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春風小路二番町胡桃堂こぼれ話
旦那と童女 其の一
しおりを挟む「これをね、直してほしくてね」
その客は、座って挨拶も早々に、手にしていた風呂敷を開く。
現れたのは、小間物しか入らないだろう、小さな小さな箪笥。樺細工の小引き出しだった。
ほう、とつい足の口からため息が漏れる。
「これは……いい細工ですね」
「うん、そうなんだよ」
父より少し若いほどの客は、足の様子に苦笑した。
乾物問屋のご主人である。どこから見ても働き盛りの商人。店の奥、座敷へ通され、ゆったり構えるその様子は、まだ足には醸し出せない貫禄を持つ。
「ずいぶん古いものでねえ。あたしの母親が嫁いできたとき引き継いだものだそうなんだ。母ももう亡くなって、今は妻が持っているんだが、さすがに傷みが激しくて……」
長年湿気や乾燥にさらされたのだろう、残念ながら小引き出しは、桜皮がくすんで端がめくれ、確かに修理が必要な状態であった。それでも、茶色の皮に入った筋から、きらきらと控え目な輝きが見える。
引き手の部分は結んだ水引を模し、根元の座金は桜花と流水の飾り細工。少々女らしく可愛い意匠だが、黒い金具のおかげできりりとしまる。
いい品だ。
こんなものをくるみに贈ることができたら、どんなにいいだろう。
樺細工は乾燥も湿気も障る繊細なものだが、暖かく穏やかなきらめきは、金銀の派手なものより愛しの妻に似合うに違いない。
足は身重の妻を思う。
くるみの体調の変化が懐妊だとまだ判らぬ頃、足は心配でどうにかなりそうだった。
くるみはひとならぬものである。具合が悪いなどついぞないことだ。
くるみが寝込んでいるのは、自分がお山から引き剥がしたことが遠因ではないか、なにかくるみの体に障るようなことをしたのではないか、そう思うと恐ろしかった。
ひとの理解の及ばぬところで何か障りがあるのだろうか。おのれに何ができるだろうか。どうすればそれが判るだろうか。
悩んだところで答えは出ない。
そうして、くるみは自分の体ではなく、店や回りの心配ばかりするのである。足はくるみへ言い聞かせた。
『くるみはずうっと頑張っていたし、ここらで休みなさいって、神様が言っているのかも知れないよ? お店はみんながいるから大丈夫。ゆっくり養生して元気になっておくれ。くるみがね、側で笑ってくれていれば、俺は他になんにもいらないよ』
達者なそろばんで、ひとりで何人分もの仕事をしていたくるみが抜けた穴は大きかったが、ふたり暮らしていくために持った店だ。ここが踏ん張りどころだと、祖母様の知り合い(やはり元商人の御隠居だ)へ応援を頼みつつ、みなで懸命に店を回した。
くるみは優しく賢い。足の不安にも店の大変さにも気付くだろう。ゆっくり休んでもらうため寝室を別にし、極力懊悩を表に出さず接することにつとめたが、足もまた、寝込むくるみの影で眠れぬ日々に消耗していった。
『あれこれ考えていないで医者にお診せ』
くるみの見舞いに来た祖母様は、足の話を聞き事もなげに言った。
『ですが、ひとの医者に判るもんでしょうか。それに、くるみがひとではないと知れたら、騒ぎになりませんか』
『馬鹿だね。判るかどうかわからないから診せるんだよ。閑庵先生はいらないことは言わないおひとだ。くるみがひとでないと知っても、胸に仕舞っておいてくださるさ』
とうとうくるみの喉にものが通らなくなった日、足は覚悟を決めて医者を呼んだ。
おめでただと聞いてどれほど安堵したか、どれほど嬉しかったか―――。
あれは卒倒するなという方が無理であった。気がついても嬉しすぎて嬉しすぎて、おうおう泣きながらくるみに取りすがってしまった足である。
まだ幸福にふわふわとして、父になるという自覚も正直薄いが、親になるのだからしっかりしなくてはなるまい。
この小引き出しのように、受け継がれるにふさわしい逸品を、くるみに贈ることができたら。そして、くるみのお腹の中の子が女ならばその子に、男ならばその妻に、後々引き継いでもらえたら。おのれの末への贈りものにもなる―――。
「ここいらじゃ、樺細工の職人にはお目にかかれない。手をこまねいてるうちに、こんなになってしまってねえ」
じっと小引き出しへ目を注ぐ足の様子を、傷みを調べているとみたか、乾物問屋の主人は言い訳のように口にした。
「胡桃堂さんの仕事は、丁寧だと聞いているよ。大店のように大きな工房を使っているわけでもないのに、質が落ちない。方々から腕のいい職人たちを探して頼んでいるそうじゃないか」
「いやあ、ありがたいことです」
胡桃堂が店で抱える職人は三人だけ。
彼らは店でどんな品を作って売るか考えて見本を作り、修理するものが持ち込まれたときはどんな職人に頼むかを決めるのが仕事だ。
決まった後は木地師、櫛挽、塗師、錺師など、それぞれの職人へ頼む。大店ならひいきの工房があるものだが、胡桃堂は個人で請け負う職人に声をかける。
腕のいい工房には、どうしても方々から注文が殺到するため、店が小さな胡桃堂はどうしても後回しになるのだ。
苦肉の策としてはじめたやり方だが、手間はかかるものの、これでなかなか、工房を離れた者にもいい仕事をする職人がいるのである。
「そう急ぐ仕事じゃない。これまで直せずにいたんだ、あたしが生きているうちにできあがればそれでいい。いい仕事をしてくれるひとを、見繕って直してもらっておくんなさい」
気の長い、けれど覚悟がなくては引き受けられない話をして、客は穏やかに微笑む。
これは難しい仕事になるだろう。しかし、胡桃堂の仕事ぶりを見込んで持ち込んでくださったお客だ。とても、断る気にはなれない。
「承知しました、お引き受けいたしましょう」
そう言ってしまってから、『旦那様、できないことを引き受けるんじゃありません』という、番頭の叱責の声が耳に聞こえた気がした。
◇
初夏の日差しは強く目に痛いぐらいだが、川端は遮るものがなく風が強い。
昼も過ぎたぬけるような空の下、足は湊町に戻るべく、お供のひろ吉と渡し場に戻っていた。ここを渡って駕籠を頼めば、そう時を置かず湊町に帰ることができる。
「これなら夕刻には戻れるだろうねえ」
被っていた菅笠を手で押さえ、空を見上げて足が言う。
手広く商う家の若旦那、年上の幼なじみが、樺細工職人がいるという話を聞きつけ教えてくれたのだ。苦言もきちんと口にしてくれるこの幼なじみを、足は藤兄と呼んで慕っている。
樺細工の職人が越してきたという集落は、湊町の川向こう、在郷にあった。
妻を亡くしひとりになったため、遠く離れた娘を頼り移ってきたらしい。娘は、治水の知識を買われて呼び寄せられた夫とともに、この地域へ移住してしばらく経つのだそうだ。
お客の大事な品物を預けるのだから、自分が職人へ会いに行って修理を頼みたい。しかし身重のくるみから長く離れたくない。
そんな、足の無理な望みを叶えようと籠や馬を手配した、若い手代が穏やかに頷いた。
「ええ、天気がよくてようございました。思ったより早く戻れそうですね」
「お前さんのお陰だよ、ありがとう」
「いえ。朝方の急な訪問で、あちらは驚かれていましたが。話を聞いていただけて、よろしゅうございました」
朝方の客に難色を示した職人だが、店の主が直々に来たというので、渋々ながら家へ上げてもらえたのである。
「でも怒られたよ」
「怒られましたねえ。確かに、初対面で大金渡す店はそうないですからねえ」
「お前さんも止めなかったじゃないか」
「旦那様は旦那様のやり方でいいんです」
胡桃堂からの仕事を受けてもらえると決まり、修理のための道具を揃える必要があるだろうと支度金を出したら、怒られたのである。
『腕が立つかも判らねえ職人に、大金渡す馬鹿があるか!』
全くもってその通りだった。
なら、まずは腕を見せてもらおう、と、産地から材料を取り寄せるだけの金だけを預けてきた。何を作るかもお任せにしてある。
楽しみだ。
いい品ならば、売り物にせず自分で買い取って、くるみへ贈りたい。
今回の老いた樺細工職人もまた、足の好きな職人の質をしていた。
こういうひとは腕が立つものの、工房に疎まれてひとりで仕事をしていることが多い。胡桃堂が頼りにしている、たくさんの職人たちのように。
きっと、小引き出しの修理を頼みたくなるような、いいものができるに違いない。
わくわくしながら、湊町に戻るべく、渡しの小舟に乗り込む。
「ごめんなさいよ、お嬢ちゃん、横に座らせておくれなさい」
揺れる小舟の上でそろそろと奥へ動きながら、足は先に乗り込んでいた子どもに声をかけた。こういう渡し船は、客が満員になってから動くのが常である。
早々と乗り込んで待っているのか、子どもは膝を抱えて大人しい。荷物を抱え座った足は、その子どもの顔色が悪いことが気にかかった。
「どうしたんだい、川風が寒いかい。待ってるうちに酔ったかい」
ううん、と弱々しく首を横に振る子どもの着物は、痛んで薄く寒々しい。髪も脂ぎって、垢じみた様子の子どもだ。
「お腹が空いているんじゃないのかい。飴しかないけど、よかったらお食べ」
「やめてくれ!」
鋭い声に顔をあげると、子どもの後ろに座る男がこちらを見ていた。痩せこけた顔で、燃えるような目をして足をにらんでいる。
「そいつは売られていくんだ、変に情けなんかかけないでくれ!」
膝を抱える子どもの腕に、ぎゅっと強い力がこもるのを、足は見た。
折れそうな腕だった。
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