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第一章 たそがれ時の追いかけっこ

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 晩秋の風が、夕暮れの街を吹き抜ける。
 冷え冷えとしたその風を体に受けて、相楽誠司は家路を行く足を止め、手にしたレジ袋の中を覗き込んで考える。「温かい物も欲しいかな」そう思ったが、やはり倹約に努めようと考え直す。
 誠司が手に提げているレジ袋の中には、先程スーパーで購入した弁当が入っていた。今宵の夕食である。
 両親が共働きで、揃っての食事の時間を中々持つ事が出来ない彼の家庭環境。そんな誠司の夕食が出来合い物で済まされる日は特別珍しくも無い。両親としてもそんな息子に気を使い、美味しい物を食べて欲しいと、決して少なくない金額を夕食代に渡しているのだが、誠司としてはお腹が満たされさえすればその辺り特に拘りはなかった。何より安く済めば、小遣いの足しにもなる。腹も膨れて懐も温まれば両得。と、そう言う考えなのである。今日の弁当も、割引かれていた物を狙って購入していた。

 「うん……?」

 誠司は誰かが自分を呼んだような、そんな気がした。辺りを見回すが見知った顔は無い。自分に声を掛けたと思しき人物も見当たらない。
 街の喧騒。あるいは秋風に揺れる木々の葉のそよぎ。そんな周囲に流れる様々な音のいずれかを聞き違えたのだろう。と思っていると――

 〈みーつけた……〉

 「えっ?」

 今度は確かに聞こえた。それは鈴を転がすような声――女性の声だった。誠司はもう一度注意深くあたりを見回した。しかし声の主はやはりわからない。街を行き交う人の中に、自分に向けられている視線は感じられないのだ。
 ただの勘違い。いや、そもそもこの声は自分へ向けて発せられた物ではないのではないか。もう気にしないでおこう。そう結論し、再び家路を急ごうと、踏み出そうとしたその時、急に何かに腕を引っ張られた。

 「なっ、なんだ!?」

 見ると犬がレジ袋に噛み付き、引っ張っていたのだ。

 「お、おいこら!!」

 そう大きくもない犬であったが、思いのほか引っ張る力は強い。誠司も負けじと持つ手により力を籠めた。瞬間。引っ張られている力が消えた。犬が噛みついていたレジ袋を離したのだ。急な綱引きの終わりに誠司はたたらを踏む。と、よろめくその隙をついて犬が再びレジ袋に噛みつき、そして誠司の手から見事にそれを奪い取ってみせた。

 「あ!? お、俺の晩飯!!」

 獲物を手に入れて駆け出す犬。倒れる寸での所で辛うじて踏ん張り、そして体勢を整えると誠司はその後を追った。

 「待ちやがれワン公!!」

 それは銀色の柔らかそうな毛並みの犬だった。尻尾は長く、特に目を引いたのは、細長くとがったように見える耳だった。銀色の毛並みが夕日に照らされて、秋の風を受けて颯爽と走るその姿は、こう言った状況でなければ素直に美しいと思えたかもしれない。
 誠司は犬に詳しい訳ではないが、それでも知る限りを思い浮かべてみても、記憶の中に該当する犬種は思いつかなかった。

 〈ふふっ……ついて……来れるかな〉

 そして誠司の耳に、また声が聞こえた――気がした。

 「犬!? 犬が喋った!?」

 いやいや、そんな訳はないと誠司はかぶりを振る。

 「いくらなんでもそれはないだろ。今のは流石に幻聴だ」

 幻聴が聞こえると言うのも、それはそれでおかしな話ではあるが、それでも犬が喋るなどと言う荒唐無稽な事に比べれば遥かにマシだろう。と誠司は思った。

 三百メートル程走った所で、犬は右手に並び建つビルとビルとの間の道へと入っていった。誠司も後に続く。そこを駆け抜けると飲み屋街と思しき場所に出た。空の色は夕暮れから夕闇へと移り変わろうとしていた。そろそろ賑い始める時間なのだろう、店の明かりを求めてか、人の通りも多い。それら行き交う人の間を上手くすり抜けて、犬は見事に道を駆け抜けていく。
 誠司はいい加減諦めようかと思った。たかが弁当一つにここまで必死になる必要があるのかと。しかしそんな思いとは裏腹に、その足は犬の追跡をやめようとはしていない。なぜだろうか。それは誠司の意思。それとは別の何かが、誠司を何処かへと導いているようでもあった。

 飲み屋街を通り過ぎて道を更に奥へ。細い路地へと入っていく。最初いた表通りからはどんどんと遠ざかっていた。
 その路地は一本道で、三度角を曲がるとそこで終点だった。袋小路だったのである。人気のない薄暗がりの、その行き止まりの壁の前で、地面に置かれたレジ袋を前に犬はおとなしく座っていた。

 「へへっ、ここまでだな」

 弾む息を整えながら、誠司は犬へと近付く。まずはレジ袋を拾い上げた。これだけ走ったのだ、中の弁当は間違いなくその形を留めていないだろう。次いで、吠える事もなく、大人しく座り続けている犬を両手で抱えあげた。

 「おら、捕まえたぞ」

 誠司は改めて観察したが、やはり美しい犬だった。そんな見た目にそぐわない、やんちゃな犬と言うイメージであったが、観念したのか嫌がるでもなく、誠司に抱えられても全く抵抗はしなかった。

 「さて、どうしてくれようか」

 芝居がかって言ってはみたが、誠司は別にどうこうするつもりはなかった。すっかり陽も落ち、走って掻いた汗のせいで夜風が一層冷たく感じる。風呂にも入りたいし、腹も空いている。とにかく誠司は疲れていた。家に早く帰りたかった。

 <人目も無いし……ここでいいかな……>

 「えっ?」

 その声に。そしてそれを発した声の主――その貌を見て、誠司の表情は凍りついた。

  <ふふっ……>

 犬が嗤っていた。聞き間違いでも、見間違いでもない。勿論幻聴でもない。誠司の手の中にいるその犬は言葉を話し、口の端を吊り上げて確かに嗤っていた。

 「こ、こいつ……だったのか……?」

 やはり、先程から自分に語り掛けていた声の主。それはこの犬だったのか。信じがたい目の前で起こる異様に、誠司の心は戦慄した。

 <……ついてきてくれて……ありがとう……でもね……>

 透き通るような優しい声で囁きかけてくる。だがそのゆったりと紡ぎ出される言葉の一つ一つが、真綿で首を絞めように、じわじわと誠司の心を恐怖で満たしてゆく。

 <……ここからが……本当の追いかけっこなの……>

 何か、何か異常な事に自分は巻き込まれているのだ。誠司は確信した。
 誠司は思った。自分が手に抱える恐怖。これをどこかへと投げ棄ててやりたかった。
 逃げなければ。この手にある物を投げ棄てて、この場から早く逃げ出さなければ。危機を訴えるアラートが頭の中でけたたましく鳴り響く。だがしかし、何か暗示にかかった様に、手も足も動いてはくれない。

 〈よく……見ていてね……〉

 (み、見るな……見ちゃだめだ……)

 そう。見たらたらきっと取り返しのつかない事が起こる。そう告げる誠司の勘。だがその声の持つ異様な力に飲まれて、誠司は抗う事が出来ない。

 〈ふふっ……大丈夫だよ……君なら……きっと……ね〉

 (な、何が大丈夫なんだ……ぜ、全然大丈夫じゃない……)

 誠司は誰かに助けを求めたかった。だが、全く声を出す事ができない。

 〈さぁ……いくよ……〉

 (――っっ!?)

 これから起こる何か。それに身構え、誠司は体を強張らせた――





 「や、やめろ――!!」

 絞り出された抵抗の叫び。ようやく誠司は声を出す事が出来た。

 「って……え、えっ!? な、何も……起きてない……?」

 そして何事も起こってはいないのかと、疑いと安堵の思いが心の中で交錯する。

 「あ、あれ……?」

 しかし誠司は気が付いた。その手にあったはずの重さが消えていた事に。

 「えっ……き、消え……た?」

 そう。誠司の手抱えられていた、あの犬の姿が消えていたのだ。夕闇の中、冷えた空気を抱える自分の両方の掌を見つめながら、誠司は呆然と立ち尽くす。

 「何だ……これ……夢……?」

 夢と言う結論以外で、自分が目にしたこの異様を納得させられる言葉があるのだろうか。それとも……と誠司は思う。逢魔が時――自分は本当に魔物とでも出逢ったのであろうかと。
 あれこれ纏まらぬ考えを抱いたままではあったが、とにかく誠司はこの場を不吉と感じ、今すぐにでも立ち去りたかった。

 そして立ち去ろうとしたその時。地面が大きく波打ち、そして揺れた――

 「うわっ!? じ、地震!?」

 その大きな揺れを地震と、最初誠司はそう思った。だが違った。違っていた。それは誠司が思ったような揺れではなかった。正しくは、それは歪んでいたのだ。誠司の視界に映る物全てが、歪んで見えていたのだ。

 「な、なんだこれ……」

 その信じがたい光景。誠司がその事実に気付いた瞬間。激しい眩暈が誠司を襲った。

 「う……っ……あ……あ……ッ……」

 猛烈な吐き気。激しく鼓動を打つ心臓。噴き出す大量の汗。体の自由が利かず、膝が抜け、誠司の体が崩れ落ちる。

 (か、体が……これ、ど、どうなって……)

 苦悶の中、定まらぬ視点で誠司が見つめる世界。それは更に形を歪め、そして暗転する。

 そこで誠司は意識を失った。
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