そこにある愛を抱きしめて

雨間一晴

文字の大きさ
38 / 121

第三十八話 決意(3)

しおりを挟む
「ふふ、あんまり泣くとメイクが落ちちゃうわよ」

 手渡された小さなタオルで目頭を押さえて、鏡に映る自分を睨み付けた。

「私が止めても美容師になっちゃいそうね。誰かをカットすると思って、両肘を胸より高く上げてみて」

「こうですか?」

 威嚇する蟹のように両手を上げると、彼女が右手に鋏、左手に櫛を持たせてくれた。

「そうそう、良い感じよ。そのまま空中で髪を切るように、動かし続けてみて」

 銀色に輝く細長い鋏は、見た目より重かった。絶え間無く空気を切り裂く音が響く。早くも二の腕が震えて、じんわりと痛みが広がっていく。腕を上げているだけで顔が歪んでしまう。

「はい、お客様の前では笑顔。美容師は本当に大変よ、ずっと立ちっぱなしだし、常に気を張らないといけない。自分が髪を切ってもらっているときに、美容師がしんどそうな顔をしていたら嫌でしょ?それに、美容院は沢山あるわ。また来たい、この人に切ってもらいたいって思われないといけないの。お客様の取り合いだってあったりするのよ。それでも頑張れる?」

「はい!」

 学校で指導しているように、話してくれることが何だか嬉しかった。

「ふふ、良い返事ね。シャンプーだって一日に何回もして、ドライヤーやパーマ液でも手は荒れるわ。肌が強くないと厳しいわよ」

「大丈夫です!」

 根拠は無かった。ただ、心から頑張りたい。そう初めて思える夢を、自分にも出来ると信じたかった。

「自分が失恋した翌日に、お客様の幸せそうな恋愛話を聞くことだってあるわ。どんなに元気が無くても、あまり好きでは無いお客様でも、平等に完璧な美容師として、振る舞わないといけないのよ」

「……先生は、私の前では泣いていましたけど」

「もー!あれは別なの!馬鹿にするなら教えてあげないわよ、それでも良いならどうぞ、お好きに馬鹿にして良いわよ!十年も帰って来ない男を待ち続けてる、馬鹿な女だって!」

「冗談ですって!もう、先生も負けず嫌いなんですから」

「ふふ、あなたほどじゃ無いわ。本当に美容師になりたいの?」

「はい。私、美容師になって誰かを幸せにしたいです。それが私の幸せな気がするんです」

「若いわね……。良いわ、その気持ちを忘れないようにね。いつか、あなたにも心から愛する人が出来たら、もっと幸せなことが待っているわよ」

「……私なんか、誰からも相手にされないと思いますけど」

「大丈夫よ。人の内面はね、髪型や服装を変えるだけでも、案外変わっちゃうものなのよ。人は簡単には変われないけど、確かに変われるわ。というか、そんだけ可愛かったら周りが放っておかないわよ。変な男に気を付けるのよ」

「……十年間待たせる彼氏とかですか?」

「あんたね!今から成績付けとくからね」

「あー!嘘ですって!それはずるいですよ!」

「ふふ、大丈夫よ。出会ったころは、そんな冗談言えるような子じゃなかったでしょ」

「……はい。先生のおかげです。本当にありがとうございます」

「ふふ、こちらこそ。あなたが来てくれなかったら、きっとアイドルの子と付き合っていたと思うわ。それで美容師も辞めようと思っていたの。彼のことも諦めようと思っていたから。でも、おかげではっきりしたわ」

「私!美容師になって、留守番します!」

「ううん。気持ちは本当に嬉しいんだけど、美容師になるかは、あなたの自由よ。どこで働くかも、あなたの自由。私の馬鹿な夢に付き合う必要なんてないわ」

「私が先生のためにしたいと思うのも、私の自由ですよね!」

「もう、その歳で頑固だと、この先辛いわよ。ふふ、分かったわ。でも、私のためじゃなくて、自分のために美容師を目指すのよ」

「はい!分かりました!」

「ふふ、本当に分かっているのかしらね」

「もー、分かってますってば!」

 気付けば窓から西日が差し込んでいて、こんなに長時間誰かと話していたのは、初めてだった。

 このままずっと話していたい。もっとこの人のことを知りたいと思った。彼女と一緒に笑うだけで、胸が暖かくなるような幸せに浸かっていた。

「あの!」

 突然、空気を割るように、後ろから男性の声が響いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

処理中です...