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プロローグ

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 絶体絶命――

 死に瀕する少年の脳裏に浮かんだ言葉だった。

 剣による裂傷と、炎で負った火傷。満身創痍の体を大の字に、息も絶え絶えな少年は、これまで平凡であった自分の人生に、この言葉が飾られる日が来るなどとは、夢にも思わなかった。
 轟く怒号と断末魔。爆音と熱風。激しく金属同士が打ち合う音。そして漂う、物の、人の焼け焦げる異臭。いまだ繰り広げられている戦闘と言う名の阿鼻叫喚の地獄絵図。そのただ中に少年はいた。

 少年は思った。無謀な挑みであったと。それは蟻が巨象に立ち向かう様なものであった。
 この世界において『魔剣士』と称される男と、ただ凡庸に生きてきただけの『高校生』――話にもならない。戦う前から解りきっていた結末だった。
 それでも――それでも少年はこの男に立ち向かわずにはいられなかった。

 (彼女……逃げきれたかな……)

 徐々に薄れゆく意識の中で、少年は一人の少女の身を按ずる。彼女が無事に逃げ果せたのであれば、自分の無謀にも確かに意味はあったのだ。自分の馬鹿も多少は誇りに思える。

 少年が少女と出逢ったのはほんの五日前であった。印象深い出逢いではあったが別にロマンチックな物ではない。少年を奮い立たせた理由。それは『彼女に恋をした』だとか『彼女への忠誠心が芽生えた』だとかそんな事では無かったと思う。恩はあったが、それも少し違うだろう。あえてその理由を探すならば、自分が持ちえぬあの瞳の輝きに憧れ、そして惹かれたのかもしれない。そしてそんな少女を、少年は見捨てる事が出来なかった。

 『彼女に生きて欲しい』

 その気持ちが少年を決意へと突き動かした。

 痛む右腕に左の手を伸ばした。だが、そこに有るはずの腕は無く、触れたのは流れ出る生温かな液体だけであった。

 (そう言えば……斬られたんだっけ……)

 どうせこれから死ぬのだ。自分にこれから訪れる絶対的な死。既にそれを受け入れていた少年に、失った腕への絶望は無かった。

 ガチャリ――と金属の擦れ合う音。その音がゆっくりと少年へと近づいて来た。

 (この……野郎……)

 漆黒の鎧を身の纏った魔剣士。この男こそ少年を瀕死へと追いやった。そして今日この場に、酸鼻極まる地獄を描いた元凶たる男。少年は最後の力を振り絞り、己の目にあらん限りの呪詛を込めて男を下から睨みつけた。

 「ぐがッ!!」

 少年は呻いた。男がその足で少年の顔面を踏みつけたのだ。獲物を取り逃がした。そして非力な餓鬼に一杯食わされたと言う苛立ち。忌々し気に何度も何度も足蹴にし、少年の顔を踏みにじった。

 (殺してやりたい―――この男を)

 少年は顔を踏みにじられながらも、男に憎しみの眼を向け続ける事はやめない。これほどの曇りのない殺意を抱いた事など、平和を生きてきたこれまでの少年の人生には当然無い事だった。

 (こいつだけは許せない……こいつだけは――)

 歯が折れ。鼻が砕け。血に塗れ。少年の顔の形が変ったのを見て多少は留飲を下げたのか、男は少年の顔から足をどけた。そして男は――少年にとっての死神は、腰に備えた剣を鞘から抜き放つ。
 いよいよかと、少年は覚悟を決めた。最後のその時まで睨み続けてやろうとかとも思ったが、体がそれを許してはくれなかった。踏みつけられたせいで腫れた瞼が開ず、何より、もう体に全く力が入らない。眠って死のう。眠ってそのまま死の眠りにつこう。これから下りる凄惨なる人生の幕。その時を前に少年の意識は夢の中へと落ちようとしていた。

 死神は手にした剣の、その刃に炎を纏わせると、それをゆっくりと振り上げた。

 (ああ……)

 この世界に来てから何度思ったであろうかその言葉。
 少年――相楽誠司は、迫る死を前にして今一度、心の中で唱えてみた。

 (これが夢なら……覚めてくれ……)
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