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17章
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若葉よりも先に可憐な花が咲く姿は、何度見ても桜を連想させ、否応なく郷愁に駆られる。
「……東京の家の近くに、桜並木があるんだ」
いたずらな風が、ふわりと前髪を持ち上げる。窘めるように押さえながら、志貴は最も愛していた故郷の桜に想いを馳せた。
「長い坂道の両側に植えられていて、満開になると桜のトンネルになる。子供の頃、両親に手を繋いでもらって、真上を見ながら通り抜けるのが好きだった。陽が落ちかけて、橙が混じって色味が増した桜は本当に綺麗で……口を開けて見上げていたら、花びらが入ってしまって、ひどく噎せたこともあったっけ」
呟くように付け加えた思い出に、テオバルドが目を細め、からかう口調で訊ねる。
「不味かったのか」
「花びらの味は覚えていないけど、誰も集めて食べようとはしないから、特段おいしいものではないんだろう。でも、塩漬けした桜の葉で包んだ、春のお菓子があるよ。香りがとてもいいんだ。毎年季節になると母が買ってきてくれたものだけど、もう何年も食べていないな……」
花の稜線に縁取られた空は、母国へ、母と息子の住む国へ続いている。時折舞う花びらのように風に乗り、あの懐かしい国へと飛んでいけたら――国とそこに住む人々という重く大きなものではなく、大切な家族の側にいて、その生活を守る日々を過ごせたなら――。
そう思ってしまうのは、あと一押しと思うのに進まない和平工作から生じる弱音のせいだ。ままならない現実から逃避しようとする心が、桜に似た花に乗って、母国の家族へと飛んでいく。
それを助けるように強い風が撫でつけ、ざあっとアーモンドの花を揺らす。降る花びらを全身で受けながら空を見上げる志貴に、背後から男の腕が伸びる。腰に回った腕に驚き振り向こうとする前に、テオバルドの体が密着し、覆うように志貴を抱き締めた。
「テオ……っ」
「駄目だ」
周囲に誰もいないとはいえ、白昼の公園だ。
身を捩り、志貴は男の腕を振り払った。
「……駄目って、何がっ」
「行ってはダメだ。……消えてしまいそうだ、花に攫われて」
無理に抱きとめようとはせず、テオバルドが眩しいものを見るような眼差しを向けてくる。
見ているこちらが胸を掴まれるような、切なさの滲んだそれに、志貴は再び彼の中の焦燥を見る。馬鹿なことを、と軽口で返せばいいのに、それすらもできない。
帰りたくても帰国の術がない現状で、志貴はこの国に留まり、職務を果たす以外に途はない。それを知っているのに、テオバルドは志貴が彼の前から去ると思っているかのようだ。
いずれその日が来るとしても、それは戦争が終わった後――日欧間の交通手段が元に戻ってからの話だというのに。
「こうして花に飾られるのが、本当に似合う。桜のトンネルを通り抜けて、花びらをつまみ食いして、その上桜の菓子まで。常々あんたは花のような男だと思っていたが、納得だ。一見儚げで、淡くて綺麗なのも」
「一見、ね」
「……東京の家の近くに、桜並木があるんだ」
いたずらな風が、ふわりと前髪を持ち上げる。窘めるように押さえながら、志貴は最も愛していた故郷の桜に想いを馳せた。
「長い坂道の両側に植えられていて、満開になると桜のトンネルになる。子供の頃、両親に手を繋いでもらって、真上を見ながら通り抜けるのが好きだった。陽が落ちかけて、橙が混じって色味が増した桜は本当に綺麗で……口を開けて見上げていたら、花びらが入ってしまって、ひどく噎せたこともあったっけ」
呟くように付け加えた思い出に、テオバルドが目を細め、からかう口調で訊ねる。
「不味かったのか」
「花びらの味は覚えていないけど、誰も集めて食べようとはしないから、特段おいしいものではないんだろう。でも、塩漬けした桜の葉で包んだ、春のお菓子があるよ。香りがとてもいいんだ。毎年季節になると母が買ってきてくれたものだけど、もう何年も食べていないな……」
花の稜線に縁取られた空は、母国へ、母と息子の住む国へ続いている。時折舞う花びらのように風に乗り、あの懐かしい国へと飛んでいけたら――国とそこに住む人々という重く大きなものではなく、大切な家族の側にいて、その生活を守る日々を過ごせたなら――。
そう思ってしまうのは、あと一押しと思うのに進まない和平工作から生じる弱音のせいだ。ままならない現実から逃避しようとする心が、桜に似た花に乗って、母国の家族へと飛んでいく。
それを助けるように強い風が撫でつけ、ざあっとアーモンドの花を揺らす。降る花びらを全身で受けながら空を見上げる志貴に、背後から男の腕が伸びる。腰に回った腕に驚き振り向こうとする前に、テオバルドの体が密着し、覆うように志貴を抱き締めた。
「テオ……っ」
「駄目だ」
周囲に誰もいないとはいえ、白昼の公園だ。
身を捩り、志貴は男の腕を振り払った。
「……駄目って、何がっ」
「行ってはダメだ。……消えてしまいそうだ、花に攫われて」
無理に抱きとめようとはせず、テオバルドが眩しいものを見るような眼差しを向けてくる。
見ているこちらが胸を掴まれるような、切なさの滲んだそれに、志貴は再び彼の中の焦燥を見る。馬鹿なことを、と軽口で返せばいいのに、それすらもできない。
帰りたくても帰国の術がない現状で、志貴はこの国に留まり、職務を果たす以外に途はない。それを知っているのに、テオバルドは志貴が彼の前から去ると思っているかのようだ。
いずれその日が来るとしても、それは戦争が終わった後――日欧間の交通手段が元に戻ってからの話だというのに。
「こうして花に飾られるのが、本当に似合う。桜のトンネルを通り抜けて、花びらをつまみ食いして、その上桜の菓子まで。常々あんたは花のような男だと思っていたが、納得だ。一見儚げで、淡くて綺麗なのも」
「一見、ね」
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