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第19話
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それは、遠くで打ち鳴らされる太鼓の音のように、脳の裏側で鳴り響いていた。
久米香月は不慣れなはずの大阪のビジネス街を何かに導かれるように、迷うことなく歩いていた。
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
遠く、でもはっきりと耳元で声がささやく。
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
震えが止まらない、歯ぎしりが止まらない、髪の毛が逆立つように電気が体中を駆け巡る。
すれ違う人を避けることなく、目を一点に据え、歩調を乱すことなく歩き続ける。
追い越しざまに子どものカバンが当たり、幼い体がよろけるが、振り返ることなく久米は歩き続けた。
「実は、彼女の妊娠がわかって。俺、パパになるかもしれないんですよ!」
「子どもが産まれるまでにやっておいた方が良いことって、何かありますかね?」
「せや!名前も考えやな!なんて名前がええんやろ?」
「女の子やったらカグヤ?とか?ベタ過ぎるか・・・やっぱ人気の名前はやめた方がええんかな?」
「男の子やったらヤマトとか?かっこええやん!」
「先生どう思います?」
縄手の至上の愛を手に入れたかのように弾む声が、深く打ち付けられた楔のように、鼓膜の奥に居直る。
「絶対に壊す!」
何度もリフレインする縄手の声に、久米は頭を掻きむしった。
立ち並ぶ街路樹から突き刺すアブラゼミの叫びが更にイラつかせた。
斎部優耳の妊娠。
縄手章畝先生の子ども。
赤ちゃんを抱いた斎部に縄手先生が寄り添い、笑顔で笑い合っている。
「先生!先生!」
いくら叫んでも、縄手先生はこちらを向かない。
「先生!俺はここにおるで!先生!」
こちらに背を向け歩き出す先生の背中が小さく霞む。
「先生!俺はここやって!どこ行くんや!久米香月はここにおる!」
見据えた一点が涙でぼやける。
ネット界で沢山の人に応援してもらい、校内でもルールを守りながら一緒になれる時間もあった。野球だって、クラスだって、通学路だって、同じ気持ちを過ごせた。
過ごせていると思っていた。
公認の仲となった気分で、もう交際している恋人のように安心しきっていた。斎部優耳に勝ったと思って油断していた自分がいた。
「私から、縄手を奪ってみせな!」
「人は人を愛するんだよ。人は性別を愛する訳じゃない。」
「一度きりで、一瞬の青春を無駄にするなよ!」
「君がどうしたいかだよ。」
斎部の勝ち誇る余裕の表情が笑う。
縄手先生と一緒にキャッチボールしたり、海に行ったり、服を選び合ったり、手料理を作りあったり、ジムで合トレしたり・・・・
根こそぎ、あの女に奪われてしまった。
あの女にハメられた。
俺をだしにして、先生との仲をさらに深くしたに決まっている。
俺が失望で悲しんでいたことも、俺が絶望で苦しんでいたことも、あの女が話題にして笑っていたに違いない。
クソ!ムカつくんや!絶対に許さん!!
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
久米は躊躇することなく、高層ビルの大きな自動ドアを開けた。
エントランスフロアは、いかにも大手企業らしい造りだった。冷房の効いた、ひんやりとした空気。天井まで届くガラス張りの吹き抜けが、視界を大きく開いていた。
フロアの一角にはコーヒーショップもあり、平日の昼下がり、多くの人々が行き来していた。
そんな場所で制服姿にバックパックを背負った日焼けした少年の姿は、場違いな存在として目を引いていた。
しかし人々は一瞬だけ視線を向けると、それぞれの目的地へ向かい、立ち止まることはなかった。
エントランスフロアの奥に設けられたエレベーターが開き、斎部はしなやかに髪を揺らし、迷いのない足取りで姿を現した。
変に目立つ久米を一瞬で見つけた斎部は、足早に近付いた。
「おう!少年!やっぱり来たか!」
受付スタッフがスッと立ち上がり頭を下げる。
抑えきれない歯ぎしりと拳で床を凝視していた、久米はその声に顔を上げた。
勝ち誇ったように微笑みながら近づく斎部に、久米は一気に詰め寄る。
大きく息を吸い込み、声を出そうと久米が身構えた瞬間、
「ここではやめろ。場所を変える。」
久米を包むただならぬ気配に、笑みをかき消し、眉をひそめた斎部は、右手のひらを久米の顔の前に突き出した。
そして素早く踵を返し、自動ドアへと歩き出した。
高層ビルの裏側には広大な公園が、都会人たちの唯一のオアシスのようにそこに広がっていた。
風のないヒートアイランド、直射日光が陽炎を作り出す。
ベンチで日焼けする若者、噴水ではしゃぐ子どもたち。
七月の夏本番を謳歌している人々は、久米の存在に誰が気付いていただろう。
更に爆音になった蝉の悲鳴が、久米の胸の奥を引っ搔き回す。
斎部と同じ空気を吸うことに嫌悪感を抱き距離を取りながら後を追う。
こめかみを流れ落ちる汗を拭うこともしないまま、前を歩く斎部の背中を睨みつけていた。
遊歩道の分岐を、人影の少ない雑木林へ向かう。リングのコーナーに立ち向かい合うボクサーのように距離を開け、久米はその後について行った。
公園のうっそうとした木々が広がるその一角に小さな社があった。
近くの自販機の前で斎部は立ち止まり、スマホを当てる。
「アイスコーヒ―でええか?」
振り返ったその言葉に
「いらんわ‼」
久米は瞬発的に乱暴に返答する。
「・・・あっそ。」
斎部は久米から視線を外して、ウーロン茶を押した。
取り出し口に落ちるボトルの音に、久米は舌打ちをした。
「ペットボトルのウーロン茶、イマイチやねんなぁー」
キャップを回し、一口飲む。
まるで不良映画のように、距離を開けて睨みを利かせたままの久米に、怪訝そうな視線を向け
「どうした?いったい何があった。」
斎部は声をかけた。
「は?」
久米は口を半分開けたまま、吐き捨てる。
「・・・・・・・・。」
ふたりを置き去りにしたような蝉の大合唱が、辺りを包み込む。
それ以上なにも話さず、ただ睨み続ける姿に小さく息を吐き、首をかしげた斎部は、視線を反らし、来た道を引き返すように踵を返した。
無言で近付く姿に、後ずさりしてしまった久米は、距離を詰められる前に叫び声を上げた。
「お前!卑怯や!妊娠なんて、卑怯や!」
妊娠と言う言葉に、唖然とした顔で立ち止まった斎部は
「だれに聞いた?」
視線を戻し、肩で息を繰り返す久米を見た。
「・・・縄手からか?」
久米は小さく頷いた。
その様子に、大きく溜息をつき脱力状態になった斎部は天を見上げた。
「なんでや・・・あいつはアホか・・・」
確かに、産婦人科の診療内容が書かれた紙を無造作に置いていたのは自分だが、それを縄手が見つけていたとは思っていなかった。
頭の中で整理し、色々諦めた斎部は腕を組み、久米に向き直った。
「で。それがどうした。」
「卑怯なんじゃ!」
「妊娠ってなんやねん!」
「ホンマに先生の子かよ!」
「お前みたいなクソ女!誰が好きになんねん!」
両手を強く握りしめたまま、蝉の大絶叫に負けない声で久米は吠えたてた。
「先生を惑わせるな!」
「お前は魔女や!」
「嘘ばっかりつきやがって!」
「先生を返せ!」
久米の暴言が増えていく度に、斎部は頬が緩み、今にも笑い出しそうになるのをこらえていた。
「どうせ別の男の子供に決まってる!」
「そんなビッチな服着やがって!」
目を大きく見開き、必死に吠えたてる久米の姿に、斎部は耐えられそうになくなり、笑いをごまかすためにペットボトルのウーロン茶を一口含んだ。
「お前に、本当の愛なんかわかるわけないやろ!」
「俺らの邪魔をすんな!」
「俺らのは本当の愛なんじゃ‼」
夢の中で、我を取り戻すように、両親にバットを振り下ろしていた。
今ならはっきり覚えている。
縄手章畝先生の事を愛していること。
誰にも取られたくないこと。
自分の事だけをずっと見ていて欲しいこと。
忙しすぎた毎日や、誰かの願いに応えなければならないという気持ちが霧となり、
その思いを隠していたのかもしれない。
『本当の愛』が不意打ちにツボに入った斎部は、思わず飲みそこなったウーロン茶を吹いてしまった。
「はっはっはっはっは!」
片手を久米に差し出し、『ちょっと待ってくれ』のポーズをとり、腹を抱えて爆笑し始めた。
その人を馬鹿にした態度に久米は髪を逆立て、地団太を踏み、激しく歯ぎしりを起こした。
「ざけんな!」
「なにがおもろいねん!」
「馬鹿にすんのも、ええかげんにせーや!」
「正々堂々と言ったくせに!」
「卑怯者が!」
喉の奥がはち切れそうな大声で、久米は大絶叫する。
「ホンマタンマ!ちょー待ってくれ。」
笑いが治まらない斎部はポケットからハンカチを取り出し、服にかかったウーロン茶をふきとり始めた。
「お前!ちょっとええ会社やからって、調子にのんなよ!」
気が荒れ狂う久米は叫び続ける。
染みをふき取り終えた斎部は、縄手を手放したくない一心で、死に物狂いで吠え続ける久米の姿を、可愛いと思い始めていた。
「落ち着け!少年!」
肩で大きく息を繰り返す姿に、頬を緩めながら向き直った。
「残念ながら、間違いなく縄手と私の子どもや。」
「お前の入る余地など、微塵もない。」
右腕を腰に置いた。
「嘘や‼縄手先生はお前のことなんか、愛しとるか!俺の事を愛してくれとるんじゃ!」
久米の吐いたセリフに、斎部の笑いがさらに高鳴る。
「お前、ホンマにお子ちゃまやな。妊娠に愛もへったくれもあるか!」
「縄手の遺伝子と私の遺伝子が重なりひとつになっただけやろーが。」
蔑んだ目で見つめる斎部に久米の声は大絶叫となる。
「うるさーーーーーい!やかましいんじゃーーーーーぁ!」
「それにお前。縄手に愛されてる自信をこれっぽっちも感じんぞ。」
「うるさい!うるさい!うるさい!」
「お前は卑怯や!俺から、俺から全部奪うな!だから大人は嫌いや!」
真っ黒に日焼けした顔が、真っ赤になるほど激昂した久米が、背負っていたバックパックを怒りに任せて地面に叩きつけた。
バッグの中に入っていたものが飛び散った。
「妊娠は、女として生まれたことの可能性の一つなんや!」
「女は、お前がどうあがいてもできんことができるんや!」
怒りに体をまかせる久米の様子に、眉をひそめた斎部の気迫が一気に広がる。
――――子どもが産まれる
――――縄手先生の頭の中は子どものことで埋め尽くされる。
――――俺の事を考えなくなる。
――――そして、忘れてしまう。
忘れられた存在は、死んだのと同じ。
先生と一緒に校庭をランニングした日々も。
昇降口で先生に抱きしめられた力強さも。
新宿の雨の日に負ぶってもらった暖かさも。
駅までの手を繋ぎゆっくり歩いた時間も。
全部・・・全部消えてしまう。
体が大きく震える。
それは怒りではなかった。足元が、音もなく消えていくような恐怖だった。
「悔しいか?悔しいよなぁ。」
斎部は顎を少し上げ、完全勝者の憐憫の眼差しを久米に向けた。
「負けを認めろや!それが男同士の限界や!」
久米の視界が突然グラついた。
『壊せ!』
斜め上からの声が、頭のど真ん中に割り込んだ。
久米はその声の余韻が消える前に、散らばったバックパックの中から、反射的にカッターナイフを手に取った。
斎部を睨みつけながら、刃をカチカチと露出させる。
肩で大きく息を繰り返す久米の視界は、フィルターをかけたように色が歪んでいた。
小さく嘲笑した斎部は
「やっぱりお子チャマやな。流されよって。」
小さく鼻で笑い、首を振る。
「・・・それ以上行ったら、知らんぞ。」
『邪魔者は壊せ!』
頭一杯に広がる声に、久米は叫び声を上げた。
「お前の弱さの仮面をぶっ壊してやる。それを被らな生きてこれんかった、その元凶ごとな」
斎部はスッと左手を天高く伸ばした。
「天日鷲翔矢命【あめのひわしかけるやのみこと】の名において。」
「金鵄招来。」
それまで二人の周りを包み込んでいた、蝉の鳴き声がピタリと止まったかと思うと、太陽が分厚い雲に隠されたように、辺りが急に暗くなり霰が降り始めた。
霰が地面に当たり、砕ける音が鼓膜を震わす。
しかしそれは数秒の出来事であり、今度は眩い光が二人の空間を覆った。
思わず久米は目を背ける。
そして、音もなくその光の中から、金色に輝く鵄が現れ、眩い羽ばたきをくねらせながら斎部の伸ばした指先に止まった。
金色の光を放つ鵄は、斎部の手の中で一体化するように黄金の弓矢に姿を変えてゆく。
時が止まったような静寂の中、斎部は弓をゆっくり引きしぼり、青銅の仮面を被る久米香月に狙い澄ました。
久米香月は不慣れなはずの大阪のビジネス街を何かに導かれるように、迷うことなく歩いていた。
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
遠く、でもはっきりと耳元で声がささやく。
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
震えが止まらない、歯ぎしりが止まらない、髪の毛が逆立つように電気が体中を駆け巡る。
すれ違う人を避けることなく、目を一点に据え、歩調を乱すことなく歩き続ける。
追い越しざまに子どものカバンが当たり、幼い体がよろけるが、振り返ることなく久米は歩き続けた。
「実は、彼女の妊娠がわかって。俺、パパになるかもしれないんですよ!」
「子どもが産まれるまでにやっておいた方が良いことって、何かありますかね?」
「せや!名前も考えやな!なんて名前がええんやろ?」
「女の子やったらカグヤ?とか?ベタ過ぎるか・・・やっぱ人気の名前はやめた方がええんかな?」
「男の子やったらヤマトとか?かっこええやん!」
「先生どう思います?」
縄手の至上の愛を手に入れたかのように弾む声が、深く打ち付けられた楔のように、鼓膜の奥に居直る。
「絶対に壊す!」
何度もリフレインする縄手の声に、久米は頭を掻きむしった。
立ち並ぶ街路樹から突き刺すアブラゼミの叫びが更にイラつかせた。
斎部優耳の妊娠。
縄手章畝先生の子ども。
赤ちゃんを抱いた斎部に縄手先生が寄り添い、笑顔で笑い合っている。
「先生!先生!」
いくら叫んでも、縄手先生はこちらを向かない。
「先生!俺はここにおるで!先生!」
こちらに背を向け歩き出す先生の背中が小さく霞む。
「先生!俺はここやって!どこ行くんや!久米香月はここにおる!」
見据えた一点が涙でぼやける。
ネット界で沢山の人に応援してもらい、校内でもルールを守りながら一緒になれる時間もあった。野球だって、クラスだって、通学路だって、同じ気持ちを過ごせた。
過ごせていると思っていた。
公認の仲となった気分で、もう交際している恋人のように安心しきっていた。斎部優耳に勝ったと思って油断していた自分がいた。
「私から、縄手を奪ってみせな!」
「人は人を愛するんだよ。人は性別を愛する訳じゃない。」
「一度きりで、一瞬の青春を無駄にするなよ!」
「君がどうしたいかだよ。」
斎部の勝ち誇る余裕の表情が笑う。
縄手先生と一緒にキャッチボールしたり、海に行ったり、服を選び合ったり、手料理を作りあったり、ジムで合トレしたり・・・・
根こそぎ、あの女に奪われてしまった。
あの女にハメられた。
俺をだしにして、先生との仲をさらに深くしたに決まっている。
俺が失望で悲しんでいたことも、俺が絶望で苦しんでいたことも、あの女が話題にして笑っていたに違いない。
クソ!ムカつくんや!絶対に許さん!!
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
〖壊せ!壊せ!壊せ!〗
久米は躊躇することなく、高層ビルの大きな自動ドアを開けた。
エントランスフロアは、いかにも大手企業らしい造りだった。冷房の効いた、ひんやりとした空気。天井まで届くガラス張りの吹き抜けが、視界を大きく開いていた。
フロアの一角にはコーヒーショップもあり、平日の昼下がり、多くの人々が行き来していた。
そんな場所で制服姿にバックパックを背負った日焼けした少年の姿は、場違いな存在として目を引いていた。
しかし人々は一瞬だけ視線を向けると、それぞれの目的地へ向かい、立ち止まることはなかった。
エントランスフロアの奥に設けられたエレベーターが開き、斎部はしなやかに髪を揺らし、迷いのない足取りで姿を現した。
変に目立つ久米を一瞬で見つけた斎部は、足早に近付いた。
「おう!少年!やっぱり来たか!」
受付スタッフがスッと立ち上がり頭を下げる。
抑えきれない歯ぎしりと拳で床を凝視していた、久米はその声に顔を上げた。
勝ち誇ったように微笑みながら近づく斎部に、久米は一気に詰め寄る。
大きく息を吸い込み、声を出そうと久米が身構えた瞬間、
「ここではやめろ。場所を変える。」
久米を包むただならぬ気配に、笑みをかき消し、眉をひそめた斎部は、右手のひらを久米の顔の前に突き出した。
そして素早く踵を返し、自動ドアへと歩き出した。
高層ビルの裏側には広大な公園が、都会人たちの唯一のオアシスのようにそこに広がっていた。
風のないヒートアイランド、直射日光が陽炎を作り出す。
ベンチで日焼けする若者、噴水ではしゃぐ子どもたち。
七月の夏本番を謳歌している人々は、久米の存在に誰が気付いていただろう。
更に爆音になった蝉の悲鳴が、久米の胸の奥を引っ搔き回す。
斎部と同じ空気を吸うことに嫌悪感を抱き距離を取りながら後を追う。
こめかみを流れ落ちる汗を拭うこともしないまま、前を歩く斎部の背中を睨みつけていた。
遊歩道の分岐を、人影の少ない雑木林へ向かう。リングのコーナーに立ち向かい合うボクサーのように距離を開け、久米はその後について行った。
公園のうっそうとした木々が広がるその一角に小さな社があった。
近くの自販機の前で斎部は立ち止まり、スマホを当てる。
「アイスコーヒ―でええか?」
振り返ったその言葉に
「いらんわ‼」
久米は瞬発的に乱暴に返答する。
「・・・あっそ。」
斎部は久米から視線を外して、ウーロン茶を押した。
取り出し口に落ちるボトルの音に、久米は舌打ちをした。
「ペットボトルのウーロン茶、イマイチやねんなぁー」
キャップを回し、一口飲む。
まるで不良映画のように、距離を開けて睨みを利かせたままの久米に、怪訝そうな視線を向け
「どうした?いったい何があった。」
斎部は声をかけた。
「は?」
久米は口を半分開けたまま、吐き捨てる。
「・・・・・・・・。」
ふたりを置き去りにしたような蝉の大合唱が、辺りを包み込む。
それ以上なにも話さず、ただ睨み続ける姿に小さく息を吐き、首をかしげた斎部は、視線を反らし、来た道を引き返すように踵を返した。
無言で近付く姿に、後ずさりしてしまった久米は、距離を詰められる前に叫び声を上げた。
「お前!卑怯や!妊娠なんて、卑怯や!」
妊娠と言う言葉に、唖然とした顔で立ち止まった斎部は
「だれに聞いた?」
視線を戻し、肩で息を繰り返す久米を見た。
「・・・縄手からか?」
久米は小さく頷いた。
その様子に、大きく溜息をつき脱力状態になった斎部は天を見上げた。
「なんでや・・・あいつはアホか・・・」
確かに、産婦人科の診療内容が書かれた紙を無造作に置いていたのは自分だが、それを縄手が見つけていたとは思っていなかった。
頭の中で整理し、色々諦めた斎部は腕を組み、久米に向き直った。
「で。それがどうした。」
「卑怯なんじゃ!」
「妊娠ってなんやねん!」
「ホンマに先生の子かよ!」
「お前みたいなクソ女!誰が好きになんねん!」
両手を強く握りしめたまま、蝉の大絶叫に負けない声で久米は吠えたてた。
「先生を惑わせるな!」
「お前は魔女や!」
「嘘ばっかりつきやがって!」
「先生を返せ!」
久米の暴言が増えていく度に、斎部は頬が緩み、今にも笑い出しそうになるのをこらえていた。
「どうせ別の男の子供に決まってる!」
「そんなビッチな服着やがって!」
目を大きく見開き、必死に吠えたてる久米の姿に、斎部は耐えられそうになくなり、笑いをごまかすためにペットボトルのウーロン茶を一口含んだ。
「お前に、本当の愛なんかわかるわけないやろ!」
「俺らの邪魔をすんな!」
「俺らのは本当の愛なんじゃ‼」
夢の中で、我を取り戻すように、両親にバットを振り下ろしていた。
今ならはっきり覚えている。
縄手章畝先生の事を愛していること。
誰にも取られたくないこと。
自分の事だけをずっと見ていて欲しいこと。
忙しすぎた毎日や、誰かの願いに応えなければならないという気持ちが霧となり、
その思いを隠していたのかもしれない。
『本当の愛』が不意打ちにツボに入った斎部は、思わず飲みそこなったウーロン茶を吹いてしまった。
「はっはっはっはっは!」
片手を久米に差し出し、『ちょっと待ってくれ』のポーズをとり、腹を抱えて爆笑し始めた。
その人を馬鹿にした態度に久米は髪を逆立て、地団太を踏み、激しく歯ぎしりを起こした。
「ざけんな!」
「なにがおもろいねん!」
「馬鹿にすんのも、ええかげんにせーや!」
「正々堂々と言ったくせに!」
「卑怯者が!」
喉の奥がはち切れそうな大声で、久米は大絶叫する。
「ホンマタンマ!ちょー待ってくれ。」
笑いが治まらない斎部はポケットからハンカチを取り出し、服にかかったウーロン茶をふきとり始めた。
「お前!ちょっとええ会社やからって、調子にのんなよ!」
気が荒れ狂う久米は叫び続ける。
染みをふき取り終えた斎部は、縄手を手放したくない一心で、死に物狂いで吠え続ける久米の姿を、可愛いと思い始めていた。
「落ち着け!少年!」
肩で大きく息を繰り返す姿に、頬を緩めながら向き直った。
「残念ながら、間違いなく縄手と私の子どもや。」
「お前の入る余地など、微塵もない。」
右腕を腰に置いた。
「嘘や‼縄手先生はお前のことなんか、愛しとるか!俺の事を愛してくれとるんじゃ!」
久米の吐いたセリフに、斎部の笑いがさらに高鳴る。
「お前、ホンマにお子ちゃまやな。妊娠に愛もへったくれもあるか!」
「縄手の遺伝子と私の遺伝子が重なりひとつになっただけやろーが。」
蔑んだ目で見つめる斎部に久米の声は大絶叫となる。
「うるさーーーーーい!やかましいんじゃーーーーーぁ!」
「それにお前。縄手に愛されてる自信をこれっぽっちも感じんぞ。」
「うるさい!うるさい!うるさい!」
「お前は卑怯や!俺から、俺から全部奪うな!だから大人は嫌いや!」
真っ黒に日焼けした顔が、真っ赤になるほど激昂した久米が、背負っていたバックパックを怒りに任せて地面に叩きつけた。
バッグの中に入っていたものが飛び散った。
「妊娠は、女として生まれたことの可能性の一つなんや!」
「女は、お前がどうあがいてもできんことができるんや!」
怒りに体をまかせる久米の様子に、眉をひそめた斎部の気迫が一気に広がる。
――――子どもが産まれる
――――縄手先生の頭の中は子どものことで埋め尽くされる。
――――俺の事を考えなくなる。
――――そして、忘れてしまう。
忘れられた存在は、死んだのと同じ。
先生と一緒に校庭をランニングした日々も。
昇降口で先生に抱きしめられた力強さも。
新宿の雨の日に負ぶってもらった暖かさも。
駅までの手を繋ぎゆっくり歩いた時間も。
全部・・・全部消えてしまう。
体が大きく震える。
それは怒りではなかった。足元が、音もなく消えていくような恐怖だった。
「悔しいか?悔しいよなぁ。」
斎部は顎を少し上げ、完全勝者の憐憫の眼差しを久米に向けた。
「負けを認めろや!それが男同士の限界や!」
久米の視界が突然グラついた。
『壊せ!』
斜め上からの声が、頭のど真ん中に割り込んだ。
久米はその声の余韻が消える前に、散らばったバックパックの中から、反射的にカッターナイフを手に取った。
斎部を睨みつけながら、刃をカチカチと露出させる。
肩で大きく息を繰り返す久米の視界は、フィルターをかけたように色が歪んでいた。
小さく嘲笑した斎部は
「やっぱりお子チャマやな。流されよって。」
小さく鼻で笑い、首を振る。
「・・・それ以上行ったら、知らんぞ。」
『邪魔者は壊せ!』
頭一杯に広がる声に、久米は叫び声を上げた。
「お前の弱さの仮面をぶっ壊してやる。それを被らな生きてこれんかった、その元凶ごとな」
斎部はスッと左手を天高く伸ばした。
「天日鷲翔矢命【あめのひわしかけるやのみこと】の名において。」
「金鵄招来。」
それまで二人の周りを包み込んでいた、蝉の鳴き声がピタリと止まったかと思うと、太陽が分厚い雲に隠されたように、辺りが急に暗くなり霰が降り始めた。
霰が地面に当たり、砕ける音が鼓膜を震わす。
しかしそれは数秒の出来事であり、今度は眩い光が二人の空間を覆った。
思わず久米は目を背ける。
そして、音もなくその光の中から、金色に輝く鵄が現れ、眩い羽ばたきをくねらせながら斎部の伸ばした指先に止まった。
金色の光を放つ鵄は、斎部の手の中で一体化するように黄金の弓矢に姿を変えてゆく。
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無防備な素顔と時折見せる寂しげな表情に、智也の心は絆されていく。
住む世界が違うはずの二人。秘密の契約から始まる、甘くて美味しい青春ラブストーリー!
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語
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