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「約束だ、殴らせろ」
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慶の会社に着いた。
事務の人に、門を入って左奥へ進んでと言われた。
一番奥にある通用口から中へ入って、すぐ右の来客室に居るとの事だった。
言われた通りに建物へ入って行く。
説明通り、入って直ぐ右側に来客室とプレートの入った部屋があった。
この中に、慶が居る。
……そして、アイツも…。
迷い無く、そのドアをノックすると……直ぐに中からドアが開いて、さっきの電話の人物だろう女性が顔を出した。
「…どうぞ」
そう言って、俺らが入れる様にドアを開けた。
一歩…中へ入ると……部屋の隅で椅子の上に、家でよくやってる様に三角座りをしてる慶が居た。
慶は俺を見るなり立ち上がろうとしたけど……その体は大きくフラついて、また元の椅子へと力なく落ちた。
俺は、直ぐに慶の所へ駆け寄り、その体に手を伸ばす。
「慶…、」
そう言って、微笑んで見せた。
少しでも…慶の不安と恐怖が和らげば良い。
「……ゆ、…」
侑利くん、と言おうとしたんだろう…。
一気に流れ落ちた涙で…次の言葉は出て来なかった。
止まる事は無いけど、その涙を指先で少し拭ってやる。
「帰ろうな」
俺がそう言うと、慶は「うん」と頷いた。
……そして、もう1人………
反対側の隅に置かれた椅子に、ダラリと首を項垂れてソイツは座って居た…。
振り返ってその姿を見たら……
やっぱり………怒りの感情しか沸いて来なかった。
慶も、天馬も、事務の女性も、俺の動きをじっと見てる。
俺は、俯いてる工藤の前に立ち…その姿を見下ろす。
「約束だ、殴らせろ」
下がった頭に向かって言うと、ゆっくりと工藤は顔を上げた。
その顔が、上がり切るかどうかの辺りで俺は工藤の胸ぐらを掴み、一気に引っ張って立たせた。
そして、気が抜けたような表情の工藤を、思い切り殴った。
鈍い音と同時に、事務の女性が小さな声を上げる。
床に叩き付ける様に殴った勢いで、工藤の体が俺から落ちた。
ただ……
こんな1発で俺の感情が収まる訳も無く、何も言わず床に転がってる工藤に怒りが込み上げて来て仕方なくて……俺は、そのデカい図体を引っ掴んで仰向けにし、その上に馬乗りになった。
抵抗する気配は無かったけど……ダメだ、止まれない……俺の怒りが沸点に達してる。
やっぱり、気が済まねぇ。
馬乗りのまま、もう一度胸ぐらを掴んで上体を引き上げ、再び殴ろうと拳を握った俺の腕を……後ろから天馬が止めた。
ハッとして、天馬を振り返る。
「…これ以上はダメだ」
分かってる……
俺が……止めてくれって言ったんだ…。
目線を慶に移すと……ボロボロと涙を流しながら、俺に向かって首を振ってる。
きっと、もう殴るなって言ってんだろうな…。
少し沈黙。
そして…拳を握った手をゆっくりと緩めると……天馬も、腕を掴む力を弱くした。
もう俺が…工藤を殴る事はないって分かってるからだ…。
服を掴んで引き上げてた工藤の体を、投げつける様に床へ落として立ち上がる。
工藤は俺がここに来てから、まだ何も声を発していない。
殴った時に、痛みに耐える声がしただけ…。
「慶に触んじゃねぇ」
他に言う事は無い。
謝って欲しいとも思わない。
とにかく、慶に触んな。
それだけ。
工藤は…倒れていた体を重そうに起こす。
脱力した様子で……力なく俯いている。
俺は、慶に近付きゆっくりと立たせる。
「……ゆ、…り、くん」
少し掠れた声で慶が言った。
一気に愛しさが込み上げて来る。
「あの…さっき、羽柴くん、過呼吸気味になったんです。…もう、大丈夫だと思いますけど、一応気を付けて下さい」
事務の女性が説明してくれた。
……この人も…きっと、この事態に焦っただろう…。
「すみません、ありがとうございます。…それから……迷惑かける事になるかも知れませんが、もう、ここでは働けないと思うので…辞めさせます」
俺がそう言うと、初めて工藤が顔を上げた。
「それで良いな、慶」
慶は、しばらく俯いて困惑してたけど、やがてゆっくり顔を上げて「…うん」と、頷いた。
……二次会の時は、それでも工藤をフォローするような事を言ってたけど……今は…辞める事に同意する辺り……よほど…この出来事がショックだったんだって分かる。
「退職の書類とか提出するものがあるなら、郵送して下さい」
「……残念だけど……これは………仕方ないですね……こんな事になってしまって、すみません。……羽柴くん……怖かったよね……ほんとに…ごめんなさいね……早く…いつもの羽柴くんに戻ってね」
女性が慶に声をかける。
きっと、本心からそう思ってくれてるんだろうって思う。
慶は何も言えず、ただ頷く。
「じゃあ、行きます」
そう言って、慶を連れて天馬と共に部屋を出ようとした時、
「工藤くんっ、良いの?羽柴くん、行っちゃうよっ」
女性が工藤に向かって言った。
その声に、慶が立ち止まる。
「…………」
工藤は、床に座ったままで慶を見てるけど、何も言えずにただ黙ってる。
「…工藤さん…」
その様子に……先に声を出したのは慶だった。
「戻れなくて……ごめんなさい…」
慶は震える声でそれだけ言った。
お前は被害者なんだから……謝る必要なんてねぇのに…。
「羽柴くん…」
工藤が口を開いた。
「……………ごめん…」
やっぱり、出るのは謝罪の言葉。
……自分がやった事を考えたら……謝るしか出来ないだろう。
工藤の目から涙が落ちる。
後悔か……懺悔か……………
俺にはどっちでも良い。
ただ……もう関わって来んな、ってだけ。
慶にしてみたら、優しい上司像があるから……俺みたいに、スパッと切る事は難しいのかも知れない。
だけど、もう俺が無理だ。
コイツの事はもう1ミリも信用できねぇ。
慶は、工藤に向かって深くお辞儀をした。
色んな意味を込めての事だろう。
顔を上げた時には、また涙がその目から溢れてて……もう、俺は…抱きしめてやりたくて仕方ない。
「行くぞ」
小さく言って、慶を連れて来客室を出た。
天馬の車まで行き、先に慶を後部座席へ座らせる。
「…天馬」
「ん?」
俺の隣で運転席に乗り込もうとしてた天馬を呼んだ。
「ありがとな……止めてくれて」
約束通り、ちゃんと俺を止めてくれた。
「高ぇぞ」
「…バーカ」
「ははっ」
軽く突っ込んで、笑う。
来てくれて良かった…ほんとに。
一緒に行けと言ってくれた桐ケ谷さんにも………感謝しかない。
俺も後部座席に乗り込む。
「行くぞ」
天馬が車を発進させる。
車内には音楽……天馬の好きな、少しハードなやつ。
きっと……俺らに気を遣ってくれたんだろう…。
小さな声なら聞こえないように。
慶の手は、小刻みに震えてる……恐怖心からか安心感からかは分からないけど…とにかく……感情が穏やかじゃないって事は分かる。
「…侑利くん……」
小さな掠れた声。
呼ばれるままに、慶に近付く。
「……千切れちゃった…」
ずっと握ってた手を広げて俺に見せる。
手の平には、俺が誕生日に買ったネックレス。
千切れた、と言った慶の言葉から……アイツに必死で抵抗したんだって事が伺えて……何だか胸の奥が痛い。
「チェーン、買えば良いじゃん」
その小さな頭に腕を伸ばして、引き寄せて抱きしめる。
天馬にも思いっきり見えてるけど……まぁ、多分見えてねぇフリしてくれるだろう。
「…いつでも…買ってやる」
慶は…その後、本格的に泣き出した。
年末から……すんげぇ泣いてるよな、お前…。
「…慶」
耳元に顔を寄せる。
「…好きだ」
これはきっと……天馬には聞こえなかっただろう…。
聞こえた瞬間、慶が顔を上げる。
グズグズのその顔が……すごく愛しい…。
BIRTHに着いて俺が桐ケ谷さんを呼びに行くと、それに気付いた奏太が急いで駆け寄って来た。
「久我さんっ、慶ちゃんはっ」
「裏に居るよ」
俺らよりも先に走って行く。
「慶ちゃんっ」
奏太は慶の所まで行くと、そのまま慶を抱きしめた。
また…慶も泣く。
慶を少し奏太に任せて桐ケ谷さんと話す。
「大丈夫だったのか?」
「あまり喋れる感じじゃなかったんで…まだ、詳しく聞けてないんですけど……事務の人が見つけた時は、床に倒されてたって」
「そうか……辛いだろうな……」
桐ケ谷さんの心配そうな顔。
すぐに親身になってしまうところが、俺は好きだ。
「お前は大丈夫か?」
「…まぁ……だいぶ…」
「行く前は、すげぇ顔してたしな」
そう言って、俺の頭を軽く撫でる。
「今日はもう、上がって良いぞ」
「え、…」
「早く一緒に帰ってやれ、ずっと泣いてるじゃねぇか」
そう言われて慶を見ると、奏太と天馬に代わる代わる慰められて、やっぱり泣いている。
「すみません…じゃあ、そうさせて貰います」
「仕事、これからどうすんだ?」
「辞めさせるってその場で言いました。慶も、そうするって」
「そうか。それが良いわ。続けるなんて無理だしな。……じゃあ…明日も無理そうなら、こっちは大丈夫だから休んで良いぞ」
「え、いえ、それは…」
「それか、連れて来いよ。慶ちゃんが落ち着くまでさぁ、こっちは連れて来たって何て事無いし、カウンターでも裏でも好きに時間潰してさ」
桐ケ谷さんは、こういう人だ。
「だいたい、お前が無理だろ。こんな事があって慶ちゃんを1人で家に置いて仕事来るの」
「……それは……まぁ…」
認めざるを得ない。
そういう風に言ってくれて、すごく気持ちが楽になる。
慶が1人で家に居ると思うと、多分しばらくは仕事が手に付かねぇだろうなって考えてたから…。
「慶ちゃんは、あんなだから遠慮しまくると思うけど、そこはお前が無理矢理にでも連れて来い。しばらくは、1人にしない方が良いと思うわ」
「……はい、…ありがとうございます」
はは、っと笑うと桐ケ谷さんはもう一度俺の頭をポンポンと撫でて、フロアへ戻って行った。
しばらくは、桐ケ谷さんの言葉に素直に甘えさせて貰おう。
休憩室で着替えてると、天馬が入って来た。
「慶ちゃん、奏太に任せてる」
「あぁ、サンキュ」
奏太はどうやら慶の事が大好きらしいから……今きっと全力で慰めてくれてるんだろうな…。
「明日から…連れて来るかも」
「あぁ、良いじゃん」
「桐ケ谷さんが、そうしろって」
「ははっ、桐ケ谷さんらしいな」
みんな、桐ケ谷さんがそういう人だって分かってる。
だから、好きなんだろうな。
「ちょっと、時間かかるかもな」
「…あぁ…うん」
もう、工藤と関わる事はない。
少しずつ…忘れて行けば良い。
優しい上司、だったから……悲しい気持ちはあると思うけど……こんな形で終わるなんて思わなかっただろうから、慶はきっとショック受けてんだろうな。
「カッコ良かったぞ、侑利」
「え?」
急にそう言われて、間抜けな声が出た。
「俺ももし同じ事が奏太にあったら、殴りに行くと思う」
「1発って言ったけど、1発じゃ何も収まんねぇわ」
「じゃ2発にするわ」
「そだな。それ以上は、俺が止めてやる」
2人で、フッと笑う。
こんな事が言える奴らが俺の周りには沢山居る。
俺はお前らの存在に、だいぶ救われてんだ。
~~~~~~~~
「侑利くん……」
ずっと泣いてた慶の、涙が止まったのは数分前。
マンションの駐車場に到着する少し前だ。
「どした」
車を降りようとした俺の腕を慶が掴んだ。
「……キスされた……」
……そうだろうとは思ったけど…慶から事実を聞くと俺もけっこうショックがデカい…。
「……逃げたかった……」
また、涙が滲む。
せっかく止まったのにさ………もう、泣くなよ…。
慶を引き寄せて抱きしめる。
「分かってる」
「侑利くんじゃなきゃ、嫌だ…」
「分かってるよ」
「…侑利くん…」
俺の名前を呼ぶ、慶の優しい声が好きだ。
少し顔をずらして、至近距離にある慶の唇に自分のソレで触れようとした時、ふっと慶が体を引いて距離を空けた。
「慶…」
「………ダメ……」
きっと、状況はどうあれ、工藤とキスした事を気にしてんだな…
「ダメじゃねぇよ」
慶の頭ごと引き寄せる。
あと数センチ。
「俺がしたい」
「………」
「キスがしたい」
ゆっくり距離を詰めて……逃げないように、慶の頭を抱き込んで……
直前でその気になった慶の唇を……塞ぐ。
……時間をかけて、丁寧にキスをした。
長いキスが終わり、慶が俺の首元に抱き付いて来て言う。
「キス……されただけ……」
「ん、」
「他は……何もされてないからね……」
「ん」
「…侑利くんじゃないと……嫌だ…」
「当たり前だ」
「侑利くん……」
「ん…」
「……抱いて…」
耳元で聞こえたその言葉に、鳥肌が立つくらい煽られる。
もうここで始めてやろうかと思うくらい、俺の感覚を刺激して来る慶の声。
「ここで言うの、反則じゃねぇ?」
俺がそう言うと、不安そうな顔を少し崩して……緩く笑った。
もう、ほんとは1秒も待てねぇから……慶の手を掴んで、引っ張るようにしてエレベーターへ急ぐ。
駐車場から部屋までがこんなに遠く感じるなんて、初めてだわ…。
事務の人に、門を入って左奥へ進んでと言われた。
一番奥にある通用口から中へ入って、すぐ右の来客室に居るとの事だった。
言われた通りに建物へ入って行く。
説明通り、入って直ぐ右側に来客室とプレートの入った部屋があった。
この中に、慶が居る。
……そして、アイツも…。
迷い無く、そのドアをノックすると……直ぐに中からドアが開いて、さっきの電話の人物だろう女性が顔を出した。
「…どうぞ」
そう言って、俺らが入れる様にドアを開けた。
一歩…中へ入ると……部屋の隅で椅子の上に、家でよくやってる様に三角座りをしてる慶が居た。
慶は俺を見るなり立ち上がろうとしたけど……その体は大きくフラついて、また元の椅子へと力なく落ちた。
俺は、直ぐに慶の所へ駆け寄り、その体に手を伸ばす。
「慶…、」
そう言って、微笑んで見せた。
少しでも…慶の不安と恐怖が和らげば良い。
「……ゆ、…」
侑利くん、と言おうとしたんだろう…。
一気に流れ落ちた涙で…次の言葉は出て来なかった。
止まる事は無いけど、その涙を指先で少し拭ってやる。
「帰ろうな」
俺がそう言うと、慶は「うん」と頷いた。
……そして、もう1人………
反対側の隅に置かれた椅子に、ダラリと首を項垂れてソイツは座って居た…。
振り返ってその姿を見たら……
やっぱり………怒りの感情しか沸いて来なかった。
慶も、天馬も、事務の女性も、俺の動きをじっと見てる。
俺は、俯いてる工藤の前に立ち…その姿を見下ろす。
「約束だ、殴らせろ」
下がった頭に向かって言うと、ゆっくりと工藤は顔を上げた。
その顔が、上がり切るかどうかの辺りで俺は工藤の胸ぐらを掴み、一気に引っ張って立たせた。
そして、気が抜けたような表情の工藤を、思い切り殴った。
鈍い音と同時に、事務の女性が小さな声を上げる。
床に叩き付ける様に殴った勢いで、工藤の体が俺から落ちた。
ただ……
こんな1発で俺の感情が収まる訳も無く、何も言わず床に転がってる工藤に怒りが込み上げて来て仕方なくて……俺は、そのデカい図体を引っ掴んで仰向けにし、その上に馬乗りになった。
抵抗する気配は無かったけど……ダメだ、止まれない……俺の怒りが沸点に達してる。
やっぱり、気が済まねぇ。
馬乗りのまま、もう一度胸ぐらを掴んで上体を引き上げ、再び殴ろうと拳を握った俺の腕を……後ろから天馬が止めた。
ハッとして、天馬を振り返る。
「…これ以上はダメだ」
分かってる……
俺が……止めてくれって言ったんだ…。
目線を慶に移すと……ボロボロと涙を流しながら、俺に向かって首を振ってる。
きっと、もう殴るなって言ってんだろうな…。
少し沈黙。
そして…拳を握った手をゆっくりと緩めると……天馬も、腕を掴む力を弱くした。
もう俺が…工藤を殴る事はないって分かってるからだ…。
服を掴んで引き上げてた工藤の体を、投げつける様に床へ落として立ち上がる。
工藤は俺がここに来てから、まだ何も声を発していない。
殴った時に、痛みに耐える声がしただけ…。
「慶に触んじゃねぇ」
他に言う事は無い。
謝って欲しいとも思わない。
とにかく、慶に触んな。
それだけ。
工藤は…倒れていた体を重そうに起こす。
脱力した様子で……力なく俯いている。
俺は、慶に近付きゆっくりと立たせる。
「……ゆ、…り、くん」
少し掠れた声で慶が言った。
一気に愛しさが込み上げて来る。
「あの…さっき、羽柴くん、過呼吸気味になったんです。…もう、大丈夫だと思いますけど、一応気を付けて下さい」
事務の女性が説明してくれた。
……この人も…きっと、この事態に焦っただろう…。
「すみません、ありがとうございます。…それから……迷惑かける事になるかも知れませんが、もう、ここでは働けないと思うので…辞めさせます」
俺がそう言うと、初めて工藤が顔を上げた。
「それで良いな、慶」
慶は、しばらく俯いて困惑してたけど、やがてゆっくり顔を上げて「…うん」と、頷いた。
……二次会の時は、それでも工藤をフォローするような事を言ってたけど……今は…辞める事に同意する辺り……よほど…この出来事がショックだったんだって分かる。
「退職の書類とか提出するものがあるなら、郵送して下さい」
「……残念だけど……これは………仕方ないですね……こんな事になってしまって、すみません。……羽柴くん……怖かったよね……ほんとに…ごめんなさいね……早く…いつもの羽柴くんに戻ってね」
女性が慶に声をかける。
きっと、本心からそう思ってくれてるんだろうって思う。
慶は何も言えず、ただ頷く。
「じゃあ、行きます」
そう言って、慶を連れて天馬と共に部屋を出ようとした時、
「工藤くんっ、良いの?羽柴くん、行っちゃうよっ」
女性が工藤に向かって言った。
その声に、慶が立ち止まる。
「…………」
工藤は、床に座ったままで慶を見てるけど、何も言えずにただ黙ってる。
「…工藤さん…」
その様子に……先に声を出したのは慶だった。
「戻れなくて……ごめんなさい…」
慶は震える声でそれだけ言った。
お前は被害者なんだから……謝る必要なんてねぇのに…。
「羽柴くん…」
工藤が口を開いた。
「……………ごめん…」
やっぱり、出るのは謝罪の言葉。
……自分がやった事を考えたら……謝るしか出来ないだろう。
工藤の目から涙が落ちる。
後悔か……懺悔か……………
俺にはどっちでも良い。
ただ……もう関わって来んな、ってだけ。
慶にしてみたら、優しい上司像があるから……俺みたいに、スパッと切る事は難しいのかも知れない。
だけど、もう俺が無理だ。
コイツの事はもう1ミリも信用できねぇ。
慶は、工藤に向かって深くお辞儀をした。
色んな意味を込めての事だろう。
顔を上げた時には、また涙がその目から溢れてて……もう、俺は…抱きしめてやりたくて仕方ない。
「行くぞ」
小さく言って、慶を連れて来客室を出た。
天馬の車まで行き、先に慶を後部座席へ座らせる。
「…天馬」
「ん?」
俺の隣で運転席に乗り込もうとしてた天馬を呼んだ。
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約束通り、ちゃんと俺を止めてくれた。
「高ぇぞ」
「…バーカ」
「ははっ」
軽く突っ込んで、笑う。
来てくれて良かった…ほんとに。
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俺も後部座席に乗り込む。
「行くぞ」
天馬が車を発進させる。
車内には音楽……天馬の好きな、少しハードなやつ。
きっと……俺らに気を遣ってくれたんだろう…。
小さな声なら聞こえないように。
慶の手は、小刻みに震えてる……恐怖心からか安心感からかは分からないけど…とにかく……感情が穏やかじゃないって事は分かる。
「…侑利くん……」
小さな掠れた声。
呼ばれるままに、慶に近付く。
「……千切れちゃった…」
ずっと握ってた手を広げて俺に見せる。
手の平には、俺が誕生日に買ったネックレス。
千切れた、と言った慶の言葉から……アイツに必死で抵抗したんだって事が伺えて……何だか胸の奥が痛い。
「チェーン、買えば良いじゃん」
その小さな頭に腕を伸ばして、引き寄せて抱きしめる。
天馬にも思いっきり見えてるけど……まぁ、多分見えてねぇフリしてくれるだろう。
「…いつでも…買ってやる」
慶は…その後、本格的に泣き出した。
年末から……すんげぇ泣いてるよな、お前…。
「…慶」
耳元に顔を寄せる。
「…好きだ」
これはきっと……天馬には聞こえなかっただろう…。
聞こえた瞬間、慶が顔を上げる。
グズグズのその顔が……すごく愛しい…。
BIRTHに着いて俺が桐ケ谷さんを呼びに行くと、それに気付いた奏太が急いで駆け寄って来た。
「久我さんっ、慶ちゃんはっ」
「裏に居るよ」
俺らよりも先に走って行く。
「慶ちゃんっ」
奏太は慶の所まで行くと、そのまま慶を抱きしめた。
また…慶も泣く。
慶を少し奏太に任せて桐ケ谷さんと話す。
「大丈夫だったのか?」
「あまり喋れる感じじゃなかったんで…まだ、詳しく聞けてないんですけど……事務の人が見つけた時は、床に倒されてたって」
「そうか……辛いだろうな……」
桐ケ谷さんの心配そうな顔。
すぐに親身になってしまうところが、俺は好きだ。
「お前は大丈夫か?」
「…まぁ……だいぶ…」
「行く前は、すげぇ顔してたしな」
そう言って、俺の頭を軽く撫でる。
「今日はもう、上がって良いぞ」
「え、…」
「早く一緒に帰ってやれ、ずっと泣いてるじゃねぇか」
そう言われて慶を見ると、奏太と天馬に代わる代わる慰められて、やっぱり泣いている。
「すみません…じゃあ、そうさせて貰います」
「仕事、これからどうすんだ?」
「辞めさせるってその場で言いました。慶も、そうするって」
「そうか。それが良いわ。続けるなんて無理だしな。……じゃあ…明日も無理そうなら、こっちは大丈夫だから休んで良いぞ」
「え、いえ、それは…」
「それか、連れて来いよ。慶ちゃんが落ち着くまでさぁ、こっちは連れて来たって何て事無いし、カウンターでも裏でも好きに時間潰してさ」
桐ケ谷さんは、こういう人だ。
「だいたい、お前が無理だろ。こんな事があって慶ちゃんを1人で家に置いて仕事来るの」
「……それは……まぁ…」
認めざるを得ない。
そういう風に言ってくれて、すごく気持ちが楽になる。
慶が1人で家に居ると思うと、多分しばらくは仕事が手に付かねぇだろうなって考えてたから…。
「慶ちゃんは、あんなだから遠慮しまくると思うけど、そこはお前が無理矢理にでも連れて来い。しばらくは、1人にしない方が良いと思うわ」
「……はい、…ありがとうございます」
はは、っと笑うと桐ケ谷さんはもう一度俺の頭をポンポンと撫でて、フロアへ戻って行った。
しばらくは、桐ケ谷さんの言葉に素直に甘えさせて貰おう。
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「カッコ良かったぞ、侑利」
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~~~~~~~~
「侑利くん……」
ずっと泣いてた慶の、涙が止まったのは数分前。
マンションの駐車場に到着する少し前だ。
「どした」
車を降りようとした俺の腕を慶が掴んだ。
「……キスされた……」
……そうだろうとは思ったけど…慶から事実を聞くと俺もけっこうショックがデカい…。
「……逃げたかった……」
また、涙が滲む。
せっかく止まったのにさ………もう、泣くなよ…。
慶を引き寄せて抱きしめる。
「分かってる」
「侑利くんじゃなきゃ、嫌だ…」
「分かってるよ」
「…侑利くん…」
俺の名前を呼ぶ、慶の優しい声が好きだ。
少し顔をずらして、至近距離にある慶の唇に自分のソレで触れようとした時、ふっと慶が体を引いて距離を空けた。
「慶…」
「………ダメ……」
きっと、状況はどうあれ、工藤とキスした事を気にしてんだな…
「ダメじゃねぇよ」
慶の頭ごと引き寄せる。
あと数センチ。
「俺がしたい」
「………」
「キスがしたい」
ゆっくり距離を詰めて……逃げないように、慶の頭を抱き込んで……
直前でその気になった慶の唇を……塞ぐ。
……時間をかけて、丁寧にキスをした。
長いキスが終わり、慶が俺の首元に抱き付いて来て言う。
「キス……されただけ……」
「ん、」
「他は……何もされてないからね……」
「ん」
「…侑利くんじゃないと……嫌だ…」
「当たり前だ」
「侑利くん……」
「ん…」
「……抱いて…」
耳元で聞こえたその言葉に、鳥肌が立つくらい煽られる。
もうここで始めてやろうかと思うくらい、俺の感覚を刺激して来る慶の声。
「ここで言うの、反則じゃねぇ?」
俺がそう言うと、不安そうな顔を少し崩して……緩く笑った。
もう、ほんとは1秒も待てねぇから……慶の手を掴んで、引っ張るようにしてエレベーターへ急ぐ。
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そして、モテすぎて業務過多状態に陥る。
弁当争奪戦、放課後のデート攻勢…悠真の平穏は完全に崩壊。
そんな中、唯一冷静な男・藤崎颯斗の存在に救われる。
颯斗はやたらと落ち着いていて、悠真をさりげなくフォローする。
「お前といると、楽だ」
次第に悠真の中で、彼の存在が大きくなっていき――。
「お前、俺から逃げるな」
颯斗の言葉に、悠真の心は大きく揺れ動く。
転生×学園ラブコメ×じわじわ迫る恋。
これは、悠真が「本当に選ぶべきもの」を見つける物語。
続編『元社畜の俺、大学生になってまたモテすぎてるけど、今度は恋人がいるので無理です』
かつてブラック企業で心を擦り減らし、過労死した元社畜の男・藤堂悠真は、
転生した高校時代を経て、無事に大学生になった――
恋人である藤崎颯斗と共に。
だが、大学という“自由すぎる”世界は、ふたりの関係を少しずつ揺らがせていく。
「付き合ってるけど、誰にも言っていない」
その選択が、予想以上のすれ違いを生んでいった。
モテ地獄の再来、空気を読み続ける日々、
そして自分で自分を苦しめていた“頑張る癖”。
甘えたくても甘えられない――
そんな悠真の隣で、颯斗はずっと静かに手を差し伸べ続ける。
過去に縛られていた悠真が、未来を見つめ直すまでの
じれ甘・再構築・すれ違いと回復のキャンパス・ラブストーリー。
今度こそ、言葉にする。
「好きだよ」って、ちゃんと。
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