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第15話
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人影もまばらな、深夜二時前の新宿に振り続く雨は、無表情に彷徨い続ける久米の体を冷たく濡らしてゆく。
フワフワ揺れ漂う白き世界を、夢中遊行する様は、体があるがゆえの苦しみに、溺れ、ただ朽ちていくことを望む姿だった。
「フラフラ歩くな!酔っ払いが!」すれ違う傘の先にぶつかる度に投げつけられる罵声。
まるでゾンビが徘徊してるがごとく、避けられ投げかけられる嫌悪の視線。
よろけた歩道の段差に足をすくわれ、雨水溜まるアスファルトに体を打ち付ける。
口で息をするたびに喉の奥を泥水が流れ込み、首を締め付ける。
声にならない悲鳴を引きずり、絶望を越えて行く【諦め】は、闇の深域へと一歩一歩、久米をゆっくりと導いていた。
何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。
「・・・もうええわ・・・・疲れた・・・」
道路わきの自販機に、倒れるようにもたれかかった体は、最後の力を振り絞り、ヘッドライト行きかう国道へと踏み出した。
――――――――――
二枚の小さき光が、久米の霞んだ目に降りる。
――――――――――
突然、重力が変動したかのように、激しく体が上下左右に揺さぶられる。
他の力が今、自分の意志を完全無視し、真っ直ぐに干渉した。
力強く引き寄せられた久米のぼやけた頭の中心に声が響く。
「久米――――っ‼久米――――――っ‼」
しっかりと受け止められた腕の中で、ほとんど息も出来なく、小さくひきつけを起こす。
「久米――――っ‼久米――――――っ‼」
痙攣を繰り返しながら、届く声に反応した。
「ほっといてや・・・・ほっといて・・・」
今にも消えそうな光の一滴が零れて落ちる。
「久米――――――っ‼しっかりしろぉーー――っ‼」
揺ぎ無くつかまれた肩に伝わる温もり。
「久米!おい!久米!久米香月‼」
――――――――――
「・・・・・この声・・・・・・知ってる。」
――――――――――
閉じていたまぶたが、僅かに動く。
白き世界の濃霧が流れ、目の前に薄闇と人工色のぼやけた世界が戻ってくる。
「久米!」
そこには、ずぶ濡れのまま全力で救い出そうと、必死になった顔の縄手が、真っ直ぐに見つめていた。
虚ろな瞳が重なる。
「せ・・ん・せい・・。」
首を支えていた力が、抜け落ちた。
雨はいつの間にか止み、遥か彼方に輝く満月の光が、午前二時の新宿を、何も言わずにただ優しく包み込んでいた。
――――――――――
月光に照らされた【藤原京跡】を臨む鴨公小学校の校舎屋上、大きめのヘッドフォンを首にかけた雲梯曽我が拍手を送っていた。
「いやぁーすごい!すごい!ブラボー‼」
「ひっさしぶりにエエもん見せてもらったわーぁ。」
音を立てないように、何度も手を叩き称賛する。
「なるほどねぇーん。雅楽と金龍かぁー。で、思いつくんは・・・あいつらかぁ。でもこの場所にその氏、関係ないんちゃうん。まあ、とりあえず姐さんに報告や。」
喝采する手を止め、ヘッドフォンをかけ直した。
「つーか、奈良、ジメジメし過ぎやっちゅーに。」
一陣の風が吹く。
天満月に浮かびあがる耳成山・香具山・畝傍山が影を引く橿原市に、夜明けが近づく。
【さとやくスタジアム】
夏の高校野球選手権、奈良県大会の開会式まであと八時間。
―――――――――――
いくばくの時を揺られていたのだろう。久米は一定のリズムで感じる重力に目を覚ました。
預け切った体重に伝わる暖かさ。
縄手に背負われた久米はゆっくり顔を起こした。
「じっとしといてや。」
目を覚ましたことに気付き優しく伝える。
「俺、重いっすよ・・・もう大丈夫なんで、すいません・・・。」
申し訳なさと、恥ずかしさで離れようとした。
「じっとしとけって。これくらい平気や。」
背負う久米に力が戻り、足取りが不安定になる。だけど縄手は離さない気持ちでしっかりと背負い直し、また一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めた。
「すいません・・・。」
小さく溜息をつき頭を下げる。
「お前さぁ、いっつもどんだけ、心配かけさせるんや。」
反省中なのか、項垂れた久米につぶやく。
再び謝る久米は、少し脱力し体を預けた。
縄手の力強く確実に前へ進む、背中から伝わる安心感に、冷え切っていた心の源まで温まるようだった。
街灯に照らされた新宿通りを東へ向かう。
「先生はなんでここにいるんですか?」
「お前が心配やからに決まっとるやろ‼」
すっとぼけたような質問に、呆気にとられながらも、久米を横目に素早く突っ込む。
ぐうの音も出ない。
「それで。お父さんには会えたんか?」
何も言わずに首を横に振る。
「そっかぁ・・・・残念やったなぁ。」
何とか励ませないか、大きく息を吐いた縄手の目の前に、久米の手のひらが差し出された。
「おやじです。」
開いた右手の中には、一見白樺の木片かと見間違う骨が包み込まれていた。
「・・・・・・え。」
それを見た縄手は一瞬歩調が乱れ、極限に困惑しながらも、これ以上触れてはいけない領域だと思い、「辛過ぎんなぁー。」と俯いた。
「一カ月前ほどに、癌で死んでたみたいです・・・。」
久米のため息が首にかかる。
「そうかぁー。会えると、思ったのになあ・・・・。」
縄手のつぶやきに黙って頷き、手のひらを閉じた。
シャッターを下ろしたテナントの林をゆっくりと進んでゆく。
目の前で、新宿通りと外苑東通りが交差する。
信号待ちで立ち止まった縄手に「先生。」「うん?」「俺、もう歩けますよ。」久米は伝えたが、「あかん。」と一蹴され、ずり落ちそうな体を力強く持ち上げられた。
時折ベッドライトが二人の背中を照らしては消えて行く。それでも橿原と比べれば十分すぎるくらい明るく、進むべき道が見ている気がした。
「でも、連絡くらいくれても、よかったんちゃうんか?」
青信号で歩き出した縄手は愚痴をこぼす。
「・・バッグごと、全部無くして・・・・」
「えー‼どうするつもりやったんや?」
「おやじに相談しようかと。」
「あ・・・・あーそうかぁ。」
縄手は、じゃあその骨の入手先や、今着ているサイズの合っていない服装は、一体どこでどうなってそうなったか、時系列を聞きたくなった。
しかし久米を見つけた時の様子を思うと、今聞くべきことではないように思い、話を飛ばした。
「でも、あそこで会えたんは、ホンマに奇跡やで。」
「ずぶ濡れで彷徨ってるん見つけた時は、めちゃめちゃ焦ったけどな。」
・・・・・・・・
その言葉にしばらく黙っていた久米は、ポツリと口を開いた。
「・・・ほとんど覚えてないんです。先生に見つけてもらえなかったら、俺、どうなってたか・・・。」
ため息をつき
「最近の俺、本当におかしくて。」
「自分の奥に、別の誰かがいるみたいなんです。知らんうちに、そいつに体を明け渡してる感じで・・・・・。」
うな垂れた。
「感情が爆発して、抑えられないってやつか。」
「わからないです・・・。」
縄手の地面を力強く踏みしめ歩く音が、耳に届く。
「そっか。」
「でも、まあ。無事でよかった。神様信じてみる気になったで。」
笑顔で久米に顔を向ける。
「本当にごめんなさい。」
「とりあえず、みんな心配してるから、俺から後で連絡入れとくわ。」
大きく頷いた久米は脱力し、縄手の背中に顔を埋め、深く沈みこんだ。
「先生。ええ匂いする。」
「おふぅ・・・・・汗と雨の臭いやろ。」
「めっちゃええ匂い。」
顔を押し付け大きく息を吸いながら、ぎゅっと抱きしめる。
「しゃーないなぁー。今日だけやで。」
目を閉じ、自分の首元に顔を埋めて息をする久米に「ハハッ」と微笑んだ。
―――――――――――
「えっとぉ・・・・・・・・・・。」
すっかり顔色が良くなったと言うよりは高揚している久米は、なんの前触れもなく、目の前に広がった状況に、心臓がはち切れんばかりだった。
「悪い。セミダブルの部屋しか空いてなかったんや・・・・。」
縄手はこめかみをポリポリと掻く。
辿り着いた四ツ谷駅近くで、こんな時間帯にずぶ濡れの二人を、心置きなく迎え入れてくれたビジネスホテルの部屋には、セミダブルのベッドがこれ見よがしに置かれていた。
ベッドの存在感に圧倒され、目と口を大きく開けたまま、耳まで真っ赤になっている久米に気付いた縄手は
「お前!エロいこと考えんなよ‼」
頭をはたく。
「痛てっ!」
体をビクつかせながらも、
『てことは、一緒に寝る??』
『二人っきりや・・』
『密室・・・』
『え?寝る?寝るって何?』
『ガチで⁉』
『ヤバい。嘘やろ。』
視界から離れないベッドの上に寄り添うように並んだ枕と浴衣。
上目遣いに縄手を見つめる。
急展開にぶっ倒れそうになりながら、股間が一気に熱を帯び盛り上がる。
「お!お前なぁー!」
サイズの合わないスピチピチに張ったウェットパンツで、股間を浮き上がらせ息を荒くしたまま、濡れる瞳で見つめる久米に、バスタオルを押し付ける。
「ほら‼先にシャワー浴びて来いって。」
「え?シャ・・シャワー?」
「マジで早よ‼」
シャワーという言葉までもがエロティックに耳でこだまする。
「早よ!入れって!」
意識が飛んで行きそうな久米の背中を無理矢理押し、ユニットバスに放り込んだ縄手の目は優しく笑っていた。
シャワーの音がする代わりに、久米の雄叫びが壁を突き抜け炸裂する。
「うおおおおおおおおぉーーーーーー‼」
「やかましい‼」
スマホを手にした縄手は耳に当てた。
「君は一体、授業をほったらかしにして、何してんだ‼」
案の定、校長の怒鳴り声が、スピーカーをオンにしなくとも部屋に響き渡る。
久米を保護し、今はビジネスホテルにいること、朝一に戻りそのまま開会式会場に連れていくことを、何度も何度も頭を下げ謝りながら伝えた。
電話を切り、大きく溜息をついた縄手は思い切り伸びをしようと腕を伸ばした。
不意に背中に何かを感じて振り返る。
久米がユニットバスから、顔だけを覗かせこちらを『じっーーーーっ』と見ている。
「何や‼」
ギョッとびっくりした縄手は飛び上がった。
「先生・・・・一緒に・・・・シャワー浴びま・・せんか?」
「アホか‼早よ浴びろ‼明日、お前、開会式やろ!五時には出るぞ!」
スマホを投げつけるように振り上げた。
結局、濡れた服をホテルのコインランドリーで洗濯乾燥させたり、全く食していなかったため、近くのコンビニに買い出しに行ったりで、空が白く明ける頃に部屋の電気を消した。
ベッドわきの床でいびきをかき、浴衣を開けさせ爆睡する縄手。
久米は、そんな姿をうつぶせになり見下ろしながら、
「うわぁーーーーホンマ、ヤバいって!!」
モヤモヤ、ムラムラを律する思いで、ため息をつき、血液が集まった股間をベッドに何度も擦り付けていた。
一睡もできないままアラームが鳴る。
この短時間でいろんなものと戦い、更に疲れ切ってしまっていた久米は、目の下に浮かび上がるクマを口惜しく見ながら歯を磨いていた。
「久米おはよう!さすが若いなあ!もう起きたんか!」
荒く羽織った浴衣から、筋肉とセミビキニブリーフ一枚の姿を露わにした縄手は、歯ブラシを不機嫌そうに動かす久米のケツを叩いた。
「痛てっ!」
「寝れるわけないでしょ!」
寝不足も相まって、イラっとした久米は目を細め、縄手に振り返る。
そこには存在感絶大に、男の事情で大きくなった【縄手くん】がパンツ越しに鎮座していた。
思わず歯磨き粉をゴクッと飲み込んでしまう久米。
更に自分の気持ちを知りながら、そんな姿を平気で晒すデリカシーの無さに、腹が立ってしまう。
「先生!ええ加減にしてくださいよ!」
「俺で遊んでるんッすか!」
歯ブラシを力いっぱい握りしめてしまう。
そんな久米をよそ目に、入口そばの姿見に自分の筋肉を映し、ボディービルダーの真似事をする。
「やっぱり俺は持ってるでぇー‼。可愛い生徒を守る、運と力やなぁー!」
ドヤ顔が窓から入る太陽の光に輝く。
生きていると信じていたおやじが、やっぱり亡くなっており、二度と会えない事実に、本当なら今頃、絶望状態で落ち込んでいるはずだった。
すべて話せてはいないけど、昨夜の出来事の何もかもを、一瞬で吹っ飛ばしてしまった縄手先生の存在。
自分の中にある願いは、希望的観測の中のおやじより、現実的に刺激を与える縄手先生の方を欲していたのではないかと、口をゆすぎながら、ポージングを繰り返す後ろ姿を横目にしていた。
場所を縄手に譲り、姿が見える位置に立つ。
「先生。俺、今お金がなくて・・・。帰りの新幹線代とか・・・。」
「大丈夫やって!気にすんな!出世払いでええで!」
歯ブラシに歯磨き粉をつけながら、親指を立てる。
「すいません。」
「もうネット予約終わってるから、六時の始発で帰るで!」
「はい。わかりました。」
「東京駅で弁当とか買おうか。」
「はい。」
何気なく会話をして久米だが、歯ブラシが動く度に、腕、胸、背中、肩や足の筋肉が揺れる縄手の姿には、気が狂いそうになっていた。
これはもう最悪な悪夢なんじゃないかと思いながらも、見つめてしまう。
『もう我慢できない!今すぐ抱きつきたい‼一晩中我慢していたのに・・・限界や。先生の胸に飛び込みたい。モッコリに顔を埋めたい。できるなら咥えたい。一つになりたい。ああああああああ!やばい!やばい!』
『ガマン!ガマン!ガマン‼』
喘ぎ声に近いため息をつき、拳を握りしめ目を閉じ俯く久米。
「じゃあ、そろそろ行くか。」とバスルームから降り立った。
不意に
「お前!モッコリさせすぎやろ!」
浴衣の隙間からはみ出した、久米のパンツの中で固くなっているものに目が留まった縄手は、人差し指で先っぽを思い切りはじいた。
「&“%(=‘&%)‼」
突然の激痛に、目を見開き、顔を歪ませ股間を押さえる久米は、目悪戯っぽく笑う縄手を
「もう無理や‼」
力いっぱい、ベッドに押し倒した。
縄手に覆いかぶさった久米は大声で訴える。
「先生!好きや!ホンマに好きやねん!わかってや!」
抱きしめる腕の力が増していく。
唇を合わせようと引き寄せる。
力任せに顔を一気に近づける。
「ちょ!ちょ!ちょっと待て待て、待てって‼」
縄手は慌てて久米の両肩を掴み、顔を背けながら持ち上げる。
予想はついていたが、拒否された口づけに、やはりショックが隠し切れず、今にも泣き出しそうな悲しみで満ちた表情になった久米は、目を逸らし俯いた。
ゆっくり上半身を起こしながら、縄手は諭すように口を開く。
「あのな。前にも言ったけど、俺には婚約者がいて、間違いなく女性が好きや。」
太腿の上にまたがる様になった久米は小さく頷く。
「でもな。なんやろ。お前のこと考えたらな、やっぱり胸が苦しくなるんや。」
「こんな気持ち、なんて言ってええんか、全くわからんけど。恋とか愛とかって聞かれても、ようわからん。」
ただただ小さく頷く。
「でも、正直に言うわ。中学生っぽくなるけど、お前の事、LIKEやなくて、LOVEに近いと思うわ。生徒にこんな感情抱くとか、ホンマ教師失格やな・・・。」
久米の頷きが止まる。
「だからな、久米。」
両手で顔を上げさせ、お互い見つめ合う形になる。
「だから、俺なりの答が出るまで、少し待ってくれ。なっ。」
久米はその言葉に、にじみ出る涙を手で拭い、口を震わせ閉じたまま頷いた。
鼻をすすりながら、何度も頷き、何度も涙を拭う久米を縄手はゆっくりと抱き寄せ包み込み、頭を優しく撫でた。
甘えるように両手を背中に回した久米は、嗚咽するように小刻みに揺れていた。
「大丈夫か?ちょっと落ち着くまで待つか?」
・・・・・・・・・・
「先生・・・・。」
「ん?どうや、ゆっくりするか?」
「先生・・・・。出ちゃいました・・・・。」
・・・・・????‼‼‼
「ヴェエエエエエエエ⁉」
「走れ!走れ!」
中央線ホームから新幹線乗り場まで、まだ人影まばらな東京駅構内を、縄手と久米の姿が駆け抜ける。
「お前がパンツ洗うからギリギリやんけ!」
「ノーパンは嫌やって!」
――――――――――
あの日以来、こんな気持ちに戻れるなんて思ってもいなかった。校舎の窓から見えていた景色の色を、二度と見れないと思っていた。もう何もかも全て、終わってしまったと思っていた。
――――――――――
六時ちょうど、発車のベルが鳴り響くホームから、新幹線に滑り込む。
――――――――――
自分から作ってしまった距離。
傷付くことを覚え、経験を積むたびに、予防線を張ってしまう。前が見えれば見えるほど、進むより先に逃げ道を探してしまう。
売り言葉に買い言葉で、縄手先生の婚約者の斎部さんに啖呵を切ったものの、自分から作ってしまった深い溝を、どう埋め合わせればいいのか、全くわからなかった。
――――――――――
西へ滑り進む新幹線の中。眠りに落ちた縄手の頭が、ウトウトと窓の外を眺める久米の肩に寄りかかる。
――――――――――
それでも、自分の感情を忘れることなんてできなかった。思いが色褪せないから、いつまでも変わることができなかった。せめて夢の中だけでもと、目が覚めたら泣いていた時もあった。
そんな朝ももう終わる。俺はこの人と生きていきたい。絶対あきらめたりしない。この人の笑顔を独り占めして見せる。
――――――――――
八時八分着、京都駅の階段を降り、八時三十五分発の橿原神宮前行の近鉄特急に乗り換える。東京駅で弁当を買えなったので、この間に朝食をとる。
自分のお茶を飲み干した縄手がおにぎりを頬張りながら、香月の手からぺットボトルを取り上げ、口をつける。
――――――――――
その為にボロボロになってもいい。今、俺は本当に幸せだと思えるんだ。この人は一人大都会に彷徨う俺を、全てをかなぐり捨て迎えに来てくれた。そして、前とは違い真剣にLOVEに近い存在だと言ってくれた。教師失格だと言ってくれた。こんなにうれしいことはない。
お父さん、ごめんなさい。
【俺は俺】でした。
もう大丈夫です。
――――――――――
九時三十分に橿原神宮前駅に到着した特急電車から、久米と縄手は飛び出した。改札口で待っていてくれた、あきれ顔の木之本からユニフォームを受け取り、縄手の後輩教員の車に乗り込む。
なんとか間に合い、頭を深く下げ謝る久米に、安堵の表情の部員たち。
【大和まほろば高校】と学校名の入ったプラカードを持つ山本を先頭に、梅雨明けを歌う蝉の大合唱に包まれた【さとやくスタジアム】にて、夏の高校野球選手権、奈良県大会の開会式が今始まった。
奈良県橿原市、
七月の空はどこまでも高く。広く。深く。
これから始まる真夏の物語を映しだすスクリーンを広げ
太陽の下を行進するそれぞれの思いの色のままで輝いていた。
【この話の感想や★をいただけると嬉しいです!よろしくお願いいたします!】
フワフワ揺れ漂う白き世界を、夢中遊行する様は、体があるがゆえの苦しみに、溺れ、ただ朽ちていくことを望む姿だった。
「フラフラ歩くな!酔っ払いが!」すれ違う傘の先にぶつかる度に投げつけられる罵声。
まるでゾンビが徘徊してるがごとく、避けられ投げかけられる嫌悪の視線。
よろけた歩道の段差に足をすくわれ、雨水溜まるアスファルトに体を打ち付ける。
口で息をするたびに喉の奥を泥水が流れ込み、首を締め付ける。
声にならない悲鳴を引きずり、絶望を越えて行く【諦め】は、闇の深域へと一歩一歩、久米をゆっくりと導いていた。
何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。
「・・・もうええわ・・・・疲れた・・・」
道路わきの自販機に、倒れるようにもたれかかった体は、最後の力を振り絞り、ヘッドライト行きかう国道へと踏み出した。
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二枚の小さき光が、久米の霞んだ目に降りる。
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突然、重力が変動したかのように、激しく体が上下左右に揺さぶられる。
他の力が今、自分の意志を完全無視し、真っ直ぐに干渉した。
力強く引き寄せられた久米のぼやけた頭の中心に声が響く。
「久米――――っ‼久米――――――っ‼」
しっかりと受け止められた腕の中で、ほとんど息も出来なく、小さくひきつけを起こす。
「久米――――っ‼久米――――――っ‼」
痙攣を繰り返しながら、届く声に反応した。
「ほっといてや・・・・ほっといて・・・」
今にも消えそうな光の一滴が零れて落ちる。
「久米――――――っ‼しっかりしろぉーー――っ‼」
揺ぎ無くつかまれた肩に伝わる温もり。
「久米!おい!久米!久米香月‼」
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「・・・・・この声・・・・・・知ってる。」
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閉じていたまぶたが、僅かに動く。
白き世界の濃霧が流れ、目の前に薄闇と人工色のぼやけた世界が戻ってくる。
「久米!」
そこには、ずぶ濡れのまま全力で救い出そうと、必死になった顔の縄手が、真っ直ぐに見つめていた。
虚ろな瞳が重なる。
「せ・・ん・せい・・。」
首を支えていた力が、抜け落ちた。
雨はいつの間にか止み、遥か彼方に輝く満月の光が、午前二時の新宿を、何も言わずにただ優しく包み込んでいた。
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月光に照らされた【藤原京跡】を臨む鴨公小学校の校舎屋上、大きめのヘッドフォンを首にかけた雲梯曽我が拍手を送っていた。
「いやぁーすごい!すごい!ブラボー‼」
「ひっさしぶりにエエもん見せてもらったわーぁ。」
音を立てないように、何度も手を叩き称賛する。
「なるほどねぇーん。雅楽と金龍かぁー。で、思いつくんは・・・あいつらかぁ。でもこの場所にその氏、関係ないんちゃうん。まあ、とりあえず姐さんに報告や。」
喝采する手を止め、ヘッドフォンをかけ直した。
「つーか、奈良、ジメジメし過ぎやっちゅーに。」
一陣の風が吹く。
天満月に浮かびあがる耳成山・香具山・畝傍山が影を引く橿原市に、夜明けが近づく。
【さとやくスタジアム】
夏の高校野球選手権、奈良県大会の開会式まであと八時間。
―――――――――――
いくばくの時を揺られていたのだろう。久米は一定のリズムで感じる重力に目を覚ました。
預け切った体重に伝わる暖かさ。
縄手に背負われた久米はゆっくり顔を起こした。
「じっとしといてや。」
目を覚ましたことに気付き優しく伝える。
「俺、重いっすよ・・・もう大丈夫なんで、すいません・・・。」
申し訳なさと、恥ずかしさで離れようとした。
「じっとしとけって。これくらい平気や。」
背負う久米に力が戻り、足取りが不安定になる。だけど縄手は離さない気持ちでしっかりと背負い直し、また一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めた。
「すいません・・・。」
小さく溜息をつき頭を下げる。
「お前さぁ、いっつもどんだけ、心配かけさせるんや。」
反省中なのか、項垂れた久米につぶやく。
再び謝る久米は、少し脱力し体を預けた。
縄手の力強く確実に前へ進む、背中から伝わる安心感に、冷え切っていた心の源まで温まるようだった。
街灯に照らされた新宿通りを東へ向かう。
「先生はなんでここにいるんですか?」
「お前が心配やからに決まっとるやろ‼」
すっとぼけたような質問に、呆気にとられながらも、久米を横目に素早く突っ込む。
ぐうの音も出ない。
「それで。お父さんには会えたんか?」
何も言わずに首を横に振る。
「そっかぁ・・・・残念やったなぁ。」
何とか励ませないか、大きく息を吐いた縄手の目の前に、久米の手のひらが差し出された。
「おやじです。」
開いた右手の中には、一見白樺の木片かと見間違う骨が包み込まれていた。
「・・・・・・え。」
それを見た縄手は一瞬歩調が乱れ、極限に困惑しながらも、これ以上触れてはいけない領域だと思い、「辛過ぎんなぁー。」と俯いた。
「一カ月前ほどに、癌で死んでたみたいです・・・。」
久米のため息が首にかかる。
「そうかぁー。会えると、思ったのになあ・・・・。」
縄手のつぶやきに黙って頷き、手のひらを閉じた。
シャッターを下ろしたテナントの林をゆっくりと進んでゆく。
目の前で、新宿通りと外苑東通りが交差する。
信号待ちで立ち止まった縄手に「先生。」「うん?」「俺、もう歩けますよ。」久米は伝えたが、「あかん。」と一蹴され、ずり落ちそうな体を力強く持ち上げられた。
時折ベッドライトが二人の背中を照らしては消えて行く。それでも橿原と比べれば十分すぎるくらい明るく、進むべき道が見ている気がした。
「でも、連絡くらいくれても、よかったんちゃうんか?」
青信号で歩き出した縄手は愚痴をこぼす。
「・・バッグごと、全部無くして・・・・」
「えー‼どうするつもりやったんや?」
「おやじに相談しようかと。」
「あ・・・・あーそうかぁ。」
縄手は、じゃあその骨の入手先や、今着ているサイズの合っていない服装は、一体どこでどうなってそうなったか、時系列を聞きたくなった。
しかし久米を見つけた時の様子を思うと、今聞くべきことではないように思い、話を飛ばした。
「でも、あそこで会えたんは、ホンマに奇跡やで。」
「ずぶ濡れで彷徨ってるん見つけた時は、めちゃめちゃ焦ったけどな。」
・・・・・・・・
その言葉にしばらく黙っていた久米は、ポツリと口を開いた。
「・・・ほとんど覚えてないんです。先生に見つけてもらえなかったら、俺、どうなってたか・・・。」
ため息をつき
「最近の俺、本当におかしくて。」
「自分の奥に、別の誰かがいるみたいなんです。知らんうちに、そいつに体を明け渡してる感じで・・・・・。」
うな垂れた。
「感情が爆発して、抑えられないってやつか。」
「わからないです・・・。」
縄手の地面を力強く踏みしめ歩く音が、耳に届く。
「そっか。」
「でも、まあ。無事でよかった。神様信じてみる気になったで。」
笑顔で久米に顔を向ける。
「本当にごめんなさい。」
「とりあえず、みんな心配してるから、俺から後で連絡入れとくわ。」
大きく頷いた久米は脱力し、縄手の背中に顔を埋め、深く沈みこんだ。
「先生。ええ匂いする。」
「おふぅ・・・・・汗と雨の臭いやろ。」
「めっちゃええ匂い。」
顔を押し付け大きく息を吸いながら、ぎゅっと抱きしめる。
「しゃーないなぁー。今日だけやで。」
目を閉じ、自分の首元に顔を埋めて息をする久米に「ハハッ」と微笑んだ。
―――――――――――
「えっとぉ・・・・・・・・・・。」
すっかり顔色が良くなったと言うよりは高揚している久米は、なんの前触れもなく、目の前に広がった状況に、心臓がはち切れんばかりだった。
「悪い。セミダブルの部屋しか空いてなかったんや・・・・。」
縄手はこめかみをポリポリと掻く。
辿り着いた四ツ谷駅近くで、こんな時間帯にずぶ濡れの二人を、心置きなく迎え入れてくれたビジネスホテルの部屋には、セミダブルのベッドがこれ見よがしに置かれていた。
ベッドの存在感に圧倒され、目と口を大きく開けたまま、耳まで真っ赤になっている久米に気付いた縄手は
「お前!エロいこと考えんなよ‼」
頭をはたく。
「痛てっ!」
体をビクつかせながらも、
『てことは、一緒に寝る??』
『二人っきりや・・』
『密室・・・』
『え?寝る?寝るって何?』
『ガチで⁉』
『ヤバい。嘘やろ。』
視界から離れないベッドの上に寄り添うように並んだ枕と浴衣。
上目遣いに縄手を見つめる。
急展開にぶっ倒れそうになりながら、股間が一気に熱を帯び盛り上がる。
「お!お前なぁー!」
サイズの合わないスピチピチに張ったウェットパンツで、股間を浮き上がらせ息を荒くしたまま、濡れる瞳で見つめる久米に、バスタオルを押し付ける。
「ほら‼先にシャワー浴びて来いって。」
「え?シャ・・シャワー?」
「マジで早よ‼」
シャワーという言葉までもがエロティックに耳でこだまする。
「早よ!入れって!」
意識が飛んで行きそうな久米の背中を無理矢理押し、ユニットバスに放り込んだ縄手の目は優しく笑っていた。
シャワーの音がする代わりに、久米の雄叫びが壁を突き抜け炸裂する。
「うおおおおおおおおぉーーーーーー‼」
「やかましい‼」
スマホを手にした縄手は耳に当てた。
「君は一体、授業をほったらかしにして、何してんだ‼」
案の定、校長の怒鳴り声が、スピーカーをオンにしなくとも部屋に響き渡る。
久米を保護し、今はビジネスホテルにいること、朝一に戻りそのまま開会式会場に連れていくことを、何度も何度も頭を下げ謝りながら伝えた。
電話を切り、大きく溜息をついた縄手は思い切り伸びをしようと腕を伸ばした。
不意に背中に何かを感じて振り返る。
久米がユニットバスから、顔だけを覗かせこちらを『じっーーーーっ』と見ている。
「何や‼」
ギョッとびっくりした縄手は飛び上がった。
「先生・・・・一緒に・・・・シャワー浴びま・・せんか?」
「アホか‼早よ浴びろ‼明日、お前、開会式やろ!五時には出るぞ!」
スマホを投げつけるように振り上げた。
結局、濡れた服をホテルのコインランドリーで洗濯乾燥させたり、全く食していなかったため、近くのコンビニに買い出しに行ったりで、空が白く明ける頃に部屋の電気を消した。
ベッドわきの床でいびきをかき、浴衣を開けさせ爆睡する縄手。
久米は、そんな姿をうつぶせになり見下ろしながら、
「うわぁーーーーホンマ、ヤバいって!!」
モヤモヤ、ムラムラを律する思いで、ため息をつき、血液が集まった股間をベッドに何度も擦り付けていた。
一睡もできないままアラームが鳴る。
この短時間でいろんなものと戦い、更に疲れ切ってしまっていた久米は、目の下に浮かび上がるクマを口惜しく見ながら歯を磨いていた。
「久米おはよう!さすが若いなあ!もう起きたんか!」
荒く羽織った浴衣から、筋肉とセミビキニブリーフ一枚の姿を露わにした縄手は、歯ブラシを不機嫌そうに動かす久米のケツを叩いた。
「痛てっ!」
「寝れるわけないでしょ!」
寝不足も相まって、イラっとした久米は目を細め、縄手に振り返る。
そこには存在感絶大に、男の事情で大きくなった【縄手くん】がパンツ越しに鎮座していた。
思わず歯磨き粉をゴクッと飲み込んでしまう久米。
更に自分の気持ちを知りながら、そんな姿を平気で晒すデリカシーの無さに、腹が立ってしまう。
「先生!ええ加減にしてくださいよ!」
「俺で遊んでるんッすか!」
歯ブラシを力いっぱい握りしめてしまう。
そんな久米をよそ目に、入口そばの姿見に自分の筋肉を映し、ボディービルダーの真似事をする。
「やっぱり俺は持ってるでぇー‼。可愛い生徒を守る、運と力やなぁー!」
ドヤ顔が窓から入る太陽の光に輝く。
生きていると信じていたおやじが、やっぱり亡くなっており、二度と会えない事実に、本当なら今頃、絶望状態で落ち込んでいるはずだった。
すべて話せてはいないけど、昨夜の出来事の何もかもを、一瞬で吹っ飛ばしてしまった縄手先生の存在。
自分の中にある願いは、希望的観測の中のおやじより、現実的に刺激を与える縄手先生の方を欲していたのではないかと、口をゆすぎながら、ポージングを繰り返す後ろ姿を横目にしていた。
場所を縄手に譲り、姿が見える位置に立つ。
「先生。俺、今お金がなくて・・・。帰りの新幹線代とか・・・。」
「大丈夫やって!気にすんな!出世払いでええで!」
歯ブラシに歯磨き粉をつけながら、親指を立てる。
「すいません。」
「もうネット予約終わってるから、六時の始発で帰るで!」
「はい。わかりました。」
「東京駅で弁当とか買おうか。」
「はい。」
何気なく会話をして久米だが、歯ブラシが動く度に、腕、胸、背中、肩や足の筋肉が揺れる縄手の姿には、気が狂いそうになっていた。
これはもう最悪な悪夢なんじゃないかと思いながらも、見つめてしまう。
『もう我慢できない!今すぐ抱きつきたい‼一晩中我慢していたのに・・・限界や。先生の胸に飛び込みたい。モッコリに顔を埋めたい。できるなら咥えたい。一つになりたい。ああああああああ!やばい!やばい!』
『ガマン!ガマン!ガマン‼』
喘ぎ声に近いため息をつき、拳を握りしめ目を閉じ俯く久米。
「じゃあ、そろそろ行くか。」とバスルームから降り立った。
不意に
「お前!モッコリさせすぎやろ!」
浴衣の隙間からはみ出した、久米のパンツの中で固くなっているものに目が留まった縄手は、人差し指で先っぽを思い切りはじいた。
「&“%(=‘&%)‼」
突然の激痛に、目を見開き、顔を歪ませ股間を押さえる久米は、目悪戯っぽく笑う縄手を
「もう無理や‼」
力いっぱい、ベッドに押し倒した。
縄手に覆いかぶさった久米は大声で訴える。
「先生!好きや!ホンマに好きやねん!わかってや!」
抱きしめる腕の力が増していく。
唇を合わせようと引き寄せる。
力任せに顔を一気に近づける。
「ちょ!ちょ!ちょっと待て待て、待てって‼」
縄手は慌てて久米の両肩を掴み、顔を背けながら持ち上げる。
予想はついていたが、拒否された口づけに、やはりショックが隠し切れず、今にも泣き出しそうな悲しみで満ちた表情になった久米は、目を逸らし俯いた。
ゆっくり上半身を起こしながら、縄手は諭すように口を開く。
「あのな。前にも言ったけど、俺には婚約者がいて、間違いなく女性が好きや。」
太腿の上にまたがる様になった久米は小さく頷く。
「でもな。なんやろ。お前のこと考えたらな、やっぱり胸が苦しくなるんや。」
「こんな気持ち、なんて言ってええんか、全くわからんけど。恋とか愛とかって聞かれても、ようわからん。」
ただただ小さく頷く。
「でも、正直に言うわ。中学生っぽくなるけど、お前の事、LIKEやなくて、LOVEに近いと思うわ。生徒にこんな感情抱くとか、ホンマ教師失格やな・・・。」
久米の頷きが止まる。
「だからな、久米。」
両手で顔を上げさせ、お互い見つめ合う形になる。
「だから、俺なりの答が出るまで、少し待ってくれ。なっ。」
久米はその言葉に、にじみ出る涙を手で拭い、口を震わせ閉じたまま頷いた。
鼻をすすりながら、何度も頷き、何度も涙を拭う久米を縄手はゆっくりと抱き寄せ包み込み、頭を優しく撫でた。
甘えるように両手を背中に回した久米は、嗚咽するように小刻みに揺れていた。
「大丈夫か?ちょっと落ち着くまで待つか?」
・・・・・・・・・・
「先生・・・・。」
「ん?どうや、ゆっくりするか?」
「先生・・・・。出ちゃいました・・・・。」
・・・・・????‼‼‼
「ヴェエエエエエエエ⁉」
「走れ!走れ!」
中央線ホームから新幹線乗り場まで、まだ人影まばらな東京駅構内を、縄手と久米の姿が駆け抜ける。
「お前がパンツ洗うからギリギリやんけ!」
「ノーパンは嫌やって!」
――――――――――
あの日以来、こんな気持ちに戻れるなんて思ってもいなかった。校舎の窓から見えていた景色の色を、二度と見れないと思っていた。もう何もかも全て、終わってしまったと思っていた。
――――――――――
六時ちょうど、発車のベルが鳴り響くホームから、新幹線に滑り込む。
――――――――――
自分から作ってしまった距離。
傷付くことを覚え、経験を積むたびに、予防線を張ってしまう。前が見えれば見えるほど、進むより先に逃げ道を探してしまう。
売り言葉に買い言葉で、縄手先生の婚約者の斎部さんに啖呵を切ったものの、自分から作ってしまった深い溝を、どう埋め合わせればいいのか、全くわからなかった。
――――――――――
西へ滑り進む新幹線の中。眠りに落ちた縄手の頭が、ウトウトと窓の外を眺める久米の肩に寄りかかる。
――――――――――
それでも、自分の感情を忘れることなんてできなかった。思いが色褪せないから、いつまでも変わることができなかった。せめて夢の中だけでもと、目が覚めたら泣いていた時もあった。
そんな朝ももう終わる。俺はこの人と生きていきたい。絶対あきらめたりしない。この人の笑顔を独り占めして見せる。
――――――――――
八時八分着、京都駅の階段を降り、八時三十五分発の橿原神宮前行の近鉄特急に乗り換える。東京駅で弁当を買えなったので、この間に朝食をとる。
自分のお茶を飲み干した縄手がおにぎりを頬張りながら、香月の手からぺットボトルを取り上げ、口をつける。
――――――――――
その為にボロボロになってもいい。今、俺は本当に幸せだと思えるんだ。この人は一人大都会に彷徨う俺を、全てをかなぐり捨て迎えに来てくれた。そして、前とは違い真剣にLOVEに近い存在だと言ってくれた。教師失格だと言ってくれた。こんなにうれしいことはない。
お父さん、ごめんなさい。
【俺は俺】でした。
もう大丈夫です。
――――――――――
九時三十分に橿原神宮前駅に到着した特急電車から、久米と縄手は飛び出した。改札口で待っていてくれた、あきれ顔の木之本からユニフォームを受け取り、縄手の後輩教員の車に乗り込む。
なんとか間に合い、頭を深く下げ謝る久米に、安堵の表情の部員たち。
【大和まほろば高校】と学校名の入ったプラカードを持つ山本を先頭に、梅雨明けを歌う蝉の大合唱に包まれた【さとやくスタジアム】にて、夏の高校野球選手権、奈良県大会の開会式が今始まった。
奈良県橿原市、
七月の空はどこまでも高く。広く。深く。
これから始まる真夏の物語を映しだすスクリーンを広げ
太陽の下を行進するそれぞれの思いの色のままで輝いていた。
【この話の感想や★をいただけると嬉しいです!よろしくお願いいたします!】
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