香を気遣った金日神が、体の支配を緩めたのだ。
「人間が滅びてしまうのは嫌です! 皆、一生懸命に生きているんです! 始まりの神器だってちゃんと直しました。私は人間が好きです。大好きなんです」
嗚咽と共に、両の目から温かな滴が溢れ出る。金日神のものではない。日香自身が流している涙だ。それを見た高嶺が息を呑む。
「神罰牢になんか堕ちてほしくないの……。そんなの嫌。金日神様、お願いします。もう少し、もう少しだけ猶予を下さい…!」
死の物狂いの哀訴に、場が静まり返る。ややあって、再び日香の口と喉が勝手に動き、穏やかな言葉を紡ぎ出した。
「紅の子よ、そんなに泣かないで。辛いのはこの一時だけですよ。天威師の皮を脱いで本性に戻れば、人への情など消え失せてしまいますからね。これ以上苦しめないためにも、早く命令してしまうことにしましょう」
(そんな、金日神様……!)
ひとりでに口が動こうとする。金日神が還れと命令しようとしているのだ。
(嫌、嫌、嫌)
日香は必死で舌を動かした。まだ体の制御は緩んだままだ。
「高、嶺、さま」
成り行きを見守っている高嶺と、視線が絡み合う。
「高嶺、様……たすけ、て……」
漆黒の双眸が見開かれた。普段は感情を露わにすることがない瞳が、大きく揺れる。微かに動いた唇が、「日香」と紡いだのが見えた。
「――――」
そして高嶺は唇を噛み、決死の覚悟を乗せた顔で姿勢を正し、言葉を放った。
「勧請申し上げます。我が始まりたる黒き始祖、何卒この身においでませ」
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