スピリア ~光と沈黙の森に芽吹くもの~

春風 嬉鳳 -Y.Harukaze-

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スピリア 光と沈黙の森に芽吹くもの

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占い師は、紅茶のようにやわらかな声で言った──「来月、あなたは深い絶望に陥ります」。



第1節 雨上がりの路地と予言

 梅雨明け直後の暑気と湿気がまだ残る路地裏の、古びたビルの一角に、ある占いスペースがあった。ガラス扉には「占い・カウンセリング」と小さく書かれたプレートが下がり、外には観葉植物と小さなスタンド看板が置かれている。ビルの外壁からは、雨上がりのアスファルトとコンクリートの匂いが立ちのぼっていた。
 夏希は店内に入ると、仕切りの奥に置かれた丸テーブルの前へと通された。照明は柔らかく、BGMには小さくヒーリングミュージックが流れている。テーブルの向こうには、薄桃色のスカーフを肩に掛けた年配の女性占い師が、春の日差しのような微笑を浮かべて座っていた。机上にはタロットカードとノートパソコンが置かれ、横には飾りとして小さな水晶球が置かれている。

「お名前をお伺いしてもいいですか?」

「夏希です⋯⋯」

「素敵なお名前ですね」

 占い師は穏やかな声でそう言い、タロットカードを丁寧にシャッフルした。数枚を机に並べると、柔らかな表情のまま、じっとカードの絵柄を見つめる。手元のノートパソコンに短くメモを打ち込み、数秒後、プリントアウトされた占断結果の紙を夏希に差し出した。

「来月、あなたは深い絶望に陥ります。助けを求めても、誰も手を差し伸べてはくれないでしょう」

 その声は終始やわらかく、まるで午後の紅茶のように温かい。しかし、告げられた内容は、胸を冷たい刃で貫くほど冷徹だった。予兆など何ひとつ感じていなかった絶望の宣告に、夏希は言葉を失った。
 占い師の微笑は最後まで崩れなかった。その笑顔は慰めではなく、ただ感情を含まない静かな表情であり、突き放すような沈黙だけが空間を満たしていた。



第2節 森の入口で

 小さく礼をして店を出た夏希は、胸の中で渦巻く重たい感情に導かれるように、近くの小さな森へと足を踏み入れた。
 雑木林の中に漂う湿気は雨粒の匂いを含み、深い緑とともに感覚を包み込む。一歩一歩、緑の絨毯を踏みしめるたびに、胸の奥の張りつめた糸が少しずつほどけていくようだった。
 しばらく進むと、古びた石の台座が苔むして姿を現した。その上には、黒いカソックに身を包んだ男が静かに立っていた。無表情の中に宿るのは、深い慈悲と沈黙の重みだった。

「⋯⋯何か?」

 簡素な声が森の静寂を裂くように響く。その言葉は風と同調し、森そのものの声のようでもあった。
 夏希は思わず足を止めた。心に何かが触れた。答えを出す余裕もないまま、「⋯⋯はい」と短く頷き、男の傍らへと近づいていく。
 やがて二人は森の奥、静かに開けた一角へと辿り着く。そこには、朽ちかけた木製ベンチがひっそりと佇んでいた。黒いカソックの男は腰を下ろし、夏希にも座るよう促した。
 彼女はためらいながらもそっと腰を下ろす。湿った空気と心地よい疲労が身体に染み渡り、思わず深く息をつく。

「占いの言葉を信じて、心を閉ざしてはいけない」

 男の言葉は、森のざわめきと共鳴しながら、確かな力で夏希の胸へと届く。

「心の奥にある絶望は、一人で抱えるにはあまりに重い。あなたはすでに、孤独という名の牢獄に囚われている」

 大学で学んだ心理学のテキストが脳裏に浮かぶ。絶望とは、深い無力感からくる防御反応。けれど、それは変えられぬ宿命ではない。

「沈黙の中で自分自身を見つめ直すことが、まずは第一歩なのだ。沈黙は罪ではない。気づくための空白なのだよ」

 夏希は目を閉じた。雨の匂い、森の緑、男の言葉が交錯し、凍っていた胸の痛みが少しずつ溶けていくのを感じた。



第3節 白いシャツの旅人

 目を開けると、わずかに光るものが視界の端をかすめた。森のさらに奥にある石段の先、若い男の白いシャツが木漏れ日に照らされ、やがて森の影の中へと紛れていった。

「夏希?」

 穏やかで温かな声が、名を呼ぶ。振り返ると、白いシャツの青年が、柔らかな足取りで近づいてくる姿があった。

「あなたは⋯⋯?」

「ただの旅人さ。でも、君が抱えていることを、ちゃんと聞きたい」

 その口調には重さがない。けれど軽やかすぎもしない。不思議と心の奥に入り込む柔らかさがあった。

「占いで心を閉ざすことはない。未来は、君自身の選びによって変わるんだ」

 彼のまなざしは、罪を赦し、迷う者を招き入れるような温度を帯びていた。夏希は、その眼差しの奥に、どこか遠い昔の聖なる物語の影を感じた。
 白いシャツの青年は立ち上がり、小川のほとりへと夏希を誘った。雨粒を映した水面は、やわらかく銀色にゆらぎながら流れている。

「名前には、本質が宿ると言われる」

 青年は川面に手をかざし、水の流れの先を指さす。

「君の名前『夏希』には、『夏』という季節を越えて“新たな希望”を探す意味があるかもしれない。そして『希』は、“希う”や“希有”の希。強く望む力を示している」

 夏希は、自分の名の響きに耳を澄ませる。何気ない名前に、こんな意味が込められていたのか。音の背後にある物語に、初めて静かな感動を覚えた。

「名前を受け入れることは、自分の人生を受け入れること。意味を知ることは、自らの道を名づけ直すことにもなる」

 その声は、迷う者を呼び戻す羊飼いのようだった。夏希は川面に映る自分の顔と名を重ね、そっと心の中で呟いた。その呟きは、どこか祈りに近い響きを帯びていた。



第4節 坐禅堂の静寂

 川から少し離れた場所に、古びた坐禅堂があった。
 白いシャツの青年に勧められ、そこへ赴いた夏希が足を止めると、堂の入り口には、袈裟をまとった僧形の青年が静かに佇んでいた。
 彼は微笑し、夏希を中へと招いた。
 木の床は雨上がりの湿気を吸い込み、静かに呼吸しているようだった。廊下の先に漂う香木の煙が、心を落ち着ける。
 僧は書架から一冊の仏教書を手に取り、夏希に差し出した。それは「只管打坐」について書かれた禅の書だった。

「禅僧は、ただ坐る。ただ坐る中に真実があると信じる。調身・調息・調心。三つを調えることで、人の心と体は調和する」

 夏希は畳の上に座り、姿勢を正す。呼吸を整え、心を見つめる。沈黙の中に生まれる微かな動きが、やがて深い静寂となって全身に満ちていく。

「ただ在る。それだけでいい。そこに答えがある」

 僧の言葉は、涼やかな水脈のように静かに胸の底へと届いていった。その眼差しに、夏希は、古の聖者が説いた慈悲と智慧の影を見た。



最終節 許しと再生

 坐禅堂を後にした夏希は、再び森へ戻った。あの石台座のもとに、黒いカソックの男は静かに座っていた。

「許しを、学んできたか?」

 夏希は小さく頷いた。占いの宣告に怯え、白いシャツの青年の言葉に心を開き、僧の静けさに身を委ねた。その一つ一つが、自分を赦す道しるべとなっていた。

「許しとは、自分自身を縛る鎖を解く行為だ。他者を赦すことは、最終的には自分自身を自由にすることに繋がる」

 男の言葉は静かだったが、魂に響く強さがあった。

「怨みに固執すれば、その感情と共に生を終え、死後も囚われる。だが、許しは再生を導く。魂が新たな一歩を踏み出すための鍵だ」

 森に風が吹き抜ける。雨上がりの草木がささやく中、夏希は目を閉じ、小さく息を吐いた。胸の奥に、「許しの祈り」が灯っていた。
 男は立ち上がり、静かに会釈すると、森の奥の別の道へと姿を消した。入れ替わるように、白いシャツの青年が木陰から現れる。

「行こう」

 青年は短くそう言い、夏希の横に並んだ。
 やがて二人は森を抜ける道を歩き出したが、ふと前方に立つ人影に気づく。それは、あの占い師だった。街灯の明かりが彼女の輪郭をやわらかく照らし、あの時と変わらぬ微笑を浮かべている。

「……あの時の言葉、覚えているかしら?」

 声は相変わらず温かい。けれど、その響きには少しだけ違う色が混じっていた。
 夏希はまっすぐに頷いた。

「ええ。でも……あの絶望は、もう怖くありません」

 占い師の微笑は深くなり、まるで答え合わせをするように静かに言った。

「未来を言葉にするのは、時に呪いになる。でも、あなたはその呪いを自分で解きましたね」

 白いシャツの青年がそっと夏希の肩に手を置く。
 その温もりを感じながら、夏希は静かに答えた。

「占いはきっかけでしかなかったんです。本当に変わるのは……自分の選び方だって、気づきましたから」

 占い師は目を細め、ゆっくりと森の影へと消えていった。その背中は、初めて出会ったときよりもずっと軽やかに見えた。

「君の希望は、誰かに奪われたものじゃない。君自身が、また育て直せばいい」

 青年は前方を指さす。そこには駅へと続く一本道。濡れたアスファルトに残る雨滴が、淡い光を反射していた。

「自分の選びを信じて進みなさい。必要なときはまた、森の沈黙へ戻ってくればいい」

 夏希は頷いた。胸の奥に、再生の誓いが確かに根を下ろしていた。自分の名前の意味を胸に、自らの足で「はい」と応える日々を始めるために。

 風が夜を連れてくる。透明な夜気の中を、夏希は歩き出した。草の匂い、濡れた土、雨を吸い込んだ空気。それらすべてが、新たな記憶として彼女の五感に静かに刻まれていた。



                                     完 
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