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番外編 -焔神フレイムとフルード編-
優しいだけでは㊵
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◆◆◆
「…………」
「…………」
互いに黙ったまま、磨き抜かれた廊下を静かに歩く。生き別れた兄と対面しているこの場所は、地上と天界の狭間にある。
ライナスが時空神に今回の経緯と事情を説明し、専用の空間を創ってくれるよう頼み込んだのだという。フルードとアリステルがゆっくりと邂逅でき、なおかつ天の神と地上の聖威師がそれを見守れるような空間をと。
愛し子の願いを聞き入れた時空神が創生してくれた場所は、交流用の部屋がある建物の周囲に美しい庭園が広がっていた。
途切れた会話を繋げようともせず視線を近くの花に放る。アリステルも同様に、側にある木の葉を見つめていた。ややあって口を開く。
「少し前、地上の聖威師と話し合った。地上に戻った後、私も神官府の長となる。ただし、主神が悪神なのであまり表には出ず、裏方を中心に受け持つことになる予定だ」
「はい、私も聞きました。あなたと私の二人とも次の大神官に内定したと。次期神官長はロー……アシュトン様だとか」
「ああ。私の復讐を妨げないならば、大神官でも神官長でも就任することは構わない」
「あなたを虐げていた夫婦は……私たちの叔父叔母は、どこかに逃亡したらしいですね。ですが、聖威で見つけ出せば一瞬でしょう。さっさと復讐してしまえばいいのでは?」
「今すぐの報復はしない。時期尚早だ」
アリステルが衣の袖をまくり上げ、右手首に巻いている銀色の腕輪を示した。
「これは邪神様より賜った神器。報復するのに最適なタイミングになると、色が銀から黒に変わって教えてくれるらしい。他の時に報復しても構わないが、時期が違えばあいつらに与えられるダメージは軽くなってしまうとのことだ」
暗い碧眼が虚に庭園を一瞥した。いつの間にか、貼り付けていた笑みが消えている。
「少し年月を要するが、この腕輪が完全な真っ黒になる時が来ると仰っていた。時期さえ見誤らなければ最高の復讐ができると。その時まで待とうと思っている。最適な時期が来れば動く」
「聖威で時期を前倒しすればいいではありませんか。不安ならば鬼神様の神威でやっていただければ良いのでは」
「それも考えたが、やはり本来の時期が自然に到来するのを待った方が、全てにおいて絶好機の中で復讐できるので一番効果が高いそうだ。ならば、僅かでも効果が大きい方を取る」
「なるほど……」
納得したフルードに、アリステルは少し間を置いてから呟いた。
「意外だな。先ほどから私に賛同するようなことばかり言う」
「意外ですか?」
「お前は復讐を否定すると思っていた」
思いがけない言葉に、フルードは目を瞬いた。
「否定? 何故?」
「お前も虐待を受けていたのに、親を恨んでいないのだろう。お前を買い取った貴族のことも。ならば、憎悪による報復は何も解決しないなどと言って、私を止めようとするかと思った」
「叔父夫婦への報復はあなたが選んだことです。他人の判断に口出しする気はありません。当人たち以外は巻き込まないようにしてくれれば良いとは思っていますが」
「当事者以外には極力火の粉が飛ばないようにする。絶対の絶対とまでは言い切れないが、できる限り尽力する」
「それで十分だと思います」
しばし沈黙が流れた。気まずくはない、だが心地良くもない、何とも言えない奇妙な黙。自分たちの距離感をそのまま体現したような間だ。
再び口を開いたのはフルードだった。
「私も――あなたに拒絶されると思っていました」
「拒絶? 何故だ」
「報復を選んだあなたから見れば、私は生温く映るでしょうから」
「他者の選択が気に食わないならば自分の方が黙って距離を置けばいい。わざわざ口に出して言うことはない」
すげなく答えるアリステルに、フルードはつと目を逸らして庭を見た。淡い花々の色彩が少しだけ霞んで見える。
気に入らないと思った相手からは黙って距離を取ればいい。聞くだけならば合理的な意見に思う。
だが――それは、こちらのことを重要視していないということでもあった。さっさと離れることができるのは、相手に愛着を持っていないからだ。やや過剰な言い方をするならば、自分にとってどうでもいい者だからだ。
降り積もる静寂の中、そよ風が流れて草花を揺らす。凪いだ水面に落ちる一滴の雫のように、アリステルの声が沈黙を破った。
「お前は何故、両親と貴族を恨まなかった?」
「私には弟がいなかったからです」
フルードは即答した。このような問いをされるかもしれないと思い、あらかじめ自分の中で答えを出していたことだった。濁った青がこちらを見る。光を通さない暗闇は、透き通った青を受け入れない。
「あなたと違い、私には守るべき存在がいませんでした。自分一人だけの被害だったから、恨まずにいられました」
アリステルは違う。彼にはサーシャがいた。小さな命を守らなければならなかった。自分だけの問題ではなかった。
「趣旨がずれていると思うかもしれません。例え一人っ子であっても自分は両親を恨んでいたと、そう思われるかもしれないですね。しかし私の考えでは、弟妹の有無は重要です。もし私に守りたい小さな存在がいれば、あなたと同じ選択をしていたかもしれませんので」
「……なるほど」
アリステルが深く頷いた。今までよりも大きな仕草に、一段高い声。まるで、複雑難解な数式が解けた科学者のようだ。
「己を虐待する者を憎まないお前の思考が、まったくもって意味不明だった。だが、少しだけ納得できた気がする。それが一つの分岐点だったのかもしれないな」
「もちろんそれだけが理由ではないでしょう。互いの気質や価値基準もありますし。ですが、要因の一部ではあったかと」
「きっとそうだ」
何かが腑に落ちたように首肯し、アリステルが口元を緩めてフルードに笑いかけた。作り物ではない生きた笑みが、真っ直ぐにこちらの心に届く。
まるで暗闇に灯したマッチの火のように、フルードの中に新たな予感が湧き上がった。それは、もはや今更だと最初から切り捨てていた期待だ。
もしかしたら、たくさんたくさん時間をかければ、目の前の相手と分かり合えるのではないか、と。神として悠久の時を生きる自分たちに時間制限はない。ならば、遥か遠い未来で、本当の意味で兄と弟になれるかもしれない。
今一度、アリステルの瞳を見つめる。フルードの瞳が透明に煌めく海面ならば、彼の眼は光の届かない海底。深海の暗がりは、謎と神秘に満ちた聖域だ。
だが、繋がっている。遠く遠く距離が隔たっていても、海面と海底は確かに繋がっている。とても多くの時間がかかったとしても、潜り続けていけばいつかは辿り着ける。
今まで考えもしなかった希望が突如として出現し、鼓動が高鳴る。相手に気付かれないよう、胸中で数瞬迷ったのち、そっと唇を開きかけた。
「……お兄……」
だがその前に、アリステルの方が自然な笑顔のままで口を開いた。
「お前に兄弟はいないが、私には弟がいる。シスという弟が。その差はきっと大きいだろう」
音に出しかけた声が喉で凍り付いた。
だが、理解不能な方程式に対する一つの解答を見付けたアリステルは、その発見と興奮でこちらの様子に気付いていない。得心がいったようにスッキリした顔で、庭の花を見ている。
「……そうですね」
一瞬後、フルードはふんわりと頷いた。この数年で骨の髄まで仕込まれた感情制御を駆使し、違和感の欠片もない微笑を装備する。
「そうだ。この庭園の花をシスの土産に持って帰ってやろう」
そう言い、心の底から慈愛に満ちた表情を浮かべる相手に、にこにこと頷いて賛同した。
「良い考えですね。ここにあるものは持ち帰り可だそうですし、綺麗なものを見れば心が和みます」
「そうだろう。どの花がいいか本人に聞いてみよう」
アリステルが手を掲げると、空中に鏡が出現した。鏡面にはこちらの光景ではなく、全く別の部屋と少年が映っていた。まだ10歳頃の子どもだ。薄い金髪に、瑞々しい若葉のような緑の瞳をしていた。
「シス」
包み込むように温かい声で、アリステルが呼びかける。少年が驚いたように顔を上げた。
『兄さ、ま? どうしたの? 今日はフルードさんとの交流会じゃ』
「それはもうすぐ終わる。それより、会場に綺麗な花があるんだ。いくつか持って帰ろうと思うから、欲しいものを言ってごらん」
鏡を庭に向け、草花が少年――サーシャに見えるようにしながら、優しい声が促す。
『でも……』
「遠慮しなくていいんだよ」
『えっと、じゃあ……あの背の高い黄色い花と、左側にある白くて大きな花と……』
困惑しながらもサーシャが花を選ぶ。アリステルはハサミを出現させると、それを採るためにいそいそと庭を歩いていった。
残されたのはフルードと、近くでプカプカ浮かぶ鏡。
『あ、あの、あなたはもしかして……フルードさんですか?』
鏡越しにフルードを見たサーシャが、恐る恐る言う。アリステルと瓜二つの容貌なのだから、素性を察して当然だろう。
「はい、私がフルードです。お初にお目にかかります。あなたはサーシャ君でしょうか?」
会釈してにこやかに返すと、サーシャが恐縮したように頭を下げた。
『は、はいっ。初めまして! よろしくお願いします!』
「こちらこそよろしくお願いします」
『あの、今日は兄さんと……あっ、また間違えた』
言いかけた言葉を止め、眉を八の字に下げている。
「どうしたのですか?」
『兄さまのことをずっと兄さんと呼んできて、神になった時から呼び方を変えようとしてるのに、何年経っても兄さんと呼んでしまうんです』
しょんぼりと俯く様子が可愛らしい。フルードは首を傾げた。
「兄さん呼びでもいいと思いますが、何か不都合でも?」
『兄さまは高位の神になったし、ボクだって鬼神様の従神にしてもらって神格をいただいたから、偉い人っぽい呼び方にした方がいいのかなって。兄上とか兄さまとか』
「あぁ……」
相槌を打ちながらも、フレイムであれば兄ちゃんだろうが兄貴だろうが兄ぃだろうが気にしないだろうなと思う。
「アリステルが特に指定しないなら、好きな呼び方でいいのでは?」
何気なく返すと、サーシャは何故か息を呑んで若葉色の目をさ迷わせる。
「サーシャ君?」
『いえ……兄さんのこと、兄と呼ばないんですね』
言われて瞬きする。反射的に口をついた呼び方だったが、聞き逃さなかったらしい。
「深い意味はないのです。何しろ今日初めて会ったばかりですから……」
しかし、全てを言い終わる前に、思いつめた表情のサーシャがガバッと頭を下げた。
『あの、ごめんさない! ボク、あなたに謝らなきゃと思ってたんです!』
「……何のことでしょう?」
この子とは今が初対面のはずだ。疑問符を飛ばしながら尋ねると、一切の悪気がない双眸で、ただ思ったことを純粋に口にしているだけという面持ちで、サーシャは言い放った。
『兄さんは本当はあなたの兄だったのに……ボクが取ってしまって、本当に申し訳ありません』
あまりにも唐突に繰り出された、純粋無垢な精神破砕攻撃――サーシャ自身に悪意は微塵もなく、完全なる善意から謝罪している――に、フルードの心が押し潰されかけて悲鳴を上げる。
少し前までの、実兄への期待と希望を欠片も持たない状態であったなら、心乱すことはなかったのに。下手に夢を見てしまったのが災いした。
だが、精神が引きちぎられる寸前、脳裏に紅蓮の焔が踊る。
『俺がお前を守る。死なせたりなんかしねえよ』
『兄ちゃんが絶対守ってやるからな。セイン』
こちらを見る瞳の優しさ。抱きしめてくれる腕の力強さ。庇ってくれる背の大きさ。向けられる笑顔の温かさ。
全てが強固な盾と化してフルードの魂を守る。
フレイムの姿を思い浮かべながら一つ深呼吸をすると、嘘のように心が落ち着いた。
「謝罪してもらう必要などありませんよ。気にしないで下さい」
『でも、ボクはあなたから兄を奪ってしまいました』
「サーシャ君は焔神様に会ったことがあるのですか?」
『え?』
サーシャの気配が困惑を帯びる。何故ここで焔神の名が出て来るのかが分からないのだろう。
『焔神様といえば……確かフルードさんのお師匠さまですよね? ええと、ボクがお会いしたことはありませんが』
「そうですか。ではあなたは私から兄を奪ってなどいませんよ」
フルードは胸に手を当て、仮面ではない本心からの笑みで顔を綻ばせた。
「焔神様と私は兄弟の契りを結んでいます。私の兄は焔神様なので、兄を取ってしまったというのはサーシャ君の思い違いです。どうか気に病まれませんよう」
板を流れる水のように滑らかに告げ、そういえばと呟く。
「そういえば、アリステルも先ほど、私には兄弟がいないと言っていましたね。あなたたちは勘違いなさっているようなので、きちんと訂正しておかなくては」
言いながら、花を摘んだアリステルが戻って来るのを視界の端で確認する。
「シス、取って来た」
『兄さ……ま!』
サーシャが満開の笑顔になる。アリステルの昏い双眸にも温かな血が通っていた。鏡を通じて微笑み合う兄弟。だが、サーシャはすぐに表情を硬くすると、フルードに向かってこっそり念話をして来た。
『本当にごめんさい。こうして愛されていたのは、本当はフルードさんの方だったのに』
先ほども言った通り謝罪は必要ないのだと笑顔で返しながら、フルードは確信した。
もしフレイムが兄になってくれていなければ、自分の魂はここで砕け散っていたと。
「…………」
「…………」
互いに黙ったまま、磨き抜かれた廊下を静かに歩く。生き別れた兄と対面しているこの場所は、地上と天界の狭間にある。
ライナスが時空神に今回の経緯と事情を説明し、専用の空間を創ってくれるよう頼み込んだのだという。フルードとアリステルがゆっくりと邂逅でき、なおかつ天の神と地上の聖威師がそれを見守れるような空間をと。
愛し子の願いを聞き入れた時空神が創生してくれた場所は、交流用の部屋がある建物の周囲に美しい庭園が広がっていた。
途切れた会話を繋げようともせず視線を近くの花に放る。アリステルも同様に、側にある木の葉を見つめていた。ややあって口を開く。
「少し前、地上の聖威師と話し合った。地上に戻った後、私も神官府の長となる。ただし、主神が悪神なのであまり表には出ず、裏方を中心に受け持つことになる予定だ」
「はい、私も聞きました。あなたと私の二人とも次の大神官に内定したと。次期神官長はロー……アシュトン様だとか」
「ああ。私の復讐を妨げないならば、大神官でも神官長でも就任することは構わない」
「あなたを虐げていた夫婦は……私たちの叔父叔母は、どこかに逃亡したらしいですね。ですが、聖威で見つけ出せば一瞬でしょう。さっさと復讐してしまえばいいのでは?」
「今すぐの報復はしない。時期尚早だ」
アリステルが衣の袖をまくり上げ、右手首に巻いている銀色の腕輪を示した。
「これは邪神様より賜った神器。報復するのに最適なタイミングになると、色が銀から黒に変わって教えてくれるらしい。他の時に報復しても構わないが、時期が違えばあいつらに与えられるダメージは軽くなってしまうとのことだ」
暗い碧眼が虚に庭園を一瞥した。いつの間にか、貼り付けていた笑みが消えている。
「少し年月を要するが、この腕輪が完全な真っ黒になる時が来ると仰っていた。時期さえ見誤らなければ最高の復讐ができると。その時まで待とうと思っている。最適な時期が来れば動く」
「聖威で時期を前倒しすればいいではありませんか。不安ならば鬼神様の神威でやっていただければ良いのでは」
「それも考えたが、やはり本来の時期が自然に到来するのを待った方が、全てにおいて絶好機の中で復讐できるので一番効果が高いそうだ。ならば、僅かでも効果が大きい方を取る」
「なるほど……」
納得したフルードに、アリステルは少し間を置いてから呟いた。
「意外だな。先ほどから私に賛同するようなことばかり言う」
「意外ですか?」
「お前は復讐を否定すると思っていた」
思いがけない言葉に、フルードは目を瞬いた。
「否定? 何故?」
「お前も虐待を受けていたのに、親を恨んでいないのだろう。お前を買い取った貴族のことも。ならば、憎悪による報復は何も解決しないなどと言って、私を止めようとするかと思った」
「叔父夫婦への報復はあなたが選んだことです。他人の判断に口出しする気はありません。当人たち以外は巻き込まないようにしてくれれば良いとは思っていますが」
「当事者以外には極力火の粉が飛ばないようにする。絶対の絶対とまでは言い切れないが、できる限り尽力する」
「それで十分だと思います」
しばし沈黙が流れた。気まずくはない、だが心地良くもない、何とも言えない奇妙な黙。自分たちの距離感をそのまま体現したような間だ。
再び口を開いたのはフルードだった。
「私も――あなたに拒絶されると思っていました」
「拒絶? 何故だ」
「報復を選んだあなたから見れば、私は生温く映るでしょうから」
「他者の選択が気に食わないならば自分の方が黙って距離を置けばいい。わざわざ口に出して言うことはない」
すげなく答えるアリステルに、フルードはつと目を逸らして庭を見た。淡い花々の色彩が少しだけ霞んで見える。
気に入らないと思った相手からは黙って距離を取ればいい。聞くだけならば合理的な意見に思う。
だが――それは、こちらのことを重要視していないということでもあった。さっさと離れることができるのは、相手に愛着を持っていないからだ。やや過剰な言い方をするならば、自分にとってどうでもいい者だからだ。
降り積もる静寂の中、そよ風が流れて草花を揺らす。凪いだ水面に落ちる一滴の雫のように、アリステルの声が沈黙を破った。
「お前は何故、両親と貴族を恨まなかった?」
「私には弟がいなかったからです」
フルードは即答した。このような問いをされるかもしれないと思い、あらかじめ自分の中で答えを出していたことだった。濁った青がこちらを見る。光を通さない暗闇は、透き通った青を受け入れない。
「あなたと違い、私には守るべき存在がいませんでした。自分一人だけの被害だったから、恨まずにいられました」
アリステルは違う。彼にはサーシャがいた。小さな命を守らなければならなかった。自分だけの問題ではなかった。
「趣旨がずれていると思うかもしれません。例え一人っ子であっても自分は両親を恨んでいたと、そう思われるかもしれないですね。しかし私の考えでは、弟妹の有無は重要です。もし私に守りたい小さな存在がいれば、あなたと同じ選択をしていたかもしれませんので」
「……なるほど」
アリステルが深く頷いた。今までよりも大きな仕草に、一段高い声。まるで、複雑難解な数式が解けた科学者のようだ。
「己を虐待する者を憎まないお前の思考が、まったくもって意味不明だった。だが、少しだけ納得できた気がする。それが一つの分岐点だったのかもしれないな」
「もちろんそれだけが理由ではないでしょう。互いの気質や価値基準もありますし。ですが、要因の一部ではあったかと」
「きっとそうだ」
何かが腑に落ちたように首肯し、アリステルが口元を緩めてフルードに笑いかけた。作り物ではない生きた笑みが、真っ直ぐにこちらの心に届く。
まるで暗闇に灯したマッチの火のように、フルードの中に新たな予感が湧き上がった。それは、もはや今更だと最初から切り捨てていた期待だ。
もしかしたら、たくさんたくさん時間をかければ、目の前の相手と分かり合えるのではないか、と。神として悠久の時を生きる自分たちに時間制限はない。ならば、遥か遠い未来で、本当の意味で兄と弟になれるかもしれない。
今一度、アリステルの瞳を見つめる。フルードの瞳が透明に煌めく海面ならば、彼の眼は光の届かない海底。深海の暗がりは、謎と神秘に満ちた聖域だ。
だが、繋がっている。遠く遠く距離が隔たっていても、海面と海底は確かに繋がっている。とても多くの時間がかかったとしても、潜り続けていけばいつかは辿り着ける。
今まで考えもしなかった希望が突如として出現し、鼓動が高鳴る。相手に気付かれないよう、胸中で数瞬迷ったのち、そっと唇を開きかけた。
「……お兄……」
だがその前に、アリステルの方が自然な笑顔のままで口を開いた。
「お前に兄弟はいないが、私には弟がいる。シスという弟が。その差はきっと大きいだろう」
音に出しかけた声が喉で凍り付いた。
だが、理解不能な方程式に対する一つの解答を見付けたアリステルは、その発見と興奮でこちらの様子に気付いていない。得心がいったようにスッキリした顔で、庭の花を見ている。
「……そうですね」
一瞬後、フルードはふんわりと頷いた。この数年で骨の髄まで仕込まれた感情制御を駆使し、違和感の欠片もない微笑を装備する。
「そうだ。この庭園の花をシスの土産に持って帰ってやろう」
そう言い、心の底から慈愛に満ちた表情を浮かべる相手に、にこにこと頷いて賛同した。
「良い考えですね。ここにあるものは持ち帰り可だそうですし、綺麗なものを見れば心が和みます」
「そうだろう。どの花がいいか本人に聞いてみよう」
アリステルが手を掲げると、空中に鏡が出現した。鏡面にはこちらの光景ではなく、全く別の部屋と少年が映っていた。まだ10歳頃の子どもだ。薄い金髪に、瑞々しい若葉のような緑の瞳をしていた。
「シス」
包み込むように温かい声で、アリステルが呼びかける。少年が驚いたように顔を上げた。
『兄さ、ま? どうしたの? 今日はフルードさんとの交流会じゃ』
「それはもうすぐ終わる。それより、会場に綺麗な花があるんだ。いくつか持って帰ろうと思うから、欲しいものを言ってごらん」
鏡を庭に向け、草花が少年――サーシャに見えるようにしながら、優しい声が促す。
『でも……』
「遠慮しなくていいんだよ」
『えっと、じゃあ……あの背の高い黄色い花と、左側にある白くて大きな花と……』
困惑しながらもサーシャが花を選ぶ。アリステルはハサミを出現させると、それを採るためにいそいそと庭を歩いていった。
残されたのはフルードと、近くでプカプカ浮かぶ鏡。
『あ、あの、あなたはもしかして……フルードさんですか?』
鏡越しにフルードを見たサーシャが、恐る恐る言う。アリステルと瓜二つの容貌なのだから、素性を察して当然だろう。
「はい、私がフルードです。お初にお目にかかります。あなたはサーシャ君でしょうか?」
会釈してにこやかに返すと、サーシャが恐縮したように頭を下げた。
『は、はいっ。初めまして! よろしくお願いします!』
「こちらこそよろしくお願いします」
『あの、今日は兄さんと……あっ、また間違えた』
言いかけた言葉を止め、眉を八の字に下げている。
「どうしたのですか?」
『兄さまのことをずっと兄さんと呼んできて、神になった時から呼び方を変えようとしてるのに、何年経っても兄さんと呼んでしまうんです』
しょんぼりと俯く様子が可愛らしい。フルードは首を傾げた。
「兄さん呼びでもいいと思いますが、何か不都合でも?」
『兄さまは高位の神になったし、ボクだって鬼神様の従神にしてもらって神格をいただいたから、偉い人っぽい呼び方にした方がいいのかなって。兄上とか兄さまとか』
「あぁ……」
相槌を打ちながらも、フレイムであれば兄ちゃんだろうが兄貴だろうが兄ぃだろうが気にしないだろうなと思う。
「アリステルが特に指定しないなら、好きな呼び方でいいのでは?」
何気なく返すと、サーシャは何故か息を呑んで若葉色の目をさ迷わせる。
「サーシャ君?」
『いえ……兄さんのこと、兄と呼ばないんですね』
言われて瞬きする。反射的に口をついた呼び方だったが、聞き逃さなかったらしい。
「深い意味はないのです。何しろ今日初めて会ったばかりですから……」
しかし、全てを言い終わる前に、思いつめた表情のサーシャがガバッと頭を下げた。
『あの、ごめんさない! ボク、あなたに謝らなきゃと思ってたんです!』
「……何のことでしょう?」
この子とは今が初対面のはずだ。疑問符を飛ばしながら尋ねると、一切の悪気がない双眸で、ただ思ったことを純粋に口にしているだけという面持ちで、サーシャは言い放った。
『兄さんは本当はあなたの兄だったのに……ボクが取ってしまって、本当に申し訳ありません』
あまりにも唐突に繰り出された、純粋無垢な精神破砕攻撃――サーシャ自身に悪意は微塵もなく、完全なる善意から謝罪している――に、フルードの心が押し潰されかけて悲鳴を上げる。
少し前までの、実兄への期待と希望を欠片も持たない状態であったなら、心乱すことはなかったのに。下手に夢を見てしまったのが災いした。
だが、精神が引きちぎられる寸前、脳裏に紅蓮の焔が踊る。
『俺がお前を守る。死なせたりなんかしねえよ』
『兄ちゃんが絶対守ってやるからな。セイン』
こちらを見る瞳の優しさ。抱きしめてくれる腕の力強さ。庇ってくれる背の大きさ。向けられる笑顔の温かさ。
全てが強固な盾と化してフルードの魂を守る。
フレイムの姿を思い浮かべながら一つ深呼吸をすると、嘘のように心が落ち着いた。
「謝罪してもらう必要などありませんよ。気にしないで下さい」
『でも、ボクはあなたから兄を奪ってしまいました』
「サーシャ君は焔神様に会ったことがあるのですか?」
『え?』
サーシャの気配が困惑を帯びる。何故ここで焔神の名が出て来るのかが分からないのだろう。
『焔神様といえば……確かフルードさんのお師匠さまですよね? ええと、ボクがお会いしたことはありませんが』
「そうですか。ではあなたは私から兄を奪ってなどいませんよ」
フルードは胸に手を当て、仮面ではない本心からの笑みで顔を綻ばせた。
「焔神様と私は兄弟の契りを結んでいます。私の兄は焔神様なので、兄を取ってしまったというのはサーシャ君の思い違いです。どうか気に病まれませんよう」
板を流れる水のように滑らかに告げ、そういえばと呟く。
「そういえば、アリステルも先ほど、私には兄弟がいないと言っていましたね。あなたたちは勘違いなさっているようなので、きちんと訂正しておかなくては」
言いながら、花を摘んだアリステルが戻って来るのを視界の端で確認する。
「シス、取って来た」
『兄さ……ま!』
サーシャが満開の笑顔になる。アリステルの昏い双眸にも温かな血が通っていた。鏡を通じて微笑み合う兄弟。だが、サーシャはすぐに表情を硬くすると、フルードに向かってこっそり念話をして来た。
『本当にごめんさい。こうして愛されていたのは、本当はフルードさんの方だったのに』
先ほども言った通り謝罪は必要ないのだと笑顔で返しながら、フルードは確信した。
もしフレイムが兄になってくれていなければ、自分の魂はここで砕け散っていたと。
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絶望のあまり、アンカーは自ら命を断とうとした瞬間、神の声を聞く。
没ネタ供養、第二弾の短編です。
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