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第三十八話 決意(3)
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「ふふ、あんまり泣くとメイクが落ちちゃうわよ」
手渡された小さなタオルで目頭を押さえて、鏡に映る自分を睨み付けた。
「私が止めても美容師になっちゃいそうね。誰かをカットすると思って、両肘を胸より高く上げてみて」
「こうですか?」
威嚇する蟹のように両手を上げると、彼女が右手に鋏、左手に櫛を持たせてくれた。
「そうそう、良い感じよ。そのまま空中で髪を切るように、動かし続けてみて」
銀色に輝く細長い鋏は、見た目より重かった。絶え間無く空気を切り裂く音が響く。早くも二の腕が震えて、じんわりと痛みが広がっていく。腕を上げているだけで顔が歪んでしまう。
「はい、お客様の前では笑顔。美容師は本当に大変よ、ずっと立ちっぱなしだし、常に気を張らないといけない。自分が髪を切ってもらっているときに、美容師がしんどそうな顔をしていたら嫌でしょ?それに、美容院は沢山あるわ。また来たい、この人に切ってもらいたいって思われないといけないの。お客様の取り合いだってあったりするのよ。それでも頑張れる?」
「はい!」
学校で指導しているように、話してくれることが何だか嬉しかった。
「ふふ、良い返事ね。シャンプーだって一日に何回もして、ドライヤーやパーマ液でも手は荒れるわ。肌が強くないと厳しいわよ」
「大丈夫です!」
根拠は無かった。ただ、心から頑張りたい。そう初めて思える夢を、自分にも出来ると信じたかった。
「自分が失恋した翌日に、お客様の幸せそうな恋愛話を聞くことだってあるわ。どんなに元気が無くても、あまり好きでは無いお客様でも、平等に完璧な美容師として、振る舞わないといけないのよ」
「……先生は、私の前では泣いていましたけど」
「もー!あれは別なの!馬鹿にするなら教えてあげないわよ、それでも良いならどうぞ、お好きに馬鹿にして良いわよ!十年も帰って来ない男を待ち続けてる、馬鹿な女だって!」
「冗談ですって!もう、先生も負けず嫌いなんですから」
「ふふ、あなたほどじゃ無いわ。本当に美容師になりたいの?」
「はい。私、美容師になって誰かを幸せにしたいです。それが私の幸せな気がするんです」
「若いわね……。良いわ、その気持ちを忘れないようにね。いつか、あなたにも心から愛する人が出来たら、もっと幸せなことが待っているわよ」
「……私なんか、誰からも相手にされないと思いますけど」
「大丈夫よ。人の内面はね、髪型や服装を変えるだけでも、案外変わっちゃうものなのよ。人は簡単には変われないけど、確かに変われるわ。というか、そんだけ可愛かったら周りが放っておかないわよ。変な男に気を付けるのよ」
「……十年間待たせる彼氏とかですか?」
「あんたね!今から成績付けとくからね」
「あー!嘘ですって!それはずるいですよ!」
「ふふ、大丈夫よ。出会ったころは、そんな冗談言えるような子じゃなかったでしょ」
「……はい。先生のおかげです。本当にありがとうございます」
「ふふ、こちらこそ。あなたが来てくれなかったら、きっとアイドルの子と付き合っていたと思うわ。それで美容師も辞めようと思っていたの。彼のことも諦めようと思っていたから。でも、おかげではっきりしたわ」
「私!美容師になって、留守番します!」
「ううん。気持ちは本当に嬉しいんだけど、美容師になるかは、あなたの自由よ。どこで働くかも、あなたの自由。私の馬鹿な夢に付き合う必要なんてないわ」
「私が先生のためにしたいと思うのも、私の自由ですよね!」
「もう、その歳で頑固だと、この先辛いわよ。ふふ、分かったわ。でも、私のためじゃなくて、自分のために美容師を目指すのよ」
「はい!分かりました!」
「ふふ、本当に分かっているのかしらね」
「もー、分かってますってば!」
気付けば窓から西日が差し込んでいて、こんなに長時間誰かと話していたのは、初めてだった。
このままずっと話していたい。もっとこの人のことを知りたいと思った。彼女と一緒に笑うだけで、胸が暖かくなるような幸せに浸かっていた。
「あの!」
突然、空気を割るように、後ろから男性の声が響いた。
手渡された小さなタオルで目頭を押さえて、鏡に映る自分を睨み付けた。
「私が止めても美容師になっちゃいそうね。誰かをカットすると思って、両肘を胸より高く上げてみて」
「こうですか?」
威嚇する蟹のように両手を上げると、彼女が右手に鋏、左手に櫛を持たせてくれた。
「そうそう、良い感じよ。そのまま空中で髪を切るように、動かし続けてみて」
銀色に輝く細長い鋏は、見た目より重かった。絶え間無く空気を切り裂く音が響く。早くも二の腕が震えて、じんわりと痛みが広がっていく。腕を上げているだけで顔が歪んでしまう。
「はい、お客様の前では笑顔。美容師は本当に大変よ、ずっと立ちっぱなしだし、常に気を張らないといけない。自分が髪を切ってもらっているときに、美容師がしんどそうな顔をしていたら嫌でしょ?それに、美容院は沢山あるわ。また来たい、この人に切ってもらいたいって思われないといけないの。お客様の取り合いだってあったりするのよ。それでも頑張れる?」
「はい!」
学校で指導しているように、話してくれることが何だか嬉しかった。
「ふふ、良い返事ね。シャンプーだって一日に何回もして、ドライヤーやパーマ液でも手は荒れるわ。肌が強くないと厳しいわよ」
「大丈夫です!」
根拠は無かった。ただ、心から頑張りたい。そう初めて思える夢を、自分にも出来ると信じたかった。
「自分が失恋した翌日に、お客様の幸せそうな恋愛話を聞くことだってあるわ。どんなに元気が無くても、あまり好きでは無いお客様でも、平等に完璧な美容師として、振る舞わないといけないのよ」
「……先生は、私の前では泣いていましたけど」
「もー!あれは別なの!馬鹿にするなら教えてあげないわよ、それでも良いならどうぞ、お好きに馬鹿にして良いわよ!十年も帰って来ない男を待ち続けてる、馬鹿な女だって!」
「冗談ですって!もう、先生も負けず嫌いなんですから」
「ふふ、あなたほどじゃ無いわ。本当に美容師になりたいの?」
「はい。私、美容師になって誰かを幸せにしたいです。それが私の幸せな気がするんです」
「若いわね……。良いわ、その気持ちを忘れないようにね。いつか、あなたにも心から愛する人が出来たら、もっと幸せなことが待っているわよ」
「……私なんか、誰からも相手にされないと思いますけど」
「大丈夫よ。人の内面はね、髪型や服装を変えるだけでも、案外変わっちゃうものなのよ。人は簡単には変われないけど、確かに変われるわ。というか、そんだけ可愛かったら周りが放っておかないわよ。変な男に気を付けるのよ」
「……十年間待たせる彼氏とかですか?」
「あんたね!今から成績付けとくからね」
「あー!嘘ですって!それはずるいですよ!」
「ふふ、大丈夫よ。出会ったころは、そんな冗談言えるような子じゃなかったでしょ」
「……はい。先生のおかげです。本当にありがとうございます」
「ふふ、こちらこそ。あなたが来てくれなかったら、きっとアイドルの子と付き合っていたと思うわ。それで美容師も辞めようと思っていたの。彼のことも諦めようと思っていたから。でも、おかげではっきりしたわ」
「私!美容師になって、留守番します!」
「ううん。気持ちは本当に嬉しいんだけど、美容師になるかは、あなたの自由よ。どこで働くかも、あなたの自由。私の馬鹿な夢に付き合う必要なんてないわ」
「私が先生のためにしたいと思うのも、私の自由ですよね!」
「もう、その歳で頑固だと、この先辛いわよ。ふふ、分かったわ。でも、私のためじゃなくて、自分のために美容師を目指すのよ」
「はい!分かりました!」
「ふふ、本当に分かっているのかしらね」
「もー、分かってますってば!」
気付けば窓から西日が差し込んでいて、こんなに長時間誰かと話していたのは、初めてだった。
このままずっと話していたい。もっとこの人のことを知りたいと思った。彼女と一緒に笑うだけで、胸が暖かくなるような幸せに浸かっていた。
「あの!」
突然、空気を割るように、後ろから男性の声が響いた。
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